1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

24.

イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」

シリア「ダマスコス」「ウマイヤド・モスク」「サラーフ・アッディーン廟」。 スペイン「コルドバのメスキータ」「グラナダのアルハンブラ宮殿」。 エジプト、カイロの「ガーマ・アムル」「ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーン」「ガーマ・ムハンマド・アリ」。 パレスチナ、エルサレムの「岩のドーム」。 トルコ「ブルー・モスク」「トプカプ宮殿」「サフランボル」他。


■イスラーム世界の興隆
イスラーム世界の興隆地図-小 拡大地図を見る>>
シリア、スペイン、エジプト、イエルサレム、トルコ。
「ダマスコス旧市街」「スペイン、アルハンブラ宮殿」「エジプト、カイロの旧市街」「イエルサレム旧市街」「トルコ、イスタンブール旧市街」「トルコ、サフランボル」
中世から近代にかけて、中東から北アフリカ、イベリア半島、小アジアから東欧まで、西欧地区をのぞいた大半を支配して西方世界の中核となっていたイスラーム社会の興隆のあり方を追う。
紀元後600年代後半から。
 アラビア半島の西海岸の中程にある「メッカ」に生まれたムハンマド(紀元後570年頃〜632年)によって提唱されたイスラームの教えは、その死後、初代正統カリフ「アブー・バクル(573年頃〜634年)、二代目正統カリフ「ウマル一世(592年〜644年)の下に勢力をのばし、瞬く間にアラビア半島から中東、アフリカへと伝播していった。そして、第四代正統カリフ「アリー(656年〜661年)」が暗殺されて、シリア・ダマスコスで勢力を張っていたムアーウィアがいわゆる「ウマイア朝」を建設する(661年〜750年)。ここからいわゆる「イスラーム帝国」と呼ばれる一大帝国への道が開かれていった。この「ウマイア朝」は「アッバース朝」の台頭によって中東を追われてイベリア半島に逃れ「後ウマイア朝(コルドバのウマイア朝)」を開くことになる(756年〜1031年)。イベリア半島でのイスラーム王朝の最後はグラナダにあった「ナスル朝(1232年〜1492年)となり、有名なアルハンブラ宮殿で知られる。
 他方、中東を支配していた「アッバース朝(749年〜1258年」は名目的には1258年まで存続はしているが、1000年以降の中東から中央アジアは、実質的にはセルジュク・トルコ(1038年〜1194年)の支配下に入り、やがて「オスマン・トルコ(1299年〜1922年)」が台頭し、中東から中央アジア、北アフリカはもとより、ビザンティン領域の小アジアからバルカン半島の東欧までオスマンの支配下とする。
 その間、エジプトにはカイロを中心として「ファティーマ朝(909〜1171)」や、十字軍を撃退して有名な「サラーフ・アッディーン」の「アイユーブ朝(1169〜1250)」さらに「マムルーク朝1250〜1517」」など独特で重要なイスラーム王朝が生じていた。
 イスラームの興隆の足跡を追い、現代世界の三分の一と言えるイスラーム世界を理解する。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
シリア、ダマスコス
【01 シリア、ダマスコス】
シリアのダマスコスはこの地方の記録にある最古の都市の一つ。紀元後の635年にアラブ・イスラームのウマイア家がここを統治し、661年ウマイア朝を建設し首都とする。十字軍やティムールに破壊される等の歴史を経て近代に至り、フランスに占領された後にやっと奪回して新生シリアの首都とされた。この写真の背後はここのシンボル「ウマイヤド・モスク」。
ウマイヤド・モスクの中庭
【02 ウマイヤド・モスクの中庭】
イスラームの最初の王朝である「ウマイヤ家」によって紀元後715年に完成した現存する最古のモスク。これ以来、イスラーム世界で壮麗なモスク(モスクは英語だが、アラビア語での原語は「マスジド」。各国で適宜の呼び名がある)の建築が始まった。キリスト教の「ヨハネ聖堂」であったものをウマイヤ家の時代に礼拝の場所として東半分が使われ、後に西側まで改築された。
ミナレット「イエスの塔」
