1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 28. エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その2 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会バー
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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

28.

エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その2

〜「キリスト教スペイン王国」の形成から現代〜


エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その2地図-小 拡大地図を見る>>
 ここでは「サンジャゴ巡礼の道」「聖地サンジャゴ」「中世の大学町サラマンカ」「中世の市壁を持つアビラ」「イザベラ女王ゆかりのセゴビア」「由緒ある要衝の町トレド」「世界第三の大聖堂を持つセビリア」「黒のマリアのモンセラート」「スペイン歴代の王の眠る大修道院エル・エスコリアル」「セルバンテスの町アルカル・デ・エナレス」「首都マドリッド」「ガウディのサクラダ・ファミリアの都市バルセロナ」を紹介する。

カトリック王国となる経緯
 1000年代に入ってイスラーム・ウマイア王朝は内紛を起こし、それを契機に「ローマ法王庁」の後押しによる「ゴート族」の南進が始まる。ゴート族は「キリスト教」に改宗していたからで、これが「レコンキスタ」となる。
 レコンキスタはローマ法王主導であったため半島の陸の入り口が前線基地になり、そこは
「ナバラ」となる。さらに、その西の「レオン」、その南の「カスティーリャ」、東部の「アラゴン」が主体となるが、複雑ないきさつの中で結局「カスティーリャ」と「アラゴン」が中心となって「レコンキスタ」が進められていく。
 この間に形成されたのが
「サンジャゴ巡礼」となる。これは「ナバラ」から「レオン」を通って西端にある「使徒ヤコブの聖堂」へと至る道であり、この一帯をキリスト教徒で埋め尽くす目的があったとされる。そして「ヤコブ」はイスラーム勢力からこの地方を「キリスト教徒に奪取する守護聖人」とされていく。
 レコンキスタの経緯も複雑だが、とにかくレコンキスタ軍は1236年にウマイア朝の首都
「コルドバ」を占拠し1248年には「セビーリャ」も落とし、ついに残ったのは「グラナダのナスル朝」ただ一国となっていく。
 そして1469年、カスティーリャ王国の
「イザベル王女」とアラゴン王国の「フェルナンド王子」が結婚するという形で二つの国が一つとなり、この合体して強力となった「エスパーニャ王国」が、半島の南に存続していたイスラーム王朝「ナスル朝」を1492年に駆逐し、ここにイベリア半島は「キリスト教ゲルマン民族」の国「エスパーニャ(スペイン)」となった。二人はローマ法王から褒め称えられ「カトリック両王」などという称号まで与えら、こうしてイベリア半島は「カトリック教徒のカトリック教徒によるカトリックのための国」とされていった。またこの年はイザベル女王をパトロンとした「コロンブス」が新大陸を発見し大航海時代の幕開けとなる。
 カトリック両王の孫になる「カルロス一世」は1519年、祖父に当たるハプスブルク家のマクシミリアン一世の死に伴って
「神聖ローマ帝国皇帝」となり(この段階でカルロス一世は神聖ローマ帝国皇帝「カルロス(カール)5世」となる)」、これによってエスパーニャ(スペイン)王国は「オーストリアとオランダ、さらにイタリア半島のナポリやミラノ」を自国領としていく。他方でイザベル女王の支援を受けたコロンブス以来、新大陸への侵略は勢いを増し、南米を「カトリックの支配地」としていく。こうしてエスパーニャ(スペイン)王国は「日の沈まぬ大帝国」となっていったのだが、自国の産業の開発をおこたったため、やがて西欧列強に破れていった。
 
スペインの近代史はすさまじい内乱、フランコ政権など複雑で凄惨な歴史となるが、「史跡・文化を訪ねる旅」にとっては以上の知識で十分である。

スペイン独特の文化
「モサラベ文化」
 
