1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 31. フランス(ガリア地方)開拓史 「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会バー
HOME
INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

31.

フランス(ガリア地方)開拓史 「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで


フランス(ガリア地方)開拓史地図-小 拡大地図を見る>>
 現在我々が「フランス」と呼んでいる国は、地方毎に「歴史も文化もあるいは人種」まで異なっており、「フランスは昔から一つのフランス」ではない。中世から近代にかけて「フランス王」を名乗る家系が地方領域を占拠・併合して大きくしたものである。
 現在のフランス地方で「最も古い歴史と文化」を示しているのは、大西洋に大きな三角形で突きだした格好となっている
「西部のブルターニュ地方」となる(1500年頃フランス王家に併合されてしまう)。ここには紀元前8000年から3000年頃の新石器から初期青銅器時代とされる時期に作られていると推定される「カルナックの列柱石群」に代表される「先史巨石文化」があり、また次いでは紀元前600年代を中心に西洋全体に活動していた「ケルト民族」が展開していた地域である。
 さらに、紀元前600年頃から開発された地中海に面した現在の
「南部フランス、プロヴァンス地方」は、古代の昔は「古代ギリシャの領域」であった。これらの都市はギリシャを征服したローマに引き継がれ、この地方を根拠にして「ローマ都市が北上していく」ことになる。この北上していくローマ都市形成は、地中海に面した南海岸の「マルセイユ(古代ギリシャ都市マッシリア)」「アルル」からほぼまっすぐに北に上り「リヨン」を経て、さらに「ランス」「パリ」に行き着く。「パリ」は古代ローマ都市「ルテティア」の今日の姿となる。だからローマの遺構の痕跡もある。
 プロヴァンス地方の
「古代ローマ都市遺跡」の幾つかが現在「ユネスコ世界遺産」とされている。「アルル」「ポン・デュ・ガールの水道橋」「オランジュ」となるが、未指定の「ニーム」「グラヌム遺跡」などはそれらに勝るとも劣らないものである。
 
ここではブルターニュ地方の「先史巨石文化」からプロヴァンス地方の「古代ローマ都市」を中心に訪ねていくことにする。
01 カルナックの巨石列柱群にて
【01 カルナックの巨石列柱群にて】
「石」が「聖なるもの」とされる習慣は世界的に観察され、そうした「聖石と見られるもの」は紀元前数万年前にも遡ると言われる。一つの巨石を置いてあるもの(「メンヒル」と呼ぶ)、部屋ないし墓状にしてあるもの(「ドルメン」と呼ぶ)など多様なものが残存している。「カルナックの巨石列柱群」は数キロにもわたって三群となって長く続くように並べられている世界唯一の独特の「列柱石群遺構」となる。
02 巨石列柱群見取り図
【02 巨石列柱群見取り図】
広範囲に列石群(写真のうす茶色の部分)が展開している。列柱群は三つのグループに分けられ、南西から北東に向かうように並び、それぞれ「メネック巨石列柱群」「ケルマリオ巨石列柱群」「ケレスカン巨石列柱群」と呼ばれている。この「組織だった列柱石配置形成」はおそらく1万ないし8千年前から3千年くらいまでのものだろうと推定されている。
03 「メネック」の列柱群復元図
【03 「メネック」の列柱群復元図】
「メネック」は一番西に位置し、およそ幅100メートル、長さ1000メートルの区域に11列(かつては12列)となり、石の総数1099本とされる。向かって左端(西端)に半円形の「広場状」のものが形成されていて(現在ここに家が建たてられてしまっている)、そこが「聖所」となると思われる。
04 「ケルマリオ」の列柱群復元図