【03 ミナレット「イエスの塔」】
建物は、ギリシャ神殿以来のコリント様式の柱もある。後にキリスト教の「バシリカ式」教会となり「洗礼者ヨハネ」の墓もここにあり、そのためイスラームのモスクとされた後もキリスト教徒はここを礼拝所としていて「共存」した。しかも南東角にある「ミナレット」は「イエスの塔」と呼ばれ、最期の審判の時にイエスはここに降りてくるという伝承まである。
ミフラーブ
【04 ミフラーブ】
ミフラーブというのはイスラームの聖地「メッカ」の方角を示すもので(従って、ここでは南方向)、壁にくぼみを付けて、そこに装飾を施してあるのが通常の作り方。ここのミフラーブは美しい。ミフラーブは礼拝の方向を示すものであるから、イスラーム信徒は写真に見られるように、よくこの前に座って祈っている。
ミンバル
【05 ミンバル】
ミンバルというのは「説教檀」であり、イマーム(説教者)の説教やクルアーンの朗唱が行われる。時には布告分が読み上げられることもあったらしい。始祖ムハンマドが階段状の台に座って説教していたという故事に倣って設営された。集団礼拝するモスクに不可欠のもので、通常はミフラーブの(向かって)右側に設置される。最上段(玉座)はムハンマドを敬して立ち入らない。
ウマイヤド・モスク内部
【06 ウマイヤド・モスク内部】
ここはもともとギリシャ神殿があり、後にキリスト教のバシリカ式教会堂が建てられ、それがモスクに使用替えされたものなので両者の雰囲気が残っている。他方、モスクにはもともと形態に決まりはなく、清浄なところならどこでも、どんなものでも良い。内部に絨毯が敷き詰められているのはモスクの特徴。
サラーフ・アッディーン廟
【07 サラーフ・アッディーン廟】
サラーフ・アッディーン(1138年〜1193年)は、アラブ世界ばかりか西欧でも高潔の士として知られるクルド出身のアラブの英雄。十字軍からシリア地方やイエルサレムを奪回したこと、エジプトのシーア派によるファティーマ朝を倒してスンニ派によるアイユーブ朝を建設したことなどが知られる。ダマスコスは彼の根拠地であり、ここで没した。この霊廟にはドイツから寄贈の棺もある。
スペイン・マドリード
【08 スペイン・マドリード】
スペインは写真の「セルバンテスとドン・キホーテ」で有名だが、これに伴って、スペインは「昔から西洋の騎士の世界」であったと思っている人が多い。しかし実際はそうではなく、700年代からはイスラームの「後ウマイア王朝」が支配、現在のスペインは1500年少し前の、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併とイスラーム勢力の駆逐によって建設された新しい国。
コルドバ
【09 コルドバ】
700年代にイスラームの「後ウマイア朝」がコルドバに建設されたのが、イベリア半島での独立した国らしい国の最初となる。そのためこの地方にはイスラームのモスクがたくさん建設されていたのだが、後にカスティーリャ王国に征服されてモスクは廃棄されたりキリスト教会に改造されたりした。その改造されたモスクの代表的なものがここにある。
コルドバのメスキータ
【10 コルドバのメスキータ】
メスキータというのはスペイン語で一般には「モスク」をさすが、狭義にはこのコルドバの「大モスク」を意味する。787年、アブドゥッラフマーン一世によって建設された。キリスト教勢力によって征服された後、ここはキリスト教の聖堂に改造されたため、イスラームのモスクとキリスト教の会堂が同居しているような格好になっている。
メスキータ西側正面
【11 メスキータ西側正面】
ーメスキータは四角に壁で囲まれている格好になっているが、その西側正面の装飾であり、これはイスラーム美術(と呼んで差し支えが無ければ)の典型の一つを示していると言える。幾何学紋様と「縞模様」にそれが見られる。なお、イスラームの礼拝所(英語ではモスク、スペインではメスキータ)の形態や装飾、作り方に決まりはなく、地方ごとに大きく異なっている。
セビリアのカテドラル(大聖堂)
【12 セビリアのカテドラル(大聖堂)】
コルドバからセビリアに飛んでいるが、このセビリアに昔のメスキータが改造されてキリスト教大聖堂となっているものがある。ここはイスラームの残存が薄いので「メスキータ」として紹介されないが、外見はコルドバのメスキータと同じである。四角い壁に囲まれて、一つの塔があり(写真はその塔からのもの)、中に入ると敷地の四分の一ほどが身体の浄めのための庭で、四分の三ほどが会堂となる。
