1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

15.

ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」

ローマのフォロ。 コロッセオ。 ローマ市内の遺構。 アッピア街道。 ポンペイのフォロ。 アポンダンツァ通り。 円形闘技場。 ファウヌスの家。 ヴェッティの家。 秘儀荘の壁画。 ローマ市内の博物館


■ローマ帝国「ローマとポンペイ」
ローマ帝国地図-小 拡大地図を見る>>
イタリア本土の中央部
ローマの遺跡とポンペイの遺跡。
ローマ帝国の発祥地ローマ。ローマ都市・文化がタイムカプセル化されたポンペイ。
ローマは紀元前後の遺跡。ポンペイは紀元後79年にカプセル化。
古代ローマ民族
 古代ローマの発祥は、紀元前700年代の半ば頃に後のローマとなる「パラティーノの丘」に集落らしきものが形成されたのが始まり。そして古代ギリシャが最盛期を迎え始めた紀元前500年代に入ると、いわゆる「共和制ローマ」が形成される。
 紀元前300年、ギリシャ北方にアレクサンドロス大王が登場したころから、ローマは地中海世界に大きく顔を出してくる。先ず、都市ローマからギリシャへの道となる「アッピア街道」が建設され(紀元前312年)、この街道は全ローマ期を通じて最大の幹線道路となる。そのアッピア街道の意味は、文化が東方のギリシャ・ヘレニズム世界にあり、さらに中東との交易の路線となって、軍事的意味でも最重要道路であった。つまりすべてにわたって東方世界が中心だったからである。
 紀元前200年代に入り、ローマは侵略の時代に入っていき、先ず南イタリアに展開していたギリシャ都市に侵略して制圧。そして西地中海を支配していた「フェニキアのカルタゴ」を滅亡する。紀元前100年代からのローマは、総じて「ただの征服欲だけの野獣の群れ」となり、内部的にも外部的にもあらゆる欺瞞や裏切り残虐と侵略に染まっている。
 その後「剣奴スパルタカスの反乱」(73〜71)などがあり、やがて「カエサル」の登場となって、最終的に「オクタヴィアヌス」の勝利としてローマは落ち着く。紀元前27年オクタヴィアヌスは「アウグストゥス」の称号を得て、ここに「帝政ローマ」が出発することとなった。
 紀元後となり、ローマ帝国は興隆期へと向かい、80年頃にはローマに「コロッセオ」が建設。しかし、ローマの南にあったヴォスヴィオ火山が爆発して「ポンペイ」を火山灰で埋め尽くしてしまう。79年のことであった。
 現代のローマに残る古代ローマ遺跡は多くはない。当然の話で近代ローマがその上に作られてしまったのだから。しかし、その「よすが」は追える。追ってみよう。ポンペイは文字通りタイムカプセルだ。ここで古代ローマの都市が見つけられる。もっとも解説抜きでは難しい。このページはそのためのページとなる。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
01 ローマのフォロにて
【01 ローマのフォロにて】
古代ローマの発祥は、紀元前700年代の半ば頃に「パラティーノの丘」に集落らしきものが形成されたのが始まり。古代ギリシャが最盛期を迎え始めた紀元前500年代に入って、小さな町ながら「共和制ローマ」が形成される。そして、紀元前300年になってギリシャ北方にマケドニアのアレクサンドロス大王が登場したころから、ようやくローマは地中海世界に顔を出してくる。
02 コロッセオ
【02 コロッセオ】
ローマは、西地中海からやがてギリシャ・小アジア、中東、エジプトと侵略して大ローマ帝国を形成する。紀元後ローマ帝国は興隆期へと向かい、80年頃にはローマに「コロッセオ(円形闘技場)」が建設。ここで剣奴たちが死を掛けて戦い、また野獣同士が襲い合い、キリスト教徒が野獣に食われた。その血の惨劇をローマ市民は歓声を挙げて見物していた。
03 コロッセオ内部
【03 コロッセオ内部】
「コロッセオ(文字通りには「巨大」という意味。建物の名前の由来としては、ここにあった「ネロ帝の巨像」にちなむとされる)」はローマ特有の絢爛豪華な大建築の代表。長径188、短径156、周囲527、高さ57メートルという文字通り巨大建造物。観客席は身分によって仕切られ、5万人収容し、床下は倉庫や猛獣の檻、大がかりな舞台装置などもあった。
