1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 27. エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その1 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

27.

エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その1

〜ローマの開拓地時代からイスラーム王朝まで〜


エスパーニャ(スペイン)歴史紀行、その1地図-小 拡大地図を見る>>
 「エスパーニャ(スペイン)歴史紀行」は長くなるため二部構成にする。ここではローマの開拓地からイスラーム王朝までとして、紹介する遺構は「初期のローマ開拓都市イタリカ」「ローマ都市遺構の代表メリダ」「ローマ灯台ヘラクレスの塔のア・コルーニャ」「完璧なローマ市壁のルーゴ」「ローマ金鉱跡のラス・メドゥラス」「ローマ水道橋の代表セゴビア」、そしてイスラーム王朝となり「メスキータのコルドバ」「最後の王朝グラナダのアル・ハンブラ宮殿」とする。

イスラーム王朝までの歴史
 「スペイン」
というのは「エスパーニャ」の英語読みで、イベリア半島の大半を領土としている国となる。歴史的には「ローマ」が自分たちの開拓支配地とした、つまり紀元前200年代から「ローマ帝国の一地方」として登場することになる。
 ローマ帝国の地方都市として繁栄した後、紀元後400年頃になって
「ゲルマン人の大移動」がおこりローマ帝国西域を滅亡して西欧各地に侵入していく。このイベリア半島地方にも420年頃に「西ゴート族」が侵入してくる。
 しかし程なく711年
「アラブ・イスラームのウマイア朝」がアフリカから半島に進出してきてゴート族を駆逐して「コルドバ」に首都をおいて半島全域を支配することになる。イベリア半島で初めての「独立した国家体制、文化」を持った王朝で、北部を除いて半島のほぼ全域が「アル・アンダルス」と呼ばれて社会制度も整備され経済的にも当時の世界で最高度の繁栄を謳歌した。
 しかし、1000年代に入ってウマイア王朝は内紛に陥り、これに乗じて
「ローマ法王庁」がイベリア半島をカトリック支配地とすべく、半島の北辺に残っていた「ゴート族」を支援して南へと侵攻させていく。ゴート族は「キリスト教」に改宗していたからで、これが「レコンキスタ」となる。
01 イタリカの「ローマ遺跡」
【01 イタリカの「ローマ遺跡」】
開拓者「都市ローマ」の故郷である「イタリア」にその地名をとる「イタリカ」は紀元前206年建造されたローマ都市の初期のもの。由緒あり、かなりの遺構もある重要遺跡だが世界遺産となっていない。対カルタゴとの戦いにおける「傷病兵の基地」が源で、従ってカルタゴに近い南方地域、現在のセビリアの郊外にある。紀元後100年前後に「トラヤヌス」と「ハドリアヌス」というもっとも有名で重要な二人のローマ皇帝を輩出した。
02 円形闘技場
【02 円形闘技場】
ローマは新しく建設した町には「劇場」と「円形闘技場」を作るのを常とした。円形闘技場での剣闘士の「死をかけた激闘」などが市民の最大の娯楽であったからで、これを提供することで市民の不満や政治への関心を逸らせたのである。ローマの統治方法で、いわゆる「パンとサーカス」のサーカスに当たる。従って、今日遺跡として残るローマ都市の多くにこの「円形闘技場」があり、ここは2万5千の収容でそれはこの町の規模を示している。
03 円形闘技場の構造
【03 円形闘技場の構造】
円形闘技場というと「ローマのコロッセオ」が有名で、多くの人は「円形闘技場」はみんなああした立派なものと思ってしまうらしいが、あれは特別である。ただし、円形闘技場はどこでも同じ建築様式を持ち、楕円形ですり鉢型となり、客席の下には席に出ていく通路もしつらえられていた。戦いの行われる場には写真のように大きな溝が見られるが「野獣などの檻」が置かれていたと推測される。もちろん戦闘の時には蓋が置かれていた。