700年代初頭のイスラームの進出後、キリスト教徒となっていた「ゴート族」との間に「混交文化」が生じるが、それを「モサラベ文化」と言う。「モサラベ」というのはアラビア後で「アラブ化した人々」といったような意味となる。その「モサラベ」と言われた人々は結果的に「ローマ・カトリック文化」と「イスラーム文化」を融合・介在していたわけで、言語にしてもアラビア語の影響を強く受けた「モサラベ語」になり、「ミサ」においても「モサラベ聖歌」と呼ばれる独自の様式を生み出していった。教会建築においても「丸みの強いイスラーム型アーチ」「アラベスク模様(植物文様が限りなく展開していく様式で、ツタとなって渦をまいたり螺旋的に展開したり、組紐のように交叉して展開したりする模様)」「幾何学模様」などの「イスラーム美術独特の様式」を取り入れたものが建設されていく。

「ムデハル文化」
 これは「モサラベ」の反対で、キリスト教軍に支配されるようになった地域のイスラームの住民はそのまま
「残留して」税金を払うという契約の下にイスラームの信仰を守っていった。「ムデハル」とはアラビア語で「残留した者」という意味の言葉がエスパーニャ的に訛った言葉とされる。
 アラブ・イスラームは「灌漑農業」に優れた知識を持ち果樹栽培などの農業を発展させていたため、レコンキスタ指導者も彼らを便利につかうことができたので保護したと考えられている。このムデハルの文化は現象的に「モサラベ」と似たようなものになり、モサラベの場合は
「キリスト教徒がイスラーム文化」を取り入れたのに対して「ムデハル」の場合は「イスラーム教徒がキリスト教文化」を取り入れたということなので、細かく言えばさまざままの違いはあるのだが現象的には「似たようなもの」になっている。
01 サンジャゴ巡礼の道にて
【01 サンジャゴ巡礼の道にて】
イベリア半島北部を東西に横断するサンジャゴ巡礼の道でのスナップだが、この巡礼路はローマ法庁がイベリア半島をカトリック勢力のものとするために形成したとされる。そのためイベリア半島だけではなく、大陸側からフランスとの国境にある「ピレネー山脈」を越えての巡礼路とされて、その道々に教会・修道院・宿泊所・病院施設などが建設されていった。こうして結局、キリスト教巡礼としては最大規模の巡礼路となった。
02 セブレイロ峠での巡礼者
【02 セブレイロ峠での巡礼者】
今日でも巡礼者は絶えない。山や河、野を越え村々を通り過ぎ長大な道を行くという、昔は文字通り「死と隣り合わせ」の巡礼であったが、そのためか今日でも「自己研鑽・自己超克」の目的もあって多くの人々が巡礼に訪れている。ただしピレネー山脈越えはさすがに殆どないようで、多くはスペインに入ってからの途中からとなっているようである。サンジャゴ巡礼者はヤコブ伝説に従って「ホタテ貝」をぶら下げているのを常とする。
03 巡礼者の姿
【03 巡礼者の姿】
巡礼者の典型的な姿をしている。胸にホタテ貝をぶら下げ、アメリカ人らしく星条旗を持ち、取り出しやすいところに水筒を差し込んで、二本の杖でスキーのノルディックのように歩いている。このノルディック走法は足への負担を全身に分散させるので長距離の走行には必須の走行法となる。昔は長めの杖をもって歩くのを常としたが、それは「杖」であると同時に野獣や夜盗などに襲われた時の「武器」でもあったという。
04 巡礼者の十字架
【04 巡礼者の十字架】
キリスト教の巡礼であるから「十字架」が道標となるが、昔は行き倒れた巡礼者や狼などに襲われて死んだ人を埋葬した墓標でもあったという。現在はむろん「道標」としての意味しかないであろうが、こうしたものを見ると巡礼者の覚悟のようなものが伝わってくる。
05 古代ケルト人の家
【05 古代ケルト人の家】
巡礼路に沿って、紀元前200年代にはじまるローマの開拓以前にこの地方に集落を形成していた古代ケルト民族の遺構が所々に残っている。大陸のケルト民族の遺構として非常に重要なものであるが、この家もそのケルトの家の伝統を存続させている。
06 サンジャゴの大聖堂の前にて
【06 サンジャゴの大聖堂の前にて】
紀元後800年代になってイエスの12弟子の一人である「ヤコブ」の遺体がここで発見されたということで聖堂を建て、その巡礼が奨励されて多くのキリスト者が訪れるようになる。これにはイベリア半島支配というローマ法王庁の思惑があったと言われ、キリスト教軍とイスラーム王朝の戦いにおいては「騎士の姿をした聖ヤコブ」が現れてイスラーム勢を殺していくとして「イスラーム殺しのヤコブ」という異名で伝播されていった。
