1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 29. ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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歴史紀行、その1
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歴史紀行、その2
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「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

29.

ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ


ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ地図-小
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 「イラン」は中央アジアに近く、「モロッコ」は北アフリカの西端にある国で互いに遠く離れて居ますが、イスラームの「シーア派」の影響を強く受けているという共通項があります。この章はそうした二つの「ちょっと変わったイスラーム国、イランとモロッコ」を紹介します。

イラン
 
「イラン」は、紀元後600年代に「アラブ・イスラーム」の侵攻にあってその支配下に置かれ、宗教としても「イスラーム」へと改宗していきました。その「アラブ」との融合と確執が中世イランとなりますが、特筆されるのは1500年代の「サファヴィー朝」となります。
 「ティムール朝」の衰退後、ようやくイラン人による
「イスラーム神秘主義集団」としての「サファヴィー朝(1501〜1736)」が建国されていきます。現在にまで続く「イラン人の国家」はここに基盤が据えられました。
 この時この王朝はイラン地方の北西にあって巨大な勢力となっていた「オスマン・トルコ」と対抗しなければならず、そのため「正統派イスラーム」である「スンニ派」に対抗する
「シーア派」をみずからの「国教」に定めて明確に対抗勢力としてのイランを主張していきました。そして君主の称号も「シャー」という伝統的な呼び名を復活させて民族としての団結を計っています。
 この王朝は
「アッバース一世(在位1588〜1629)」の時代に最盛期となり、ホルムズ島から侵略者ポルトガル人を追い払い首都を「イスファハン」に構えて文化的にも興隆していったのでした。
 ところがその後は弱体化してついに1722年には東隣りのアフガン部族が進出してきて首都を乗っ取られたりしています。ようやく1925年に革命を起こし
「イランの近代化」を図っていきます。そして1935年に国名を「イラン」と改めたのでした。
 しかしその後アメリカによって傀儡政権
「パフラヴィー政権」が作られてしまい、利権は王家や一部特権階級さらにアメリカに持って行かれ、こうして民衆の怒りが爆発して、亡命していた「ホメイニ師」の指導により1979年革命となりました。こうして再び「イスラーム政治政体」が復活したのでした。

「モロッコ」
 紀元前の昔
「マウレタニア」と呼ばれた領域はローマ時代に属領とされ、紀元後700年頃東から進出してきた「イスラーム勢力」の影響下に「イスラーム化」していきます。そして700年末に、「現在のモロッコの基盤」となる「イドリス王朝」が形成されたのでした。イドリス王朝は「シーア派」であり、結局やがてモロッコは「スンニ派」になってはいくものの、モロッコ史を通してその影響は隅々まで行き渡っていたのでした。
 その後
「ムラービト朝」「ムハッヒド朝」が形成され、この二つの王朝はイベリア半島のイスラームの主体となっていったことで有名です。
 その後も現住民族「ベルベル人」を主体とした王朝が勢力を拡大していきましたが、1400年代になってイベリア半島をキリスト教徒によって奪われていきます。そうした動乱の中でモロッコの王朝は時には勢力を拡大し、時には衰退し、そして近代のモロッコは
