1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
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11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
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25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
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27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

9.

アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」

アゴラ。 ヘパイストス神殿。 アゴラ博物館。 ディオニュソス劇場。 アスクレペイオン。 イロディス・アッティコスの音楽堂。 パナシナイコ競技場。 ゼウス神殿。 民会場。 ケラメイコス。


■古代アテナイ(アテネ)の遺構
古代アテナイ(アテネ)の遺構地図-小 拡大地図を見る>>
ギリシャ本土、アテネ。
世界遺産指定は「アクロポリス」となっているのだが、それに付随する遺構がたくさんある。それらは一つ一つ「世界遺産」とはされていないようだが、それに準ずるものとして紹介する。アクロポリス北麓の「アゴラ」を中心に、南麓の「ディオニュソス劇場」「アスクレピオス神域」、さらに「古代スタディアム」など、そしてアクロポリスの西に「古代民会場」さらに墓場「ケラメイコス」など。
アクロポリスと並んで古代民主制下のギリシャの精神を伝えるもの。
紀元前400年代、およびその前後。
古典期ギリシャのアテナイ人
 古代アテナイは、都市の中央にあるアクロポリスの東西南北にさまざまの遺構を残している。もっとも重要なのはアクロポリス北麓の「アゴラ」で、アゴラとは市民の「集会広場」を意味し、政治・経済の中枢であり、教育・談話・遊びの場でもあった。したがって、このアゴラはどんな都市にも存在し、市民生活の中心となっていた。私たちが知るアテナイの偉人たち、ソクラテスやプラトンなどがたむろしていた場所となる。
 アクロポリスの南麓は北麓についで重要で、ここに観察されるのは「ディオニュソス劇場」となり、ここでギリシャ悲喜劇が上演されていた。他に後代の「医神アスクレピオス神域(要するに病院)」や「エウメノスのストア」「ヘロディス・アッティコスの音楽堂」などがある。
 アクロポリスの西のプニュクスの丘には「古代民会場」の跡が残っている。民会場は歴史的に変遷しているが、いずれにせよここは古代民主制の足跡を強く見せている。
 北西には墓場「ケラメイコス」の遺構がある。古代ギリシャは死者を穢れなどとはせず、日常的に交流しており、主要な門の外に墓場を作っていた。ここに「デュプロン門」があり、主要門となっていた。ここからプラトンの学園「アカデメイア」への道が続いていた。
 アクロポリスの東は「シンタグマ広場」など現在のアテネの町の中枢となっているが、古代にはアリストテレスの学園「リュケイオン」があったことが特筆される。
 古代ギリシャの中心であった都市アテナイにはいろいろあった。政治・経済の中枢建物、集会場や劇場や病院、音楽堂や議会、墓場まである。これが古代ギリシャ心の社会であり生活であった。これらを訪ねて古代ギリシャ人の生活を彷彿とさせてみよう。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
01 アクロポリスからアゴラへの道にて
【01 アクロポリスからアゴラへの道にて】
古代アテネは盛期ギリシャの代表的な都市として、世界遺産に指定されているアクロポリス以外にもさまざまの重要な遺構を残している。アクロポリスの北の麓に広がる「アゴラ」もそのうちの一つで、写真はそのアクロポリスから下ってアゴラに入るところ。
02 アゴラ全景
【02 アゴラ全景】
アクロポリスから北麓に広がるアゴラを俯瞰したもの。右手の赤茶色の屋根を持った長い建物はヘレニズム期の「アッタロスのストア」と呼ばれる廊下状の長い列柱廊で、中央はローマ時代に作られたアグリッパの音楽堂、左手の奥に盛期ギリシャ時代の「ヘパイストス神殿」が見える。
03 パンアテナイア際の道からアクロポリス
【03 パンアテナイア際の道からアクロポリス】
