1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 26. バチカン法王庁とカトリック大聖堂 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

26.

バチカン法王庁とカトリック大聖堂


 ここではページ数の関係もあって、イタリアのものとしては「法王庁・バチカン」を中心にその他有名な世界遺産「ベネツィア」「ピサ」「フィレンツェ」の大聖堂と、世界遺産とはなっていないが知名度において高い「ミラノの大聖堂」を紹介する。
 「フランス」のものとしては世界遺産
「アヴィニオンの法王庁」と、フランスのキリスト教教会としてはもっとも由緒のある教会で日本にも知られている世界遺産「モン・サン・ミッシェル」だけを紹介し、他の世界遺産となっている大聖堂については別途扱う。

法王庁の概要
 紀元後800年以降、西欧の中世社会を支配していた「ローマ・カトリック」の世界を取り扱うが、ここでは「法王庁」が置かれた「イタリア」「フランス」だけを扱う。もちろん、カトリック世界は現在では西欧から南米まで広く分布しているが、「法王庁が置かれた」という意味では「イタリア」と「フランス」だけになるからである。
 カトリックというのは、ローマ帝国時代に置かれていた五つの「キリスト教総主教区(ローマ、コンスタンティノポリス、アンティオケア、イエルサレム、アレクサンドリア)」の一つであった
「ローマ教会」が、「実質的には800年、正式には1054年」に他の四つの伝統的総主教区から「分派して独立した教会」となる。ローマ教会が他の四つから分派した原因は、ローマ教会があったローマ帝国西領域が北方の異民族ゲルマン民族に占拠されてローマ教会だけが「ゲルマン民族のただ中」に取り残されてしまったからである。つまり、ローマ教会は、伝統的な教会のあり方では異民族であるゲルマン民族に対応できなくなって「新たなキリスト教」を形成せざるを得なくなってしまったのである。こうして、この「カトリック」というのは「ゲルマン民族向けのキリスト教」となり、ローマ帝国時代に国教にされた伝統的なキリスト教(今日「正教」と呼ばれている会派)とは相当に違ってしまった。それを為したのが「ローマ教会」であるからカトリックは「イタリア」で発展することになったのである。
 他方、ゲルマン民族の主体であった
「フランク族」の末裔である「フランス人」としては、自分たちの宗教の中心教会が「フランス」にあって欲しいと思ったのもある意味で気持ちは分かる。そうしてフランスは、1309年にイタリア国内の混乱を避けて当時中立的な地域であった「アヴィニオン」に避難していた法王をフランス統治下に置いてそのまま支配してしまったのである。法王は七代ここに居た後、1377年には再びイタリアのバチカンに戻ったが、しかしその後もフランスとバチカンとの確執は続くことになり「二人の法王」が立てられたりして「教会大分裂」を起こしてその権威は失墜していったのであった。
01 バチカンのサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂の前にて
【01 バチカンのサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂の前にて】
僕が始めてバチカンを訪れてもう20年も過ぎ、その後もたびたび訪れているが来るたびに雰囲気が変わり観光客も多くなっている。ところでバチカンというのは、イタリア・ローマの一角にある「独立したカトリック法王庁の国」で、信者数九億と言われるカトリックの中心である。ここは総面積が0.44Km、つまり1000×850メートルという「世界最小の国」だか、独立の国土と主権を有し「国旗」もある。
02 サン・ピエトロ大聖堂の伝承
【02 サン・ピエトロ大聖堂の伝承】