【04 「ケルマリオ」の列柱群復元図】
三つの群の中間に位置しているのが「ケルマリオ」となる。全体的にこの列柱石群の「意味」についてはさまざまの見解があるが「祭儀にかかわるもの」くらいの漠然としたことしか言えない。ケルマリオは西端にある筈の「聖所」が破壊され、そこを囲んでいた筈の立石が消滅しているのがこの復元図で分かる。破壊の原因は不明。
05 「ケレスカン」の列柱群復元図
【05 「ケレスカン」の列柱群復元図】
一番東にあるのが「ケレスカン」となる。この「ケレスカン」の西端は「石で囲まれた四角い広場」となっていて、そこが「聖所」と推定される。それに向かって並ぶ列柱の端が後世に造成された「道路」で大分そぎ取られているのが分かる。現代になるまでこの列柱石群の重要性などわからなかったのだから仕方ない。
06 列柱群
【06 列柱群】
列柱群は従来「巨人の墓」とか「ケルト民族のドルイド教」と関係したものとか、「大地のエネルギー」と関係しているとか「天文台」とかさまざまに言われてきたがどれも説得的ではないとされる。確実とされているのは「ここが聖なる場所」とされていたということくらい。こうした巨大・広範囲にわたる「列柱群」は他に発見されていない。
07 列柱群の流れ
【07 列柱群の流れ】
こうして見て見ると、石の並びに一つの「流れ」があることが分かる。つまり、「ただ石をおいた」のではなく、それが互いに相関して一つの調和を造り「聖所」に向かって流れていっているわけである。同時に「石の高さ」が流れに即して「変化して」いっている。つまりそれぞれの石は「そこにあるように」配置されているのである。
08 ドルメン(石組みで部屋状にしたもの)
【08 ドルメン(石組みで部屋状にしたもの)】
この近在に「単独の立石(メンヒル)」もたくさんあり、また石を組み合わせて「部屋状」にしたもの(ドルメン)もたくさん存在している。ドルメンの一部は「墓」であったようだが、すべてのドルメンがそのまま「墓」であったとするには疑問が多いとされ、さまざまの使用用途・目的が提唱されている。
09 世界遺産「アルル」
【09 世界遺産「アルル」】
紀元前500年代に古代ギリシャ人によって形成された「都市セリネ」が源となる。紀元前120年頃にローマの進出によって町は「ローマ都市」となる。アルルは「カエサル」を支援し、カエサルが勝利していくことで大都市となり、「ローマ第六軍団の、ユリウス家の伝統あるアルルの植民都市」と呼ばれ、ローマ帝国の「ガリア地方への軍事遠征における本部」とされた。
10 フォルムの地下回廊見取り図
【10 フォルムの地下回廊見取り図】
フォルムというのは「列柱廊で囲まれて神殿や公共建物を持つ公共広場」のことで、都市の中心となる。カエサルの都市となったところで建造されたと考えられ、従って紀元前40年くらいの建造と思われる。このアルルのフォルムは地下回廊を持っており、長さ約90メートル、幅約60メートルが残存している。
11 フォルムの地下回廊説明図
【11 フォルムの地下回廊説明図】
フォルムそのものの遺構は現在でもローマ世界のいたるところで見ることができるが、こんな「地下回廊」がそのまま完璧に残存しているところは他にない。そうした意味で「世界唯一の遺構」ともいえる。この図でこのフォルムの構造をしることができる。
12 フォルムの地下回廊
【12 フォルムの地下回廊】
地下回廊といっても、現在の地下商店街のように完全に地中に埋まっていたわけではなく、むしろ「半地下」といった構造になっていたものと思われる。しかしこのフォルムの規模は相当に大きい。アルルがどれほどの都市であったのかが推し量れる。
13 劇場
【13 劇場】
円形闘技場の隣りにあるが、闘技場より早く建造されている。ローマ劇場は「さまざまのイベント」に使用されローマ都市に必須のものであった。収容人数は約1万と算定される。背景の建物は殆ど破壊され「二本の柱」のみが残っているだけで、現地ガイドはこれを「二人の未亡人」などと呼んでいるので印象深く覚えている人もいるだろう。
