1. 世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

1.地中海域の古代世界と世界遺産〜写真と説明〜バー
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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

25.

古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産

チョガー・ザンビルのジッグラト、パサルガダエ、ペルセポリスなど。


古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産地図-小 拡大地図を見る>>
 「古代ペルシャ」は、インド西方の「インダス川」から、ヨーロッパとエジプト以外のアフリカを除いた全部であり世界最初の大帝国となる。
 現在の「イラン」はその発祥の地に限定されているが、インドの西北にありその国土は日本の4.5倍にもなる。
 「チョガー・ザンビール」「パサルガダエ」「ペルセポリス」「タフテ・ソレイマーン」「バム」「イスファファン」。
 「古代ペルシャ」関係は最初の三つで、「バム」はオアシス都市で中世の城塞、「タフテ・ソレイマーン」はゾロアスター教の神殿、「イスファファン」は中世「サファヴィー朝の都」となる。
「ペルシャ」はメソポタミア期から現代まで、中世のイスラーム支配期を除いて世界的に重要な民族国家形成とその文化を持つのだが、我が国に紹介されることが少ない。その歴史遺産をたどることとなる。
 この地方は紀元前2000年代のいわゆる「メソポタミア文明」の時代の「エラム王国」から歴史に登場。ただし、この「エラム王国」の民族がどの民族に属していたのか不明。
 イラン人の王国としては、紀元前600年代に台頭した「メディア王国」を皮切りに、500年代の「キュロス大王(在位559〜529年)」によって建設された「アケメネス朝ペルシャ」が有名で史上最初の「大帝国」となった。
 しかし、西方のギリシャへと進出・侵略しようとしたことで、紀元前300年頃ギリシャ・マケドニアの「アレクサンドロス大王」の東征を招き滅ぼされてしまう(紀元前331年)。
 しかし程なく、同じイラン系民族である「パルティア」が独立し、紀元後200年代になって先のアケメネス朝ペルシャを再興するような形で「ササン朝ペルシャ」が形成される(紀元後226〜651年)。この時代の地中海周辺は「ローマ帝国」の領域であったが、「パルティア」から「ササン朝ペルシャ」はローマの「ライバル」であり、度重なる戦いがあったが負けなかった。
 ところが、紀元後600年代にサウジ・アラビアのメッカから「アラブ・イスラーム」が勃興してあっという間に中東からアフリカ、中央アジアへと拡大し、このペルシャもそれに飲み込まれていく(651年)。ここからの850年近く、この地方はペルシャ・イラン人にとっては「異民族支配」の時代となる。
 そして、アラブやトルコ、ティムールなどの支配の後、1500年代になってやっと再びイラン人による「サファヴィー朝(1502〜1736年)」が復興するが、この時のイランは「イスラーム(シーア派)」に改宗していた。
 そしてまたもやトルコ系民族・カジュールの支配の後、20世紀になって、現在のイラン人による「パフラビー政権」の形成から「ホメイニ革命」を経て「新生イラン」として今に至っている。





 イランの歴史的文化ということでは、日本にとっては「正倉院」の宝物の多くがペルシャ伝来のものだということがよく知られている。
 宗教面では、後のキリスト教やイスラームの教義に多大の影響を与えた紀元前600年代のアケメネス朝時代からの「ゾロアスター教」がもっとも重要で、日本では「拝火教」などともよばれ、また「風葬・鳥葬」の習慣でも有名になっている。