「スペイン、ポルトガル、フランスの侵略の舞台」とされてしまいます。結局「モロッコ」の独立は1956年までかかり、1957年に王国を形成して今日に至っているのでした。
 宗教的には現在のモロッコは「スンニ派」ということになっては居ますが、人々の意識はむしろ
「シーア派」に近く、シーア派に特徴的な「聖人崇拝(「ムーレイ」と呼び、たとえば「ムーレイ・イドリス、聖イドリス」などと呼ばれます。そして各地に「聖人の霊廟」が作られています)」をはじめとして、あるいは「ファティーマ崇拝」など「シーア派色」を強く見せているのでした。
01 イランの女性とのスナップ
【01 イランの女性とのスナップ】
インドの北西に位置する「イラン」は、イスラームの国の中では「反主流のシーア派」なので異端児扱いされ、また、イランは近代史において欧米の侵略を受けていたため「反米的」であり、そのため欧米からは「マイナスのイメージ」を流され、そのため日本人も「イランは危険」などと思っているけれど、実は「イランは親日的」なのであり、それは旅行をしていれば直ぐに分かる。こんな写真、欧米人には絶対取らせてはくれない。
02 イスファハンの「イマーム広場」
【02 イスファハンの「イマーム広場」】
イランのイスラーム文化を代表するところは「イスファハン」である。ここは1500年代からはじまった「サファヴイー朝」の都であり、その五代目の王アッバース一世の名前と共に有名となっている。彼がここを都に定めたのは1597年となる。東西貿易路を制して勢力を拡大したアッヴース一世はここにシンボル的な都を企図して、その中心に壮大な「広場」を建造したのであった。
03 イマーム広場
【03 イマーム広場】
この広場は東西160メートル、南北510メートルという大きなもので、南に「主要マスジェド(モスク)」を置き、北は「商業地」、西に王宮「アリー・ガープ」を配し、東に「王室専用のモスク兼学問所」としての「マスジェド(モスク)・シェイク・ロトフォッラー」を配して、「政治・経済・宗教」が一体化した広場となる。この写真は「マスジェド・シェイク・ロトフォッラー」となる。名前は有名な説教師から取られたもの。
04 アリー・ガープ王宮
【04 アリー・ガープ王宮】
この広場は、昔は「シャー(王)の広場」と呼ばれていたが、近代になって「イマーム広場」と変更された。「イマーム」というのは「シーア派」独特の「指導者にして救世主」を意味する。「シャー」の時代の名残がこの宮殿に見られ、モスクなど宗教関係建造物には絶対に存在しない「女性の絵」などが入り口に見え、「世俗」を見せているのが面白い。
05 マスジェド(モスク)・イマーム
【05 マスジェド(モスク)・イマーム】
「マスジェド」とは「モスク」のことであり「礼拝所」となる。高い二本の塔は「ミナレット」となり礼拝のための呼びかけの塔となるが、この形はイランに独特の形となる。つまり、ミナレットの下部は壁の壁面を上部がアーチ型になるように凹型にして装飾した「エイバン」と呼ばれる独特の建築様式を持ち、そこに「二本の角」のようにミナレットが作られているのである。
06 メリダのローマ遺跡の全体模型
【06 モスクのドーム】
イスラーム建築は、どこの国でも「神を称える」という意味合いで一体に素晴らしい装飾を持っているのだが、もちろん国によってその有り様は異なっている。しかし、とにかく「偶像崇拝の禁止」が徹底しているので、どこにあっても「幾何学的装飾」「デザイン的」なものとなる。イランのそれは「細かな装飾」とその「澄んだ青を基調とした色合い」にその特色が見られる。
07 マスジェドの中庭
【07 マスジェドの中庭】
イランのマスジェドは「内部も外部も」素晴らしい装飾で彩られているのが特徴的である。イラン以外のイスラーム国でのモスクは、「ミナレット」は装飾されるが、一般にはモスクの建物の外部は装飾がないか、入り口周辺だけに施すのが普通である。イランは大規模マスジェドにおいてはモスクの壁一面が「青を基調」に「エイバン」を中心に左右対照的に装飾を施してあることが多く、その装飾性は素晴らしい。