14 円形闘技場外観
【14 円形闘技場外観】
紀元後75年前後に建造されたと推定されているもので、直径が136メートルあり収容人数は2万と算定される。これは植民都市のものとしては平均的だが、残存状態としては良い方に属する。往時は3階建てであったような痕跡もあるが現在は二階までしか残っていない。
15 円形闘技場内部
【15 円形闘技場内部】
円形闘技場の使用目的はいうまでもなく「剣闘士」「野獣の殺し合い」を見るためで、ローマの文化を紹介する時「ローマ人の残虐さ」などが良く指摘される。しかし、現在でもその流れは残っているのであり、ここでも「闘牛」などが催されており、この闘技場にはそのための赤いクッションのガードなどが見られる。
16 円形闘技場の回廊
【16 円形闘技場の回廊】
我々が野球場やサッカー場に行けば経験するわけだが、「回廊」を通って観覧席へと入っていく。その回廊も見事に残っている。要するに我々の持つ競技場の「モデル」が円形闘技場だったというわけなのである。
17 コンスタンティヌスの浴場外観
【17 コンスタンティヌスの浴場外観】
「コンスタンティヌスの建造」ということになると紀元後300年代の始め頃ということになる。それまでこのアルルの町に浴場が無かったということはローマ文化のあり方からしてあり得ないので小さな浴場は複数あっただろうが、ここに大規模なものが作られて従来のものは歴史の中で消滅したのだろう。その規模の立派さをしのぶことができる。
18 コンスタンティヌスの浴場内部
【18 コンスタンティヌスの浴場内部】
ローマ浴場というのは、水風呂から微温風呂、熱風呂、スチームなどさまざまのタイプの浴槽や設備をもち、「日本のスーパー銭湯の大掛かりなもの」とイメージしておけば良い。浴槽そのものは消滅しているが、この写真は「スチーム室」であったと思われる。ローマの人々は、午後はここで体操して風呂に入っておしゃべりして、といった具合に過ごしていた。
19 ニームのローマ時代の町復元図
【19 ニームのローマ時代の町復元図】
ニームはアルルの西北に位置している大きな都市であった。ここも「世界遺産級のローマ遺構」があるのだがまだ未指定である。そのため有名度において劣っているが、ローマ遺構の質から言うとニームは絶対にはずせない。その遺構は「メゾン・カレ」と呼ばれている「神殿」(写真中央)と、保存状態の良い「円形闘技場」(写真手前)などになる。
20 アウグストゥス門
【20 アウグストゥス門】
この地方一帯が重要なローマ都市として整備されたのが紀元前後の初代皇帝アウグストゥスの時代であるため、アウグストゥスの名前を持つ遺構は当然多い。これもそのうちの一つで、町に入る門の跡となる。「ローマに通ずる街道上にあった主門」と推定される。現在ここにアウグストゥスの銅像のレプリカが置かれている。
21 円形闘技場
【21 円形闘技場】
ニームの円形闘技場は建造時期も規模も「アルルの闘技場」と大して変わらない。価値はその「保存状態の良さ」にある。ニームはアルルの隣り町だが、地方開拓都市には住民の娯楽施設として「闘技場」と「劇場」が作られるのが定番であった。これは勿論、娯楽を与えることでの住民の不満の解消という目的があったから。
22 神殿(メゾン・カレ)
【22 神殿(メゾン・カレ)】
古代ローマ領域にあるローマ神殿の中でも「保存状態からすれば最高の神殿」となる。通称の「メゾン・カレ」とは「四角い家」というつまらない言い方だが、しかし、位置や形態から推定して都市の中心に置かれていた「キャピタル神殿」だったと思われる。最高度に重要な遺構なのだが、日本のパック観光旅行は滅多にここに来ないのが不思議。
23 メゾン・カレの回廊跡
【23 メゾン・カレの回廊跡】
神殿の手前に注目してもらいたい。回廊の柱の土台が残っているが観察されるであろう。神殿を囲んで「コの字型の回廊」があって、しかも町の真ん中に造られていることは「キャピタル神殿」の定番の造りとなる。