 また、このイランは中世以降「イスラーム」となっているということではその通りだが、その中でも反主流派である「シーア派」の牙城であることでも有名。現代イラン人の習俗・習慣・生活はこの「シーア派イスラーム」に基づいている。
 また、古代遊牧民族は羊を主要家畜としていたため「毛織物」に対する意識が高く、そこから「絨毯」を発展させていった。ペルシャもその代表的な民族であり、一般に「ペルシャ絨毯」としてよく知られる。





 イランを訪れるということの最大目的は「古代ペルシャの遺構」と「中世のイスラーム文化」の遺構となる。
01 チョガー・ザンビールの「ジッグラト」
【01 チョガー・ザンビールの「ジッグラト」】
ジッグラトとは巨大な基壇をもった「台形塔状の神殿」であり、「メソポタミア文明」のシンボル的建造物である。一見エジプトのピラミッドと似ているが性格は全く異なる。これは紀元前1250年頃、エラム王国の「ウンタシュ・ナピリシャ国王」が建造したものとされ、「インシュシナク神」と「ナピリシャ神」の2神を祭った「神殿塔」となる。
02 ジッグラトの見取り図
【02 ジッグラトの見取り図】
このジッグラトは現存するものの中で最大で、一辺が105メートル、高さは5層で50メートルあったとされるが現在は3層までしか残っていない。通常「メソポタミア文明」は「シュメール、アッカド、バビロニア、アッシリア」等で説明されるが、エラム王国がジッグラトをもっていたということはエラム王国も「メソポタミア文明圏の一つ」と見なせるかもしれない。
03 ジッグラトの遠景
【03 ジッグラトの遠景】
ジッグラトの回りに内壁が巡らされ、それを囲むように中壁があり、さらにその外に外壁があって、ジッグラトを中心とした大きな都市であった。たくさんの神々の神殿があり、
たとえば東にはピニキル神(元来はスーサの地母神、エラム人にとって「神々の偉大な母」とされた。アバドとシャレ神(雨と雷の天空神)。シムトとベレト・アリ神。ナプラテプ8人神などの神殿があった。
04 ジッグラト
【04 ジッグラト】
ジッグラトは正確にその角が東西南北に向いている。従って面は「東南」「東北」「北西」「西南」に向く形となる。遺跡入り口からは東南面を見る形となっている。右手角の指す方角が「東」で、左角が「南」方角を指すこととなる。
05 東南面
【05 東南面】
どの面にもジッグラトに上がる入り口がついているが、少しずつ様相がことなっている。東南面の入り口はあたかも玄関に導くような短い通路状のものが付設されその両脇は何かしら「像」の類が置かれていたような低い台座となっている。
06 入り口
【06 入り口】
このジッグラトは「階段状」となっていて、テラスへと昇って、そこからさらに上のテラスに昇るという形になっていたようである。そのテラスに昇る入り口である。
07 内部
【07 内 部】
入り口を入ってそのまま階段を上るわけではなく、入ったところは通路や部屋状となっており、かんぬきの跡までついている。その使用目的は判然としないが、祭礼で用いるさまざまの物品を収める物置であったか、神官のためのものであったか、そんなところであろう。
08 東北面
【08 東北面】
時計の針と逆方向に回って東北面にでると、その入り口のところに「祭壇の跡」とおぼしき台座の崩れた跡と犠牲獣の血を洗ったのかと推定されるプールと思われる円状の囲いの跡が観察される。そうだとするとこの面が「正面」ということになりそうである。実際、ここからはテヘラン博物館にある「聖牛の張りぼて」が出土している。
09 聖牛の張りぼて
【09 聖牛の張りぼて】
テヘラン博物館に収蔵されている聖牛の張りぼてである。これに楔形文字が書き込まれているとのことであるが判然としない。これはエラム王国の時代のものであろうから「エラム語」ということになるのであろうか。資料に乏しく正確なことが言えない。
10 北西面
【10 北西面】
さらに回って北西面にでてくると、ここには丸い台状のものがある。写真で見られるように人の胸くらいの高さで二重の円座となっている。場所や形状から考えて矢張りこれも「祭壇」の一種かと思われるが、これはむしろジッグラトの回りに置かれている神殿のものかとも思われる。
