15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 12.シーア派とはどういう派なのか | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

12.

シーア派とはどういう派なのか


はじめに
 現在「シーア派」という名は
「イランのイスラーム」として、またイラクでの内乱において「スンニ派との抗争」などで人々に知られています。同じイスラームなのにどうしてこうした悲惨な事件が起きてしまうのか、そもそもシーア派とはいかなるものなのかを紹介します。

アリー
 シーア派というのは感嘆に言うと
「第四代正統カリフのアリーの血統の者」だけを指導者として認めるという派を意味します。その理由にはおそらく三つの理由があると判断されます。
 一つはアリーが預言者ムハンマドの従兄弟でありしかもムハンマドの娘ファティーマを妻としていて、
「その血統の者はもっともムハンマドの血に近い」ということがあります。ムハンマドに男の子はいたのですが皆早世してしまいその直系子孫は途絶えていたからです。
 もちろん、
「ムハンマドの代理者」という意味を持つ「カリフ」は直系の子孫と定められていたわけではなく、実際二代目は「ムハンマドの親友のアブー・バクル」であったし、三代・四代とも長老の中で「人々の支持を得て選ばれた者」がカリフとなったのでした。そうではあったのですが、そうかといって、カリフはそうした信者の総意で選ばれるとの規約があったわけでもありません。要するにムハンマドは自分の死後のことは考えていなかったために何も言い残していなかったのでした。
 ですからカリフにどういう資格を求めるかは、残された信者が改めて決めなければならないような形になっていたわけです。ですから、まだムハンマドの娘や直接の親族が生きていた初期段階に属する時代にあって、
「血統」を言い出してもそれほど不思議とは言えないわけです。

 二つ目の理由は、カリフである
「アリーが不当な形で暗殺された」という思いがあると考えられます。そのいきさつは、第三代目のカリフであったウスマーンが自分の部族であるウマイア家による独裁へと入っていったのに対して他の部族の人々が怒り、結局ウスマーンを殺害して「新しくアリーをカリフとして担ぎ出した」ということがありました。
 しかしウマイア家の方はそれに対抗してアリーと敵対し、アリーはその調停の最中に自分の陣営にいた急進派のハワーリジュ派によって
「アリーのやり方は手ぬるい、妥協的である」として暗殺されてしまったのでした。本当におろかですが、えてしてこういうことは良く生じるものです。棚からぼた餅とはこのことで、アリー陣営の内紛とアリーの死によってウマイア家は権力を再び手中にして「ウマイア王朝」を樹立していったのでした。本当に「馬鹿なことをした」アリーの陣営はどうもこれを「トラウマ」としてしまったようで、ここに「アリーの党派」を形成していったと言えます。

 三つ目の理由は
「アリーの人柄」にあったと推察されます。アリーはイスラームに帰依したのもアブー・バクルに並びもっとも初期の信徒と言われ、「ムハンマドに忠実な人」であったと言われます(だからムハンマドの娘ファティーマを妻とすることができたのだろう)。ですからカリフとなってから彼が目指したものはムハンマドに忠実なイスラームという「理想主義者」であったと言われます。
 
しかし他方でムハンマドの未亡人であったアーイシャは、多分ファティーマに対する対抗意識からかアリーに敵対し、さらにアリーの属する部族クライシュ族の長も自分の権力がアリーに奪われるのを怖れてでしょう、同じくアリーに敵対して連合してきます。アリーはそうした敵対勢力を破り(ラクダの戦役)、クーファを首都として勢力をまとめ、そうして大敵であるウマイア家のムアーィヤとの決戦に挑んだのですが勝負が付かず、そこで調停という手段にでたのです。しかしこれが裏目となって急進派によって暗殺されてしまったわけです。
 イスラームの人々にとっては
「理想に基づいて戦ったカリフ」としてイスラームの理想とされる面を持っていたと言えるわけです。

シーア派
 こうしてアリーを担ぐ人々が
「シーア・アリー(シーアとは党派の意味)」と呼ばれたのですが、後にこのアリーが省略されて「シーア派」と呼ばれることになったのでした。このシーア派はアリーが首都とさだめた「クーファ」が中心となったのは自然なことで、彼らは「アリーの子フセイン」を立ててウマイア家に抵抗していこうとしてフセインにクーファに来てくれるように要請します。ただし、これは諸般の事情からいって無謀なことでした。しかしフセインはその要望に応えようとわずか200人ほどでクーファに向かっていきました。案の定カルバラーという地で待ちかまえたウマイア家の包囲にあってしまい、全面降伏を要求されたのですが毅然としてこれを拒絶してウマイアの軍勢の中に突撃していって全滅していったのでした。こうしてフセインはシーア派にとって「英雄」となっていきます。