07 サンジャゴの大聖堂
【07 サンジャゴの大聖堂】
「ヤコブの墓」詣ではやがて多くの人々をここに集め、町が形成され聖堂も次第に拡張されていったとされる。そして200年後には立派な聖堂が建てられた。当初は当然初期様式である「ロマネスク様式」だったが、その後増改築が繰り返され、中期の「ゴシック様式」後期の「バロック様式」までさまざまの様式が入り乱れることになった。現在見た目にはゴシック様式と見える。
08 栄光の門のヤコブ
【08 栄光の門のヤコブ】
大聖堂に面した「オブラドイロ広場」から階段を上ってテラスとなっている玄関口から入ると「栄光の門」があり、中央の柱に「杖と巻物を持ったヤコブの像」がある。この柱の下部には「指型のくぼみ」が観察され、それは多くの巡礼者が手をこすりつけたためすり減ったと説明される。これは1188年「ロマネスク様式」時代に完成した門となる。
09 大聖堂主祭壇
【09 大聖堂主祭壇】
ここは三廊式の縦軸の長いラテン十字の教会堂となっており、巡礼者が教会堂内を円滑に回れるように「側廊が歩道」となって後陣には「周歩廊」が工夫されていて、これは巡礼路沿いの聖堂も同様の造りで「巡礼路様式」と呼んでいる。正面に「主祭壇」があってここにも「ヤコブ像」が置かれている。17世紀後半の「チュリゲラ様式」なので派手な造りとなっている。
10 大聖堂での礼拝
【10 大聖堂での礼拝】
当たり前ではあるが、どこの聖堂も現役であって現在も礼拝に行き会うことはしばしばである。ギリシャなど伝統の古い「正教」がもっとも儀式性に富んでいて逆にもっとも新しいプロテスタントは至って簡素なのに比べて、カトリックの場合はちょうどその中間のような様相を示すのであるが、その様子をこんなところで観察できる。
11 サラマンカの「貝の家」
【11 サラマンカの「貝の家」】
サンジャゴから南東におりてきたところに「サラマンカ」がある。ここが世界遺産となっているのは中世の町の雰囲気を良く残し、またスペイン最初の「大学町」ということからであろう。「サラマンカ大学」がそれだが、その他「大聖堂」やサンジャゴ巡礼のホタテ貝が400ほども飾り付けられた「貝の家(サンジャゴ巡礼を守護する騎士団の個人住宅)」などが見所となる。写真はその「貝の家」で1400年代後半の建造。美術の粋であると同時に「生活」も見せてくる。
12 サラマンカの大聖堂
【12 サラマンカの大聖堂】
サラマンカを代表する大聖堂は「新・旧の聖堂」がくっついているものとしても知られる。つまり、旧聖堂が手ざまになって、その旧聖堂にくっつけた形で北側に新しい聖堂を作った。この旧聖堂は1100年代末期のものなので「ロマネスク様式」だが、新聖堂は1500年代に着工されているので中期の「ゴシック様式」となる。従って、全体の外見は「ゴシック様式」となり細部に「ロマネスク様式」がある。
13 大聖堂の正面
【13 大聖堂の正面】
1400年代から1500年代にかけてイタリア・ルネサンスの影響をうけたとされる「プラテレスコ様式(銀細工士様式)」と名付けられた建築様式があって、これはその代表とされる。確かにルネサンス様式のように「ゴシック的凹凸」は消えているが、しかしこれはむしろスペインに独特の「イスラーム様式との融合」と言うべきものでイタリア的ルネサンス様式とは言い難い。「イスラーム様式」は浅浮き彫りの植物アラベスク模様や円形・楕円形の「メタイオン」と呼ばれる模様様式に明確に見られる。
14 ミラグロスの水道橋
【14 サラマンカ大学正面】
サラマンカはスペイン最古の大学がある「大学町」としても知られるが、これはその大学の正面となり、設立は1214年となる。この正面も大聖堂と同様に「プラテレスコ」様式の代表例である。正面玄関上に三段の浮き彫りがあるが、一番下の中央の円形に「イザベラ女王とフェルナンデス王の夫婦カトリック両王」、中段の中央に「王家の紋章」が明確に見て取れる。上段は中央に三人の人物が描かれているが残念ながら同定できていない。
15 サラマンカ大学正面の「蛙」
【15 サラマンカ大学正面の「蛙」】
この大学正面の装飾の中に「蛙」の彫刻があり、それを見つけると大学生活を充実して送り無事卒業できるとかの言い伝えがあるとかで、学生はそれを探して大騒ぎするとか言う。右の太めの柱の中央の装飾部分の下部に「骸骨」が三つ並んでいるが、向かって左の骸骨の上に乗っかっている。