11 丸い祭壇
【11 丸い祭壇】
つまりこの丸い祭壇が置かれているのは神殿群の前なのであって、ここにはナピリシャ神、イシュニカラブ神(インシュシナク神の伴侶的存在)、キリリシャ神(元来はペルシャ湾沿岸での地母神とされる)の神殿があった。従ってこれらの神殿の祭神の儀礼に使用されたものかとも思われる。ただ、これについても資料が乏しく正確なことが言えない。
12 浄水施設
【12 浄水施設】
人が何か行事をするところには必ず「水」が必要となる。しかもここは聖所であるから「浄水」が必要となるわけで、そうした水を浄化する施設も付設されている。写真で見られるように、水を四角く細い穴を通しそこに濾過施設を作っていたものと思われる。
13 料理台
【13 料理台】
行事をするとなると、そこでは「祭りごと」について回る「料理」をつくる場が必要となるわけで、あるいは料理とまでは行かなくても「お湯」くらいは求められたろうから、この得たいの知れない施設は「かまど」の並びであった可能性がある。大がかりな行事だとたくさんの料理が必要だからこれくらいのかまどがあっても良い。
14 パサルガダエの「キュロス大王の墓」
【14 パサルガダエの「キュロス大王の墓」】
「サルガダエ」は紀元前500年代のアケメネス朝ペルシャ建国の王である「キュロス大王の都」である。ここに「キュロス大王の墓」があり、世界遺産指定の本体となる。ただ、この墓の形状は後のアケメネス朝の王たちの墳墓とは全く形式が異なるのだが、アレクサンドロス大王がここを訪れたというローマの歴史家の記述に基づいて「キュロス大王の墓」と認定されている。
15 パサルガダエの都
【15 パサルガダエの都】
都市の建造は紀元前546年とされている。キュロス大王の死後は都としての機能はなくなったが「新王即位の大礼」を行う都として機能していたとされる。場所は「ペルセポリス」の北東43キロのところにあり、両者は連動していたと思われ、それらは建築プランなどに明白に現れておりここが「ペルセポリス」の原型と言える。
16 王宮
【16 王 宮】
現全体的には1000坪ほどあったとされる王宮だが、その一部が敷石と並んだ柱の下部という形で観察される。往時はすばらしい宮殿であったことが忍ばれる。この王宮のゲートに楔形文字で「アケメネスのキュロス」と読める文字が刻まれているが、ただし、はじめからのものか後代のものか不明とされる。もっとも、記事自体は正しいことはだれも疑わない。
17 謁見の間
【17 謁見の間】
ここには柱の一本がかなり高く残っているのでそれと分かる。建設当時はこうした柱が林立していたわけであり、ペルセポリスの謁見の間よりは小さめだが立派なものだったことは遺構から判断できる。要するに、ペルセポリスで見られる「アパダーナ(謁見の間)」の原型ということで良い。
18 石柱に刻まれたレリーフ
【18 石柱に刻まれたレリーフ】
ここの浮き彫り彫刻(レリーフ)は訳が分からない。写真で見られるようにこれは「人間の足と魚の合体と牛の足」が並んでいるものである。あえてこじつけてみると、「牛」というのは「豊穣のシンボル」であることから考え「陸の豊穣」、そうだとすると「魚」は海の富を表し、それを従えている「ペルシャ人」ということにもなるのであろうか。
19 「翼をもった男」
【19 「翼をもった男」】
ゲスト・ハウスのところにある浮き彫りだがこれも訳が分からない。あえて憶測してみると、男の衣装は先駆的民族の「エラム王国的」、羽根は征服した地方の「アッシリア的」と見られなくもない。また、男のかぶり物は「エジプト的」と見える。ただ、ペルシャのエジプト征服はキュロスを継いだ「カンビュセス王」の時代だから当時はまだ「異国」であり、従って良く分からない。
20 「ソロモンの牢獄」と言われる
「ゾロアスター教の神殿」
【20 「ソロモンの牢獄」と言われる
「ゾロアスター教の神殿」】