遠目に見る聖堂は印象的だが、バチカンが伝える伝承ではこの場所で「イエスの使徒ペテロ」が紀元後64〜5年頃皇帝ネロによって逆さ十字架に架けられて殉教したということになっている。そしてその伝承に基づいてキリスト教を公認したコンスタンティヌス皇帝がここに聖堂を建てることにして、カタコンベに置かれていたとされるペテロの遺体をここに運んで埋葬したという。年代的には315年頃となる。
03 サン・ピエトロ大聖堂の建造
【03 サン・ピエトロ大聖堂の建造】
当初の聖堂が朽ち、ニコラス教皇の時代に(1447〜1455年)再建の計画が起き、ユリウス二世の時(1503〜1513年)にブラマンテに設計がまかされた。ブラマンテは当初の姿を踏襲して「ギリシャ十字」の形で設計したが途中で亡くなってしまい、結局完成まで幾多の有名人が関わり度重なる変更と年月を要して、結局現在は当初計画とは異なった「ラテン十字」の教会堂になっている。
04 サン・ピエトロ広場
【04 サン・ピエトロ広場】
大聖堂の前は円形の広場となっているが、その中央に25・5メートルの高さのオベリスクがたっており、広場を包み込むように半円状に左右に回廊が造られている。非常に印象的な広場であるが設計はベルニーニ(1598〜1680年)となる。その回廊の列柱は二重列なのだが広場のオベリスクと噴水の間にある石板に立ってみると一列にしか見えないのは有名。列柱の上には140体に及ぶ聖人たちの彫像が置かれている。
05 聖堂の上部の彫像
【05 聖堂の上部の彫像】
この「サン・ピエトロ大聖堂」は通常の大聖堂が「ドゥーモ」と呼ばれるのとは異なり「バシリカ」と呼ばれる(他にもある)。その聖堂の上部に彫像が建ち並んでいる。彼らはイエス・キリストを中央にして12使徒となる。ただし、「ユダ」は省かれてその代わりに「洗礼者ヨハネ」の像が据えられているとされる。残念ながら遠目からなのでどれが誰か同定できない。
06 聖なる扉
【06 聖なる扉】
大聖堂に入る玄関廊には五つの扉が並んでいる。中央のものが再建当初のものだが、その左右の四つはすべて20世紀になって作られたものとなる。有名なのが右端の「聖なる門」で、これは「聖年(カトリック独特の祝典で、罪の赦しと贖罪の免除、和解を祈念する儀礼で、25年ごとの通常聖年と特別な時に行われる特別聖年とがある)」の儀礼時だけにしか開けられない。最近では1983年の「復活祈念聖年」が知られる。
07 ミケランジェロの「ピエタ」像
【07 ミケランジェロの「ピエタ」像】
聖堂内部にはいると最初に必見となるのが右手にあるミケランジェロの「ピエタ(哀れみ)」となる。聖母マリアに抱かれた「十字架から降ろされたイエス像」であるが、彫刻家としてのミケランジェロの代表作となる。その清楚で美しいマリアの表情が今でも多くの人々を魅了している。イエスの表情は良く観察はできないが、穏やかなものであることは見て取れる。ミケランジェロが24歳頃の時の作品となる。
08 聖堂内部
【08 聖堂内部】
この聖堂は長軸の長さが186メートル強もあり高さは45.8メートル、最大収容人数は万まで可能と言われる世界最大の聖堂となる。空間が列柱で三つの身廊に分けられている三廊式で中央にクーポラ(天蓋)を持つなど伝統をある程度踏襲しているが、彫像にあふれ華美で豪壮なのはカトリック教会堂に独特のものとなる。
09 クーポラ
【09 クーポラ】
クーポラというのは屋根の円蓋のことで、キリスト教会堂の原点となるローマ帝国時代のユスティニアヌス帝の建造になるコンスタンティノポリスの「アヤ・ソフィア」以来のものとなる。「天」をイメージしているためカトリック教会堂もその伝統を引き継いでいるが、ただしクーポラ内部の絵柄の様式は大分異なっている。しかし、その精神は引き継いでいるようで天国の住民たる聖人などが描かれている。
10 ブロンズの天蓋
【10 ブロンズの天蓋】