04 ローマのフォロ、ディオスクロイ神殿
【04 ローマのフォロ、ディオスクロイ神殿】
コロッセオから西に向かって「フォーリ・インペリアーリ通り」があるが、その左手に古代の「フォロ・ロマーノ」の遺跡がある。「フォロ」というのは、古代ギリシャの「アゴラ」と同様「集会広場」であり、町の中心であった。その南が「パラティーノの丘」でローマ発祥の地となる。
05 フォロの情景
【05 フォロの情景】
フォロは「聖なる道」と言われる道を歩く形となるが、道の両側に遺構があるものの、破壊は相当に行われているためにその遺構はほとんど原型を留めない。案内図を片手に一つ一つ痕跡を辿るのが普通だが、しかし建物遺構にこだわるより、「ここをカエサルが歩いていたのだ」といったように思いをローマに馳せて歩くのが良い。
06 ティトゥスの凱旋門
【06 ティトゥスの凱旋門】
聖なる道のコロッセオ寄りの突端にある。ヴェスパシアスとその息子ティトゥスによる紀元後70年のイエルサレム陥落を記念して建造されたもので、81年に完成。
07 ヴエスタの神域
【07 ヴエスタの神域】
聖なる道をティトゥスの凱旋門に向かって歩いてきたとして、その手前右手に「ヴェスタの巫女達の家」がある。ヴェスタというのはギリシャのヘスティアと同様「都市の守り神」であり「聖なる火」であった。この火を守る巫女(当初は4人、後に6人)は聖なる者として「聖なる家」に30年留め置かれた。
08 アントニヌス・ファウステーナ神殿
【08 アントニヌス・ファウステーナ神殿】
「アントニヌス・ファウスティーナ神殿」とは、ローマの神々には存在しない名前なので聞き慣れないが、これは五賢帝の一人「アントニヌス・ピウス」がその妻「ファウスティーナ」のために建立(141年)し、後にピウス自身も祀られた「皇帝の神格化の神殿」となる。このフォロ・ロマーノで一番保存状態がよいが、それは後代教会として使用されていたから。
09 ローマ市内、パンテオン
【09 ローマ市内、パンテオン】
フォロ・ロマーノからさらに西の方角にあり、ローマ建築でもっとも完全に残存したもの。紀元前27アグリッパの建造したものが火災にあった後、紀元後の118年皇帝ハドリアヌスが全面改修して再建した。ローマ建築のあらゆる特質が結集された「ローマ建築の代表的なもの」で、空間の広さをこれほどとれるようになったのはローマ建築になってから。
10 コンスタンティヌス凱旋門前にて
【10 コンスタンティヌス凱旋門前にて】
再びコロッセオにとって返し、その脇にある凱旋門を見ている。古代ローマの遺構を見るというとき、地中海を中庭にしていた領域のローマ帝国のどこに行っても、我々は先ず「神殿」と「劇場」と「凱旋門」にやたらと出会うことになる。そして、もう一つ「浴場」の、以上四つがローマ遺構の代表となり、ここに古代ローマの文化のあり方が現れている。
11 コンスタンティヌス凱旋門
【11 コンスタンティヌス凱旋門】
ローマで最大の凱旋門がこれで、315年にコンスタンティヌスがライバルのマクセンティウスを破ってローマ帝国の西領域を手中にしたときの記念門となる。高さは約28メートルとなる。装飾だが、これはどういう理由か不明だが、先の皇帝たちの浮き彫りを移築、つまり「盗用」してしまっている。コンスタンティヌスの業績はレリーフ部分だけに描かれている。
12 トラヤヌスのフォロ
【12 トラヤヌスのフォロ】
フォロ・ロマーノからフォーリ・インペリアーリ通りを西に行くと、アウグストゥスのフォロとかトラヤヌスのフォロといった遺構がある。こんな具合にローマはさまざまの遺構があるのだが、ただし全体としてはごくわずかしか残存していないと言える。
13 エマヌエル二世記念堂
【13 エマヌエル二世記念堂】
フォーリ・インペリアーリ通りの西端にある建物。これは勿論近代の建物で、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世を記念したもの。1911年の完成。ローマ人にも評判の悪いこの建物は、ウェデイング・ケーキなどと陰口をたたかれるが、場所の点でも、ハデで目立つ点でもローマ市内を巡る格好の起点ともなっていることでしられる。
