1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 32. フランス中世の「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会バー
HOME
INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

32.

フランス中世の「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」


フランス中世の「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」地図-小 拡大地図を見る>>
 紀元後476年、ローマ帝国の西領域は「ゲルマン民族」に奪われ、ゲルマン民族の支配地となっていく。現フランス地方もゲルマン諸部族の内部争いの歴史となる。この時代、北ガリア地方にあった「フランク族の長クローヴィス」が496年にカトリックに改宗し、こうして「フランク族」はローマ教会の支援を受けて台頭して800年には現在の西欧領域の大半を支配する勢力となって落ち着く。
 しかし程なくこのフランク王国は内紛により三つに分割し870年「メルセン条約」でその領域が定められる。これが
「今日のフランス」「北イタリア」「ドイツ」の発祥となる。今日のフランスとはつまり「西フランク」のこととなる。ただし、西フランクはまだまだ歴史的に「諸侯の入り乱れた状況」が続き「一つなるフランス」など遠い将来のこととなる。
 後に一つのフランスを確立することになるフランス王権の確立を簡単に言えば、そもそもイギリス地方とフランス地方の覇権争いの歴史であった。つまり、1000年代の半ば頃、フランスにあった
「ノルマンディー公ウィイリアム」がイギリス地方に侵略して占拠し「ノルマン朝」を開き、当時では「イギリス領域はフランスの一部領域」のようなものであった。実際、その後フランスからイギリス王として入った「プランタジネット家」はイギリスからフランス西域にかけてを領地としていたのである。その後イギリス王家はフランス地域領を失っていったのである。そして、1300年代にフランスの「カペー朝」が途絶えて取りあえず「ヴァロア家」が嗣ぐとされたのだが、イギリス地方にあったプランタジネット家のエドワード三世が「フランス王位権」を主張してきた。何故なら、エドワードは「カペー朝の血筋」にあったからである。こうしてヴァロア家とプランタジネット家の争いとなったわけで、要するにイギリスとフランスとの100年戦争と言われるものは「フランス王家内部の家督争い」だったのである。
 そうした中で1400年代ジャンヌ・ダルクが出現してイギリスを破り、フランスの
「ヴァロア朝」が政権を確立するということになって、それ以降はその系譜王朝が「フランス王家」として君臨していく、となるのである。
 他方、文化的にはフランスの「中世」というのは、
「キリスト教・カトリック」が主体となって、そこに「王権」が絡み、そこに「地域社会・文化」が融合するという形となっている。 従ってフランスの歴史文化は、結局この「キリスト教と王権」という二つの権力の象徴的建造物、つまり「キリスト教聖堂・修道院」「宮殿・城」とに代表されることになる。
 この事情はフランスの「世界文化遺産」を見て見ればはっきりする。別途みておいた「古代ローマ遺構」を除くと、世界遺産の大半が
「キリスト教聖堂」「宮殿・城」かである。その他の文化世界遺産としては地域遺構などが数個はいってくるに過ぎない。
01 パリの「ノートル・ダム」にて
【01 パリの「ノートル・ダム」にて】