アゴラにあって、左手にアッタロスのストアを見て、正面にアクロポリスの北面を望んでいる。アクロポリスに向かう道路があるが、これは古代からの道である。古代アテネの国家を挙げての最大の祭りであったパンアテナイア祭の時には、大々的な行列がここを通って行った。この道には古代の時代の溝なども現存している。
04 アゴラからアクロポリス
【04 アゴラからアクロポリス】
アゴラからアクロポリス方面を向いているが、手前の瓦礫の跡は盛期の時代の南ストアの跡となる。ソクラテスなどが活動していた時代のアゴラには「アッタロスのストア」も「アグリッパの音楽堂」も存在せず、この南ストアが人々の集う場所であったと推定される。眼を挙げると、古代のアテネの人々の何時も見ていた光景となる。
05 アゴラの様相
【05 アゴラの様相】
アゴラの西側には「ゼウスのストア」とか「アポロン神殿」「12神の祭壇」「評議会場」など主要な建物が並んでいた。写真はそれらの建物の土台遺構を通してアクロポリスを望んでいる。
06 アグリッパの音楽堂
【06 アグリッパの音楽堂】
ローマ時代になってここは一変し、中央広場に「アグリッパの音楽堂」などの建造物がたてられてしまう。これは紀元前15年くらいに建造されたもので収容数1000人という大きなものであった。紀元後二世紀半ばに壊れて改修された時に写真に見る「トリトンと巨人の像」が作られた。その後の改修の時、入り口の飾りにされた。
07 アゴラのアッタロスのストア
【07 アゴラのアッタロスのストア】
ローマ時代のアグリッパの音楽堂の遺構を通してアッタロスのストア方面をみている。盛期ギリシャの時代には、アグリッパの音楽堂が建っている空間は「中央広場」として恒久的な建造物は禁止され、さまざまの人々の集う空間で、出店などがにぎわっていた筈。
08 アッタロスのストア
【08 アッタロスのストア】
「アッタロスのストア」はヘレニズム期の紀元前150年頃、アテネに学んでいた小アジアのペルガモン王「アッタロス二世」が寄贈したもので、近代に古代にあったままに再建された。長さ約115メートル、幅20メートルの二階建てという立派なもので、現在は博物館になっているが、「古代ギリシャ人がみていたままの建物」という意味で非常に貴重。
09 ハドリアヌスの像
【09 ハドリアヌスの像】
紀元後100年代のローマ帝国五賢帝の一人である「ハドリアヌスの胸像」であるが、現地に立っている胸像としてひときわ眼を引く。ハドリアヌスはギリシャ文化の再興に尽くした皇帝で、各地にその足跡を残している。アテネには他に「ハドリアヌスの門」がある。
10 評議会場
【10 評議会場】
アゴラ西側には公共的な施設が並び、ここは当時の政治の中枢であった。建物遺構は時代によっての改築が繰り返されており、用途や推移がはっきりしないものもあって現在もまだ研究途上にある。その背後にはヘパイストスの神殿が見える。
11 遠くヘパイストス神殿
【11 遠くヘパイストス神殿】
南ストアあたりからヘパイストス神殿を望んでいる。ヘパイストス神殿はあまり人気がないのだが、古代の神殿でもっとも保存状態の良いものとして非常に貴重で、また見栄えが良くないという一般的評価もこの写真で見る限りそんなに当たってはいないと言える。
12 ヘパイストス神殿
【12 ヘパイストス神殿】
ヘパイストス神殿を遠目から見ている。ギリシャ神殿の本来の姿がこういう角度からオリジナルで見ることのできる唯一のもの。建造時期はパルテノン神殿と同様、紀元前400年代となる。大きさは約32×14メートルで、柱は正面6本、側面13本という盛期ギリシャ時代のもっとも基本的・典型的な神殿となっている。
13 ヘパイストス神殿
【13 ヘパイストス神殿】
この神殿にはレリーフにアテネの伝説的王「テセウス」が彫刻されていたため、近代人は伝承にある「テセウスの神殿」と考えたが、現在では発掘などの結果それは誤解で、実際は古代のパウサニアスの証言通り鍛冶の神ヘパイストス神殿(同じく制作にかかわる女神アテネも合祀されていたらしい)と理解されている。
14 ソクラテスの牢獄と
【14 ソクラテスの牢獄】
ソクラテスが、無実のまま民衆裁判によって死刑に処せられたのは有名だが、そのソクラテスは祭礼の時期に掛かっていたため一月くらい牢獄で暮らすはめになった。その牢獄の跡と思われる遺構がアゴラの南西に発掘されている。ここはプラトンの伝える牢獄の仕様と似ており、また小さな毒薬瓶とおぼしきものも発掘されている。
15 アッタロスのストア内部の博物館
【15 アッタロスのストア内部の博物館】
アッタロスのストアは現在博物館になっており、その柱廊部分にはここで発掘された彫刻群が展示されている。多くは破損が激しく首がとれてしまっているものが大半。
16 柱頭とその復元図
【16 柱頭とその復元図】