コルドバ、メスキータの「塔」
【13 コルドバ、メスキータの「塔」】
一般に「アルミナールの塔」などと紹介されているが、「アルミナール」という言葉自体が「塔」を意味している。つまり、イスラームのモスクに付設される「礼拝の呼びかけのための塔」であり、これを一般には「ミナレット」と呼んでいる。現在見る塔の原型は900年代に建造されたものである。これも形などに決まりはなく、様々の形がある。ここも後の幾多の改築を経ている。
メスキータの内部
【14 メスキータの内部】
北に設置されている「塔」の傍らの「免罪の門」から中に入るとオレンジの中庭に入る。そこをまっすぐ道を南に降りると会堂の入り口「シュロの門」に至って、そこは列柱廊になっているが、そのまま会堂にまっすぐ入る。さらに部屋をまっすぐ降りると「ミフラーブ」が目に入り、その前が礼拝部分ということになる。会堂内部は写真に見られる柱が立ち並び、独特の雰囲気を醸し出している。
メスキータの柱の文様
【15 メスキータの柱の文様】
このメスキータの人気は、この会堂内部に立ち並んだ「アーチ」状の柱の森が「赤と白の縞模様」となって、それが幾重にも重なって見え、(慣れているイスラーム信徒以外には)一種独特の異次元空間へと誘われていく雰囲気にあるのかも知れない。この「縞模様」というのはイスラーム建築に良く観察されるもので、独特の色調や美観を示してくる。
メスキータのミフラーブ
【16 メスキータのミフラーブ】
ミフラーブは聖地「メッカ」の方角を示し祈りの方向を示すので、モスクにあっては最も重要なものとなる。このメスキータの場合、ミフラーブの示す方角が「メッカ」への方角とずれている(南東45度の筈が28度になっている)などと言われることがあるが、しかしミフラーブの最大の目的は聖地メッカの方向、つまり祈りの方向を示すことなので。幾何学的正確さは問題ではない。
グラナダ、アルハンブラ宮殿
【17 グラナダ、アルハンブラ宮殿】
イベリア半島での最後のイスラーム王朝として、グラナダにあった「ナスル朝(1232〜1492年)がある。当時はすでにイスラーム勢力は弱体化しており、1500年近くにカスティーリァ王国とアラゴン王国が合併するに及んでその勢力に抗しきれずに撤退していったのであった。その宮殿(アルハンブラ宮殿)がイスラーム建築の代表とされて世界遺産指定されている。
アルハンブラ宮殿にてと
【18 アルハンブラ宮殿にて】
アルハンブラ宮殿というのは、前の写真に見られるように広大ではあるが、外見は華麗・壮麗というわけではない。しかし、内部に入ると華麗・壮麗な装飾に彩られた部屋でいっぱいである。こうした造りがイスラーム建築の特徴と言えるかも知れない。
アルハンブラ宮殿、天人花のパティオ
【19 アルハンブラ宮殿、天人花のパティオ】
パティオとは中庭のことであるが、この中庭には長方形の池があり、その脇に天人花の生け垣があるところからこの名前がある。人気なのはこの池に映る建物の様相で、南北軸に作られた中庭の北には「コマレスの塔」があり、南には「カルロス五世宮殿」があってどちらも水に映った姿は美しい。この写真は「カルロス五世宮殿」。
獅子のパティオ
【20 獅子のパティオ】
写真で見られるように、ここは12頭の黒大理石で作られた獅子に支えられた水盤が置かれた中庭となる。アーチ状の列柱廊に囲まれたこの宮殿の中心と言え、東西軸に作られたこの中庭の各面にそれぞれ部屋が作られている。ただ、その使用目的については議論が多く確定していない。
二姉妹の部屋
【21 二姉妹の部屋】
獅子のパティオの北側にある部屋であるが、華麗な装飾を持つさまざまの部屋の中でもその豪壮さはひときわ際だっている。この装飾の手の込んだ造りはすごいもので、イスラームの装飾家たちのすさまじさはさまざまのところで目にするが、ここはその代表的なものの一つと言える。
エジプト、カイロの「ガーマ・アムル」
【22 エジプト、カイロの「ガーマ・アムル」】
「ガーマ」というのは、要するに「モスク・礼拝所」のことで、エジプトでの呼び名。641年にアラブの将軍「アムル・ブン・アルアース」がビザンティン支配のエジプトに進軍してきて取って代わり、その彼が建設した(といっても小屋程度と伝えられる)のがこのガーマの前身。その意味でエジプト最古のガーマとなる。現在の姿はもちろん近代になって大改築されたもの。