内部で一番目をひくのはベルニーニの作になる「ブロンズの天蓋」となる。祭壇の上にしつらえられているので、ここで儀礼が行われることになる。よじれた30メートル弱くらいの四本の柱で作られているが、こうした「いびつ」な様相はベルニーニの時代である1600年代に流行のバロック様式に典型的な作りとなる。この天蓋の下が主祭壇となり、またこの下にペテロの墓があるということになっている。
11 ペテロの司教座
【11 ペテロの司教座】
祭壇の後ろ、聖堂の一番奥に半円形の空間があるがそこを「アプシス、後陣」と呼ぶ。そこにも「玉座」のようなものを観察することができるが、今目にしているのはこれもベルニーニの作品で光り輝く丸い空間の中央には聖霊を表す鳩がおり、回りに天使たちが居て、その前に青銅製の座が置かれている。下方の四人はアウグスティヌスやアンブロシウスなど東西教会の「教会博士」。伝説ではここに使徒ペテロの使用していた椅子が隠されているとされる。
12 ラファエロ「アテナイの学堂」
【12 ラファエロ「アテナイの学堂」】
バチカンには幾多の絵画・彫刻の名作があることでも有名で、それを紹介するだけで一つの章となってしまう。ここでは数点を紹介するにとどめるが、先ずは「ラファエロ」が重要である。これは「ラファエロの間」にある代表作「アテナイの学堂」で古代ギリシャの哲学者たちの群像となる。中央の二人は向かって右がアリストテレス、左がプラトンとなる。
13 ラファエロ「フォリーニョの聖母」と「変容」
【13 ラファエロ「フォリーニョの聖母」と「変容」】
これは「絵画館」に収められているものだが、左が「フォリーニョの聖母」で「マリアとイエスの表情」にラファエロらしさが良く観察される。1511年の作。右は「変容」であるが、これはイエスが、山上で三人の弟子の前で「モーゼとエリアの二人の預言者」に伴われて「神としての姿」を表した場面を描いたもの。彼の死の少し前の1520年の作品で「絵画による遺書」とも言われる作品。
14 カラヴァッジョの「キリストの十字架降下」
【14 カラヴァッジョの「キリストの十字架降下」】
この絵画館にはキリスト教関係の絵画が多数収められているためカラヴァッジョのものもある。カラヴァッジョは「奇人」の類に入る画家で、その言動・行状はキリスト教精神にはほど遠くむしろ殺人などの犯罪も犯しているのだが、そのキリスト教絵画はすさまじいとも言える。その一端をここでも見せている。
15 サンタンジェロ
【15 サンタンジェロ】
一般に「サンタンジェロ城」とよばれるが、正確には「サンタ・エンジェル」となり「聖天使聖堂」となる。しかし、もともとは100年代のローマ五賢帝の一人「ハドリアヌスの霊廟」なのであった。それを後世になって「要塞」として用いられるようになり、さらに590年の疫病の大流行を天使ミカエルがこの要塞の上に現れて食い止めたとの伝承から「天使聖堂」とあらためたとされる。
16 ベネツィア
【16 ベネツィア】
ベネツィアの大運河であるが、この町は人工の島の寄せ集めとなる。従って交通網は船となり「ゴンドラ」と呼ばれる船が有名である。ベネツィアは中世の時代には商業で名を馳せた国であり、さまざまの形で中世社会を動かしていた。この地の有名聖堂としては、「福音書記者サン・マルコ大聖堂」がある。「言われ」という意味ではバチカンに次いで「由緒あるもの」となる。
17 サン・マルコ大聖堂
【17 サン・マルコ大聖堂】
この聖堂は1807年以降「司教座」の置かれる大聖堂となる。言われは823年にエジプトにキリスト教を伝えたとされる「福音書記者マルコ」の遺体とされるものをアレクサンドリアから略奪して聖堂を建造したとなる。823年というのは、ローマ教会が伝統教会から実質的に別れた直後のことで、この事件にはローマ教会が福音書記者の遺体を持つという「権威付けの思惑」と同時に、アレクサンドリア教会の衰亡が見える。
18 鐘楼
【18 鐘楼】