イマームとマフディー
 その後、ムスタールという男が独断でファティーマとの間にできた子どもではないアリーの子「ムハンマド・イヴン・ハナフィーア」を立て、彼を
「イマームおよびマフディー」と呼んで反乱を起こしていきます。この派は「カイサーン派」と呼ばれますが、重要なのはここで初めて個人がイマームとされてきたことでした。
 ムスタールが唱えた「イマームとマフディー」ですが、イマームというのは、元来の意味は
「規範」とかその規範を守り適用する「指導者」という意味で、従って集団の指導者であれば皆イマームと呼びうる言葉でした。ここから転じてスンニ派では「カリフがイマーム」ということになります。あるいは一般用法として優れた学者などもイマームと呼ばれ得ました。
 これに対してシーア派では
「アリーの血統の者で最高指導者がイマーム」とされることになったのでした。ここではこのイマームは教義の決定権と立法権を持ち不可謬性を持つとまで主張されるようになります。何やらカトリックでの「法王」の主張と似ています。
 他方、ムスタールが「ムハンマド・イヴン・ハナフィーア」を立ててクーファで反乱を起こしたものの鎮圧されてしまい、700年に「ムハンマド・イヴン・ハナフア」が没した後、このカイサーン派は「ムハンマド・イヴン・ハナフィーア」は
「ガイバ(隠れ状態で死んではいないのだが現在直接交渉が不可能な状態)」にあり最期の審判の日に再臨して正義の地を顕在化させるという信仰を持つようになります。これは同時にムハンマド・イヴン・ハナフィーアを「マフディー(本来の意味は「導かれた者」で「神に導かれた者」となりムハンマドや正統カリフなどがその名に値するとされます。しかしシーア派ではむしろ「救世主」の意味に用いられます)」としてきました。
 
この「ガイバ」「マフディー」の思想は後にシーア派の各派に引き継がれていくシーア派に独特の思想となります。
 ちなみに「イマーム」という言葉はシーア派での主流となっている
「十二イマーム派」で有名ですが、ここでは初代イマームは言うまでもなく「アリー」とされ、二代目がファティーマとの間にできた息子の「ハサン」、三代目が同じくファティーマとの間の子「フセイン」となり、四代目以降はそのフセインの血統に引き継がれていきます。

 初期シーア派はさらに「フセインの孫のザイド」を立てるなど(ザイド派)、内部分裂を起こしてさまざまの派が生じていくことになりました。これらは要するに
「だれをイマームとするかというところでの争い」と言えました。
 ともあれ、シーア派の特徴としては、
「アリーとその子孫にイマーム性をみとめ、ムハンマドの持っていた秘儀性がアリーから代々の血統のイマームに引き継がれていく」としています。ここから、神がイマームに顕現するという立場、イマームのマフディー性を主張する立場などが生じたわけです。

シーア派の政治性
 こうしていきさつをみていくと、シーア派というのは、もちろん宗教指導者の問題ですから宗教性はあり、さらに「イマームの再臨」という思想においてスンニ派との宗教的独自性を見せているわけですが、他方で時の権力であった
「ウマイア家に対する政治的対抗勢力」であったとも言えるわけです。
 
ですから、政治・社会的に落ち着いている時にはその宗教性において自分たちの立場を守り維持していれば良かったわけですが、ひとたび政治的対立要因が入ってくるとスンニ派に対する敵対勢力と化すという面も持っていたわけです。

 これが顕著に表れているのがアッバース朝ないしセルジュク・トルコが支配者となっていた時のエジプトでおきた
「ファティーマ朝」の形成であり、オスマン支配の時の「イランの独立闘争」であったわけで、この時イランはシーア派を旗印としていました。
 そしてもう一つが今日では泥沼となっている「イラク」との抗争であり、イランはイラン革命でシーア派支配の国として確立され、長年のライバルであるイラクと対立するようになり
「イラン・イラク戦争」などが勃発してしまったわけです。
 そのシーア派が現代になってイラクで勢力を伸ばすということはひいては
「イランの勢力」が伸びるということも意味している(と少なくともスンニ派のイラクは理解した)わけです。したがって、スンニ派であったイラクは指導者がだれであれ「シーア派の弾圧」に乗り出しシーア派の勢力の削減を図ったというわけでした。その指導者がフセイン大統領であったわけですが、これはフセインでなくても起きる現象であったと言えるのです。
 こうしてイラクでスンニ派とシーア派の対立が高まっていったのですが、一般庶民のレベルは難しいことなど知りませんし知ろうともしませんでしたから共存が可能でした。それをぶち壊して泥沼の戦争へと引き込んだだのがアメリカであったわけです。つまりアメリカの
「フセインつぶしは結局スンニ派つぶし」となり、シーア派の支配を促したわけですからスンニ派はこれに対して戦わざるを得なくなり、少数派にされ政治の中枢から追放された時、「自爆攻撃」という手段しかなくなっていったというわけでした。
 こんなことは、イスラームを少しでも知っている人々には分かり切っていたことですから「親米派の指導者ですら」必死にアメリカを止めようとしたのですが、無知で傲慢なアメリカのブッシュはそれを無視して
「予想通りの泥沼」を作り出したというわけでした。