「ソロモンの牢獄」というのはアラブの侵略時に破壊を怖れたペルシャ人がそう名付けたとも言われ、本体は「ゾロアスター教の神殿」かとされている。諸説があるが、ゾロアスター教は当時からペルシャの国教としての役割を果たしておりペルセポリスにもたくさんの彫刻がある。従って、ゾロアスター教の神殿があって当然なのでそのように同定されている。
21 スーサ
【21 スーサ】
世界遺産ではないが「スーサ」は「エラム王国」の時代から首都とされ「ジッグラト」まだあったと古文献に記されている(痕跡も未発見)。そしてアケメネス王朝の時代にはここから小アジアの「サルディス」まで延々と「高速道路」が通されていたことで歴史的に有名となっている。その「王の道」は111の宿場を持ち、駅伝となり、急ぐ時は早馬で10日もかからなかった。
22 スーサの遺跡
【22 スーサの遺跡】
全体的に遺物は乏しかったようだが、最悪なのは発掘したフランスがここを滅茶苦茶にしてしまったことで、遠目に見られるようにアクロポリスに「城状の巨大な建物」を立ててしまいそこを永久に破壊してしまったことに典型的に現れている。もちろん遺物の大半はフランスに略奪されてしまったのはいうまでもない。
23 馬の柱頭
【23 馬の柱頭】
スーサでたった一つだけ遺跡内で見られる「まともな遺物」となる。柱の上部に据えられ「梁」を受けた「梁受けの柱頭」で、ペルセポリスにたくさん見られる。記録では立派な都であったことは分かっているのだが、「異民族侵略の歴史」と「考古学に名を借りた略奪」とでこんなにもなってしまうという好例となる。
24 兵士のレリーフ
【24 兵士のレリーフ】
普通フランスに持って行かれたもので紹介されることの多い遺物だが、幸いにしてスーサに残ったものである。スーサ博物館に収蔵されているが、当時の兵士の姿を描いたもので採釉レンガによる「ペルシャ美術」の典型的な様式を示すものとして知られる。
25 「有翼獣のレリーフ」
【25 「有翼獣のレリーフ」】
この類も一般にフランスに持って行かれたもので紹介される。ペルシャ美術の様式を示すことはもちろんだが、アッシリアの影響も伺える。いずれにせよ、ペルシャ美術の典型として知っておいて良いものである。
26 ペルセポリス
【26 ペルセポリス】
「ペルセポリス」というのはギリシャ人の呼んだ命名で「ペルシャ人の都」という意味である。イランでは「タフテ・ジャムシード」と呼ばれ、「ジャムシード王の玉座」という意味となる。「ジュムシード」というのはペルシャ神話・伝承に登場する「伝説の王」であり、「栄光の王」を意味したと言って良い。つまりここは「栄光の王の都」という意味合いをもってそう呼んだのであろう。
27 ペルセポリスの夜景
【27 ペルセポリスの夜景】
この都は紀元前520年、アケメネス朝ペルシャ第三代の王「ダレイオス大王」によって着工され、その死後「クセルクセス」によって一応の完成を見たとされるが、この都自体の造営目的がはっきりしていないために完成しているのかどうか不明とされる。崩壊は紀元前331年のアレクサンドロス大王の東征にともなってとされるが細部の真相はやはり不明。
28 大階段
【28 大階段】
この都は「巨大な台座(450×300×最大高さ20)」の上に建造されているため階段で上るようになっている。階段は「西面」にある。ここは一見して「モニュメント的宮殿」としか見えず、首都的な整備が見られないというところから一般には「新年祭のための聖都」と紹介されることが多い。しかし行政的な機能や居住区もあったという説もあり、今以て定説はない。今後の発掘・研究が望まれる。
29 クセルクセス門と儀仗兵の通路
【29 クセルクセス門と儀仗兵の通路】
階段を上がったところに「クセルクセス門」があり、天井こそ落ちてなくなっているが、門柱は残っており、前面(つまり西面)の二本には「牡牛」の像が付設されている。像はギリシャのようなリアリズムではなく様式性をもっており、どちらかというと幾何学的と言える。
30 人面有翼獣
【30 人面有翼獣】
