5. 古代エジプトと中東の神々 - 5. ヘブライの神話 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

古代エジプトと中東の神々
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INDEX
1. 古代エジプト神話とその死生観
2. 古代エジプトの主要な神々
3. メソポタミア、シュメールの神話
4. セム族の主神「バール神」とヘブライの「ヤハウェ神」
5. ヘブライの神話
6. ペルシャの神々とゾロアスター教

5.

ヘブライの神話


 ヘブライの神話ですが、これは「聖書物語」などで一般にもよく紹介されますが、その内容は「天地の創造」「人間の創造、つまりアダムとイヴの物語」「ノアの洪水」「農耕のカインと牧畜のアベルの闘争」「バベルの塔」などが有名でしょう。ところがこのモチーフはすべて先行するシュメール・バビロニアなどに存在していました。
 ヘブライ神話として有名な天地創造もはるか以前のメソポタミア・シュメール時代からあり、これはバビロニアにも引き継がれて中東では一般的な思考となっています、もちろんそれに伴って「人間の創造」もシュメール以来ありました。「ノアの洪水」もシュメールの「ギルガメシュ叙事詩」にあります。「農耕と牧畜の対立」もバビロニア神話にあります。
 ですからヘブライ神話の「素材・モチーフ」に関してはヘブライ民族に特別独自とされるものは無いとまで言えるのであり、むしろその独自性はその
「解釈」にあると言えるのでした。
 その解釈が「ユダヤ教」を生んでいくわけですが、時代的には紀元前六世紀から五世紀にかけて、
「バビロン補囚」の後と言えます。ここで行われた解釈の第一歩が、口承で伝えられていた神話を整理することでした。しかしこの時当然と言うべきか口承の段階で神話は異説を生んでいるわけでそれをまとめるとなると異なった伝承が入り込み矛盾を生んできます。これは「創世記」の始めにもっとも良く観察されます。現在では四種の口承がまじりあっているとされていますが、この細かな検討は専門書に任せて私達としてはとりあえずその内容とその精神とをみてみましよう。

ヘブライ神話
 ユダヤ教の教えの「核」となる「神」「世界」「人間」についての基本的理解はいわゆるヘブライ神話の「世界の創造神話」と「人間の創造と神への離反の物語」、また「アダムとイヴの物語」さらに「ノアの方舟の物語」といった神話が語ってきます。

1、「世界の創造」神話。
始め………形あるものはなにもなかった。……………神は「光あれ」といった。光が出現した。…………神は光と闇を分けた。光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ。夕べとなり、朝となった。つまり、ここで神は一日一日を数える「時間」を作ったと解釈されます。
二日目……大空をつくる。ここからはこの宇宙の創造、つまり「空間」を作っていくと解釈されます。
三日目……大地と海を分け、大地に植物を生やす。
四日目……太陽と月、さらに星をつくる。
五日目……動物、魚、鳥をつくる。生物的生命の創造となります。
六日目……動物を種類に分け、家畜を類別する。…………人間をつくる。ここでやっと人間が作られました
七日目……休息する。
 この天地創造説は中東に一般的です。ここでもそれが踏襲されているわけです。問題はその解釈・意味づけになります。

2、人間の原罪
 人間も神によって創造されたのに、神の言いつけを守らず禁止されたことを破ってしまいます(これが人間の原罪とされます)。そして「楽園から追放」されて地上で苦しまなければならないことになっているという人間の罪と現状の物語が語られます。
 これは有名な
「アダムとイヴの物語」となるわけですが、ここには「異説」が入り交じっていますが、とりあえず大筋は次ぎのようになります。