14 トレビの泉
【14 トレビの泉】
ローマのシンボルとなっている「トレビの泉」は1762年の建造によるものでバロック様式となっている。しかし、元来ローマでは、水道を通ってきた水は樋から落ちて「水盤」にためられる形となっていて、このトレビの泉も紀元前19年アグリッパの建造が起源。ただし勿論、当時はこんなハデな彫刻はもっておらず、三つの水盤であったとされる。
15 スペイン広場
【15 スペイン広場】
もう一つのローマのシンボルとなっている「スペイン広場」は古代ローマとは全く関係がない。映画「ローマの休日」などで有名となったり、高級ブランドの並ぶ通りが続いていたりすることで、最近では観光客で身動きできないような場所になっている。もし古代ローマ遺跡探訪が目的なら、ここには来るのはできるだけ避けた方が良い。
16 アッピア街道にて
【16 アッピア街道にて】
古代ローマの台頭は、ローマからギリシャへの道となる「アッピア街道」の建設が大きな働きをした。紀元前312年の建設で、この街道はローマ期を通じて最大の幹線道路となる。文化がギリシャにあり、さらに東方との貿易の路線となっていたからで、もちろん軍事的意味でも最重要の道路となる。
17 アッピア街道
【17 アッピア街道】
現在でも石畳の道が残り、松の木の陰が昔日の面影を伝えている。かつて、この道路の両側には壮麗な墓が建ち並んでいた。ローマ人は死を穢れとはせず、日常的に交流していたからである。キリスト教で有名な「地下墓地(カタコンベ)」もこの街道沿いに点在している。
18 ローマの町の現在
【18 ローマの町の現在】
現代のローマは勿論現代風の建物になっているわけだが、日本とは異なり、歴史を大事にする感覚は残っていてローマ市内の観光バスの乗り入れは禁止され、雰囲気としても良さを保とうとする努力をしている。
19 ポンペイのフォロにて
【19 ポンペイのフォロにて】
ポンペイの町の基礎は紀元前8世紀にまで遡るとされ、原住民のオスク人によって町とされ、当時は海岸線がもっと中にありここは港として優れていたことからギリシャ人が入植して繁栄し、その後エトルリア人がここを支配し、さらに山岳民族であったサムニステ人が支配するという具合に町の支配は変わっていった。
20 ポンペイのフォロ
【20 ポンペイのフォロ】
ポンペイがとりわけ繁栄するのはローマ時代になってで、ローマの同盟都市として市民権を与えられて自由な商業活動を認められ、経済的な大発展を遂げていく。しかし紀元79年8月、背後にそびえるヴェスビオ火山の噴火によって火山灰に埋もれ、近代発掘されてローマ時代の地方有力都市のあり方をそのまま見せていることで有名。「フォロ」は町の中心広場。
21 フォロのアポロン神殿
【21 フォロのアポロン神殿】
もっとも一般的にマリーナ門から入場すると、右手に大きな建物遺構となっている「バシリカ(集会場)」があり、左手にはギリシャ時代のアポロン神殿がある。起源は紀元前6世紀に遡るが、紀元前2世紀に改修された。現在ここに発掘されたアポロン像のレプリカが置かれていてひときわ目立つ。
22 フォロのストア
【22 フォロのストア】
アポロ神殿の後ろの広い空間がフォロとなる。フォロは、イオニア式の柱で形成される柱廊で長方形の広場を取り巻いており(20を参照)、そのフォロの奥にジュピター神殿があった(写真の左手の壁)。その両脇に凱旋門があり、それに向かって列柱が立ち並んでいた。
23 アポンダンツァ通り
【23 アポンダンツァ通り】
そのフォロを横目に通り過ぎてさらに東に延びている大通りが、メイン通りの「アポンダンツァ通り」となる。中央が車道で両脇が歩道となる。奥に両脇の歩道をつなぐ通路となる踏み石が並んでいる。手前の石は道の行き止まりを示していて、この先は「フォロ」となる。つまりフォロへの馬車の乗り入れを禁じていた。
24 ポンペイの町並み
【24 ポンペイの町並み】
ポンペイは火山灰で覆われて「タイム・カプセル」のような状態にされてしまったため、保存状態は非常に良い。町並みも良く保存されている。
25 居酒屋
【25 居酒屋】