24 「フォンテーヌ庭園」
【24 「フォンテーヌ庭園」】
現在「フォンテーヌ庭園」と呼ばれている庭園は古代からの「聖なる泉」の跡である。19番の「古代ニームの復元図」の一番奥が丘状になっていて一つの塔(マーニュ塔)が見えるがその手前の青く囲まれているところとなろう。
25 「マーニュ塔」
【25 「マーニュ塔」】
この庭園の背後の丘の上に「マーニュ塔」と呼ばれる塔があるのだが、これはかつての「ローマ城壁の一部を為していた塔」であり、こうしてみるとニームの町の大きな規模が良く見えるであろう。
26 ローマ水道の終点の配水場
【26 ローマ水道の終点の配水場】
これも現在見ることのできる多分世界唯一の「ローマ時代の給水施設」となるが、「ポン・デュ・ガールの水道橋」の到着地がこことなる。このプールから町中に給水管を通して給水された。プールの囲いの回りに空けられているたくさんの穴がその「給水管の跡」であり、それは鉛の管であったため「健康障害」を起こしたと言われる。
27 世界遺産「ポン・デュ・ガールの水道橋」の上にて
【27 世界遺産「ポン・デュ・ガールの水道橋」の上にて】
ニームの町の郊外にある「水道橋」の上に立っている。「ポン・デュ・ガールの水道橋」は「橋一つで世界遺産となっている」貴重なローマ遺構となる。この水道橋を通って水が「ニームの町」に運ばれてきたのだが、ニームの町から北東30キロくらいのところにある。現在の橋の残存状態は長さ275メートル、高さ49メートルとされ、建造時期は紀元後の30〜50年頃かと推定される。
28 ポン・デュ・ガールの水道橋
【28 ポン・デュ・ガールの水道橋】
水路全体としては全長50キロの水路となるが、水道橋というのは山から平野部に入って土地が凹凸になってきたとき、凹部分の上や河の上にかけるものであった。ここは「ガルドン河」を渡るための水道橋となる。この「ポン・デュ・ガール」の水道橋は数ある「ローマ水道橋の中でも最高傑作」とされ、建築美術的にも賛嘆されている。
29 水路
【29 水路】
水路は高地の山から低地の町に引かれていたわけだが、基本的に「水の重力」を利用して上から下に流していた。高低差の取り方は1キロ当たり平均34センチ、50キロで17メートルとされ、勿論それでも高低差はでてくるわけで、どうしても水を上に押し上げねばならない時には「サイフォン」の施設を持っていた。ここにはそれは観察されず通常の水路となっている。
30 水路が橋から平地(山地)に入った部分
【30 水路が橋から平地(山地)に入った部分】
この「ポン・デュ・ガール」は「橋の部分の水路」「平地に入った部分の水路」が観察できることでも貴重なものとなる。写真奧が橋の部分なのだが手前は橋を渡ったところの陸地というわけである。ここから水路は「ただの水路」となっていく。
31 山地を走る水路
【31 山地を走る水路】
山地を走る水路はこんな具合になる。真ん中の部分が破壊されてしまっているのが残念だが、様相は分かるであろう。今と違って昔の山中を流れる水は清浄で汚れることも殆どなかったからこんな水路で良かった。町に入ってきてから「地下水路」などが工夫された。
32 山地での小さな水道橋
【32 山地での小さな水道橋】
山地を走る水路も当然凹凸の土地を流れることになり、落差が激しくなると流れの「斜度を平均化」するためにこんな具合に橋として通すこともあった。この「ポン・デュ・ガール」は全体として「水路や水道橋のあり方」を良くみせてくる貴重な場所と言える。
33 サン・レミド・プロヴァンス郊外のグラヌムの遺跡
【33 サン・レミ・ド・プロヴァンス郊外のグラヌムの遺跡】
アルルから北東に30キロくらいのところに現在の「サン・レミド・プロヴァンス」の町があるが、その郊外に「古代ローマ都市グラヌム」の遺跡がある。アルルやニームに比べるとかなり小さな町だが、一つの町の遺構がそのままそっくり残っているのはフランスでは唯一となる。世界遺産となっていて不思議ではないのだがまだ未指定である。