サン・マルコ聖堂には二つの広場があり、聖堂の正面にあるのが大広場であるがその脇に海に面するようにもう一つの広場があって、それを小広場と呼んでいる。その小広場から見た時の聖堂や鐘楼の姿が美しいのだが、ここの鐘楼は変わった外見を示しており、赤い煉瓦造りで尖塔状となっている。高さも96メートルと高く、かつては「監視塔」でもあり「灯台」でもあったとされる。
19 サン・マルコ大聖堂正面
【19 サン・マルコ大聖堂正面】
この聖堂の様式は伝統的な「ビザンティンの様式」を受け継ぎながらそこをカトリック教会堂初期の「ロマネスク」様式に彩っていると表現できる。つまり、聖堂の正面はロマネスク様式で平面的でアーチに特徴がある。他方、五つのクーポラはビザンティンの色合いとなる。ただし、屋根に置かれているさまざまの彫像は完全にカトリックのものとなる。正面上部の「ライオン像」は「福音書記者マルコを表すシンボル」。
20 ブロンズ製の四頭の馬
【20 ブロンズ製の四頭の馬】
上部のベランダの真ん中に四頭のブロンズ製の馬が並べられている。これはベネツィアが1200年代にコンスタンティノポリスを略奪した折に盗み出したもので、紀元前400年頃の古代ギリシャの青銅像となる。こんな形で西欧は古代ギリシャの素晴らしい文化を知り、これが後の「ルネサンス(古代ギリシャ文芸復興運動)」運動を生むことになるのである。なお、これはレプリカで本物は内部に展示されている。
21 サン・マルコ大聖堂の内部
【21 サン・マルコ大聖堂の内部】
内部の壁面の上部はまさに「ビザンティン様式」となっている。すなわち、壁面をイエスやマリアの事績、あるいは聖人たちの姿をモザイクやフレスコで覆い尽くすのがビザンティン様式なのだか、その絵のタッチも「様式的」で西欧美術のような「写実性」を持たない。金色の多用もその特徴となる。ただし、下部の礼拝場の造りはビザンティン様式とは離れている。
22 ピサの大聖堂の前にて
【22 ピサの大聖堂の前にて】
「ピサの斜塔」の名前で有名だが、一般に聖堂は「鐘楼」を持ち、ここの鐘楼が傾いているために「斜塔」と呼ばれているわけである。また「大聖堂」は「鐘楼」に加えて「洗礼堂」を持って三つ揃いとなると本格的といえるのだが、ピサは聖堂の回りに何の建物もないためにそのあり方がもっとも良く見られる。聖堂の建造は1063年というカトリック初期の時代であり、鐘楼は1174年着工、洗礼堂は1100年代から1300年代に渡るとされる。
23 洗礼堂と聖堂と斜塔
【23 洗礼堂と聖堂と斜塔】
ピサはこの写真のようにきれいに「三つ揃い」となる。一番手前が「洗礼堂」でその向こうが「大聖堂」となり、奧の傾いているのが「斜塔となっている鐘楼」となる。洗礼堂の下部は平面的でアーチに特色を示す「ロマネスク様式」であるが、上半分は立体的で装飾の強い「ゴシック様式」となっている。建造が長期にわたっていたことが原因であろう。
24 洗礼堂内部
【24 洗礼堂内部】
現在は、洗礼はシンボル的に額に水をつけるだけだが、当初はカトリックも全身を水に浸けた。従って洗礼場には「プール」がある。そのプールの真ん中にイエスに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ」の像が建っている。その向こうに「説教檀」があるが、ここには「ニコラ・ピサーノ」の建造になる古代の石棺彫刻から学んだ造形表現の最初があり、教会建築史的に有名となっている。
25 大聖堂(ドゥオーモ)
【25 大聖堂(ドゥオーモ)】
「大聖堂」は英語では「カテドラル」といい、これは「司教座」の置かれているところという意味となる。しかしイタリアでは「ドゥオーモ」と呼び、これはラテン語の「ドムス(「家」ここからさらに「神の家」を意味)」という用法から来ている。この大聖堂(ドゥオーモ)は「ロマネスク建築」の代表例となる。ロマネスク様式とは「平面的」で「アーチ」に特色を示し、また「窓」が小さく少ないのも特徴となる。