フランスの文化遺産を訪ねる旅は実に多様となり、ローマ帝国遺構、あるいは中世カトリックの聖堂を訪ねる正攻法のものから、古代ケルト民族遺構、あるいは近代革命の道筋、あるいは芸術からワイン・料理の探訪までさまざまにある。ここでは「中世カトリック大聖堂」を中心に、少しだけ「王城・王宮」を紹介して「中世フランスの旅」とする。
02 世界遺産「モン・サン・ミッシェル
【02 世界遺産「モン・サン・ミッシェル」
日本でもっとも有名なフランスのキリスト教聖堂となると最近ではこの「モン・サン・ミッシェルの修道院」となるようである。それ故ここから紹介する。「一つの小さな島全体が修道院」となっていて、「モン」は「山・丘」で「サン」は「聖」、「ミッシェル」とは「天使ミカエル」のことで、要するに「ミカエルの聖堂・修道院」というわけである。
03 モン・サン。ミッシェルの「原型復元模型」
【03 モン・サン。ミッシェルの「原型復元模型」】
この島は、もともと「ケルト(ガリア)民族の聖地」であったところであるが、708年に司教の「オベール」に天使ミッシェル(ミカエル)が現れて「ここに聖堂を建てよ」と告げたという伝承がある。はじめは当然「小さな祠」でそこから順次発展して今日のような「城塞修道院」のようになっていった。
04 巡礼地としてのモン・サン・ミッシェル
【04 巡礼地としてのモン・サン・ミッシェル】
現在では「ただの観光地」に過ぎないが、昔日ここは「巡礼の地」だった。しかもそれは「命がけ」だった。それはこの島を取り巻く「潮」に原因があり、満ち潮の時は「島」なのだが引き潮となると地面が現れて「道を渡れた」。しかし時計のない時代、時を過つと突然現れてくる「強い潮の流れ」に流されてしまったからである。
05 修道院の姿
【05 修道院の姿】
「城塞」と見間違えるが、966年にノルマンディー公リシャール一世がここの聖堂を「ベネディクト会修道院」として改造し、度重なる改築を経て13世紀には現在の姿に近くなっていたという。18世紀末におきたフランス革命によって修道院は廃止され、1863年まで「監獄」とされていたという。1865年に復元され現在に至っている。
06 ミッシェルとオベールの伝承
【06 ミッシェルとオベールの伝承】
伝承によると、司祭オベールは「天使ミッシェルの言葉」を当初信じなかったところ、再三のお告げにもそれを信じようとはしないオベールに腹を立てた天使ミッシェルは「オベールの頭に指を突き立てた」という。夢から覚めたオベールは頭に穴が開いていることからようやく天使の言葉を信じてここに聖堂を建立したという。その言われの浮き彫り。
07 入口
【07 入口】
修道院に入っていく入口のところだが、「はね橋」となっていてまるで城塞に入るような情景となる。左手に有名な「プアールおばさんのオムレツ屋」がある。昔日、やっとここにたどりついた疲労困憊の巡礼者に「プアールおばさん」が手軽で滋養のあるものをということで発案したという伝承がある。現在ではこの近辺はおみやげ屋がならび、人が一杯である。
08 メイン・ストリート
【08 メイン・ストリート】
メイン・ストリートなどといったが道は一本しかない。しかし、この道はいい。特に「込んで居ないとき(滅多にないが、冬ならある)」は「中世の雰囲気」を醸し出していて印象的である。ちなみにここには現在でも修道僧や尼さんがいて修道院として現役を保っている。
09 サン・ピエール教会とジャンヌ・ダルクの像
【09 サン・ピエール教会とジャンヌ・ダルクの像】
聞くところによると日本の観光パック旅行は殆どこの教会に立ち寄らないそうだが、それはないであろう。小さな教会だが「ジャンヌ・ダルクと天使ミッシェル」の関係を語っているわけで、内部は小さいからみるのに10分とかからない。ここでジャンヌ・ダルクに現れたミッシェルの真意など推測してみるのがいい。
10 回廊
【10 回廊】
修道院内部は、その城塞的な建造のあり方や礼拝室やさまざまの施設をみて回ることになるのだが、この「回廊」は観光客にとって最大の見所の一つとなっている。修道院に回廊があること自体は全く普通だが、城塞のようなところをみてきたので、「その美しさ」がとりわけ印象的となる。