ガーマ・アムルの内部
【23 ガーマ・アムルの内部】
このガーマは現在ほぼ正方形で、縦120、横110メートルもある。従ってその内部も広く、敷き詰められた絨毯と柱の森が壮大である。再三指摘しておいたが、イスラームの礼拝所での決まりは、聖地メッカの方角を示す「ミフラーブ」の存在、さらに「ミンバル」の存在、「塔」の存在くらいで、それも形に決まりがあるわけではない。従って、礼拝所ごとに特徴がある。
ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーン
【24 ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーン】
エジプトには言われのあるガーマがたくさんあるが、その内の一つにこれがある。これは中東のイスラームを統一したアッバース朝がエジプトをも支配していた当時、そこから独立してエジプトからシリアに及ぶ「トゥルーン朝」を建設し(868〜905)、続くエジプトのイスラーム王朝の端緒となった「アフマド・イヴン・トゥルーン」によって879年に建造されたもの。
ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーンの内部
【25 ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーンの内部】
このガーマはオワン型のドームと外側にらせん階段を持ったミナレット(アッバース朝の本拠地であったイラクの大モスク、サーマッラーをまねたと言われる)が独特なのだが、中庭の列柱廊に囲まれた内部は外界の騒音を完全に遮断しており、全く静寂な世界に一変している。
上記ガーマのミフラーブとミンバル
【26 上記ガーマのミフラーブとミンバル】
ガーマ・アフマド・イヴン・トゥルーンの「ミフラーブ」とその隣の「ミンバル」とであり、モスクはこんな形で二つが並べられていることが多い。ここは静寂さが漂っているせいか、このミフラーブとミンバルもひどく落ち着いた雰囲気を持っていて、本来の存在の意味を良く語っているように感じられる。
ガーマ・ムハンマド・アリ
【27 ガーマ・ムハンマド・アリ】
近代のガーマを代表するものとなる。ムハンマド・アリ(1769〜1849)という人物は、出自は明らかではないが(多分アルバニア人と推定)当時イスラーム世界を支配していたオスマン・トルコの将軍として、エジプトに侵略したフランスと闘うためエジプトに赴任し、フランスの退却後に総督になり、さらに実質的にオスマンから独立してしまった人物で、その手になるガーマとなる。
ガーマ・ムハンマド・アリの外観
【28 ガーマ・ムハンマド・アリの外観】
シタデル(城塞)の中にあるこのガーマは、エジプトにある他のガーマとは装いが全くことなっている。それもその筈で、オスマン・トルコの将軍であった「アリ」が、そのオスマン・トルコの首都イスタンブールにあるモスクをまねて建造したものだからである。そのためたくさんのドームと尖った形のミナレットを二本持つ形となった。
ガーマ・ムハンマド・アリの中庭
【29 ガーマ・ムハンマド・アリの中庭】
礼拝所の形態に決まりはないことは再三指摘しておいたが、しかし、中庭は欠かさず付設されている。なぜならそこは礼拝に不可欠な「身を浄める」場所だからである。もっとも最近では礼拝所の脇に水道などが布設されていて、中庭は身を浄める場所として使用されていないことも多いのだが、本来はここに水盤などが置かれていてここで身を浄めたのであった。
ガーマ・ムハンマド・アリの内部
【30 ガーマ・ムハンマド・アリの内部】
この内部の雰囲気も、トルコ・イスタンブールのブルー・モスクなどオスマン型モスクに似ている。円状にシャンデリアがぶら下がり、パーティー会場のような華麗さを示している。エジプトのガーマとしては珍しい。
イエルサレム「岩のドーム」
【31 イエルサレム「岩のドーム」】