16 アビラの町の遠景
【16 アビラの町の遠景】
サラマンカからさらにマドリッドに向かって降りてきて、マドリードから西方、車で1時間30分くらいにある町だが、中世城塞都市の有り様を今に伝えるところとして世界遺産となっている。見所は町をぐるりと取り囲む「城壁」とその城壁の一部を利用している「大聖堂」、およびこの町が生んだ「聖女テレサ・デ・ヘスス」ゆかりの修道院群となる。
17 アビラの市壁
【17 アビラの市壁】
市壁は1000年代のキリスト教軍がここをイスラーム支配から奪い取った時に築いたもので、イスラーム勢の反撃に備えてのものと言われる。ただし基礎はそれ以前のローマ時代のものであるとされている。全長が2.5キロ、城壁の壁の厚さは約3メートル。高さは平均で12メートル、20メートル間隔で88の塔をもっている。これほどの規模の市壁が殆ど残存しているのはここくらいであるため世界遺産となっている。
18 アルカサル門
【18 アルカサル門】
門としては9つあるが、「アルカサル門」がもっとも重厚で、見事な門構えを持ち「堅牢な門」であることが一目で見て取れる。ただ、イスラーム勢力への構えという理由なら他の町でも同様にならなければおかしい筈だし、またイスラーム勢力はイベリア半島南方が勢力圏でこの地方ではそれほど強くはなかった。それにも関わらずこんな頑丈な市壁をもっているのはここだけなので、その理由が良く分からない。
19 アビラの大聖堂
【19 アビラの大聖堂】
大聖堂は「アルカサル門」の脇に、市壁の一部を為すように建造されている。ここは東壁となり城壁の塔の円筒の部分を聖堂の後陣(キリスト教会での「聖所」で通常は半円形につくる)としたもの。そのため聖堂がそのまま城壁の一部となり分厚く頑丈となった。その理由としてやはりイスラーム勢力からの守りとされるのだが、上に述べた理由であまり説得的ではない。
20 聖テレサ修道院
【20 聖テレサ修道院】
この「アビラ」が有名になっているもう一つの理由は、「聖女テレサ」の活動舞台だったからで、スペインの「キリスト教女子修道会」の代表である「裸足のカルメル会」を創始した「聖女サンタ・テレサ修道院の地」であることで知られている。その代表的な修道院が城壁の内部にある「サンタ・テレサ修道院」で、ここは彼女の生家のあったところとされていて墓所となっている。
21 聖テレサ像
【21 聖テレサ像】
聖女テレサは、宗教改革運動・プロテスタント運動で揺れている時期にカトリック信徒として厳格な戒律に基づく修道の精神を取り戻す運動を始め、酷寒の冬にあっても裸足でサンダルという生活していたことから「裸足の」と形容されるようになった修道女であった。彼女はその生存中に16の女子修道院と2つの男子修道院を建設し、そしてアビラ市壁外に彼女ゆかりの修道院が点在し、合わせて世界遺産となっている。
22 セゴビアの「アルカサル」
【22 セゴビアの「アルカサル」】
首都マドリッドの北方の町。三方を河で囲まれた「船型の岩山」で天然の要塞であるために古くから城塞都市として建設されていた。船型の岩山の船首部分に当たるところにあったローマの要塞跡には1100年代に「アルカサル(アラブの「城塞・宮殿」を意味する)」が建てられている。それが後にキリスト教徒の砦や城として改造された。ここのアルカサルはその姿が美しいことから一般に「白雪姫」のモデルの城などと言われている。
23 アルカサルと女王イザベル
【23 アルカサルと女王イザベル】
セゴビアのアルカサルはカスティーリャ王国がセゴビアからイスラーム勢力を駆逐した後のことであることは明白だが詳しい年代は不明。歴史的に登場するのは1458年にイザベルがここで異母兄であったカスティーリャ王エンリケの訃報をきき、みずから「後継者」を名乗ってここで戴冠してしまったことから。当時の城は1862年に火災にあって消失し1940年に再建されたのが今日の姿。
24 アルカサル内部の騎士の鎧
【24 アルカサル内部の騎士の鎧】
キリスト教軍がイスラーム勢力を駆逐していった歴史を思うとき、当然その戦いがイメージされなければならない。その戦うキリスト教軍の騎士の姿を彷彿とさせるのがこのアルカサルに展示されている騎士の鎧となる。大人用から子供用の鎧まで展示してある。
25 セゴビアの大聖堂
【25 セゴビアの大聖堂】