ギリシャの柱の様式には三つがあるが、ほとんどが柱の上に四角い板状のものを持つ「ドリス式」と写真にあるような両脇に渦巻き文様を持つ「イオニア式」となる。これらの柱は彩色されていたのであって、その本来の彩色の様子を復元図で示している。
17 彫像
【17 彫像】
アクロポリス側から見てストアの一番奥に置かれている「飛翔する勝利の女神ニケ」の像。この博物館の重要彫刻として、アポロン・パトロオスの像(博物館入り口の右手にある)が紹介されることが多いが、ニケの像の方が印象的。
18 抽選器
【18 抽選器】
古代ギリシャでは役人も裁判役もクジで決めていた。これは抽選器で、縦横に並んでいる細長い穴に自分の名前を書いたカードを任意に差し入れておく。そうして端に設置されている筒状のところに白玉と黒玉を混ぜて流し込むと、その球は名前の横並びの列を「白の列」とか「黒の列」と示し、こうして列の全員があたりとはずれとなる仕組み。
19 陶片追放の陶片
【19 陶片追放の陶片】
古代アテネでは、独裁的な人物が出現することを警戒し、そうした怖れがある者を陶片に書いて投票し、一定数の者を追放するシステムがあった。しかしこれはしばしば悪用された。写真の上段は、当時から「正義の人」と讃えられた「アリステイデス」の名前があり、下段にはサラミスの海戦でアテナイを存亡の危機から救った「テミストクレス」の名前がある。
20 裁判の投票道具
【20 裁判の投票道具】
裁判での白黒は投票で決められたが、その投票は石を用いたり、あるいは後代はコマの様な投票具を用いた。これに二種類があり、一つは軸に穴が空いており、一つは空いていない。裁判役はその軸の部分に指を当ててこの投票具を所定のビンに入れたが、そうすることで有罪にしたのか無罪にしたのか誰も分からないという仕組みになっていた。
21 ディオニュソス劇場にて
【21 ディオニュソス劇場にて】
場所が変わって、ここはアクロポリスの南麓になる。この南麓でもっとも重要なのがこの「ディオニュソスの劇場」となる。オリジナルは紀元前六世紀にまで遡るが、現在眼にするのはローマ期に改修されたもので、完全にローマ劇場の様相を呈している。座席は、神官や特別に業績のあった人向けの「特別席」がしつらえられていた。
22 ディオニユソス劇場
【22 ディオニユソス劇場】
円形の「オルケストラ」の部分はローマ式に半円となり、モザイク模様がほどこされている。またローマ劇場の特徴となるが、オルケストラと観覧席の間には「壁」がしつらえられた。この壁については、内部に水を張って模擬海戦をしたという説がある。
23 シレノスの像
【23 シレノスの像】
舞台部分の下に施されているローマ時代の「演劇の神ディオニュソスにまつわるレリーフ」。中央で目立っているのはディオニユソスの従者「シレノス」の像。
24 アクロポリスからの劇場
【24 アクロポリスからの劇場】
座席はギリシャ時代のものが踏襲されている筈だが、現在は上部がほとんど失われている。しかし、写真はアクロポリスの上からのものであるが、その城壁のところまで座席があったことが確認できる。収容人数は17000ほどかと推定されている。
25 アクロポリスからアスクレペイオン
【25 アクロポリスからアスクレペイオン】
アクロポリスの上から劇場の隣の「医神アスクレピオスの神域」を見ている。この神域の由来は古くはなく、ペロポネソス戦争が始まってまもなく疫病がアテネを襲って指導者ペリクレスまで倒れるに及んで、ニキアスの和平で一時的休戦となった時に、一人の市民の提案で医神アスクレピオスがエピダウロスから勧請されたものである。
26 アスクレペイオン
【26 アスクレペイオン】
「アスクレピオスの神域」とは要するに「病院」を意味した。その病院がここに建造されたのは、ここの岩盤から泉がわいていたことによると考えられる。その跡とおぼしきあたりと、患者が寝泊まりしたと考えられる列柱の館跡となる。
27 エウメノスのストア
【27 エウメノスのストア】
ディオニュソスの劇場から、アスクレピオスの神域の南側を横切って西に延びていの遺構は「ウメノスのストア」である。これはヘレニズム期になってのもので紀元前二世紀前半の建造となる。寄進したエウメノス二世はペルガモンの王であり、アゴラにストアを寄進したアッタロスの兄にあたる。その死後にアッタロス二世が王位を継いだ。
28 イロディス・アッティコスの音楽堂
【28 ヘロディス・アッティコスの音楽堂】
ローマ期のもので「ヘロディス・アッティコスの音楽堂」という名前で知られる。マラトン出身のギリシャ人であるが、ローマ帝国の「コンスル」まで努めた有力者で大富豪でもあった。その妻が紀元後の160年頃に亡くなったのを悼み、アクロポリス南麓、エウメノスのストアの西側にこの音楽堂を妻の記念に建造・寄進した。これ以外にもたくさんの寄進をしている。