11 世界遺産「アルルのサン・トロフィーム教会」
【11 世界遺産「アルルのサン・トロフィーム教会」】
南フランスの「アルル」に「ロマネスク様式教会」の代表として「サン・トロフィーム教会」が世界遺産となっている(写真中央奧の昔風の建物)。「ロマネスク様式」というのは「ローマ風の様式」ということで西欧教会建築「初期の様式」をいう。時代的には1000年代以降で、後で紹介するゴシック様式は1200年代以降の中世全体としておいて良い。
12 サン・トロフィーム教会の正面
【12 サン・トロフィーム教会の正面】
ロマネスク様式の特徴は全体的に「平面的」で、「ローマ風の柱」を持っていたり「ローマ風アーチ」をもっていることが多い。聖堂入り口のところが「アーチ状のへこみ」となっていて上部は「半円形(タンパンと呼ぶ)」でそこに「イエスと四福音書記者のシンボル動物」の浮き彫りがある。この様式は多い。左上の「人の姿」が「マタイ」、その下の獅子が「マルコ」、右上の「鷲」が「ヨハネ」で、その下が牛の「ルカ」となる。
13 サン・トロフィーム教会の回廊
【13 サン・トロフィーム教会の回廊】
この回廊も落ち着いた雰囲気を持つ。当初は「ロマネスク様式」だったが(東面と北面に残存)、西面と南面は後世の「ゴシック様式」となっている。カトリック中世の教会は、後世に修復したり改造したりあるいは付設したりする際「建造当時の様式」で行わず「その当時の流行」に従って造るため、多くの聖堂が「時代の異なる様式」の混在となっている。
14 回廊の「ゴシック様式」
【14 回廊の「ゴシック様式」】
このサン・トロフィームの回廊は、「回廊建築の代表的なものの一つ」と評価されている。西・北面の回廊の天井のアーチ文様の建築様式が「ゴシック様式」であることを良く表している。ゴシックとは元来は「(蛮族の)ゴート族風=田舎者風」という侮蔑語で「ゴテゴテと悪趣味」という意味だったのだがこれが結局もっとも一般的な建築様式となった。
15 回廊「ロマネスク様式」
【15 回廊「ロマネスク様式」】
回廊の「北と東の部分」は1100年代の「ロマネスク様式」の原型を保っている。天井が「かまぼこ状」にのっぺりしているのでそれが分かる。
16 世界遺産「リヨンの歴史地区」
【16 世界遺産「リヨンの歴史地区」】
アルルからまっすぐ北に上って行くと、大都市としてはリヨンに行き着く。ここもローマ時代からの町となり、また中世の遺物も残していることから「リヨンの歴史地区」という形で世界遺産となっている。写真は「フルヴィエールの丘」からの町の展望となる。正面手前に重要聖堂「サン・ジャン大聖堂」が見える。
17 リヨンのサン・ジャン大聖堂
【17 リヨンのサン・ジャン大聖堂】
「歴史地区」を代表する建造物が「フルヴィエールの丘」のふもとにあるこの大聖堂となる。大聖堂とは「司教座聖堂」といい、地区の司教の座がある中心教会となる。1180から1480にかけて建設された。1600年にはフランス王アンリ四世が結婚式を挙げている。
18 リヨンの「ノートル・ダム聖堂」
【18 リヨンの「ノートル・ダム聖堂」】
フルヴィエールの丘の頂上にある聖堂だが、建造は1800年代の末という「新しい聖堂」である。そのためこの聖堂の様式は「ゴシック様式」ではなく「ロマネスクのようなビザンティンのような」何とも形容できない「独特の様式」となっている。きれいな趣きで丘の上にあって目立つために人気は高く「サン・ジャン大聖堂」より有名となってしまった。
19 世界遺産「ブールジュの大聖堂(サン・エティエンヌ大聖堂)」
【19 世界遺産「ブールジュの大聖堂(サン・エティエンヌ大聖堂)」】