門を入って振り返った門柱の東面には「人面有翼獣」の像が二体門柱の前に据えられている。「獣」の方は「牡牛」と見えるが、牛をモチーフとした像は矢張り多い。一般に「牛」は豊穣のシンボルとされるので、それが関係しているのかも知れない。
31 「ホマ」の像の柱頭の梁受け
【31 「ホマ」の像の柱頭の梁受け】
ここから通路が東に延びており、それを通常「儀仗兵の通路」と呼んでいる。その通路の左手に「ホマの梁受け柱頭」が二つ放置されている。本来何処にあったものかは不明だが、用途は柱の上部に置かれて梁を受ける台座であり「柱頭」となる。ちなみに「ホマ」というのはイラン航空のシンボルマークとなっているように、イランを代表する鳥となる。
32 玉座担ぎのレリーフ
【32 玉座担ぎのレリーフ】
儀仗兵の通路をすぎて右手(つまり南になる)に門が建造される計画だったが未完成のままに終わっている。柱の台座や「牡牛の頭部の柱頭」などが散乱しているが。ここに「玉座担ぎ」のレリーフも見られる。これはここでたくさん見ることになる同一モチーフのものの一つとなる。28の州を表す人々に担がれたペルシャ王というわけである。
33 百柱の間
【33 百柱の間】
ここは70メートル四方の空間に文字通りかつては百本の柱が立ち並んでいたのだが(10×10)、現在はその柱の台座や石柱の下部が残るのみ。用途は財宝などの展示に使われたのかと推定されている。ここの壁には「牡牛と戦う王」のレリーフや「玉座担ぎのレリーフ」があり、このようにペルセポリスはレリーフが非常に多い。
34 牛を襲うライオンのレリーフ
【34 牛を襲うライオンのレリーフ】
百柱の間の右手(つまり西側)に「アパダーナ」があるのだが、そこに上がるため南面に行くとそこに「牡牛を襲うライオン」の浮き彫りがある。この浮き彫りのモチーフについていろいろ言われているがもちろんどれもこれも推測にしか過ぎず、こういったものは自分でいろいろ憶測しても良い。
35 アパダーナ(謁見の間)の東階段のレリーフ
【35 アパダーナ(謁見の間)の東階段のレリーフ】
百柱の間の西がここの中心となる「謁見の間」となり、そこに上がる「階段」が北と東に設置されている。東階段のレリーフが特に重要とされ、現在は保護のために屋根がかけられている。ここに23の属州からの使者が貢ぎ物を捧げて行進している姿が部族ごとに一つ一つ描かれている。
36 アッシリア人のレリーフ
【36 アッシリア人のレリーフ】
属州からの貢ぎ物を運ぶ使者たちのレリーフで一番目につくのがこれで、「アッシリアからの使者」とされる。アッシリアは現在のイラク地方となるが遊牧が盛んであった。羊が特産というのはうなずける。一つ一つの属州は糸杉のレリーフによって区分されている。
37 アパダーナ(謁見の間)
【37 アパダーナ(謁見の間)】
アパダーナは現在12本の柱がそびえているのですぐ分かる。昔日は36本と算定される。柱の高さは19メートルとなる。アパダーナ全体は高さ2.6メートルくらいの基壇の上にあり、かつての壮麗さをよく伺わせている。現在屋根はないが、ここはレバノン杉で作られた屋根が葺かれていたとされる。
38 タチャラ(ダレイオス一世の宮殿)
【38 タチャラ(ダレイオス一世の宮殿)】
アパダーナの南に位置している宮殿がこの遺跡の中では一番残存状態が良い。一般にダレイオス大王の「冬の宮殿」と言われるが、よく分からない。王はそんな具合に季節ごとに移動していたのだろうか? イランの地形は移動条件としてはひどく悪く、移動中は政治・経済・軍事に専念できないから統治に支障をきたさなかったのかとも思う。
39 ゾロアスターのレリーフ
【39 ゾロアスターのレリーフ】
左右に拡げられた翼の真ん中に「主神アフラ・マズタ」が描かれるのがゾロアスター教の様式図となる。ゾロアスターとは預言者の名前で、善悪二元論で有名だが、火を聖なるものとして礼拝することから日本では「拝火教」とも言われる。当時から国教として扱われていたことがこうしたレリーフから理解できる。このレリーフはペルセポリスにやたらに多い。