34 グラヌムの記念碑
【34 グラヌムの記念碑】
観光客がサン・レミ・ド・プロヴァンスに来るというときには「ゴッホゆかりの病院」を訪ねるというのが目的とされるようだが、実はその脇にこの二つの記念碑がある。古代ローマ都市「グラヌムの町」の北入口の場所にたっている記念碑だが、手前のものは「霊廟」であり奧のものは「門」となる。「ローマ霊廟」は西欧で唯一のもので貴重。
35 霊廟
【35 霊廟】
この霊廟の碑文は「頭文字だけの名前の羅列」で、一応現在では「セクストゥス、ルキウスとマルクス・ユリウス、ガイウスの息子たち、その両親に」と解読しているのだが、ところがここでの人名には「同名人」が山ほどいるので、この解読でもどうも「誰が誰のために」建造したのかはっきりしない。
36 門
【36 門】
天井部分が破壊されている。「門」は「都市門」という性格の他に皇帝などの「業績」や「記念」という性格を持つ場合もあり「武勲の様子」が彫刻されていることが多い。ここも「ローマによるガリア人の征服」が彫刻されている。建造の主人公の名前は不明。時代的には紀元後10〜20年の間に建造されたと考えられる。
37 グラヌムの遺跡
【37 グラヌムの遺跡】
この町の由来は古く「ケルト民族」の「聖なる泉の聖地」として形成され、ギリシャに引き継がれ、そしてさらにローマの町とされたのだが、もともと狭い空間の土地であったためか町も大きくは発展しなかった。ほどなく蛮族の侵入などがあって見捨てられたようである。町は地形の関係から南北の道路の両脇だけに造られているので、見学には便利である。
38 家の遺構の復元図
【38 家の遺構の復元図】
もう一つ、ここは小さな町ということもあるせいか、遺構に案内板がついていることが多くてその点でも見学はしやすい。これは「家の説明図」だが、家の真ん中にプールを置いてその周囲に部屋を配置するという「ローマ家屋に典型的なつくり」となる。
39 ローマ家屋の中庭のプール
【39 ローマ家屋の中庭のプール】
38の復元図が説明していた「家屋の中庭のプール」となる。ここは天井がなく雨水がそのまま溜まるようになっている。その回りに列柱郎が巡らされさらにその列柱郎の奧にさまざまの部屋がしつらえられていた。この家屋は二階建てであったようで、その様子が良く見て取れる遺構である。
40 ツイン神殿跡
【40 ツイン神殿跡】
一つの神殿の一部が修復されているだけだが、ここは二つの神殿が並んで建てられていた「ツインの神殿」である。その復元図が手前に置かれている。修復されているのはその小さな神殿の方であるが、これは「皇帝崇拝に基づく神殿」と推定されている。
41 プリュタネイオン
【41 プリュタネイオン】
ここにも「建物の名称版」がついているので「プリュタネイオン」と認識できるが、プリュタネイオンとは「都市の中心建物」で、議員の詰め所であったり、使節を迎えたり、名誉市民を歓待したりする場所で「町の聖なる火」がともされていたところである。
42 ワインを燻す部屋
【42 ワインを燻す部屋】
案内板での表示を「ワインの薫製所」と読んでしまうと何やら分からなくなるが、どうもワインを「生の空気」に直接ふれさせないために「煙で充満させた部屋」にいれて貯蔵していたらしい。その施設の残っている部屋ということだろう。
43 聖なる泉
【43 聖なる泉】
ここがもともとケルト時代の「聖なる泉の聖地」であったことは先に指摘しておいたが、その泉は当然ローマ時代にも引き継がれている。中央のアーチが見える空間がそれで、その向かって左は「健康の女神ヴァレトゥードの神殿」で、右は「ヘラクレスの神域」となる。
44 世界遺産「オランジュの門」
【44 世界遺産「オランジュの門」】
紀元前20年代と推定される門で、アルルから北のリヨン方面に抜ける「アグリッパ街道」の門とされている。「カエサルのガリア征服」と見られるレリーフとアウグストゥスの「アクティウムの海戦」と思われるレリーフがあることから「二人の記念門」の性格も持っていたと考えておいて良い。この門の残像状態は相当に良い。