キリスト教軍がイスラーム勢を駆逐してこのセゴビアに「大聖堂」を建造した。しかし1520年に当時の君主カルロス一世が重税を課したことに住民が反旗を翻して市民は大聖堂に立てこもり、国王派はその反乱軍を鎮圧して戦闘で破壊された大聖堂を破棄して場所を移して新たな聖堂を建設した。1558年のことだが落雷で崩壊するなどのさまざまの事件があって1768年に完成。歴史の凄惨さとは裏腹にその姿の美しさで知られる。
26 トレド
【26 トレド】
首都マドリッドの南方の都市。ここはタホ河が半円形に三方を取り囲んでいるような高台の地形で、残りの部分に城壁を築くと難攻不落の要塞と化してしまうためローマ時代に開拓された時から重要な要塞都市となっていた。その後、ゴート族の侵入時やイスラーム時代も重要な都市として機能していたが、カスティーリャ王国がここをイスラーム国家から奪取した時に現在みられるようなキリスト教色の強い都市に改造された。
27 トレドの大聖堂
【27 トレドの大聖堂】
旧市街全体が世界遺産となっているが、その中心となるのが「大聖堂(カテドラル)」となる。トレドはローマ帝国西域に侵入したゴート族が占拠したときにローマ教会と手を結んでキリスト教を受け入れたことを宣言した場所ということでカトリック大司教座がおかれていた。その後はイスラーム都市となっていたわけだが、キリスト教軍がここを占拠した時にイスラーム礼拝堂を破壊してその跡地に再建した。1262年のことになる。
28 大聖堂正面
【28 大聖堂正面】
由緒あるトレドの大司教座のための大聖堂ということでの建造は、数あるスペインの大聖堂の中でも最も大聖堂の名にふさわしいものを作り上げた。様式としてはフランス・ゴシック様式と言われ、パリのノートルダム大聖堂と同様だとされるが、外観はノートルダムとは全く異なる。鐘楼の高さが90メートルもあるせいか、全体的な印象が「カトリック的荘厳さ」において抜きんでていると言える。
【29 トレドのマリア】
西欧のカトリック聖堂巡りをしていると誰でも「カトリックとはマリア教」の感を強くするのだが、とりわけスペインはそれが強い。サンジャゴなどわずかな例外を除いてどこに行っても祭られているのは「マリア」となってしまう。トレドも同様で、このマリア像も有名なものの一つとなる。
30 祭壇後方の衝立
【30 祭壇後方の衝立】
カトリック聖堂の内部は一つの様式があり、東西軸の西に正面玄関を持ち、部屋空間の長軸を列柱で三つの部分(三廊式)かあるいは五つの部分(五廊式)にわけ、真ん中の部分を「身廊」と呼びその中央辺りに「聖歌隊席」を設け、その奧に「内陣」と呼ばれる祭壇を設置してその背後には大きな衝立を立て、さらにその最奧が「後陣」となる。ここは「五廊式」だが、一番目につくのが矢張り衝立となる。
31 トランスパレンテ
【31 トランスパレンテ】
1500年代に作られていた衝立の背後に彫ったもので1732年の完成であるからむしろ後代に作られたものと言えるが、「天使の飛翔と最後の晩餐」の絵柄の浮き彫り彫刻はとりわけ有名である。この衝立には穴が開けられていて、外壁の明かり取りから入った光がトランスパレンテを通って衝立の表に差し込んで、衝立の前に置かれている「聖櫃」を照らし出すという工夫になっている。
32 大聖堂の宝物「エル・グレコの聖衣剥奪」
【32 大聖堂の宝物「エル・グレコの聖衣剥奪」】
トレドの大聖堂の持つ宝物で一番有名なのは「エル・グレコ(これは渾名で、本名はテオトコプーロス)」の「聖衣剥奪」となる。イエスが十字架にかけられる時に来ていた衣を兵士たちに奪われるという『聖書』での記述にもとづいたもので、その着衣を真っ赤にえがいたのは「血の受難」をあらわしたのだろうが、絵画的に独創的な発想に画家としての天才を感じる。近くの「サント・トメ教会」の「オルガス伯の埋葬」も有名。
33 セビーリャの大聖堂
【33 セビーリャの大聖堂】
1401年にキリスト教軍がここを落として、後世の人に狂っているとまで評判になるほどのカトリック世界最大規模の聖堂を建造しよう決議したというのは有名。そして、それまでのイスラームの礼拝堂「メスキータ」を転用して改築し、結果的に世界で三番目の規模を誇る豪壮な聖堂を建設した。完成は1519年になる。
34 大聖堂の規模と様相
【34 大聖堂の規模と様相】