04 イタリカの都市遺跡
【04 イタリカの都市遺跡】
イタリカの市街はカルタゴを破ったスキピオの時代の紀元前200年代の旧市街と、もっとも繁栄した紀元後100年前後のハドリアヌスの時代の新市街とがあってローマ都市として相当に広い。現在の遺跡の見所としては「円形闘技場」は当然として、後は新市街の「モザイクの邸宅」が見所となる。スキピオの旧市街の大半は未発掘で、見られるのは「劇場と浴場」くらいだが新市街からかなり離れている。
05 邸宅のモザイク
【05 邸宅のモザイク】
イタリカの町は「トラヤヌス」や「ハドリアヌス」といった有名皇帝を輩出しているだけあってその都市の繁栄は相当のものであった。現在その都市の広さや道路の立派さが発掘によって明るみにだされているが、一部残存している「モザイク」によってその都市の立派さの面影を辿ることができる。ただ、ここは没落後に略奪にあって多くのモザイクがはがされてセビリアなどの貴族の邸宅に持ち去られていた。
06 メリダのローマ遺跡の全体模型
【06 メリダのローマ遺跡の全体模型】
イベリア半島の「ローマ遺跡」は大・小、有名・無名合わせてかなりたくさんある。「メリダ」はその中での代表的な遺跡となる。イベリア半島の南北を結ぶ「銀の道」と東西を貫く幹線道路の交差する要衝の地であり紀元前25年頃初代皇帝アウグストゥスによって建造。「スペインの小ローマ」などとも呼ばれ、現在「ローマ劇場」「円形闘技場」「ローマ邸宅跡」「水道橋」「ディアナ神殿」などの遺構が残存し世界遺産となっている。
07 メリダのローマ劇場
【07 メリダのローマ劇場】
メリダの「劇場」はこの町の建設と同時期に着手されていると考えられる。6000人収容で劇場の背後に大理石の柱が立ち並んであたかも神殿のように見え、イベリア半島でこれほど豪華な遺構を残存させているローマ劇場は他にない。華麗さは度重なる改装の結果。この施設は「劇場」と呼ばれてはいても実際は「集会場・催し物場」であり何にでも使われる施設であった。今日も古代と同様に何にでも使用されている。
08 円形闘技場
【08 円形闘技場】
劇場の隣りに残存している「円形闘技場」は劇場に少し遅れて紀元前8年頃の建造と推定。保存状態は悪くないが、観客席は後世の石の供給場としてここから石がは剥ぎ取られてしまったので劇場と比べるとかなり寂しい。しかし、一部の例を除いてイベリア半島での円形闘技場の残存状態はおおよそこんなところである。ここは収容人数1万4千とされ、規模としては「並」といったところ。
09 フォロの入り口のアーチ
【09 フォロの入り口のアーチ】
どの町にも必ずあったのが「フォロ」と呼ばれる「公共広場」で、政治・経済の中枢の場所であった。そこは列柱廊で四角く広く囲まれ立派な入り口を持っていた。この遺構はその一部であると思われる。コリント式の柱を持ち「浮き彫り」がほどこされているのはどこでも同様である。
10 ディアナ神殿
【10 ディアナ神殿】
フォロにあった神殿で、「ディアナ」というのはギリシャの「アルテミス女神」のローマ名となる。アルテミスは「都市の守護神」として祭られることのあった女神であり、ここもそうなるのかと思われる。しかし、一方でこの神殿は建造者である初代皇帝「アウグストゥス」の神殿であったとも言われるが、そうだとするとそれは後代の皇帝がアウグステゥスを記念してそうしたとなろう。イベリア半島に残る数少ない「神殿遺構」の一つ。
11 邸宅のモザイク
【11 邸宅のモザイク】