リヨンの北にある「世界遺産となっている有名聖堂」としては「ブールジュの大聖堂」となる。これは「地名」で聖堂の名前は「サン・エティエンヌ大聖堂」となる。「エティエンヌ」とは「聖ステファノ(聖使徒たちの教会での最初の殉教者)」のこと。なお、聖堂は必ず「西が正面」となる。
20 ブールジュの大聖堂の西正面
【20 ブールジュの大聖堂の西正面】
この地方は1100年代のフランスにあっては「王領の最南端」であり、つまりこの南地方は王領ではなかったわけで、それを睨むようにここに「大聖堂」を建てることはフランス王家にとって「自分たちの権威の象徴」の意味があったと考えられる。時期は1195年〜1260年となり、「初期ゴシックの代表的なもの」となる。
21 大聖堂のステンド・グラス
【21 大聖堂のステンド・グラス】
ここのステンド・グラスも美しいことで有名だが、全体的にフランスの大聖堂の最大特徴が「ステンド・グラスの美しさ」にある。それを見て回るのが「フランスの聖堂巡りの意味」となるほどである。ステンド・グラスに関しては時期や様式などいろいろやかましい議論もあるが、一般にはこだわらずにとにかく自分の好みを探せばそれで良い。
22 世界遺産「シャルトル大聖堂(ノートル・ダム大聖堂)」
【22 世界遺産「シャルトル大聖堂(ノートル・ダム大聖堂)」】
ブールジュから北に、パリに近い場所にあるこの聖堂は初期のロマネスクを一部残した「初期ゴシック様式の聖堂」となる。一部残したという意味は、この聖堂はもともと「ロマネスク様式の聖堂」であったものが1194年に焼失してしまい、建て直された段階で「初期ゴシック」になったというわけ。
23 シャルトル大聖堂西正面
【23 シャルトル大聖堂西正面】
ロマネスク様式の残存は「向かって右側の塔」が一番分かりやすい。左側の「ゴシック様式の塔」と好対照になっている。右の塔は「すっきりと平面的」で、左の塔は「ゴテゴテしている」のが一見して分かる。尖塔部分はさらに後代の1500年代の附加とされ高さは115メートルある。聖堂の正面は必ず西になることは重ねて注意しておく。
24 大聖堂のバラ窓のステンド・グラス
【24 大聖堂のバラ窓のステンド・グラス】
この聖堂の最大人気はそのステンド・グラスにあり、一般に「シャルトル・ブルー」と言われるが別に青にこだわる必要もない。あたかも万華鏡のような丸いバラ窓や人物像、聖書物語など多様の美しさを見れば良い。この写真は「バラ窓」「旧約聖書の人物像」で向かって右が「アロン」となり、隣りが「ソロモン」、その隣りが「アンナ」その隣りが「ダビデ」となる。
25 オルレアンのジャンヌ・ダルクの像
【25 オルレアンのジャンヌ・ダルクの像】
オルレアンはブールジュとシャルトルの中間くらいに位置しており「ロアール河」に近い。「ジャンヌ・ダルク(1412年〜1431年)」はフランス領域とイギリス領域との間の王権の本家争いに際して、天使ミッシェルのお告げと称してオルレアンで勝利」してフランス側に勝利をもたらしたことで有名。聖堂巡りをしているとしばしば出会うので由来を知っているといい。
26 「サン・クロワ大聖堂(聖十字架大聖堂)」
【26 「サン・クロワ大聖堂(聖十字架大聖堂)」】
オルレアンの大聖堂は世界遺産とはなっていないが、なかなかいい造りをしている。1200年代に建造がはじまったが完成は1400年代初頭とされる。1500年代半ばに起きた宗教戦争によって破壊されたが1700〜1800年代にアンリ四世によって復興された。そのため後期ゴシック様式となっている。
27 サン・クロア大聖堂のジャンヌのステンド・グラス
【27 サン・クロア大聖堂のジャンヌのステンド・グラス】
この聖堂の最大の見物は「ジャンヌ・ダルク」のステンド・グラスとなる。彼女の生涯をステンド・グラスで連作のように表しているので、それを見ていくといい。写真はジャンヌがとらわれた後にイギリス軍に引き渡されて火刑に処された場面となる。