 神は「人」を創造した。これが第一章では
「男と女」とを創造したとあり(つまり同時)、その使命は神に代わって「すべての動物を治め支配するため」となっています。ところが、二章になると話が違ってきて次のような段取りになってしまいこちらの方が良く知られています。
 神が天地を創造した時、土を耕す人がいなかった。神は
土(アーダーマー)から人(アーダーム)をつくってその鼻に命の息を吹き込んだ。
その「人」を
「エデンの園」に置いてそこを耕させ守らせた。その園にはさまざまの実がなる木々があり真ん中に「命の木」「善悪を知る木」とが生えていた。神はその「善悪を知る実」は決して食べてはならないと禁じた。
 神は「人」が一人でいるのはよくないと考えその
「助け手」を造ろうとして獣や鳥を造って「人」のところに連れていき名前を付けさせた(これは一章での順序と異なる)。しかし、いい助け手が見つからなかったので神は「人」を眠らせ、そのあばら骨を取り出しそれでもう一人の「ひと」をつくった。その「ひと」は男(イーシ)から取られたゆえに女(イッシャー)と呼ばれるとされた。
 
「蛇」によって女が誘惑され「善悪の木の実」を食べてしまい、また男も誘われて食べてしまう。神に見つかりそれぞれ言い訳するが「のろい」を受ける事となる。蛇は腹ばいのまま進み、女に敵意をもって見られ、殺される事となる。女は産みの苦しみをもつこととなり、男に支配されることとなる。男は労働の苦しみを負う事となる。そして土、チリに帰らなければならない。女はイヴと呼ばれる事となる。
 神は人類が今度は「命の木」からも実を取って食べることを恐れ、エデンの園から追放した。

 以上が人間の誕生と現状の説明です、ここにはまずヘブライという砂漠の民の
「苦難の人間の現状の説明」があります。自分たちは神の命令に違反して呪われ、追放されて裁くをさまよわなくてはならなくなったというわけです。他にもさまざまのことが含まれており人間に関わる思想を見る上で非常に興味深い物語となっています。特に、人間がこの自然たる「動植物を管理する」という「人間の存在理由と使命」が語られ(これは東セム族の神話にもありセム族全体の考え方といえる)、同時に人間は「神の助け手」という「人間の特権的在り方」、さらに神の言いつけに背いた「人間の限界と罪」「男が女を支配する」という性差別「産みの苦しみと労働の苦しみ」という地上での苦難の必然性などが問題となります。これらについては後代のキリスト教思想においてさまざまに解釈されておりキリスト教の基本的な世界観・人間観を形成させていることがとりわけ重要です。

3、ノアの方舟
 有名な「ノアの方舟」の物語ですが、神は「悪」に染まった人類を滅ぼそうとして大洪水で人類を滅ぼしたけれど「神を敬うノア」だけは助けられたとする「神の罰」「神に従う者の救済の物語」となります。
 物語の内容はこれですべてつきており、神の決意からノアへの忠告、ノアが船を造って神の言いつけ通り動物たちをつがいでその船に乗せ、全部のせたところで何日も雨がふって大地は水の底に沈み、頃合いを見てノアが鳥を飛ばして水が引いたことを確かめ、船から出て神に感謝し、ここで神はノアにもう洪水を起こして人類を滅ぼすことは止めにするという約束をしてそのしるしに
「虹」を現したというものです。

 はじめの「世界の創造」についてはすでにシュメール神話にあり、ペルシャの「ゾロアスター教」にもあって中東・オリエントでは一般的な思想です。
 二番目の「人間の創造」も同様です。そして「人間の弱さ」という思考もすでに「ギルガメシュ叙事詩」にあったものです。ただここから人間の人生の目的をどう汲み取っていくかという「解釈」のところで「ユダヤ教」の独自性が示されてくるのでした。
 三番目の「大洪水による人間の破滅」と「それを免れる人間」の物語もギルガメシュ叙事詩にそのまま存在していました。そしてここに
「人間の希望」を見ていくという「解釈」がユダヤ教のユダヤ教たる所以となっていくのでした。