ローマ遺跡は「劇場」や「円形闘技場」などの建造物の他に「邸宅のモザイク」が重要であり、イベリア半島でのモザイクの宝庫となるのがこの「メリダ」となる。ローマのモザイクというのはこの写真に見られるように「床」に設置され、あたかも今日の絨毯装飾のようになっていた。壁面は「フレスコ」などの画法となっているがモザイクの場合もある。ローマ美術の粋であると同時に「生活」も見せてくる。
12 巨大モザイク
【12 巨大モザイク】
写真では大きさがうまくでていないが、これはとてつもなく巨大なものである。博物館の二階までぶち抜きの壁一面を覆っている。これが置かれていた「床」を持つ建物は個人の邸宅ではなく、バシリカなど公共の集会建物であったかと思われる。モザイクに興味を持つ人にとっては必見のものとなる。
13 地下遺跡
【13 地下遺跡】
メリダの博物館の下は「地下遺跡」となっていて「発掘がされている現場」となっている。現場の臨場感を見てもらっているが、モザイクなども出ていてここは興味深いところとなっている。発掘に興味のある人にとっては必見の場所となる。
14 ミラグロスの水道橋
【14 ミラグロスの水道橋】
メリダの町の北方に水道橋がある。「ミラグロス」と「サン・ラサロ」があるのだが「ミラグロス」の方が良く知られている。かなり崩壊しているが「水道橋の遺構」として見た目に魅力的なものとして知られている。他にたとえば「セゴビアの水道橋」のように残存状態の非常に良い水道橋もあるのだが、それは近代まで使用されてきているからである。ここはそういう意味で「ローマで終わった」という風情が感じられる。
15 ア・ラコルーニャ「当時の航海路」
【15 ア・ラコルーニャ「当時の航海路」】
ア・ラコルーニャというのはイベリア半島の西海岸の北端に位置しており、地中海から大西洋に出て、現在のポルトガルの西海岸を北上して、その突端にあるここからイベリア半島北面を辿って現在のフランス、さらにイギリスへと航海する要衝の地であった。その航海路を示しているが、羅針盤のない当時は公海には出られず海岸線を辿ったため座礁などの危険と隣り合わせであった。
16 「灯台・ヘラクレスの塔」
【16 「灯台・ヘラクレスの塔」】
海岸線を行く船の座礁を避けるためギリシャ時代にすでに灯台は開発されていたが、ローマもそれを多用していた。その遺構がここにあって世界遺産となっている。高さ55メートル。紀元後100年に近い「トラヤヌス皇帝」の時代のもの。現存する世界最古の灯台。1700年頃大改修され現在の形となる。「ルシタリアのアエミニウム出身のガイウス・セヴィウス・ルプス」が「マルス神」へと捧げたとある。
17 ヘラクレスの塔から見た海
【17 ヘラクレスの塔から見た海】
岩礁が見えるが、ここは「座礁の名所」であったと言われる。そのためここの灯台は近代まで生き続けてきたのであるが、本来「マルス神の灯台」であったのに「ヘラクレスの塔」とされる所以は、古代ギリシャのヘラクレスの「12の功業」の一つ「ゲーリュオンの牛の奪取」の舞台との言い伝えから。古代ギリシャ神話の世界は「北アフリカ」から「イベリア半島」にまで及んでいたのである。
18 ルーゴの「ローマの市壁」
【18 ルーゴの「ローマの市壁」】
イベリア半島北方にあり、現存する最古にして完璧に残存した「ローマ時代の市壁」の町である。市を囲む市壁が崩れず昔通りに360度すべて残存しており、そのため世界遺産指定を受けている。都市の形成は紀元前20年代の最初の皇帝アウグストゥスの時代で、当初は「部隊の駐屯地」とされる。市壁の建造は紀元後200〜300年代。全長2.5キロ、高さ10〜15メートル、71の塔を持つ。
19 城壁の上部
【19 城壁の上部】
市壁の有り様が良くみてとれるであろう。半円の塔の連なりとなっているわけでが、これは壁の強度を強くしていると同時に敵が薄くなっているへっこみ部分を崩そうとして襲っていた場合左右からその敵を攻撃できるわけでわけである。へっこみ部分が薄くなっているとはいってもその巾は数メートルあり車が三台くらいは行き違えられる位の厚さをもっていることは写真に人が映っていることから推察できるであろう。