28 ヴァンヌの木骨組の町並み
【28 ヴァンヌの木骨組の町並み】
フランス北部の地方都市には世界遺産とはなっていないがなかなか素晴らしい町並みや大聖堂がたくさんある。ヴァンヌは三角に大西洋に着き出したブルターニュ地方の中頃の南海岸沿いの町で、素朴な木骨組の家の並びが残っている典型的な地方の町となるが、「歴史と芸術の町」の指定をうけているように由緒あり美しい町である。ここにも大聖堂がある。
29 ヴァンヌの大聖堂
【29 ヴァンヌの大聖堂】
「サン・ピエール大聖堂」というが、この地方が1500年近くにフランス王家によって占拠・併合された後に建造されたので比較的新しいゴシック様式の聖堂となる。ゴシック様式ではあるが、それほどゴテゴテとはしておらず、むしろ堅牢な城のような感じを受ける。地方都市でもこれだけの聖堂をもっているということの好例。
30 ヴァンヌの聖堂のステンド・グラス
【30 ヴァンヌの聖堂のステンド・グラス】
この聖堂にもたくさんのステンド・グラスがある。勿論、由緒のあるものではないが、きれいなステンド・グラスがある。その中にこの写真のステンド・グラスがあったのだが、これは「ジャンヌ・ダルク」としか見えない。そうだとするとこんな地方にまでジャンヌの威光がとどいているということになる。
31 ルーアンの「ジャンヌ・ダルク教会」
【31 ルーアンの「ジャンヌ・ダルク教会」】
ルーアンはパリから北方にある町で「ジャンヌ・ダルク処刑の場所」として有名。その処刑の場所の傍らに現在「ジャンヌ・ダルク教会」が立てられている。近くにあった「サン・ヴァンサン教会」に代えて建造されたものとされ、全く現代的な造りとなっている。しかし見方によって「ジャンヌの身に付けていた鎧・兜」と見える。ただし内部はジャンヌの面影などみじんもない。
32 ジャンヌ・ダルクの処刑場跡
【32 ジャンヌ・ダルクの処刑場跡】
ジャンヌ・ダルクは最終的に王家に対立していたブルゴーニュ軍に敗れて捕らえられ、救出しようとしたオルレアンの民衆はフランス王シャルル七世に裏切られ、そしてジャンヌはイギリス軍に引き渡されて、「魔女」という「カトリック教会の認定」の下に火刑に処せられた。この事件は「カトリックとフランス王の汚さと欺瞞」を表すのだが、一般には余り紹介されない。
33 ルーアンの大聖堂(ノートルダム大聖堂)
【33 ルーアンの大聖堂(ノートルダム大聖堂)】
それ以外にこのルーアンにはもう一つ「モネ」が連作として描いた大聖堂があることで知られている。創建は1063年と言われて由緒あるものだが、その後度重なる改修・改造を経て相当に変わってしまったと言われる。152メートルと言われる目立つ尖塔も19世紀のものである。
34 ルーアンの大聖堂西正面
【34 ルーアンの大聖堂西正面】
「モネ」の連作はこの正面の姿なので絵の好きな人には知られているかもしれない。モネが連作の対象にしただけあってその姿は立派でありフランスにある大聖堂の代表の一つと言われる。ここも左右の塔の形が違うことに気がついたろうか。また、正面から尖塔が何本も見えるのも特徴的である。
35 世界遺産「アミアンの大聖堂」
【35 世界遺産「アミアンの大聖堂」】
ルーアンから東に行ったところが「アミアン」となるが、ここに「フランス最大級の大聖堂」がある。矢張りその特徴は「規模の大きさ」ということになろうが、写真の北側から「こじゃれた運河の町並み」を通して見た姿の美しさも人気の一つのようである。1220年に着工され、1288年に完成とされる。
36 大聖堂西正面
【36 大聖堂西正面】
アミアンの大聖堂は「ゴシック建築の代表」とも言われるように、ゴシック様式の固まりとなっている。要するに、「ゴート族=蛮族の田舎風」という「ゴテゴテと飾り立てられ、壮大・豪壮でハデ」というゴシックの様式をもっとも表しているのが「アミアンの大聖堂」であるといえる。
