15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 10.イスラームとはどういうものか | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

10.

イスラームとはどういうものか


はじめに
 日本には「イスラームの信者」は少なく、また情報も欧米の偏った理解に基づくものが多いためその理解が不十分でしかも誤解も多いです。その誤解はイスラームに対して
「否定的な評価」につながり、アメリカなどが宣伝している「イスラーム脅威論」や、実際に生じている「自爆攻撃」などに基づく「怖い宗教」という評価が大半のようです。
 あるいは、
「豚肉の禁止、一日五回の礼拝、ラマザン月の絶食」などから「かたくなな宗教、訳のわからない異様に厳しい宗教」といった評価にもなっているようです。
 しかし現在イスラームは世界中に
「十数億の信者」を持ち、イスラームを「国の宗教している国も50を越えて」います。そしてイスラーム信者の増加率も高いのです。それは何故なのでしょうか。ここには多くの人々に受容されるに足る理由がなければならないはずです。
 他方、またイスラーム圏とそれに接する国との
「衝突」も多いです。しかも過激派による「自爆攻撃」も止まないです。こうして「怖い」という印象があるわけですが、しかしそれにしても何故そうした事態が起きるのでしょうか。ここにも何かわけがあるのでなければなりません。そこで以下「イスラーム」の基本的なあり方を大筋のところで見ていきます。

イスラームの土台
 先ず、もっとも重要なことですが
「イスラームの母胎」「キリスト教」にあります。イスラームの提唱者である預言者ムハンマドは「キリスト教の天使ガブリエル(アラビア発音で「ジブリール」)」から啓示を受けたと言っていますから「神学の土台は変わらない」わけで、解釈や強調点がことなっているだけなのです。
 さらに、このキリスト教は
「ユダヤ教」を母胎にしていますから、これも「イスラームの土台」ということになってきます。これはイスラームでは主に「生活習慣に関わる教え」に反映されています。そこでムハンマドは「ユダヤ教、キリスト教は同じ経典の民」と呼んで「敵対視してはならない」ということを教えています。ということは「イスラームの方からユダヤ教、キリスト教を敵対視することはない」となるのです。実際多くのイスラーム信徒はそうした態度でおり、キリスト教を認めています。
 ただし、ユダヤ教やキリスト教が対立してきたらその限りではないわけで、従ってこの理解のところで「対立」は生じてしまいますし現実に生じてきました。これが問題となるわけで、現代は
「欧米キリスト教徒」が世界の中心としてさまざまの国に介入していきますので厄介で、ましてや欧米は「平気で軍事介入」しますから、これは全く「侵略」と変わらず、そのために「反抗の攻撃」が為されてしまうわけでした。

イスラームの全体的特徴
 イスラームの宗教的目的は
「苦しみからの救済」という面が本来でした。もっとも「人間の苦しみからの救済」は現実世界にも要求されることですから、そしてそれが「神の正義」の現れとも理解されますから「実生活の繁栄の祈願」は当然あります。ありますけれど、しかしそれよりも「最期の審判」において義とされて「天国での永遠の平安の生」を得ることの方が大事とされるのです。ただし、これはもともと「母胎であるキリスト教」もそうでした。
 しかし最近ではイスラーム国でも政治・経済界の人々はほとんどの人が
「現世利益」をとりわけ優先させて「アメリカ寄りの姿勢」を持っているため、これが本来のイスラームを目指す人々にとっては苦々しくうつりそこで「本来のイスラームに」という運動が起こされ、こうした立場を「原理主義」と呼んでいるわけでした。

 というのも、もともとイスラームというのは地理的にもめぐまれず歴史的にも苦難の生活をおくってきた人々の中に生まれ広がってきた宗教なのです。その中で彼等は
「人間は苦しみの存在」なのだと捕らえ、その「救済を保証してくれる神」を持つことで「希望」を持ち、そうして必死に苦しみに耐えて生きてきたのです。もちろん現在のイスラーム国でも石油のせいで「豊な国」もありますが、その場合も「上流階級だけ」という場合が多いです。彼らは殆ど「世俗主義となり、アメリカ寄り」となっています。
 ともあれ、イスラームはそうした
「苦しみの民族」のものとして生まれ広まったということを念頭においてイスラームを見ていかないとその宗教の意味が理解できません。「物質的繁栄」を得て「豊かな日本人」や、豊かになったことでキリスト教精神を忘れ去ってしまった多くの欧米人にイスラームがなかなか理解されないのはこうしたところにも原因があるでしょう。
 つまり彼等の「神」への執着は
「救済の祈り」とつながっているのです。もし「神など居ない」となったら彼等には「生きる希望も意味もなくなってしまう」のです。日本人は「神などいない」という人が多いですが、これはそうした「苦しみの人々」の前では本当に「傲慢」な態度に映ります。そしてまた「金の力」を誇示して世界を支配しようとしている欧米の態度も「傲慢そのもの」と映っているのでした。
 そして「豚肉の禁止、酒の禁止」にはじまるさまざまの戒律、一日五回の祈り、一月に及ぶ「断食」などの生活の厳しさも、
「神とともにあり救済を」と願う人々の「神と共にある生活」の規範として生じたものなのです。