20 市内の銅像
【20 市内の銅像】
ルーゴの町の内部を歩いているとこんな銅像にいきあたる。ローマ帝国建国の父とも言える「カエサル」とその養子にして初代皇帝とされる「アウグストゥス」の像であり、ルーゴの住民はこうしてこの町の由来と誇りとを示しているのであろう。
21 ラス・メドゥラス
【21 ラス・メドゥラス】
ラス・メドゥラスというのはローマ帝国の「金鉱脈」であり、ここはすでに紀元前4世紀頃には金が算出されてネックレスやイヤリングが作られていた。この鉱脈をローマが手中にしたのは初代皇帝アウグストゥスの時代となる紀元前25年であり、以来枯渇するまで約200年以上採掘が行われ、その間に約165万キログラムの金が採取されたという。ここの金は砂金であり、1トンあたりの土砂に3グラムの金が含まれていたという。
22 水路の跡
【22 水路の跡】
採取方法は水源から水路によって水を集めてきて山頂あたりに作った貯水池に水をため、斜面に沿って掘っておいた地下道に一気に水を流し込み、その水圧で斜面が崩れて大量の土砂が下に落ちたところを水で洗って金を取るという方法であった。そのためにもともとは平らであった山肌は幾重にも亀裂の入った「崩れ山」の姿となったのである。
23 ラス・メドゥラスの「栗の木
【23 ラス・メドゥラスの「栗の木」】
ラス・メドゥラスは当然かなり広い地域に渡っているわけであるが、その崩れた山肌の回りは「栗の木」の林となっている。これは古代ローマ時代からのもので、ローマ帝国は痩せた土地でも育つ「栗の木」を大量に栽培し、労働者の食料としていたという。
24 ラス・メドゥラスの説明板
【24 ラス・メドゥラスの説明板】
ここは「崩れた岩山」としか見えないわけで、その仕組みは目にすることができない。そのために現場にこうした案内板を立ててある。ただしここまでくるにはバスの停車場から20分程度歩いて来なければならない。ここはまだあまり人に知られていないところであるが、ローマ帝国に興味のある人であるならば是非訪れて現場を見てもらいたい。
25 セゴビアのローマ水道橋
【25 セゴビアのローマ水道橋】
ローマは紀元前200年頃からイベリア半島を開拓地としていき、紀元頃から「ローマ帝国」と呼ばれるようになったが、この水道橋はその最盛期となる紀元後100年頃の建設。地中海域に数多い水道橋の中でも代表的なものの一つであり、残存部分の保存状況の良さとその全体像の美しさで知られる。1800年代後半まで現役として使用されており、現在でも間接的に使用されているという。そのため完全な形に保たれてきた。
26 水道橋の側面
【26 水道橋の側面】
水道橋の側面に細長い板状のものが設置されているのが見えるであろう。その中央の柱にくぼみが作られており一体の像が置かれている。遠目ではっきりしないのだが、イエスを抱いたマリアのように見える。このセゴビアの町の守護を祈ってのものであろう。これはむろんここがキリスト教のものとなって以降のものであり、ローマ時代にはおそらく皇帝の像が置かれていたものと思われる。
27 水道橋の構造
【27 水道橋の構造】
ローマの水路そのものは紀元前300年頃から建造されてくるが、高低差を利用して山間部などから都市に向けて水を流し、全体的には山間部は地上に水路を造り、橋の必要なところに橋が造られ、都市に入ると最終的には「地下水路」となることが多かった。この写真はまだ「水路」の段階で水道橋に入る以前の流れとなる。
28 水道橋の端
【28 水道橋の端】
この写真は、水路が「水道橋」になった直後のものとなる。こんな具合に水道橋のあり方を観察できるのはセゴビアくらいである。なお、水道橋の斜度の取り方の基本は1キロあたり平均34センチの斜度で、50キロで17メートルの高低差とされる。