37 大聖堂「タンパンの浮き彫り」
【37 大聖堂「タンパンの浮き彫り」】
大聖堂正面入口の上部のアーチ状のところをタンパンというが、そこには「最後の審判の浮き彫り」がある。タンパンには「最後の審判」か「イエスと四福音書記者のシンボルの浮き彫り(11の写真「アルルのサン・トロフィーム教会」で説明)」が定番となる。「最後の審判」は、上段中央にイエス、中段右は地獄行きで左は天国行き、下段は「墓からのよみがえり」と中央に「審判のはかり」となる。
38 聖堂正面の「12星座と季節労働」の浮き彫り
【38 聖堂正面の「12星座と季節労働」の浮き彫り】
西正面にはさまざまの彫刻や浮き彫りがほどこされるのが定番であるが、ここには「12星座」と「その季節の労働」の浮き彫りがあることが珍しい。通常は「聖人や聖書ゆかりのもの」となる。もちろんそれもあり、ここにはさまざまのタイプの彫刻があることになり「石の百科全書」などと言われる。これも見所の一つとなる。
39 「嘆きの天使」
【39 「嘆きの天使」】
アミアンの彫刻群の一つだが、内部にこうしたタイプの彫刻があり、これは「天使が嘆いている」ところから一般に「アミアンの嘆きの天使」と呼ばれている。こういった天上的存在のリアリズム的彫刻というのは伝統的キリスト教にはあり得ない。「偶像の禁止令」に触れるからである。しかし、カトリックはこういうことに無頓着となる。
40 世界遺産「ランスの大聖堂(ノートル・ダム大聖堂)」
【40 世界遺産「ランスの大聖堂(ノートル・ダム大聖堂)」】
ランスの大聖堂は、かつてフランス王の大半が「戴冠式をおこなった聖堂」として有名。その所以は、フランスの始祖ともされる「フランク族の長クローヴィス」が紀元後の496年ここで「カトリックの洗礼」を受けたので「後のカトリック・フランスの発祥の地」とも言えるわけで、そこから「フランス王はここで戴冠する」ということになったのであろう。
41 大聖堂西正面
【41 大聖堂西正面】
クローヴィスの時代の聖堂は1210年に火事で焼失し、その翌年から再建が始められたが、できあがったのは1400年代になってからのことだという。西の正面の上層部には56人の王たちの彫像が並んでおり、中央が「洗礼を受けるクローヴィス(裸で前で手を合わせている)」となり、隣りに洗礼を授ける「司教レミギウス」の像がある。
42 ほほえみの天使
【42 ほほえみの天使】
このランスの西正面の彫刻群も有名だが、そこに「微笑んでいる天使」の像があり、一般的に「ランスの微笑みの天使」と呼ばれている。「アミアン」でもそうだったが、こうした表現法は伝統的キリスト教にはなく(『聖書』には偶像の禁止令があるから)、カトリックに独特のものとなり、やがて多くの像が造られていくこととなる。
43 大聖堂アプシスの「シャガールのステンド・グラス」
【43 大聖堂アプシスの「シャガールのステンド・グラス」】
「アプシス」というのは東奧の「聖所」のことであるが、ここにシャガールの手になるステンド・グラスがあることも良く知られている。当然シャガールのものだから近代のものである。シャガールはユダヤ人なので旧約聖書に題材をとった絵をたくさん描いているので、そうした理由でここのステンド・グラスも制作したのだろう。
44 ランスの「ジャンヌ・ダルク像」
【44 ランスの「ジャンヌ・ダルク像」】
ジャンヌ・ダルクは「オルレアンでの勝利」の後、シャルル七世をこのランスに連れてきて「戴冠」させた。そうした意味合いでここにジャンヌの像が置かれたのだろうが、実はこの像は「ランスの聖堂を睨みつけてそこに刃を振りかざして」いる。ジャンヌがシャルル七世に裏切られたことを知る彫像作家が意図的にこうした像にしたのだろうか。
45 パリの「ノートル・ダム大聖堂」
【45 パリの「ノートル・ダム大聖堂」】