26 大聖堂正面
【26 大聖堂正面】
大聖堂の正面を見ているが、下部はシンプルな平面の厚い壁に扉を持ってその上部が半円となりそこに絵が描かれるというロマネスク独特の正面作りとなっている。その上部はピサの大聖堂に独特の「四層の列柱廊」が付設されているが、これは「斜塔」にも踏襲されており、ここに「ピサの聖堂」の一つの特色が見られる。
27 聖堂内部
【27 聖堂内部】
柱で五つの廊に別けられている五廊式。柱上部のアラブ的な「白黒模様」も特徴だが、正面の「デイシス」と呼ばれる「中央にイエス、向かって左にマリア、右に洗礼者ヨハネ」という絵柄は完全にビザンティン様式。ただし、その下の左手の「説教檀」はカトリック建築後代の様式であるゴシック彫刻の代表例。ジョバンニ・ピサーノの作として有名。右手のランプもガリレオが「振り子の原理」を発見した契機として有名だが史実ではない。
28 斜塔
【28 斜塔】
「ピサの斜塔」として有名であるが、建築途中から地盤沈下のため傾き始めてしまったため建築が中断してしまった。それでも長年月をかけて傾いたまま完成させ、現代も倒壊予防工事をして一般公開できるようにしてある。塔の高さは北側が55.22メートルで南側が54.52メートルとされその差は70センチとされる。ここでガリレオが「落下の法則の実験」をしたという話しはとりわけ有名。
【29 フィレンツェの町を望む】
フィレンツェにきているが、この町は「ルネサンス」の中心地であったようにイタリア史においてもっとも重要な町の一つとなる。とりわけこの町は「美術の町」として著名だが、「教会堂」においても訪れるに足るものがたくさん有る。しかし取りあえずは「大聖堂」が代表する。
30 フィレンツェの大聖堂
【30 フィレンツェの大聖堂】
正式には「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」と呼び、そこで日本では「花の聖母教会」などとも紹介される。建造は1296年に着工だが完成まで170年ほどかかったと言われる。先行する「ピサの大聖堂」を意識してそれを超えようとしたと言われ、それが「異様に大きいクーポラ」に現れているとされる。クーポラの設計は「ブルネルスキ」により1420〜1434年制作とされる。
31 大聖堂正面
【31 大聖堂正面】
時代は1200年代以降に流行の「ゴシック様式」の時代にはいっており、建物は「立体的」になり、装飾が華美となり、彫刻がやたらと多くなる。それがゴシック様式の特徴だが、ちなみに「ゴシック」とは「ゴート族風=田舎者風=下品」という侮蔑語だった。しかし、人々の好みがそれを「通常の教会建築様式」とさせてしまったので、カトリック教会様式は圧倒的に「ゴシック様式」が多い。ここはその中でも「上品」な部類に入る。
32 ジョットの鐘楼
【32 ジョットの鐘楼】
聖堂に向かって右にある鐘楼は「ジョット」の設計になり高さが約85メートルある。制作は1359年に着工。ジョットは当時もっとも優れた芸術家とされていたがその代表作となり、聖堂との装飾のバランスを取って、さらに「幾何学紋様的調和」を主体にして見た目に美しい塔に仕上げており「鐘楼としての美しさ」においては随一とも評価されている。
33 洗礼堂
【33 洗礼堂】
大聖堂の前には「洗礼堂」があり、「聖堂」と「鐘楼」と並んで「三つ揃い」となっている。八角形の建物となっているが「八角形」というのも聖堂に多い。洗礼堂となっているが、大聖堂ができるまではここが「聖堂」として使用されていたとされる。つまり「三つ揃い」の中でこれが一番古いわけで、そのためこの洗礼堂は初期のロマネスクの特徴を示し、またピサの大聖堂と同様にアラブ的「白黒のまだら模様」まで共通している。
34 洗礼堂の「天国の門」
【34 洗礼堂の「天国の門」】