イスラームの起源
 イスラームは
「預言者ムハンマド」を開祖とします。起源の場所は今日のサウジ・アラビアの丁度中央辺りの西、紅海に面した「メッカ(マッカ)」という町になります。

聖典『クルアーン』
 イスラームの教えである、「
唯一神アッラー(これは固有名詞ではありません。ただ「神」という普通名詞です)」がムハンマドに天啓として与えた教えは『クルアーン』に記されているとされます。それは先に言及したように、キリスト教の天使ガブリエルからの天啓とされ、したがってこの『クルアーン』の教義の内容はキリスト教と大差がなく、ただその理解の仕方や強調点が異なるだけです。さらに『クルアーン』には当時のアラブの生活習慣に基づく戒律が多く含まれてくるのも異なる点といえます。
 そしてさらに、『クルアーン』の言葉は
「神から発した」ものとされてその言葉の「文字」「神そのもの」を体現しているとされます。この、「文字」がそのまま「神」と一体という考え方はキリスト教や仏教にはなく、イスラームの特徴として強調され得るでしょう。

六信
 イスラームにおいて中心になる教えは、まず
「アッラー(神)」、「預言者、特に」ムハンマド」、そして「経典」、「天使」、「最期の審判と来世」さらに「神の力はすべてに渡っている(天命)」というこの「六つ」に対する「信仰」であり、これをしばしば「六信」と呼んでいます。そしてこれらを信じぬ者は永遠の迷いに落ちるべしとあります。

「アッラー」・・・「アッラー」とはいうまでもなく「唯一、絶対・永遠の天地の創造主」でありあらゆる「尊称・美称」を持ってたたえられるべき存在であり、これを認めず他の神を信じることが最大の罪とされます。もっともこの「神信仰のあり方」は当然どの他の宗教においても同じで「宗教の本質」ですから特別とはいえません。

「預言者」・・・預言者についてはムハンマドに先行するもっとも偉大な者として「アダム」「ノア(ヌーア)」「アブラハム(イブラーヒーム)」「モーゼ(ムーサー)」「イエス(イーサー)」の五人が挙げられます。ここでとりわけキリスト教での「イエス」の位置が非常に高く評価されているわけです。ただイエスはあくまでも「預言者」であってキリスト者のように「神の子」とは見なさないのが最大の分岐点となるのでした。イスラームとキリスト教の教義上での最大の違いはここにあるとも言えるでしょう。

「経典」・・・天使を通じて天啓として受けた『クルアーン』はいうまでもなく「神の言葉」そのものと見なされ、何をおいてもこれに従うのが要求されるわけで、これがイスラームを規定してくるのは当然です。「絶対の書」と考えておいていいです。

「天使」・・・「天使」というのは「神の使い」であり、具体的に「天使ガブリエル」がムハンマドに現れて天啓を伝えたように「神の言葉を伝える者」です。したがってこの天使を信ずるということは絶対的に要求されるわけです。

「来世」・・・「最期の審判と来世」というのは、神はこの天地を創造したのであって従ってその終末も予定しており、その「天地の終わり」にこれまで地上に生まれ出たすべての人間が復活して裁かれ、永遠の「天国」へ行く者と「地獄」に行く者とに類別されるという思想です。こちらは「永遠の生」となるわけですからこの地上の生に勝って大事なわけで、人はこの「永遠の生」を目指して今を生きなければならないということになります。

 ちなみに急進的と言われるイスラーム教徒が「死を怖れない」というのはこの思想が他の宗教の人間には想像がつかないくらい強固なためで、イスラーム原理主義において「自爆攻撃」が止まないのはこの思想によっていると言えます。彼等の論理によると「敵」に対しての戦いは次ぎにみる「ジハード(聖戦)」が要求することで、従って
「神への従い」であり、これを全うしたことにおいて「聖者」となり「永遠の天国」が約束されているということになるのです。