08 マスジェドの内部
【08 マスジェドの内部】
マスジェドの内部の壁面も勿論このように外部装飾と全く変わらないような装飾となっている。壁面に「くぼみ」をつけているのは、イスラームの礼拝堂に共通している「メッカの方角を示すミフラーブ」であり、主要礼拝所から離れた空間にも必ずこの写真のように「ミフラーブ」をほどこしてある。
09 「ミフラーブ」の前の穴
【09 「ミフラーブ」の前の穴】
イラン以外のイスラーム諸国では見たことがないのだが、イランのモスクにはこうした穴空間がほどこされていることがある(補修中のため工事の棒が邪魔だが)。これは礼拝指導者が位置する場所なのだが、要するに「身を低くして礼拝する」ためのものとなる。もちろん礼拝者全員がそうではあるのだが、礼拝指導者はそれをシンボライズしているということなのだろう。
10 礼拝の時の「石」
【10 礼拝の時の「石」】
イスラームの礼拝ではひざまずいて額を床につけるまで深く頭を下げるのだが、イランではその際に「額を受ける石」を用いている。その「石」が入り口のところに箱に一杯入れられ置かれている。熱心な信者は額に「石ダコ」ができているとか聞いた。
11 マスジェド・ジャーミー(金曜モスク)
【11 マスジェド・ジャーミー(金曜モスク)】
イスラームの主要礼拝日は日本的に言えば「金曜」となる。これはユダヤ教的には「安息日の前日」「神の創造の最後の日」ということになるわけで、ユダヤ・キリスト教を母胎とするイスラームでは「神の創造の最後の日、つまり人間アダムの創造の日にして楽園エデンに置かれた日」となり、そのためこの日に「人類の復活」が行われるとする。そのためこの「金曜」が最大に重要となり、この日の礼拝をもっとも大事にする。
12 マスジェド・ジャーミーの「エイバン」
【12 マスジェド・ジャーミーの「エイバン」】
日本的に「金曜モスク」と呼ばれているものは、この日に「皆、集合(「ジャマア」であり「(ジャーミーの語源)して祈れ」と『聖典クルアーン』にあるために建造されているもので、どのイスラーム国のどの町にあっても大規模なモスクとなる。イスファハンのそれも同様だが、ここでは「エイバン」が東西南北に向かい合うように置かれている唯一のモスクとなるのが建築的な特徴となる。見た目にも素晴らしく規模も大きい。
13 マスジェド・ジャーミーの内部
【13 マスジェド・ジャーミーの内部】
このモスクは紀元後800年代の末には建造されていたと伝えられるほどの古く由緒あるモスクであり、その後の修復・拡大などが積み重なったためにさまざまの時代の建造が観察され、「イラン建築の博物館」とまで称される。このアーチの部分はかなり古い時代のものだが、雰囲気的に非常にいい。
14 マスジェド・ジャーミーの中庭
【14 マスジェド・ジャーミーの中庭】
モスクの建造には基準というものはないのだが、必ず持っているものとしては「メッカの方角を示すミフラーブ」であり、説教の行われるモスクでは「説教台としてのミンバル」、そして「呼び掛けの塔ミナレット」を持つ。その上で欠かせないのが「身を清めるための水盤」であり、これは中庭に「必ず必要なもの」となる。
15 マスジェド・ジャーミーのミフラーブとミンバル
【15 マスジェド・ジャーミーのミフラーブとミンバル】
この部分もかなり古いものだが、その落ち着いた装飾性は宗教的にも建築美術的にも優れていると思う。なお、メッカの方角を示すミフラーブや説教台ミンバルの数に関しても規定はないのでこのようにミンバルが「二つ」ということもあり得る。ミフラーブの前に「礼拝のための穴」がほどこされているのにも注目される。
16 ヤズトのアミール・チャグマークの「ナフル」
【16 ヤズトのアミール・チャグマークの「ナフル」】
イランは「シーア派のイスラーム」であるが、シーア派にとって非常に大事な行事に「アーシューラー」というものがある。これはシーア派の祖とされる「四代目正統カリフ、アリー」が暗殺された後、息子の「フセイン」が同志の願いで「カルバラー」に赴く途中、敵に襲われて殉教したことを悼む行事で、写真右手に見られる「ナフル」に黒い布などを掛けて嘆きの声と共に行列するものである。