この洗礼堂で一番有名なのがミケランジェロによって「天国の門」と名付けられた「金色の扉」となる。制作はギベルティによるもので、この洗礼堂の三つの門のうち後から付設された南と東の門の二つを彼が制作している。東の門に相当する「天国の門」の場面は「旧約聖書」の場面を描いたものとなる。
35 ミラノの大聖堂
【35 ミラノの大聖堂】
ミラノに来ているが、ここの大聖堂はあまりにも装飾が激しすぎて「悪趣味」とまで評されてしまうこともある。ある意味で「ゴシック様式の頂点」とも言える。写真に見られるように屹立する135本もの塔が建ち並びそのそれぞれに聖人の像が据えられ、そればかりか壁一面にも聖人たちの彫像が並んでいる。凹凸も激しくまさに「ゴシックの代表」の名に恥じない。ただし「世界遺産」としては指定されていない。
36 大聖堂の「マリア像」
【36 大聖堂の「マリア像」】
この聖堂の建造は1386年の着工で完成は1800年代初めナポレオンによるとされる。カトリックの大聖堂は「サン・ピエトロ」とか「サン・マルコ」など特殊なものを除き、その多くが「聖母マリア」に捧げられたものであり、ここも同様である。カトリックは「マリア信仰」にその特色があると言えるのだが、その「マリア」がひときわ高い尖塔の上に据えられている。尖塔の高さは108メートルとされる。
37 聖堂内部
【37 聖堂内部】
カトリックの聖堂はその多くが外部・内部共に壮麗である。ゴシック様式はとりわけその特色が顕著であるが、内部の場合「ステンドグラス」の効果によっていることも多い。その典型的な様相をここで見ることができる。ただ、この「ミラノの大聖堂」はそれがあまりに派手過ぎているためステンドグラスの持つ独特な美しさが失われている嫌いもある。
38 ステンドグラス
【38 ステンドグラス】
壁一面がステンドグラスであるため、結局「ステンドグラス風の壁」といった印象になってしまい、「ステンドグラスの効果」すなわち外部の光で浮き立ってくる美しい一つの姿、といったものが失われている。過ぎたるは及ばざるが如しと言うべきだろうか。
39 告白室
【39 告白室】
カトリックでは神父さんに自分の罪を告白して贖罪するというものがあるのだが、そのためのブースが並んでいる。この「告白の部屋」は壁面に設置されていることが多いのだが、ここではこのように一つのブースになっている。
40 フランス・アヴィニオンにて
【40 フランス・アヴィニオンにて】
イタリアを離れ、南フランスに来ている。写真は一時期法王庁が置かれていた「アヴィニオン」であり、向こうに見えている橋は「ローヌ河」にかかる「サン・ベネゼ橋」で「アヴィニオンの橋で踊ろよ踊ろよ」の歌で有名な橋である。現在橋の半分が流されてしまい、半分しか残っていないので当たり前ながら通行できない。この右手を行くと法王庁に行き当たる。
41 「アヴィニオン」の法王庁
【41 「アヴィニオン」の法王庁】
1309年法王クレメンス五世はイタリア国内の混乱を怖れて当時中立的な地域であったここに避難してきた。その後継者はバチカン帰還を企図したが政情がそれを許さず、そのうち勢力を拡大したフランスに支配されるようになる。1377年に法王はバチカンに戻ったがフランスは別に法王を立てて対立関係となるという歴史を刻む。そのためかここは「城塞」と言った方が良く、外観的には宗教色を感じ取れない。
42 法王庁の内部
【42 法王庁の内部】
この写真から「法王のいる法王庁」を感じ取れる人は殆どいないであろう。窓に十字架が嵌め込まれていることでやっとそれと分かる程度である。実際、このアヴィニオンの時代を後世「法王のバビロン補囚」などと呼んで「牢獄」扱いしている。法王がバチカンに戻った後もここには別途法王が立てられて対立し「教会大分裂(シスマ)」と呼ばれる事態を生み、「カトリックの腐敗と権威の失墜のシンボル」などと言われてしまった。
43 法王庁の「マリア像」
【43 法王庁の「マリア像」】