イスラームのシンボルとして一番知られているのがたぶんイエルサレムにあるこの「岩のドーム」となる。この「岩」というのは、ヘブライ神話での「アダムの創造」「アブラハムによる息子イスマーイール(アラブ人の祖とされるが、ユダヤ側はイサクとする)の犠牲」の場所であり、さらに「ムハンマドが天に登っていった場所」として聖地とされ、その岩を守るために建造されたもの。
イエルサレム旧市街
【32 イエルサレム旧市街】
現在イスラエルによって占拠されてしまっているが、近代に行われた欧米側の分割案においてすら旧市街はヨルダン領とされていた。そのイエルサレム旧市街のシンボルとされているのが「岩のドーム」で、写真に見られるようにひときわ目立つ。この裏側がユダヤ教の「嘆きの壁」であり、500メートルくらい奧にある灰色のドームがキリスト教の「聖墳墓記念聖堂」となる。
岩のドーム
【33 岩のドーム】
一般にイスラームとキリスト教、そしてユダヤ教は異なった宗教で喧嘩ばかりしていると思われているが、そうではなく、それらの「神」は同一なのであり、この三つは姉妹宗教である。従って、その「神」の故郷は同じこの場所になるのは当たり前で、ユダヤ教の始祖アブラハムはイスラームの始祖でもあるのである。元来、同じ「セム族」に属していたのだから当然である。
イスタンブールの「ブルー・モスク」
【34 イスタンブールの「ブルー・モスク」】
イスタンブールのシンボルとなると、キリスト教の「アヤ・ソフィア」かイスラームの「ブルー・モスク」かになる。「ブルー・モスク」は俗称で、本名は「スルタン・アフメト・ジャーミィ(モスク)」という。この二つは向かいあっており、姿形もそっくりである。もちろん「アヤ・ソフィア」の方が1000年くらい前のものであるから、「ブルー・モスク」の方がコピーとなるのだが、知名度は並んでいる。
「ブルー・モスク」の六本のミナレット
【35 「ブルー・モスク」の六本のミナレット】
1617年に完成し、大モスク建造時代の最後を飾る。最大の特徴は六本のミナレットを持っていることで、これはメッカの大モスクに比肩してしまうため、アフメトはメッカのそれに一本追加して七本にして不敬にならないようにしたという。この「六」という数についても伝説があり、発音の似ている「黄金」という言葉と取り違えたなどと紹介される。
ブルー・モスクの中庭
【36 ブルー・モスクの中庭】
「ブルーメモスク」の本名を「スルタン・アフメト・ジャーミィ」と紹介しておいたが、トルコでモスクを意味する言葉が「ジャーミィ」となる。ここは、そのスルタンによる大ジャーミィ建造時代の古典様式の造りを良く見せているが、大小のドームを持ち、鉛筆の形をしたとがった尖塔の形のミナレットを持つ。礼拝所はほぼ正方形となり、内部は壮麗な装飾に覆われている。
ブルー・モスクの水場
【37 ブルー・モスクの水場】
イスラームの礼拝に「身の浄め」は不可欠で、モスクの中に入る前に必ず身を浄めなければならない。昔は中庭に設置された水盤を使用していたが、最近ではこのように建物の脇に水道を設置していることが多くなった。大都市の大ジャーミィは殆どこうなっている。
ブルー・モスクの内部装飾
【38 ブルー・モスクの内部装飾】
ブルー・モスクと呼ばれて人気になっている最大の理由はこの内部の装飾にある。ブルーと言われてイメージするほど「青一色」ではないが、実際その美しさは驚嘆に値する。この壁の装飾に使われているタイルは、タイルの名産地の「イズニック」のもので、その使われた枚数は2万を超すと言われる。それを引き立てているのが、絶妙に設置されたステンド・グラス状の小窓からの光となる。
ブルー・モスクのタイル
【39 ブルー・モスクのタイル】
ブルー・モスクと呼ばれた所以となるのが壁を彩るタイルの色調と言える。ただ、青や藍や緑など色に敏感な日本人から見ると、「青」と言われて首をかしげるかもしれない。しかし、この名前を付けた欧米人は「ブルー」という言葉にさほどの色調の明確さを見てはおらず、日本的に言えば「何となく青っぽい」といった感じの総称なのである。
割礼式に向かう少年
【40 割礼式に向かう少年】
割礼というのは性器の一部を切除する中東での昔からの習慣であり、したがってイスラーム社会でもこれが引き継がれており、12歳くらいまでに施された。割礼は結婚式にもたとえられるほどの一生での区切りの行事であり、かつては壮大な宴を伴っていた。政教分離の厳格な現在のトルコでも、このように子どもたちは正装の晴れ着に身を包んで割礼式に向かう。