17 イスファハンの「キリスト教・アルメニア教会」
【17 イスファハンの「キリスト教・アルメニア教会」】
日本ではイスラームはキリスト教を迫害すると思いこんでいる人がいるが、逆である。イスラームの母胎はキリスト教にあるので、本質的にイスラームはキリスト教を迫害できない(侵略された時の防衛戦は別)。そのためイスラーム国で「キリスト教会」に出くわすことが良くある。イランでは「アルメニア教会」が多い。
18 アルメニア教会の入り口
【18 アルメニア教会の入り口】
アルメニア教会にはかなり多くの人たちが訪れていた。イスラームは「偶像崇拝禁止」であり、それはどこでも徹底されていると思い込んでいる人も日本には多いが「キリスト教会」は別である。ちゃんとその地位は保証されており、写真に見られるように「天使の像」まで書かれていて平気である。イスラームは「頑なな宗教」というのは欧米の流している悪意のニュースであることが良く分かる。
19 アルメニア教会での女学生たち
【19 アルメニア教会での女学生たち】
彼女たちは「勉強」に来ていたようである。イランでは「女性差別が激しく勉強などさせてもらえない」などと欧米の悪意のニュースを信じこんでいる人もいるが、イランの世界遺産巡りをしているとさまざまのところで「先生に連れられて勉強にきている学生」に出会う。これに女学生が圧倒的に多かったのが我ながら意外であった。「キリスト教会堂」でまで出会うとは思っていなかった。
20 テヘランの「ホメイニ廟」
【20 テヘランの「ホメイニ廟」】
ホメイニ師はいうまでもなく「イラン革命」を成功させた人で、それはアメリカの傀儡政権であった「パフレビー王朝」の民衆抑圧政策に対する戦いであると同時に、欧米に経済利権どころか司法権まで奪われていた「イランの回復運動」であった。そのホメイニ師は生前質素で知られ、死後も小さな墓を望んでいたのだが、イラン民衆のホメイニ師に対する思いがこんな霊廟を作らせてしまったと友人は説明してくれた。
21 モロッコの砂漠
【21 モロッコの砂漠】
アフリカの北西の端で、直ぐ北はスペインという位置にある「モロッコ(英語読みからの音写だが、正式名称は全然違う)」はローマ時代に帝国に編入されて以来さまざまの文化と接してきた。古代ではここは「マウレタニア」と呼ばれ、ここから現住民族を呼ぶ「ムーアないしモーロ人」という呼称ができたとされる。しかし、モロッコ現住民族はもともとは砂漠の民であり、砂漠を行き来する遊牧の民であった。
22 モロッコの砂丘
【22 モロッコの砂丘】
モロッコ南部と東部はこんな「砂漠地帯」である。彼らは南部の部族や東部のアルジェリア地方などとの交流はこうした砂漠越えとなっていたのであった。とはいえ、砂漠地帯から北にそびえる「アトラス山脈」を越えるとまた違った気候・風土となり、「モロッコ」は「砂漠から近代都市」までさまざまの顔を持つことになる。
23 砂漠の乗り物「ラクダ」
【23 砂漠の乗り物「ラクダ」】
砂漠は歩くのがなかなか辛い。それで「ラクダ」を用いるわけであるが、昔の隊商隊はこんな風にラクダを引き連れていたというわけである。これが「モロッコ人の原型」であったと思えば良い。彼らは「砂漠の民」だったのである。このことは彼らがもともと「アラブの砂漠の民のもの」という性格を持つ「イスラーム」を受容した背景となる。
24 遊牧の民「ベルベル人」
【24 遊牧の民「ベルベル人」】
この砂漠を行き来していた現住民族(ローマ的にはムーアないしモーロ人)のことを一般に「ベルベル人」と呼んでいる。これは本来「バルバロイ(「わけの分からない言葉をベラベラしゃべる連中」の意)」と同様の言葉で侮蔑語なので使いたくないのだが、定着してしまっているので仕方がない。彼らの中には今以てこんな「テント暮らし」をしている人たちが存在している。遊牧をしている人たちは当然こうなってしまう。
25 ベルベル人の生活
【25 ベルベル人の生活】