29 現役の音楽堂
【29 現役の音楽堂】
この音楽堂は、現在修復されて夏には現役の劇場としてさまざまの催しが開催されている。現在屋根がないが、オリジナルは屋根がふかれており大量のレバノン杉が使われていたという。屋根を支える「柱」は内部に立てられず、柱なしに建造した建築技術は相当に高度。
30 パナシナイコ競技場とにて
【30 パナシナイコ競技場にて】
場所変わり、「パナシナイコ競技場」に居る。パナシナイコというのは古代の「パンアテナイア祭」の現代発音となる。この祭りはアテネでは古くから行われ、当初その会場はアゴラであったようだが、紀元前330年頃現在のところに競技場が作られた。
31 パナシナイコ競技場
【31 パナシナイコ競技場】
紀元後140年頃、ヘロディス・アッティコスの音楽堂の寄進者であるアッティコスが、ここも大量の大理石で改修し素晴らしい競技場にした。収容数5万と言われる。ここが有名なのは近代オリンピックの第一回がここで行われたからで、そのとき埋もれていたこの競技場跡を、愛国の富豪が発掘し今見るような素晴らしいものに復元した。
32 オリンピック聖火
【32 オリンピック聖火】
現代のオリンピックにさいしてはオリンピアで聖火が採られ、ここに保存されて開催国へと向かっていく。この聖火はアテネオリンピックの時のもの。
33 ゼウス神殿からアクロポリス
【33 ゼウス神殿からアクロポリス】
場所が変わり、ここはアクロポリスの南東、ちょうど競技場との中間あたりに位置する「ゼウス神殿」である。正式には「オリュンペイオン」と呼ぶ。この神殿は紀元前6世紀に建造に取りかかられたのだが、中断が相次いで、結局紀元後の132年にローマ皇帝ハドリアヌスの手によって完成した。そのため建築様式はローマ的となっている。
34 ゼウス神殿
【34 ゼウス神殿】
この神殿は、約110×44メートルというギリシャ本土最大の大きさを誇る。柱は104本あった筈だが、現在は15本しか残っていない。柱の様式はローマ期のものがほとんどそうであるようにコリント式となっている(初期の計画ではドリス式であった筈)。
往時は柱の森のようであったことは現在でも面影はある。
35 民会場にて
【35 民会場にて】
場所が変わり、アクロポリスの西にある古代の民会場に来ている。古代ギリシャが「民主制」であったことは良く知られているが、それは「直接民主制」で、全ての市民(男性で成人した者)が参集して議論するというものであった。そのため広い「民衆会議場」が必要であり、アテネではここにその集会場が作られていた。
36 民会場
【36 民会場】
民会場はアクロポリスの西に対面する小高い丘プニュクスの丘に作られ、ここからアゴラに通じる道も現在確認できる。造りは何度かの改修を経ているが、紀元前5世紀末には確立したいたかと考えられる。ただし現在眼にするのは前4世紀後半の改修を経たもの。
37 民会場の演台
【37 民会場の演台】
紀元前3世紀以降は、民会の会場はディオニユソス劇場の方に移されここは廃墟への道を辿っていったようである。しかし、ギリシャ弁論術が最高度に達した時代の弁論家イソクラテス(前436年〜338年)やデモステネス(前384年〜322年)等の弁論はここで火花を散らしていたのであり、その演台に立つと彼らの思いが甦ってくる気がする。
38 ケラメイコス
【38 ケラメイコス】
ケラメイコスというのは古代アテネの墓場のあったところであり、アクロポリスの北西に当たる。古代ギリシャでは、死者は日本のように忌み嫌われたりすることはなく、日常的に交流している相手であった。従って、城壁の外の大きな道の傍らに作られていることが多かった。
39 ケラメイコスからアクロポリス
【39 ケラメイコスからアクロポリス】
ケラメイコスからアクロポリスを見ているが、ここに「デュプロン門」があった。この門が言ってみれば古代アテネの「正面玄関」といったところであった。実際、パンアテナイア祭の行列はここから出発してここへ帰ってきたのである。また、プラトンの学園「アカデメイア」はここから出たすぐの郊外にあり、市内の学生はここを通って通ったのであった。
40 ケラメイコスの墓碑
【40 ケラメイコスの墓碑】
しかし、ここは「墓場」であるから「墓碑」がたくさん建ち並び、往時は壮大なものであった。美術的に有名なものもたくさんあり、写真は「リュサニアス一族の墓」と言われ、騎馬の戦士はリュサニアスの息子デクシレオスのものである(これはレプリカで本物は博物館にある)。死者を悼みつつ讃える親族の悲しみも見える。
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