その町並みにはさまざまの商店があったが、ここはそのうちの一つで「酒屋(居酒屋)」であったと推定されている。丸い穴の部分にワイン壺が差し込まれていたと推定される。
26 パン屋
【26 パン屋】
商店の一つでパン屋と推定され、その粉ひき機の跡や竈がきれいに残っている。こうした形で古代ローマ人の生活が復元され、ポンペイは貴重な歴史資料を提供している。
27 円形闘技場
【27 円形闘技場】
円形闘技場は、ほぼ完全に保存された。紀元前80年の建造で、これは現存する最古の闘技場となる。ここで剣闘士が戦い、猛獣との戦いが行われた。そのためしばしば市民の暴動に発展することもあり、ここでも大きな暴動が起きている。
28 火山灰の犠牲者
【28 火山灰の犠牲者】
火山灰に覆われた後、生物はその火山灰の熱に焼かれていった。そのためその生物の形はそのまま残ることになり、空洞部分に石膏を流し込むとその型がとれ、それが人間であったり犬であったりという形になった。
29 市場
【29 市場】
ポンペイには恒常的な市場があった。1世紀頃のものと推定。中央は広場のかたちとなりその周囲に商店があった。広場の真ん中に円形の建物遺構らしきものがあるが、水槽が設置されて魚などが入れられていたと推測されている。
30 ファウヌスの家
【30 ファウヌスの家】
ポンペイの邸宅も良く保存されており、写真はアトリウムにある「ファウヌス(山野の精)」の像にちなんで「ファウヌスの家」と呼ばれている。非常に大きな邸宅で110×40メートルという一つの区画全体を占めている。この邸宅の持ち主はおそらくローマから調停役・指導者として派遣されていたプブリオス・ラッシかと推測されている。
31 ファウヌスの家
【31 ファウヌスの家】
二つの中庭を囲むようにたくさんの部屋や柱廊が配置されており、後部は大きな中庭を柱廊が囲んでいた。有名なアレクサンドロス大王の「イッソスの戦い」のモザイクはこの館にあったものであり、館の中心部分の一室にあった。
32 ヴェッティの家の中庭
【32 ヴェッティの家の中庭】
「ヴェッテイの家」は解放奴隷から大商人(商売の詳細は不明)になったヴェッテイ家の邸宅であり、規模はファウヌスの家には及ばないものの、豪華であったことは負けてはいない。ローマでは解放奴隷はローマ市民になることができて、大富豪にさえなることが可能であった。
33 ヴェッティの家
【33 ヴェッティの家】
ヴェッテイの家の特色はその壁画の素晴らしさにあり、各部屋毎に壁画があって、あたかも美術館のような様相を呈している。ポンペイでは他の邸宅からも壁画が発掘されているが、質・量ともヴェッテイの家は群を抜いている。この家の様相は、後部に中庭を配し、その中庭の二辺に部屋を配するという構造となっている。
34 ヴェッティの家の壁画
【34 ヴェッティの家の壁画】
中庭の柱廊に出て一番左手の「居間」の壁画の一部で、いわゆる「デュルケの懲罰」の壁画が見える。
35 ヴェッティの家の壁画
【35 ヴェッティの家の壁画】
同じ居間の壁画で「蛇を殺す赤ん坊のヘラクレス」である。写真で確認できるように、2000年近い年月を経てきたものとは思えないほど鮮やかに残っている。
36 ヴェッティの家の壁画
【36 ヴェッティの家の壁画】
同じく居間の壁画で「マイナスに八つ裂きにされるペンテウス」となる。こんな具合に一つの部屋が美術館の一室のような様相を示しており、各部屋毎にその印象がことなる。
37 秘儀荘の壁画
【37 秘儀荘の壁画】
町の西側の門「エルコラーノ門」を出て少しのところに「秘儀荘」と呼ばれる邸宅がある。ここが有名なのは「秘儀荘」の呼び名の所以となった「ディオニュソスの秘儀」の壁画が発掘されていることで、この壁画は「ポンペイの赤」と呼ばれる独特の赤色を基調としたもので美術史的に重要であると同時に、「秘儀の入信式」を描いていることで思想的にも重要となっている。
38 秘儀荘の壁画
【38 秘儀荘の壁画】
ディオニュソスの秘儀に入信する始めの部分で、少年が何やらを呼んでいる図柄であるが、これは入信に際しての方式や規律などを述べている図と推測される。
39 秘儀荘の壁画
【39 秘儀荘の壁画】