トルコ、トプカプ宮殿
【41 トルコ、トプカプ宮殿】
オスマン・トルコが1453年にビザンティン帝国の都コンスタンティノポリスを陥落してここに入り、以来ここはイスタンブールと呼ばれるようになる。その象徴がスルタンの居城「トプカプ宮殿」となる。通常「トプカプ(大砲門)宮殿」と呼ばれるが、これは19世紀以降の呼称であり、本来は「サライ・ジェディードないしヒュマーユーン」である。写真はその入り口「儀礼門」。
トプカプ宮殿、ハーレムの入り口
【42 トプカプ宮殿、ハーレムの入り口】
この宮殿は大きな一つの宮殿ではなく、区分された広い庭を主体とした、さまざまの施設・建物の集合といった方が良い。その施設の一つが一般に有名なハーレムで、これは日本の徳川時代の「大奥」にも似た施設であり、鳥の篭に入れられたようなスルタンの女たちの陰謀の渦巻く場所でもあった。
ハーレムの内部
【43 ハーレムの内部】
このハーレムが一般に人気なのは、もちろん「女たちの巣窟」への好奇心が大きいのだろうが、美術的な観点で見るならば、矢張りここは美しいイスラーム建築美術の一つの典型を見せていて、その装飾の美しさに感嘆しながら歩くことができる。
ハーレムの壁の装飾と
【44 ハーレムの壁の装飾】
この、微に入り細に入り細かく装飾していく手法はイスラーム建築の何処でも観察されるのだが、矢張り感嘆する。一般にイスラームは「偶像崇拝」を禁止していることから、人物画を中心とする欧米美術世界からみると芸術性に劣ると見られがちなのだが、装飾美術という観点に立つと、イスラームの方が格段に優れていると評価せざるを得ない。
オスマンの伝統を残す村にて
【45 オスマンの伝統を残す村にて】
トルコで、オスマン時代の生活の面影はかなり少なくなっていると言われるが、それでもそうした伝統を引き継いでいる村はあちこちにある。ここはその内の一つ「タラクル村」であるが、もちろん観光客どころか外国人も始めてといったところであった。村の家のあちこちに伝統の残滓が観察されたが、モスクが近代的で立派なことはどこでも同様である。
サフランボル近郊、「ヨルク村」
【46 サフランボル近郊、「ヨルク村」】
オスマン時代の住居のありかたを良く残しているとして世界遺産指定されているのが「サフランボル」であるが、その近くに「ヨルク村」があり、ここにもその伝統の家造りの家が残っている。むしろここの方が小規模ではあるがサフランボルよりもっと良く残っているとして、ガイドはこっちを薦めるくらいである。その伝統の家の一つである。
ヨルク村の家の内部装飾
【47 ヨルク村の家の内部装飾】
そのヨルク村の家の中はこのように木造の造形と見事な装飾に彩られており、オスマン・トルコの伝統の装飾美術を見ることができる。こうした家々を巡ることは、人々の生活、ひいては社会を見ていくのに不可欠で、この「現場を見る」ということはどんな文献研究も及ばない利点がある。
サフランボル遠景
【48 サフランボル遠景】
サフランボルは「サフランの花」から名前がとられているように山間の小さな村であるが、都市化の波がさほど押しかけて来ておらず、昔ながらの家屋が良く残っている。小さな村なのであちこち昔の家を探しながら歩くのが良い。ただし、路地から路地とあまり歩き回りすぎて道に迷わないように(僕は迷って往生した)。
サフランボルの昔の家
【49 サフランボルの昔の家】
伝統の家屋の外観というのは、木造で土壁造りとなっている。特徴的なのは二階の部分がはみ出していることであろう。屋内に入って先ず目につくのは部屋の内部をぐるりと取り囲むようにソファーがしつらえられているメインの居間であり、ここに家族みんなが座ってくつろぐのであろう。夏用の家と冬用の家を別とする場合もあるのだが、当然この居間の場所は異なっている。
おみやげ屋の少女
【50 おみやげ屋の少女】
世界遺産となって観光客も増え、それに伴いおみやげ屋もたくさんできたか、実は地方のおみやげ屋というのはその地方の生活を知る一つのいい機会となる。地方の名産が並べられていることもあり、その地方の人の手作りのものもあり、とりわけカタコトでも話をしてみるとさまざまのことに気づかされるのである。この子もそうした忘れられない子となった。
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