それでもここは「キリスト教教会」であることは示しておかなければならないわけで、唯一それと分かる場所がここで、塔の上に「マリア像」が据えられている。カトリックとは「マリア信仰の宗教」であることは各地で目にするが、さすがにバチカンの「サン・ピエトロ大聖堂」にはそれは無かった。しかしこちらの法王庁はしっかりと「マリア信仰」の宗教であることを示している。
44 十字架のイエス像
【44 十字架のイエス像】
カトリックとは「マリア信仰」とはいっても、その根拠となる「イエス像」を抜きにする訳にはいかない。そこで十字架上のイエスをマリア像の足下に据えてある。前出のように右手の高い塔の上に黄金のマリア像が据えられているのである。どう見ても「イエス像」は「マリア像の添え物」としか映らない。この二つの像の扱いはまさに「マリアが主人公」でしかない。
45 モン・サン・ミッシェル
【45 モン・サン・ミッシェル】
日本でもっとも有名なフランスのキリスト教聖堂となると最近ではどうもこの「モン・サン・ミッシェルの修道院」となるようで、日本からの観光客が引きも切らない。フランス北西部の一つの小さな島全体が修道院となっているのだが「ベネディクト会修道院」となる。708年に天使ミカエルがここに現れたとの伝承に基づいて翌年聖堂が建立されたのがはじまりとなる。「ミッシェル」とは「ミカエル」のフランス語読みである。
46 モン・サン・ミッシェルから見た海
【46 モン・サン・ミッシェルから見た海】
ここは中世を通じて「巡礼地」として栄えたのだが、この島に渡るのは「潮が引いたとき」を見計らって徒歩で渡らなければならなかった。そのため時を見誤って潮が満ちてしまい、潮に流されて命を落とす者が絶えなかったと言われる。そのため現在では長い突堤が作られてそこを歩いていけるようになっているだが、「巡礼」というのはそもそも命がけのところがあったのである。そうした潮の流れを見ている。
47 モン・サン・ミッシェル内部の道
【47 モン・サン・ミッシェル内部の道】
ここは「修道院」ではあるが、通常の修道院のように一つの囲いの中に教会と修道士の小部屋群とがあるというのとは異なり「巡礼の地」となっていたので「一つの村」のようになっている。巡礼者が泊まる宿泊施設が必要だったし、食事や土産物も要望されたからである。現在もかなりたくさんの小さなホテルやレストラン、土産物店がある。その村の「メイン通り」となる。
48 教会
【48 教会】
ここの教会は、もちろん「ミカエル(ミッシェル)」に捧げた教会だが、この「ミカエル」というのは「悪と戦う戦闘天使」である。「新訳聖書」での天使にはもう一人、マリアにイエスの懐胎を告げた「啓示のガブリエル」がいるのだが西欧では圧倒的に「ミカエル」が好まれている。イギリスとの戦いでジャンヌ・ダルクを戦争に赴かせたのも「ミカエル」とされている。そう思って見るとこの教会の厳格で要塞的なのも頷ける。
49 修道院内部
【49 修道院内部】
「修道院」なのだから内部は「暗く、瞑想に適した雰囲気」とおもいきや意外と明るく広々とした空間で、修道士たちが活発に動き回っているような雰囲気である。ただし、他のイタリア・フランスなど西欧の大聖堂に見られる壮麗・豪壮でゴテゴテかざり立てる派手な装飾はなく、写真に見られるように簡素で建築性だけの美観となっている。
50 島の中を歩く
【50 島の中を歩く】
島の中を歩き回っているが、小さな島ではあるもののあちこち覗いているとかなりの時間を食う。ただ、修道院内だけではなく、村の雰囲気を楽しみながら道をあちこち歩くのは良い。中世の雰囲気にどっぷりと浸かれる。また麓に「サン・ピエール教会」という小さな教会があって、玄関口にジャンヌ・ダルクの像が建っていて内部には「悪を退治するミカエルの像」があったりして面白いものも見つけられる。
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