中央で黒い羽根を持った女神像が興味深い。こうしたタイプの女神はギリシャ・ローマ神話には存在しないからで、ディオニュソスに従う下級女神のようなものが想定されて、入信希望者に一つの試練を与えていたのかとも考えられる。こんな具合に、この壁画はいろいろな推量の材料を与えている。
40 狼とロムヌスの兄弟
【40 狼とロムヌスの兄弟】
再びローマにもどり、博物館(美術館)を巡らなければならない。ギリシャ・ローマ美術が現代美術の原点となっているからである。この「雌狼と二人の赤子」の銅像は「コンセルヴァトーリ美術館」にある有名な、ローマ建国の父とされる「ロムルス」とその兄弟レムスが雌狼に育てられたという伝承を描いたもので、通常「カピトリーノの雌狼」と呼ばれている。
41 アフロディテの誕生
【41 アフロディテの誕生】
「ルドヴィシの玉座」という名前で美術史的に有名な浮き彫り彫刻。現在はアルテンプス宮に展示されている。これは紀元前460年のギリシャのオリジナルだが、ルドヴィシで発見されたためこの名前がある。美神アフロディテが海から上がる場面を描き、アフロディテ彫刻の原点ともなる作品。
42 ラオコーン(バチカン博)
【42 ラオコーン(バチカン博)】
「ラオコーン像」で紀元前1世紀のギリシャ・ヘレニズム期の傑作として名高い。バチカンの「ピオ・クレメンティーノ」美術館。原作はおそらく紀元前150年頃にペルガモンで制作された青銅像を、ローマ時代になって、おそらくアウグストゥスないしティベリウスによって模刻されたものだが、原作の雰囲気を良く伝えているとされる。
43 エロスとプシュケ
【43 エロスとプシュケ】
ギリシャ時代にはあまり人気の無かった「愛神エロース」は、ローマに移って「クピード」となって美術や文学にやたら登場するようになる。これは「エロースとプシューケー」というローマ時代に作られた物語りを美術表現したもの。ローマの文化の一面を良く表している。
44 円盤投げ
【44 円盤投げ】
紀元前450年頃の、ギリシャのミュロンによる青銅製の原作をローマ時代に大理石で模刻したもの。スポーツ選手の身体表現において傑作とされているもの。
45 自害するガリア人
【45 自害するガリア人】
「妻を殺し自害するガリア人(ガラティア人とかゴール人とかとも紹介される)」。原作は小アジアのペルガモンで、紀元前220年頃制作された青銅製の「アッタロス群像」の一部を、ローマ時代に大理石で模作したもの。ペルガモンとローマは独特の関係があったのだが、その影響を伺わせて興味深いものとなっている。マッシモ美術館収蔵。
46 死のガリア人
【46 死のガリア人】
同じく「瀕死のガリア人」。二つの作品はローマのカエサルがガリアを制圧した記念に、同じ題材を持つペルガモンのものを模作させたという逸話もあるが、それは確たる証拠がない。ただ、そういう話しになるような関係があったのかも知れない。
47 アマゾンの女兵士
【47 アマゾンの女兵士】
これもギリシャ彫刻のローマの模刻であるが、「女兵士アマゾン」はギリシャ時代から多くの美術のテーマとされてきた。美の女神アフロディテ像とはことなった「戦う女性」のエロティシズムが好まれたのかとも思われる。
48 アポロンとダフネ
【48 アポロンとダフネ】
古代ギリシャ彫刻はローマに引き継がれ、その後キリスト教の時代になって一度眠りにつかされてしまったが、ルネサンスによって再び甦り今日の美術の源となっていった。そのギリシャ彫刻の再生が頂点に達した17世紀のベルニーニの有名な作品がボルゲーゼ美術館にある。写真はその一つ「アポロンとダフネー」となる。
49 ハデスとペルセポネ
【49 ハデスとペルセポネ】
上と同じような精神で制作されている「ペルセポネーを浚うハデス」となる。上の「ラオコーン」と比較してみると、細部はいざ知らず、その制作の「表現の哲学」は全く同じともいえ、近代美術の性格が良く分かると言える。
50 ソクラテス胸像
【50 ソクラテス胸像】
ソクラテスの像は数点しか残っていないがその一つで当然ローマ時代のもの。ギリシャ時代に青銅像としてあったものを大理石で模刻したと考えられている。原作の違いによりソクラテス像には二つの系列があるが、その内の一つ。
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