「ノートル・ダム」というとこの「パリのもの」と思う人が多いが、実はこの名前の聖堂は山ほどある。意味は「私達の貴婦人」で「聖母マリア」のことである。この聖堂の着工は1163年とあるので「ロマネスク時代」だが、完成は1345年というから完全に「ゴシック時代」となる。
46 ノートル・ダムの運命
【46 ノートル・ダムの運命】
実はどこでも市民は教会建築のため重税をかけられて苦しめられていた。そのため、1700年代の「フランス革命」によってここも廃墟とされてしまう。それを「ナポレオン」が再生させ、1802年に正式にミサを復活させた。ところがナポレオンの失脚によってここは再び廃墟となり、それをヴィクトル・ユーゴーが有名な小説「ノートル・ダム・ド・パリ」で世に出し1864年に蘇ることとなった。
47 ノートル・ダム西正面
【47 ノートル・ダム西正面】
ここも「ゴシック様式の聖堂」だが、「アミアン」や「ランス」の大聖堂と比べると相当にシンプルである。そうした意味では「初期ゴシック様式」といえ、着工時の面影がのこされているということだろう。タンパンは定番通り「最後の審判」で、「バラ窓」の前に「イエスをいだいた聖母マリアと二人の天使」の像が置かれているのが特徴となる。
48 バラ窓のステンド・グラス
【48 バラ窓のステンド・グラス】
この「パリのノートル・ダム」のステンド・グラスも有名である。とりわけ北のバラ窓のそれが美しく、「バラ窓のステンド・グラスの代表作」と言える。
49 「アヴィニオン」の法王庁
【49 「アヴィニオン」の法王庁】
フランスに「法王庁」が置かれていた時代があったことはどの程度知られているだろうか。1309年法王クレメンス五世はバチカン内部の混乱を怖れて当時は中立的だった南フランスのアヴィニオンに避難してきた。その後継者はバチカン帰還を企図したが政情がそれを許さず、そのうち勢力を拡大したフランスに支配されるようになったのである。
50 城塞的な法王庁の模型
【50 城塞的な法王庁の模型】
1377年に法王はやっとバチカンに戻るが、フランス側は別に法王を立てて対立関係となる。そんな歴史を知っているとここが「城塞」的なのは「ふさわしい」と思えてしまう。実際この法王庁は「ゴチック様式の城塞の代表」とまで呼ばれており、模型でそれが良く見える。このアヴィニオンの時代を後世「法王のバビロン補囚」などと呼んで「牢獄」扱いしている。
51 アヴィニオンの歴代法王
【51 アヴィニオンの歴代法王】
法王がバチカンに戻った後もここには別途法王が立てられて対立し「教会大分裂(シスマ)」と呼ばれる事態を生み、「カトリックの腐敗と権威の失墜のシンボル」などと言われてしまった。ここに居た法王は正式には「七人」なのだが、肖像画が「九人」いるのは「大分裂の時代のアヴィニオンの法王」をいれているのであろう。
52 世界遺産「ロワールの古城群・シュノンソー城」
【52 世界遺産「ロワールの古城群・シュノンソー城」】
1400〜1500年代のフランス王権のシンボルとなる古城がロワール河に面してたくさん並んでいる。山ほどあるのでこれらの城をすべて見学して回るには車でも一週間以上かかってしまうだろう。私は「城」は専門外なのでたった7つだけの紹介にするが、様相はこれだけでも伺えるだろう。写真はもっとも有名な「シュノンソー城」となる。
53 「シュノンソー城」
【53 「シュノンソー城」】
「六人の女の城」として有名だが、城が「河の上」にあたかも橋のように建造され、城としての美しさは1〜2を争うものと言われる。きれいな並木道を通って行く。
54 「シャンボール城」
【54 「シャンボール城」】
駐車場から川沿いに牧歌的な空間を少し行ったところに城が見え。川(掘り)越しに城がありいかにも中世の立派な城という風情を見せているが、これは城の裏側となり、表は裏からの姿には劣るので一般にこの裏の方角からの紹介写真が多い。