シーア派の祭儀・儀礼
 儀礼については、イランで大多数を占める十二イマーム派の場合スンニ派と大差はありませんが、スンニ派が日に五回の礼拝をきちんと区分するのに対して、イランでは昼と午後の礼拝を合体させ、夕べと夜も合体されますので
「日に三回」となります。金曜の礼拝はスンニ派では重要な集団的礼拝となりますが、イランでは特別礼拝がある時以外は特別視されていません。メッカ巡礼も同様ですが、シーア派はこれに加えて霊廟への巡礼も重視されていて、メディナのムハンマドの霊廟の他、ナジャフのアリーの霊廟、カルバラのフセインの霊廟などが巡礼につぐ行事として重要視されます。
 祭儀としては
「服喪」になりますが、「アーシューラー」が重要でまた良く知られています。これはクーファに赴く途中カルバラーで戦死したフセインを悼んで行われるもので、劇や詩や語りでカルバラーの悲劇を再現し、鞭で身体を叩いたり、自分の身体を傷つけたり、泣き声を上げて追悼の意を表します。これは高揚感を伴い、日頃のウップンをはらしたり「政治的集会・デモ」と化したりしました。イラン革命もこのデモが大きな力をしめしたのは有名です。つまりイラン革命のスローガンは「全ての日はアーシューラー、すべての地はカルバラー」というもので、内容は「フセインのように殉教を怖れず圧制者には命を賭して戦え」というものになります。
 
他に服喪となるものとしてはアリーが重傷を負って死ぬまでの期間、ムハンマドの死と同日になる息子ハサン(第二代イマーム)の命日、ファティーマの命日などがあります。
 
その他の祝祭日は、ムハンマドが最期のメッカ巡礼の日アリーをカリフに指名したという伝承の日。アリーの誕生日、フセインの誕生日、第八代イマーム・アリーの誕生日、第十二代目イマームの誕生日となります。

主要分派
 
イスラームといっても歴史的に一枚岩であるわけもなくさまざまの分派を生みだしていますが、シーア派もさまざまの分派を生みだし、こちらは政治的に重要な活動をしてきたことで知られます。その分派の中で特に知られているものを紹介しておきます。

アラゥイー派
 シリアを中心に
「アラゥイー派」「ドゥルーズ派」といった特殊なシーア派イスラームがあります。「アラウィー派」というのはシリアのラタキア地方の山岳地方に拠点を持ちます。勢力はシリア全体でおよそ12%程度とされますが、現アサド大統領の父である先代のアサド大統領(1971〜2000年の在位)の出身で知られ、バアス党(シリアで形成されたアラブ民族主義政党)との繋がりが強く、現在でもその政治的勢力は強いとされます。民族主義ですので「イスラエルや欧米に対する戦い」も明確でそのため民衆の支持を得たとされます。
 教義としては、シーア派の12イマーム派の11代イマームの側近であったヌサイルに由来するとされ、従ってこの派は一名
「ヌサイリー派」とも呼ばれます。内容的にイスマイール派に近いとされますが、シリアの土着宗教やキリスト教の要素も混在しているとされます。最大特徴は、シーア派全体に「始祖を神格化」する傾向を持つのですが、この派も明確に第四代正統カリフでシーア派の根拠となっている「アリー」を神格化しています。
 その他この派は、
霊魂の転生(善人の魂は死後他の人間に引き継がれるが悪人の魂は獣となるといった思想)や「キリスト教の三位一体説」と似た思想を持つことも特徴とされ、そのためかこの派ではイスラームの祝日の他に聖霊降臨祭のごときキリスト教の祭日まで祝日とされています。

ドゥルーズ派
 ドゥルーズ派というのは同じくシーア派のイスマイール派を母体としていますが、ファティーマ朝の第六代カリフ「ハーキム」の時代にその
「ハーキムを神格化」して独立した派です。ハーキムという人物は「奇人」であったとも伝えられ、熱情的であった側面と冷酷な面を併せ持っていたとされます。こういう人物が「教祖化」するのは良くあることでした。この派の教義としての最大特徴はその「ハーキム」が「復活の日に救世主として再臨する」というまるきりキリスト教的な教義を持つことです。さらにアラゥイー派と同じように「輪廻転生」を認めたり、メッカの方角への礼拝を行わず、また従ってメッカ巡礼も行いません。
 そのためか『クルアーン』以外に独自の聖典
『ヒクマ・シャリーファ』を持っています。さらにその集団は外部世界と一線を画しているなど「異端」的な要素を多く持っているため迫害されることも多かったですが、「対フランスへの抵抗闘争」の端緒となった「ドゥルーズ派の反乱」など社会的な意味を持つことになって勢力を拡大しました。レバノンやシリアなど合わせて100万ほどの信者がいるとされます。

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