45 「門の正面」
【45 「門の正面」】
世界遺産指定を受けている「ローマ門」は少ない。この「オランジュの門」は数多く残っている「ローマ門」の中でも最高度に状態が良く、しかも「もっとも立派な門」と評価されることから劇場と組となって世界遺産とされているのであろう。確かにこのオランジュの門はその立派さにおいて他をしのいでいる。
46 「古代ローマ劇場」
【46 「古代ローマ劇場」】
オランジュの「劇場」は古代ローマ劇場の中では「もっとも保存状態が良い一つ」となる。建造時期は、この地方の殆どのものがそうであるように「アウグストゥスの時代」で、これは紀元後に入ってからのものと推定されている。「アウグストゥスの像」がここで発見されているのも注目で、その像が本来置かれていた壁の穴「ニッチ」に収められている。
47 劇場の側面
【47 劇場の側面】
「劇場の舞台部分の側面」の写真だが、この部分がこれほど完全に残っているローマ劇場遺構は世界的に少ない。また写真では良くわからないのでカットしたが、舞台部分の背面の壁が見事に残っているのはここが最高となろう。そうした意味で世界遺産指定を受けていると思われる。
48 オランジュの博物館の「有翼人面獣」の像
【48 オランジュの博物館の「有翼人面獣」の像】
各地の博物館にはそれなりに珍しい彫刻や遺物があるものなのだが、このオランジュの博物館には「対となっている有翼人面獣」の像がある。姿からしてギリシャ・ローマ世界での「スフィンクス」だろうが、「有翼」にしているのはいいとして「人間の乳房と動物の乳房」を持っているのは珍しい。
49 世界遺産「リヨンの劇場」
【49 世界遺産「リヨンの劇場」】
「オランジュ」からかなり北上したフランス中部の都市「リヨン」は「歴史地区」として世界遺産となっている。紀元前43年頃に「ローマ都市ルグドゥヌム」として建設。現在の「フルヴィエールの丘」がその起源とされる。しかしプロヴァンス地方から北上するに従って「ローマ遺跡」は貧弱となり、ここでのローマ遺跡はこの「劇場のみ」となる。
50 ランスの「マルスの門」
【50 ランスの「マルスの門」】
リヨンからさらにまっすぐ北上するとパリの東にある「ランス」に至る。ここはもう「フランス北辺」に属する。ランスは中世の「大聖堂」で世界遺産指定を受けて有名なのだが、ここもローマ都市だったのでありその遺構を「マルスの門」に見ることができる。「マルス」というのはローマの「軍神」の名前だが、そのまま「軍神の門」としたのだろう。
51 パリの「リュテス闘技場」と「浴場」
【51 パリの「リュテス闘技場」と「浴場」】
パリも「古代ローマ都市」の一つでローマ名を「ルテティア」と言った。さらに北方や西方への「前線基地の町」からやがて「都市」としての形態に育ち、都市らしく「円形闘技場」や「浴場」などが建設された。その跡を今日もたどることができ、すでに現代風に整備されて「一つの公園」のようにされているが「リュテス闘技場」という名前が残っている。
52 パリの「ローマ浴場跡」
【52 パリの「ローマ浴場跡」】
この「リュテス闘技場」から遠くないところに「中世美術館」があるが、その建物が古代ローマ浴場の残滓なのである。つまり「古代ローマの浴場跡」を利用して中世美術館を造ったというわけである。浴場の建造は紀元後200年代とされている。場所は「ローマ都市としての発祥の地」とされる「シテ島」の南対岸となる。
53 パリの凱旋門
【53 パリの凱旋門】
パリの凱旋門だが、これは古代ローマのものではない。古代ローマに憧れていた「ナポレオン」の建造したもので、1800年代のものとなる。ナポレオンは自分の「凱旋」を企図してつくらせたため「凱旋門」と呼ばれることになり(死後にやっとくぐれた)、古代ローマの「皇帝記念門」や「都市門」まで「凱旋門」などと呼ばれることになってしまった。

▲ページのトップへ