40 アルタクセルクセス二世の王墓
【40 アルタクセルクセス二世の王墓】
東側は「ラフマト山」となり、その中腹にある。岩を削って作ったもので、一段高いテラスの奧が墓所となっている。例によって属州に担がれた王のレリーフとゾロアスター教の主神「アフラ・マズタ」が描かれている。本来王族の墓は近くの「ナグシェ・ロスタム」に作られていたのだが、空間的余裕がなくなったせいであろう、「アルタクセルクセス二世」以降はここに葬られた。
41 「ナグシェ・ロスタム」
【41 「ナグシェ・ロスタム」】
ペルセポリスから北に6キロほど行ったところに「アケメネス朝の王族の墓」が並んで作られている。岩盤を掘った四つの墳墓があるが、それが誰の墳墓なのか定説がなく、紹介する本によってその名前が異なっている。墓の主人は「クセルクセス一世」「ダレイオス一世」「アルタクセルクセス二世」「ダレイオス二世」とされる。
42 ダレイオス一世の墳墓
【42 ダレイオス一世の墳墓】
「ダレイオス一世」の墳墓だけはどの紹介本も一致しており、左から二番目となる。また墳墓の大きさを下にいる人間で確認してもらいたい。ちなみに「ロスタム」というのはペルシャ神話・伝承に伝えられる英雄の名前で、艱難辛苦を忍んで祖国を守ることに専心した英雄であり、王たちはその英雄にあやかってここに葬られたものであろう。
43 エラム王国時代のレリーフ
【43 エラム王国時代のレリーフ】
ここはペルシャ時代からのものではなく、先行するエラム王国の時代からの聖地であったらしいことがこのレリーフから判断できる。つまり、スカート状のものを付けているのがエラム王国の衣装であり、そうした人物が刻まれているということは何らかの重要な意味がある場所であったということである。
44 シャープール一世のレリーフ
【44 シャープール一世のレリーフ】
後世のササン朝の「シャープール一世」がローマ皇帝「ヴァレリアヌス」や「フィリップス」を破った折りの情景がレリーフとして刻まれており、馬上のシャープール一世に対して、手を捕まれたり(多分、捕虜にされたヴァレリアヌス)ひざまずいているローマ皇帝(多分、莫大な賠償金を払わされたフィリップス)が描かれている。ダレイオス一世の墳墓の向かって右側にある。
45 アルデシール一世
【45 アルデシール一世】
さらに南にはササン朝の建国の王である「アルデシール一世」の「騎馬叙任式の図」のレリーフもある。ゾロアスター教の主神「アフラ・マズタ」より統治権を渡されている図柄だが、こんな具合にササン朝の建国と確立の二人の王は自分たちを「ダレイオスたちここに眠るアケメネス朝の王たちの後継者」と自認していたことがわかる。
46 ゾロアスター教の神殿
【46 ゾロアスター教の神殿】
ここには以上のレリーフの他に一つの建物が残っており、これについては諸説があるが一般には「ゾロアスター教の神殿」とされている。ゾロアスター教を国教としていた王たちの聖地・墳墓の場所にゾロアスター神殿があって当然で、無い方が変という理由からだろう。ただし、物証がないため様々の説が為される余地もある。
47 ナグシェ・ラジャブ
【47 ナグシェ・ラジャブ】
ペルセポリスとナグシェ・ロスタムの中間あたりに「ナグシェ・ラジャブ」と呼ばれる聖地があり、ササン朝の「騎馬のシャープール一世とそれに従う臣下たち」「ゾロアスター教の聖職者カルティール」「アルデシール一世の叙任」「シャープール一世の騎馬叙任」とされる図柄が刻まれている。これは「シャープール一世の騎馬叙任の図」である。
48 アルデシールの叙任
【48 アルデシールの叙任】
アルデシール一世が「アフラ・マズタ」から統治権を授かっている図柄となる。さて、この「ラグシェ・ラジャブ」そして「ナグシェ・ロスタム」と「ペルセポリス」とは完全に相関しており、さらに近くのキュロスの都「パサメガダエ」も加わり、この地方、つまり「ファールス州」が古代ペルシャの「中枢地区」であったことが容易に見て取れることになる。
49 シューシュタルの水利施設