大きさは奥行き116メートル、巾76メートルとなるが、もともとがイスラームの礼拝堂「メスキータ」なのでその当時の面影もかなり残っている。「聖堂そのものの形」や「ヒラルダの塔」「オレンジの庭」などにそれを見ることができる。ただし、改造の結果外観はゴシック様式になり(後世の増築部分はルネサンス様式)、内部構造はすっかりキリスト教聖堂のものとなっている。
35 ヒラルダの塔
【35 ヒラルダの塔】
この聖堂に付設されている塔は「ヒラルダの塔」と呼ばれているが、もともとはイスラームの「呼びかけの塔ミナレット」であったものをキリスト教の鐘楼に転用したもの。イスラーム時代の特徴である「アラベスク様式」などはすべてもとのままだが、キリスト教の鐘楼とされて塔の上部に鐘楼の部分やバルコニー、像などが付け加えられた。高さは98メートル、てっぺんの像は風を受けて回るため「ヒラルダ、風見」と呼ばれる。
36 大聖堂の衝立
【36 大聖堂の衝立】
祭壇の後ろにある「衝立」は世界最大の衝立となり、高さ20メートル、巾13メートルで黄金に輝いている。その内容は聖母マリアとイエスの事績だが、特徴は何度も指摘してきたように「マリア」に重点がある。カトリックの教義に「無原罪のマリア(人類はすべて原罪をもっているのだが、マリアは原罪がない。つまり人間ではなく神的存在である、とする説)」があるが、その教義の確定にスペインの働きがあったと言われる。
37 コロンブスの墓
【37 コロンブスの墓】
ここで有名なのが「コロンプスの墓」で、キリスト教軍「カスティーリャ」「アラゴン」「レオン」「ナバラ」の四つの王国の王に担がれている。紋章で判別でき「カスティーリャ」とは「城」であり手前向かって左の王、「レオン」は「ライオン」で手前向かって右の王、「ナバラ」は「チェーンの四角い網状」のものなので右手後方、「アラゴン」は四本の縦線で左手後方となる。これらは現在のスペインの国章に組み込まれている。
38 ムリーリョの「サン・アントニオの礼拝」
【38 ムリーリョの「サン・アントニオの礼拝」】
どこの大聖堂にも多くの場合さまざまの「礼拝堂」がしつらえられていてそれぞれが見学の対象ともされるのだがそれを一つ一つ紹介していたらキリがなくなる。ここも同様なのだが、一つだけ紹介しておいた。この絵はかつて盗難にあって「アントニオ」の部分が切り取られて売りに出されていたところを発見されて回収されたものである。よくよく見るとその跡を見ることができる。
39 アルカサルの門
【39 アルカサルの門】
大聖堂の南東脇に「アルカサル」があるが、「アルカサル」とはアラビア語で「城塞・王宮」となる。さまざまのタイプがあるが、ここの入り口は城塞造りで内部は殆ど王宮機能だけで、グラナダの「アルハンブラ」の「宮殿部分」を摸したものと言える。正面入り口は「ライオン門」と言われて門の上部にライオンの像が描かれている。
40 アルカサルの「乙女のパティオ」
【40 アルカサルの「乙女のパティオ」】
1350年に即位したカスティーリャ王「ペドロ一世」はアラビア建築・美術に心酔してこの宮殿をアラビア風に改築した。中庭を抜けると「乙女のパティオ」となりこの辺り一帯が「アルハンブラ風」となり見どころもこの一帯となる。このパティオは縦25メートル、横20メートルで2本の円柱が対となった24本の柱が取り囲んでいる。完全にアルハンブラ的なのが良く見える。
41 大使の間
【41 大使の間】
「乙女のパティオ」の右手にある部屋が「大使の間」と言われその装飾と建築美の見事さがよく表現されている。アルハンブラの「大使の間」とそっくりである。ぜひ比較してもらいたい。イスラーム型の丸みを帯びたアーチと「幾何学模様」の装飾が見事である。
42 セビリア、マカレーナ教会の「マリア」
【42 セビリア、マカレーナ教会の「マリア」】
セビリアの町のはずれでその脇には昔日の市壁が古びたたたずまいを見せながらまだ残っているようなところに「マカレーナ教会」があり、そこのマリアが「涙を流すマリア」として有名になっている。僕もずいぶんたくさんの「マリア像」を見てきているが、その表情が非常に印象的なマリアであり、人々に愛されているのもむべなるかなと思った。祭りの時には御輿に担がれて町を練り歩く。
43 セビリアのフラメンコ
【43 セビリアのフラメンコ】
スペインと言えば「フラメンコ」とされるようにスペインの旅にフラメンコは欠かせない。その発祥はさだかではないようだが一般には「ジプシーの踊りから」と言われる。観光客向けにもその流れを残しているショーもありとても素朴な踊りをみせるが、現代化されたフラメンコはそのショー性において素晴らしいを通り越してすさまじく感動的である。