「天命」・・・ もう一つイスラーム原語で「カダル」というのが「六信」にありますが、これは日本語では「天命」とか「予定」とか訳されています。ようするに宇宙はすべて神の御心のままに神の手によって創造されたのであるから人間が自分たちで自分たちのことを勝手に決めることはできないのであって「すべてに神の意志が貫いている」ということを信ずることです。ただし、人間はロボットで自由意志などない、と言っているわけではありません。人間は意志を持ちその意志に基づいて神に従う人生を送らなければなりません。ここにおいて「最期の審判」が起きてくるのです。

五行
 この「六信」に基づいてイスラームの「イバーダ」と呼ばれる「教え」、つまり
「為さねばならぬ努め」の基本が示されてきます。これは五つあり、そこで日本の関係者の間では「五行」などとも呼ばれています。
 一つ目は「シャハーダ」とよばれる
「唱えの行」で、要するにアッラーの他に神なく、ムハンマドはアッラーが遣わしたものであることを証言します、といったようするに「信仰告白」です。

 二つ目は「サラー」とよばれる
「礼拝の行」であり、一定の礼式に基づいて礼拝することで、どこにいても「メッカの方向」に向かって毎日五回、アラビア語で礼拝すべしとなります。礼拝の場所は清浄な場所ならどこでもいいですが当然「モスク」とよばれる礼拝所が一番いいとされます。ただし毎週金曜日の昼の礼拝にはモスクにあつまり「イマーム」とよばれる礼拝指導者のもとで礼拝することになっています。なお、五回の礼拝の時間ですが、最初が早朝東の空が白んできたころ、二回目が昼時で影が最短になって伸び始める頃からその伸びた影が本人と等しい長さになるまでの間、三回目が午後で二回目の終わりの時から太陽が沈み始めるまで、四回目は太陽が没して夕映えが消えるまでの間、五回目が夜ですがそれを三等分した最初の夜の間となります。もちろんこれは原則で、宗派によっても異なり、また状況によってはできない時も当然でてくることはあります。

 この礼拝の時には当然「けがれ」をとっておかなければならないわけで、これを「タハーラ」とよんでイスラームでは非常に大事にしています。これに二つがありますが、一つは全身の水浴です。二つはそれを簡略化したもので頭とひじから下の両手、膝から下の両足を洗いますが、水がないときは砂でもよいとされます。「砂漠の民」の特徴がよくあらわれています。礼拝の仕方は立ち、ひざまずき、座りなどを組み合わせた一定の仕方があります。

 三つ目は「サウム」とよばれる
「断食」のことで「ラマザンの月(イスラム暦での九月)」に行われます。その月の「新月」から28ないし30日続きます。イスラーム暦では太陰暦なので一年が354日と少しなので、実際の太陽の運行とはズレてきて、この月が「夏」になることもあれば「冬」にきてしまうこともあります。早朝、ものの見分けがつくようになった頃から日没まで一切の食べ物・飲み物・香料・性行為は禁止されます。ただしこれは健康な成年男女の場合で、病人とか老人・妊婦・乳幼児を持った婦人などは免除されるのは当然です。


 四つ目は「ザカー」と呼ばれるもので「サダカ」と呼ばれることもあります。これは日本流に言えば「お布施・喜捨」ないし「献金」にも相当するかもしれませんが、むしろ義務といった方がよく、したがって、こんな言葉があるかどうか分かりませんけれど「宗教的税金」と呼んだ方がいいかもしれません。これには当然意味があり、お金は本来神のものであり、人間世界においては人間に託しているのであってその間に多い少ないが生じてしまうけれど多く持った者はそれを少ない者に帰還させねばならないという教えにもなります。

 五つ目は「ハッジ」ないし「ハッジュ」と呼び、ようするに
「聖地巡礼」です。ただしこれは「個人」で行うものではなく「使徒集団」で定められた月定められた仕方に則って行われます。非常に大事な行事なのでそのやり方は微にいり細にいっていて説明は厄介ですが、集団で指導者に従って方式に定まって動ききますので困ることはないです。
 個人で「メッカ」に参拝しにいくのは「ウムラ」と呼んで「ハッジ」とは区別されます。なお日本語の「巡礼」は各地を訪ね歩く意味になってしまいますが「ハッジ」は「メッカのカーバ神殿」を目指すもので各地をおとずれるものではありません。そして今も指摘したようにこれは非常に大事な「一生の行」なのであって、ただ行って拝めばよいといった日本での巡礼と同列には論じられません。