ユダヤ教の性格
 ここでそのユダヤ教の「解釈」の基盤となる精神的背景が重要となるわけです。先ず私達はこのユダヤ教が中東・オリエントに展開していた「遊牧民」のものであったことに注意しておきましょう。そしてここから世界宗教としてのキリスト教とイスラームが発生してきたわけですが、こうした性格からしてイスラームの方がより強くユダヤ教の性格を受け継いでいるということもあらかじめ指摘しておきましょう。
 その性格というのは、これらの宗教は元来
「砂漠の民」のもので、基本の構造は砂漠という貧しく過酷な風土の中で困窮の生活をおくらなければならなかったヘブライの民(つまり「貧民の放牧・流浪者」)が、自分達の悲惨と苦労しなければならないことの必然性を説明して現在の境遇に意味を与え、さらに現在得られない「幸い」を未来において得られるとする「希望」を語ることで自分たちが生きることの支えとするような性格をもった宗教だと言えます。
 すなわち、現在の悲惨と苦難の原因として自分達の祖となる「人類の祖」が「神に背いて(これがアダムとイヴの物語の性格です)」この悲惨なこの地上に「追放」されたということを見て自分達の
「悲惨さ苦難はやむを得ないこと」として説明し、その「神に従う」ことによってやがて「神に救済され」「約束の地」を得て幸せとなれる、という「希望」を語るのがユダヤ教の本質なのです。つまり「ユダヤ教」というのは本質的に「未来における現実的社会の繁栄・幸せ」を目的とする宗教なのであってこの性格は今日でも変わりません。
 
 これは
「豊壌の国」である日本とは対極にある考え方といってよく、日本のように自然に恵まれて、自然に従っていれば良いなどという考えはどこからも生じる筈もありませんでした。なぜならそんなことをしていたら飢えて死ぬだけでしたから。自然は恵みをもたらさないものだったのです。ですからこの地上は「追放の地、窮乏の地」と捕らえられ、過酷な労働がはじめから強いられるのだ、と理解されていたのです。
 しかしそれだけではやっていられませんから
「やがて幸せが到来する」という希望を持たなくてはなりませんでした。その希望を叶えてくれるのは「神」しかいません。人知では砂漠を緑の野に変えることはできないからです。そうなったら「神」にすがるしか手がありません。「神」も駄目とか「神などいない」となったら「完全な絶望」です。幸せは永遠に来ない、そうなったら「生きる希望」もなくなり「生きている意味もない」ということになります。ですからヘブライの民の「神」にたいする思いは日本人にはとうてい理解できないほどに強いのです。現在この姿勢は同じ「砂漠の民」であったイスラームに見られます。
 ですから「ユダヤ教」の時代になって、神は
「唯一で、万能な創造者」という観念が生まれたと言えます。神とはこの地上の「完全なる支配者」とされていきます。ということになるとこの地上・宇宙も「神に完全に依存している」とされなければなりません。しかもセム族には「創造神」という概念がすでにあったのですからこの創造神が「唯一なる完全神」とされてくるのは自然なことでした。
 こうして
「人類はこの絶対なる神に服従」することが必然とされました。「いいつけを守らなかったら」どうなるか。希望は「剥奪」されます。こうなっては大変です。ここから「服従と罰」の考えが出てきます。こうしてユダヤ教では「神の言いつけ、つまり戒律を守る」ということが絶対の教えとされていったのです。ですからユダヤ教は「戒律主義」を徹底しようとしてその形式性がイエスによって糾弾されてしまうほどになるのですが、戒律主義は必然的なものだったのです。こんな具合にして「創造主」としての神、やがて「救済」してくれる神、しかし「見張っていて罰を与えてくる神」などというものに「ユダヤ教」の民は出会っていったのでした。

一般にはユダヤにおける「神と人間との関係」は、ちょうど
「王と人民」との関係として理解すると分かり易いと言われている。すなわち、「たくさんいる族長の中で自分だけをすべての部族の上に立つ絶対的な君主とせよ」という命令とするわけであり、これは「オリエント的専制君主政体」と裏腹になっていると説明される。つまりイスラエル民族の場合「12部族」があったわけであるが、その「12の部族長」の中で「ユダ部族の族長、ダビデ」を「すべてのイスラエル民族の王」と認めるという形で古代イスラエル国家が形成されたわけで、「神」の場合も、当時オリエント世界に一般的であった「バール神」とか「イシュタル女神」を神として認めず「自分ヤハゥエ」だけを神として認めよ、という命令と理解するわけである。
こうした「専制君主的」な存在であるため、この神は「男性的」な姿をしていて、さらに「自分に従えば良し」とするが、「従わない場合は永遠に呪ってやる」といった
「ねたみ深い」神として現れると説明するわけです。

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