44 モンセラート
【44 モンセラート】
バルセロナの近郊にある山地でその形状から「ノコギリ山」という意味の「モンセラート」と呼ばれるところがあり、標高が1235メートルの中腹に修道院が作られている。すでに800年代には小さな聖堂が立てられていたと伝えられるが本格的修道院となるのは1409年とされる。今では簡単に車やロープウェイで行けるが昔日は孤立的場所であった。本来の修道院はそうした「孤立性」を持っていたものである。
45 モンセラートの修道院
【45 モンセラートの修道院】
ベネディクト修道院となるが、ここが有名なのは「黒のマリア像」によってである。「黒のマリア」というのはここだけではなく各所にあるが、このマリアはこの地方の人々の心のよりどころとされ、ナポレオンの侵略時にも人々に隠され保ち続けられたといわれる。現在は少々観光に過ぎる。
46 エル・エスコリアル修道院
【46 エル・エスコリアル修道院】
首都マドリードの近郊に位置するが、1500年代の「フェリペ二世の建立」になるものでフランスとの戦いの勝利を記念した修道院兼宮殿といったもので、また霊廟でもあり図書館でもあり美術館でもありといった、何とも形容しがたい巨大建造物となる。現在も「王家の霊廟」として歴代王の遺骨が納められている。
47 修道院の様相
【47 修道院の様相】
建造開始は1563年で完成は1584年となる。大きさは南北207メートル、東西162メートルあり、四階建てで内部には無数の部屋や回廊、中庭がしつらえられている。この修道院はローマ帝国時代の258年に殉教したエスパーニャ出身の聖人「ラウレンティウス(スペイン語発音で「ロレンソ」)に捧げている。そのためこの修道院は上から見るとラウレンティウスの処刑に使われた「焼き網」の形をしている。
48
【48 修道院の正面】
修道院の西正面玄関となるが、この玄関の上部中央にはフェリペ2世の紋章とラウレンティウスの彫像が彫られている。フェリペ二世がフランスに勝利したのがラウレンティウス(ロレソン)の記念日であったということで、フェリペ二世は「勝利に導いてくれた護聖人」ということでこの修道院を彼に捧げたのであった。
49 諸王の中庭
【49 諸王の中庭】
このエル・エスコリアル修道院の玄関の上部中央にはフェリペ2世の紋章とラウレンティウスの彫像が彫られていて、そこを入ると旧約聖書に登場する古代イスラエルの王たちの像が並ぶ「諸王の中庭」となる。その正面が「聖堂」で、その中に「王室の墓所」が設置されている。内部は大きく分けて右手が修道院、左手が王宮となっている。
50 アルカル・デ・エナレス
【50 アルカル・デ・エナレス】
アルカラ・デ・エナレスという町はローマ時代に続くゴート時代に形成され110年代にイスラームの「城塞」、キリスト教軍によって陥落後キリスト教スペインの町という、多くのスペイン各地の町と殆ど同じ経緯を経ている。この町が世界遺産となっているのは、この町でヨーロッパ初の大学町という町形成が為されたことにあり、また「文豪セルバンテスの故郷」としてである。
51 セルバンテスの像
【51 セルバンテスの像】
ここは1400年代に「大学町」という町形成が行われ、1499年「サン・イルデフォンソ学院」が創立された。大学は1837年にマドリードに移されてしまい「マドリード・コンプルテンセ大学」としてスペインの最高学府となったが、1977年に再び「アルカル大学」として再生されている。こうした知的な町のシンボルが「セルバンテス」であり、スペインの知性のシンボルとされている。
52 ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像
【52 ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像】
セルバンテスの生家はセルバンテス記念館としてさまざまの資料が展示されているが、その前に「ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像」が置かれており、観光客は必ずかれらの間に座って写真をとっている。「誠実であらん」として時代に破れ悲運の人生を送ったセルバンテスの分身とも言える「ドン・キホーテ」を思いながら。