【49 シューシュタルの水利施設】
アケメネス朝にまで遡る水利施設で最近世界遺産指定された。世界最古の本格的水利施設となる。ペルシャは砂漠地帯が多くそのためか「水」に対する姿勢が強く、ゾロアスター教でも「水の女神アナーヒター」は「主神アフラ・マズタ」に並ぶ女神とされていた。そうした姿勢がこうした施設を開発させたと言える。
50 見学に来ている女子学生
【50 見学に来ている女子学生】
イスラーム圏は女子教育が殆ど為されない「男女差別国家・非民主国家」であるといった風評がよく流されるのだが、国にもよるが大半の国家はそんなことはなく、現代のイランでも女子に対する教育は盛んに行われていることが各所で見られる。特に世界遺産遺構の場所では必ず目にした。ここでも先生に連れられた女子学生が一緒懸命に勉強していた。
51 ガナート
【51 ガナート】
ペルシャで「水」と言えば「ガナート」と呼ばれる施設が有名である。「水路」のことなのだが、水路を陸上に引いたのでは蒸発してしまうので、地下に通して上から「穴」を開けてくみ出すという仕掛けのものである。モグラの穴のように見えるのがそれである。現代は水道の発達で廃れてしまっているが、それでも地方によって見ることができる。
52 ガナートの終点の果樹園
【52 ガナートの終点の果樹園】
あるガナートをたどった終点はきれいな水の池となっていて、そこら一帯が果樹園となっていた。こうした工夫でペルシャは農業の振興を計ってきたと言える。ただし、ガナートの終点は、普通は地下水槽となっていてそこにドーム状の風採り塔(バード・ギールと呼んでいる)をかぶせて風通しをよくして蒸発を防ぐ工夫となっている。
53 風採り塔(バード・ギール)
【53 風採り塔(バード・ギール)】
ガナートの上に立てられた「風採り塔(バード・ギール)」は大小さまざまあるが、これは大きなものの代表的なもので、ヤズトの町に見られる。ヤズト地方はまだこの風採り塔がたくさん見られ、知らないと何だろうと思うような施設であるが、独特の雰囲気をもっているので、この地方へ来たら観察して歩くと良い。
54 ヤズドの「沈黙の塔」
【54 ヤズドの「沈黙の塔」】
ゾロアスター教の現代にまで続く聖地は「ヤズド」となる。ここに「沈黙の塔」と呼ばれる塔が現存しているが「風葬・鳥葬」が行われていたところである。ゾロアスター教では死体には穢れがついているとされ、その穢れが聖なる「火」や「大地」に染まないように「風にさらし、鳥がついばむに任せた」のであった。70年くらい前までは現役だったが現代は使用していない。
55 沈黙の塔の内部
【55 沈黙の塔の内部】
沈黙の塔での埋葬には細かなしきたりがあるのだが、最終的に「骨だけ」となったら真ん中に空いている穴に落として始末した。こうした埋葬に関わるのは特殊な人だけであり、一般人はここに立ち入ることは許されなかった。葬儀の儀礼そのものは塔の麓にある施設で行われた。
56 ヤズドのゾロアスター寺院「アーテシュキャデ」
【56 ヤズドのゾロアスター寺院「アーテシュキャデ」】
ヤズドにゾロアスター教の、仏教式に言えば「総本山」がある。正面にペルセポリスでやたらと見た「左右に翼を拡げた中央に座す主神アフラ・マズタ」の姿が掲げられている。ゾロアスター教は今日まで生きている宗教であり、14〜5万の信者を持つと言われる。ただし、多くはアラブ・イスラームの侵攻に伴ってイランを逃れておりイランでは数万とされている。
57 ゾロアスター教の「聖なる火」
【57 ゾロアスター教の「聖なる火」】
ゾロアスター教は、日本で「拝火教」とも呼ばれるように「火に対する礼拝」が有名である。古代世界では「火」が聖なるものとされるのはギリシャ・ローマでの「ヘスティア・ヴェスタ」をみるまでもなく一般的だが、ゾロアスター教ではそれを強く意識化したと言える。ここの火は絶えることなく燃え続ける「永遠の聖なる火」となる。
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