テント生活とはこんな具合になってしまうわけだが、きくところによると近くの井戸が枯れるまでここに居て、枯れたら移動するとのことである。紀元後、イスラームの教えが北アフリカに伝えられた時、彼らはいち早く「イスラーム化」することでイスラーム勢力は一気に勢力を増大させたとされる。イスラームはもともと「アラブ発祥」であるからこんな「遊牧の民」のものという性格をはじめから持っていたからである。
26 砂漠の井戸
【26 砂漠の井戸】
砂漠地帯での「水」はまずは井戸の開発となる。モロッコの場合、その中央地帯に「アトラス山脈」という4000メートルクラスの山脈があって当然「雪」で覆われている。その雪が解けて流れ「河」となるのだが地下水脈となるものもある。その「地下水脈」を見つけて井戸を掘るのであるが、これは「経験と勘」によるのだそうである。
27 ガナート
【27 ガナート】
しかし、どこかに「水を通したい」という時には「ガナート」と呼ばれる「地下水路」で運ばれる。これはイランなどの中東の発祥のようであるが、地上を水路にしたのでは蒸発してしまうので「地下水路」とするのである。すでに枯れてしまっているがその一部が見学できるようになっている。写真で見られるように「素掘り」であるがかなり広い。
28 カスバ
【28 カスバ】
さて、現住民であるベルベル人は砂漠だけに居たわけではない。彼らが「イスラーム化」する最大の要因は、彼らが「部族単位の民族」だったからで、部族長が「イスラーム」になったら部族民全員が「イスラーム」となるのであった。こんな具合にイスラームはあっという間に伝播していったのである。モロッコの場合、その「部族」のあり方は「カスバ」という組織が良く示している。
29 アイト・ヴェン・ハッドウの「カスバ」
【29 アイト・ヴェン・ハッドウの「カスバ」】
一般に「カスバ」は「砦、城塞」と訳されることが多い。しかし実際には「カスバ」と呼ばれているものには幾つかの種類があるようで、はじめから「砦」として作られたものもあり、あるいは「一つの部族の集落」が要塞化しているものもある。これは「アイト・ヴェン・ハッドウ」のカスバとなるが「一つの集落の城塞化」であり現在も数家族が住んでいる。「カスバ」の場合、その家長がこの集落全体を統括するわけである。
30 ベン・モーロのカスバ
【30 ベン・モーロのカスバ】
モロッコのアトラス山脈の南地方にはこうした「カスバ」が並んでおり、これは「ベン・モーロ」のカスバとなる。「カスバ」は要塞化されたものなので「見張り塔」を四隅に持つのが普通で、日常的には穀物倉などともされていたらしい。その背後の山脈が「アトラス山脈」となる。アトラス山脈はギリシャ神話での「地球を支える巨人神」であるが、ここまでがギリシャ神話の舞台だったのである。
31 「フェズ」のスーク
【31 「フェズ」のスーク】
アトラス山脈を越えて北側にはさまざまの「都市」が並んでいる。「フェズ」は700年代後半からの「イドリス王朝の二代目」の時に首都とされた古い伝統を持つ主要な旧都(初代は直ぐ近くの町の現在の「ムーレイ・イドリス」を首都とした)で、モロッコ独特の伝統文化をそのまま保存している。写真は小さな商店がどこまでも並んで迷路のようになっている「スーク」となり、生活の匂いを強く放っている。
32 フェズの「カラウィン・モスク」
【32 フェズの「カラウィン・モスク」】
フェズの「モスク」の一つであるが、モロッコでは異教徒(つまり観光客)はモスク内に立ち入ることができない。ここはイスラーム信徒のための礼拝所であり「観光施設」ではないからである。人々は日常的にここに来て礼拝しているので、「いつでも礼拝している」状況があり、それを妨げられないためである(ちなみに、西洋の教会も昔は礼拝中には団体観光客は立ち入り禁止であった。宗教とは本来そうしたものである)。
33 モスクでの「身の浄め」
【33 モスクでの「身の浄め」】
多くのイスラーム国の都市のモスクは「水道」にしてしまったので、なかなか見られなくなった「中庭の水盤での身の浄め」である。イスラームでは礼拝に際しては「身を清める」ことが必須であり、顔から手・足など定められたやり方で身を浄めるのが要求される(昔の日本の神社でもそうだった)。なお、水のない砂漠地帯では「砂」でもよいとされる。
34 フェズの「ブー・イナニア神学校」