53 マドリード
【53 マドリード】
スペインの首都だが、1561年フェリペ二世の時代からである。それ以前この地はただの「イスラームの要塞」に過ぎず、1000年代の後半にキリスト教軍に奪取された以降も歴史に登場するような町にはなっていない。そのため、ここには世界遺産とされるほどの重要建造物・遺跡はない。「スペイン広場」にセルバンテスを記念して1930年に作られた「ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像」が人気となっている程度である。
54 プラド美術館
【54 プラド美術館】
観光客にとって一番の見物は「プラド美術館」となり、ここは世界でも最高の美術館の一つとして知られている。人気なのは「ベラスケス」「ゴヤ」「エル・グレコ」あたりになるようであるが、もちろん他にもたくさんの名作で埋もれている。これは宮廷画家であったベラスケスの傑作とされる「ラス・メニーナス」だが、ベラスケス自身が左手に見え、評論家はいろいろと自説を述べてかしましい作品である。
55 ゴヤの「裸のマヤ」
【55 ゴヤの「裸のマヤ」】
ゴヤも当時の殆どの画家がそうであったように宮廷画家であったが、後に「内面的・精神的・哲学的」絵画へと向かっていった画家として有名である。これは彼の宮廷画家の時代の作品であるが、当時は「裸婦」を描くというのはタブーであって物議を呼んだとされる。モデルは一般に「宰相ゴドイの愛人」とされているが、この作品は次に紹介する「着衣のマヤ」の意図とも絡んで今以てさまざまに評論されている。
56 ゴヤの「着衣のマヤ」
【56 ゴヤの「着衣のマヤ」】
「裸のマヤ」の「着衣版」となるわけだが、どうして「裸と着衣」と「同じポーズ」のものが描かれたのかその意図を巡ってさまざまの説が提供されてきた。しかも誰が見ても「首のない顔」であり、他方でゴヤには似たようなポーズの女性像の絵があり(それも展示されている)、そこでは「首のある顔」となっているためいろいろと推測がなされている。こうしたものは「正解」などないので我々は我々なりに捕らえて行けば良い。
バルセロナの「サクラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)」
【57 バルセロナの「サクラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)」】
バルセロナは近代都市なので歴史遺産は殆どなく、見物となるのはわずかに「ゴシック地区」の大聖堂くらい。この都市での見物は世界遺産となっている「建築家ガウディの作品群」となる。一般にその代表が「サクラダ・ファミリア」とされるが、ガウディは二代目で手がけた部分も少ない。これは「現代前衛建築」の代表ということと、「贖罪=寄進」によって建築という当初の思想によって知られている。
58 サクラダ・ファミリアの彫刻
【58 サクラダ・ファミリアの彫刻】
サクラダ・ファミリアの外装・内装のいたるところに聖人たちの彫刻が置かれている。この発想はすでに古く「ゴシック建築様式」にあった。従ってその面で新しいことはないのだが、このサクラダ・ファミリアは世界中のたくさんの建築家・彫刻家が参加して建築されていて、そうした「協調・融和」のシンボルとされている。彫刻群の多くは外見の前衛性はなく「伝統的で写実的」である。
59 ガウディの家「カサ・バトリョ」
【59 ガウディの家「カサ・バトリョ」】
ガウディの代表作の一つ。もう一つの代表作「カサ・ミラ」が「山」をモチーフとしているのに対してこちらは「海」をモチーフとしている。ゆがんだ曲線で構成され、屋根はあたかも「海面のうねり」を思わせ、また壁面に刻まれたガラス・モザイクは光に輝く波と見え、ベランダは波立ちとも見える。こんなのがガウディの作品であるが、もちろん好みは人さまざまである。
60 グエル公園にて
【60 グエル公園にて】
ガウディを尋ねようというのなら、彼が生涯をかけたここに来なければならない。彼はここに60の住宅を造り新たな町を作ろうと構想したのだが資金などにいきづまり自分の自宅ともう一つの家をつくっただけで中断してしまい、後に公園として再生されたものである。そのガウディの思いの詰まった建築芸術があちこちに並んでいる。
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