55 「ブロア城」
【55 「ブロア城」】
壁の模様が白地に赤の幾何模様に青線で縁取られており、「ルイ12世の馬上姿の彫像」が玄関正面の上にある城で知られる。
56 「ショーモン城」
【56 「ショーモン城」】
ロワール河を隔て向こう側に見ると美しい城。城の下方に並んでいる建物群とのバランスもきれい。シュノンソー城を追われた「ディアーヌ・ド・ポアティエが代わりに与えられた城」として知られる。
57 「アンボワーズ城」
【57 「アンボワーズ城」】
この城は1560年、勃興してきたプロテスタントの信徒をカトリック側が「大量虐殺した城」として歴史的に有名。かつての広大な城はなくなり現在では大きな円筒状の「ミニムの塔」とそれに伴う中央棟だけとなっている。
58 「ユッセ城」
【58 「ユッセ城」】
「眠れる森の美女のモデル」となった城として知られる。背後に深い森を持って河に向き、城の形はコの字型になっていて確かに美しい城である。ただ、内部に「ろう細工の人形」が並べられているのはどうも、と思う。
59 「シノン城」
【59 「シノン城」】
「ジャンヌ・ダルクがシャルル7世と会見」して認められた城として歴史的に有名な城だが、建物としては残念ながら正面の塔以外は殆ど残っていない。
60 ナントの「ブルターニュ大公城」
【60 ナントの「ブルターニュ大公城」】
ロアール河の河口近くにあるのだが、美観はないので「ロアールの古城巡りの城」とはされていない。ここが有名なのはキリスト教・プロテスタントが取りあえず形の上で認められた「ナントの勅令」がだされたところとして歴史的に重要だから。
61 世界遺産「ヴェルサイユ宮殿」
【61 世界遺産「ヴェルサイユ宮殿」】
フランスの文化遺産でもっとも有名なものの一つ。ここは1661年に「ルイ14世」が、他人の大邸宅に嫉妬して「史上最大にしてもっとも豪勢な宮殿を」ということで建立したと伝えられている。あらゆる面で「贅沢の限り」を尽くした宮殿となり、予算は国家予算の3年分かかったとか伝承されている。
62 ヴェルサイユの庭園
【62 ヴェルサイユの庭園】
「ルイ14世やその後のマリー・アントワネット」などの王族は満足したろうが、このためにフランスは国家財政が傾き、そのためすさまじい重税を課せられた一般庶民にとっては「憎しみの対象」となってしまう。それがためにフランス革命によって「王族すべてがその血統を断たれる」までになった曰く因縁の宮殿となる。
63 ヴェルサイユ宮殿内部
【63 ヴェルサイユ宮殿内部】
史実としてはいろいろ言われるが、有名なマリー・アントワネットのせりふ「(民衆が)パンがないと嘆くなら、それならケーキを食べればいいじゃない」というせりふに「民衆の困窮と王族の無知蒙昧さと傲慢さ」が良く現れている。見学して歩いて行くとその豪華絢爛さに驚嘆するよりむしろ、そのあまりにも極端な贅沢ぶりに「あきれて」二度と行かない、という人が多いとも言われる。
64 「ルーヴル宮殿=美術館」
【64 「ルーヴル宮殿=美術館」】
一般に「ルーヴル美術館」といわれるものは実は1100年代に「城塞」として建造が始められたのが源であり、その後「宮殿」に衣替えされて「王宮として改築」されていったものである。王宮としての機能を失うのは「ヴェルサイユ宮殿」が建てられて王族がそっちに引っ越してしまってからである。近代になって「美術館」として蘇った。
65 パリの「ジャンヌ・ダルク」
【65 パリの「ジャンヌ・ダルク」】
最後は矢張り「ジャンヌ・ダルク」とする。彼女は自分が助けたフランス王家に裏切られて、しかもカトリック教会にも裏切られて「魔女とされて火あぶりにされて殺された」わけであるが、やはりフランス中世は彼女抜きに語ることはできないし、現在のフランス国民にとっても英雄とされているようである。イギリス人はこれをどう見るのであろうか。

▲ページのトップへ