【34 フェズの「ブー・イナニア神学校」】
イスラームでは、子どもの時から『聖典クルアーン』を勉強することが義務づけられている。もっともこれは「ユダヤ教」でも「伝統的南方仏教」でも強くありイスラームに特徴的ではないけれど、その神学校である。内容は『聖典クルアーン』の暗記となるが、これも特別というわけではなく「当たり前」と言える。こうして「読み書き」が徹底された。
35 ブー・イナニア神学校
【35 ブー・イナニア神学校】
1300年代に建造されているという伝統的な学校で、写真で見られるようになかなか建築美術的にも装飾が見事である。「子どもたちのために」というよりむしろ、『聖典クルアーン』を学ぶ場所ということでの「神に対する敬意」の現れなのであろう。あるいはこれは「ブー・イナニア王の建造」であるから「王室建造物」ということでの立派さを見せているのかも知れない。
36 フェズの「ムーレイ・イドリス廟」
【36 フェズの「ムーレイ・イドリス廟」】
紀元後800年代のはじめに、イドリス王朝の二代目となる「ムーレイ・イドリス二世」はこの「フェズ」を首都とした。ここはその「霊廟」であり、また同時に「修道院」でもある。こうした「霊廟」は当然のようにその町の守護聖人の扱いを受け、現在でも大事にされている。これは「シーア派に独特」と言える。異教徒は内部に入れず、ちいさな中庭から覗くだけとなる。しかし、その装飾の見事さは十分に観察できる。
37 マラケシュの「アグノウ門」
【37 マラケシュの「アグノウ門」】
「マラケシュ」は大西洋岸に接する「カサブランカ」から南にずっと降りてきたところに位置する西部内陸部の最大主要都市となる。1070年頃に「ムラービト朝」の首都となっており「フェズ」に次いで古い旧都となるが、交易の中心地として栄え、今日でもモロッコ最大のエネルギーを持つと言われている。そのマラケシュの王宮に抜ける門がこの「アグノウ門」となる。
38 マラケシュの「クトゥビアの塔」
【38 マラケシュの「クトゥビアの塔」】
マラケシュの「シンボル」とされるが、いうまでもなく「モスクのミナレット」である。モスクは1147年に着工され一度は完成したのだが、メッカの方角に対して壁が直面していなかったため取り壊され新しくつくり直された。その取り壊されたモスク部分の土台が観察される。この「クトゥビアの塔」はスペインの「ヒラルダの塔」(もともとここはイスラームのモスクである)にも踏襲されたモロッコ様式(ムーア様式)の典型となる。
39 「ファティーマの手」のノブ
【39 「ファティーマの手」のノブ】
モロッコで始めて王朝を開いた「イドリス王朝」は「シーア派」に属していた。そのため、「シーア派」の始祖である「アリー」の妻にしてムハンマドの娘である「ファティーマ」が最大の敬愛の対象となり、その「手」をかたどったものが「招福、魔よけ」となっていった。そのため「家のノブ」にも使われるようになり、町を歩いていると時折こうしたノブを目にすることがある。
40 メナラ庭園
【40 メナラ庭園】
イスラームの展開した地域は砂漠地帯が多かったため「水」には苦労した。そのためその地域の人々は「水」への工夫に富むようになり「灌漑」を発展されていった。ここはその代表的な「灌漑用プール」であり、ここからまた「果樹園」を発展させていった、ヨーロッパの果樹園栽培の多くは「イスラームに教えられた」ものなのである。
41 メクネスの「マンスール門」
【41 メクネスの「マンスール門」】
「メクネス」は「フェズ」から西にいったところにある都市で、町の様相は「フェズ」に似ている。「メクネス」の最盛期は1600年代の「アラウィー朝」の時で「フェズ」に比べれば「新しい旧都」となる。そのシンボル的な門が「マンスール門」で、1732年に完成された。王都への「メインゲート」となり、その見事さは「モロッコ最高」と言われる。「マンスール」というのは設計者の名前だが、キリスト教から改宗した人と言われる。
42 ムーレイ・イスマイル廟
【42 ムーレイ・イスマイル廟】