「ジハード(聖戦)」

 日本ではジハードは「聖戦」と訳されてまるで「戦争」であるかのように理解していますが、これは何も「戦争」を意味しているのではなくもともとの意味は「努力する」ということであって
「神・信仰のために懸命の努力をする」というのが本来の意味です。ですから懸命な伝道活動もジハードと呼ばれます。
 ただし定められた戒律に努力することは「当たり前」のことなのでジハードとは呼ばれないわけで、ということになると「定められていないこと」「予期しないこと」に対して努力するということになってしまいます。こうして実態としては
「異教徒のイスラームへの侵害に対して戦う」ということになって、ここに「ジハードとは聖戦」と訳されることになってしまったのでした。
 これはもちろん侵略に対しての
「防衛」が原則です。現在ジハードが「攻撃型」となっている場面は、「何らかの形で侵略された」という認識があって「その侵略が続いている時」という建前になっておりますが、イラクやアフガニスタンなどあまりの混乱に現在そのあり方が問題になっています。

戒律
 一方『クルアーン』はこれらの他に日常生活での
「戒律」を示し、有名な「豚肉の禁止」とか「酒の節制」さらに「姦淫の禁止」「孤児の養育」「はかりをごまかさないこと」「契約を守ること」などなど生活に関わるあらゆることにたいしての規範を示してきます。イスラームというのは単に「精神生活」だけが問題なのではなく「この現実の生活」も問題とされるので非常に「社会性」を持ち、この部分の教えは細かく厳しいとも言えます。これらは「生活の規範」を明確に示しているという意味で生活の方向性が見やすく、イスラームの人たちにとっては「規律正しい生活習慣の道」といった様相をもっているようでさほど窮屈とは思われていないようです。ようするに「生活習慣」なのですから私達が日本の習慣に何も思っていないのと同様なのです。

ハディース
 もっとも『クルアーン』は何もかも網羅して示しているわけではありませんから、社会生活を送っていく中で『クルアーン』では規準が見えないという事態が起きることもたくさんあります。その時もちだされるのがムハンマドの示していた
「先例・範例」でこれを「スンナ」といいますが、これを記しているのが「ハディース」と呼ばれる「伝承」です。これをもとに生活の規範の規準が示されるようになっています。

シャリーア
 しかし「ハディース」はムハンマドの
「言行録」といった性格のものですから、場合によっては「規準」は示せても具体的な「規制」とはなりません。そこで「法的規範」となるものが必要となります。そのためさらに民族の慣習、暗黙的合意といったものが配慮され、これを「イジュマー」と呼んでいます。日本的には「慣習法」としておいていいでしょう。しかしそれでもまだそれで解決できないことがらがでてきます。その時には『クルアーン』ついで「ハディース」そして「イジュマー」と並べてそこからの論理的「推論」をしました。これを「キャース」と呼んでいます。こんな具合にしてイスラームの「法体系」が作られていきました。これを「シャリーア」と呼んでいます。ようするに「イスラーム法」というわけです。

ムスリム
 以上、上に見られてきた各項を守れている人が
「ムスリム」とよばれることになり、そうなるとアッラーの前に「身分・階級の差別なく民族・国の別もなく、完全な平等」となりイスラームのもとに難く結ばれるとされます。これがある意味で「生き甲斐」となっているのでした。

聖職者組織
 ところで日本ではイランの
「ホメイニ師」が有名なので、一方彼は{政治的にも絶対権力者}と見えたため、あたかも「カトリック」のような「聖職者階級」があって彼は「法王」のような地位にいると見なされがちでした。ところがイスラームにはそうした「カトリック」のような「聖職者組織というのはない」のです。
 いるのは「ウラマー」と呼ばれる人たちであり、彼等はイスラーム神学の教育を受けて
「神学的な知識者」となっている人たちを指します。この人たちが「師」と呼ばれてリーダーとなっているだけのことです。もちろん彼等は「知識」をもっているのですから「宗教的裁判官(カーディー)」になったりに、その裁判に際して「解釈上の意見を述べる、従って弁護士や検事の役」をする「ムフティー」になったり、「説教師」になったり、「礼拝指導者(イマーム)」になったりしているのですが、「イスラーム信徒」としては他の信徒と平等なのでした。ですからホメイニ師のようになるかならないかは「みんなの信頼度」だけなのでした。


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