この都市の建造者が「ムーレイ・イスマイル王」であるが、彼は従来の古い町並みを一新して新しい都を建造しようとし、その遺構が旧市街に残っている。その最大のものの一つが「彼の霊廟」ということになるのだが、大事にされてはいるものの、ここだけは観光客も立ち入ることができる霊廟となっている。
43 ムーレイ・イスマイル廟の内部
【43 ムーレイ・イスマイル廟の内部】
観光客が立ち入ることができるため、モロッコにおける「イスラーム建築美術」の細部を観察することができる。モロッコの装飾は「微細」であることは多くのイスラーム国の建造美術と同様だが、「色合い」において落ち着いた色調をもっていることが特徴的である。
44 ムーレイ・イスマイル廟の中庭
【44 ムーレイ・イスマイル廟の中庭】
ここは「落ち着いた色調」の中でも目を引く装飾をもっている。見られるように中央に水盤と噴水を置き、回りを八角形の星形として、回りは全体が絨毯のような装飾となっている。絨毯部分はきめ細かに緑色の小さな星と楕円が連続するようになり、色調において八角形の星型の部分を浮き立たせるようにし、さらに濃い青と茶色と緑の装飾で縁取っているため、落ち着いた色調ながらも目を引く。
45 首都「ラバト」の王宮
【45 首都「ラバト」の王宮】
現在のモロッコの首都は大西洋に面した「ラバト」となる。首都とされたのは1912年のことなので「新しい都」ではあるが、町としては歴史的に長い伝統を持っている。「立憲君主国家」であるモロッコの「王宮」は当然このラバトにある。写真はその「王宮の門」となる。一見して「イスラーム装飾」が目に飛び込んでくる。
46 ムハンマド五世の霊廟と「ハッサンの塔」
【46 ムハンマド五世の霊廟と「ハッサンの塔」】
近代のモロッコは「フランスに占領」されていたのだが、そのフランスから独立をかちとったのが1961年に死んだ「ムハンマド五世」となり、その霊廟が1973年に完成した。数多い「霊廟」の建造は「シーア派」に特徴的な「聖人崇拝」の習慣からであることは先に示しておいた。また、ここに「ハッサンの塔」があることも知られている。
47 ムハンマド五世の霊廟
【47 ムハンマド五世の霊廟】
1973年に完成したものだからモロッコの記念的建造物の中ではもっとも新しいものになる。真っ白な外観というのはそのためであろう。こういった色調の建造はイスラーム国では珍しい。内部もきらびやかで、他の都市で見られた昔の指導者の霊廟とは赴きが異なる。覗くと真ん中に彼の棺が据えられ、その両側に息子で前国王の「ハッサン二世」のお棺とその弟の石棺が据えられている。
48 ハッサンの塔
【48 ハッサンの塔】
この塔が付属するモスクは1195年に着手されているもので由緒あるものとなる。完成する前に「ヤクーブ・マンスール王」が死んでしまったために中断されてしまった。土台石だけが並んでいる。塔は半分くらいしかできていないとされるが、それでもこれは「ムーア様式」の代表的なものとされ、マラケシュの「クトゥビアの塔」と並んで評価されている。
49 「カサブランカ」のハッサン二世モスク
【49 「カサブランカ」のハッサン二世モスク】
「カサブランカ」は「ラバト」から150キロくらいの大西洋岸の町となる。ここは「商業の町」として西欧化がもっとも激しい。そのためか、ここのモスクは恐ろしく近代的で、実際完成は1993年のことだからつい最近である。モスクの大きさもばかでかく、ミナレットの高さは200メートルで世界最高と聞いた。自動ドアやらスライドの屋根やらソーラーシステムと床暖房やら、およそ従来のモスクの概念とはかけ離れている。
50 ハッサン二世モスクの前にて
【50 ハッサン二世モスクの前にて】
モロッコの原点である「砂漠」から「カスバ」、そして「古い伝統の町」から「近代的都市カサブランカ」まで見てきたが、モロッコの歴史というものが辿れたであろうか。ただ、近代的都市といってもあちこちに「古い伝統」を残しているのがモロッコで、その「混在」が一つの魅力となっているといえる。宗教も現在は「スンニ派」を名乗っているのだが、実態は初期の「シーア派」の影響が強いと見える。そういう視点で旅すると良い。
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