【29 コルドバ、ローマ橋からメスキータ】
「コルドバ」は711年、イスラームのウマイア朝が進出してきて首都としたところで、イベリア半島のかなり南方に位置している。この都市の発祥はローマ時代で、その名残が写真右手の「ローマ橋」に残っている。ローマ初代皇帝「アウグストゥス」にまで遡るとされる由緒ある橋で、全長が223メートルで16のアーチで支えられている。
30 橋から見たメスキータ
【30 橋から見たメスキータ】
コルドバはイスラーム支配の全盛期には当時の世界の中でももっとも繁栄していた都市として知られ、町には300ものモスクがあったと言われる。その中心となるのが「メスキータ(「モスク」のスペイン語での呼びで、広義にはスペインにあるモスクすべてとなるが、狭義にはこの首都コルドバの大モスクを指す)」となる。
31 メスキータの外見
【31 メスキータの外見】
キリスト教軍の進出となってここが落とされた時、メスキータが「キリスト教会堂」に転用され、さらにこのメスキータを壊して新たな教会堂を建設する計画となる。しかし、市民がその計画に猛反発したために、結局そのメスキータの内部にキリスト教会堂を作るという奇妙なことになってしまった。1523年のことで、現在その教会堂の屋根がメスキータを突き抜けて、一見すると二階建てのような形になっている。
32 メスキータの壁
【32 メスキータの壁】
壁に沿って歩くと時折素晴らしい模様が目につく。「壁の模様」と見えるが、これらはもともとメスキータの「入り口」であったものがキリスト教時代となって塞がれてしまったものである。そのため「入り口」にほどこされていた「模様」がそのまま壁の上に残っている。本来19カ所あったが、入り口としては現在5カ所だけとなっている。
33 門の模様・イスラーム美術
【33 門の模様・イスラーム美術】
その塞がれてしまった門に施されていた模様を見ているが、イスラーム美術は「幾何学模様」と「アラベスク文様(たとえば花柄や葉っぱなど一つの形が連続的につながり波打ったり曲線をえがいたりして何処までも連なっていく文様)」、また「赤・黒(あるいは白)の段だら模様」、「細身の柱に支えられるアーチ」「円形アーチ」などに特徴を示すのであるが、ここはその典型的なものを示している。
34 アルミナールの塔
【34 アルミナールの塔】
ひときわ高い塔があり、一般に「アルミナールの塔」などと呼ばれているが、もともとはイスラームの「ミナレット(礼拝の呼びかけのための塔)」でキリスト教時代となって「鐘楼」として転用されたもの。高さが93メートルあるのでコルドバのどこからでも目にすることができる。
35 中庭
【35 中庭】
その塔の隣りにある門からメスキータに入るが、この門は「免罪の門」と呼ばれてキリスト教の時代となった1377年に作られたもの。入ったところが「オレンジの中庭」となっているが、ここは礼拝者が身を清めるための水盤が置かれていたところでイスラームの礼拝堂に不可欠のものである。
36 メスキータ内部
【36 メスキータ内部】
メスキータの内部は「円柱の森」とも評されるようにたくさんの円柱が立ち並んでいる。もともと1000本以上あったとされるが、キリスト教会堂を内部に作ってしまったために150本ほど取り去られて現在は850本ほどとなっている。この円柱は昔のローマ時代の神殿・建物の柱を流用しているため、コリント様式の「ローマ」柱が見えている。
37 イスラーム型のアーチ
【37 イスラーム型のアーチ】
特徴的なのはその柱の上にある「アーチ」となる。「イスラーム型アーチ」で「アーチの丸み」が強調され、そのアーチは「赤」と「白」の石を交互において形成しているため「赤・白の段だら模様」となり、それが立ち並ぶために幾重にも重なってきて、何とも言えない幻想的な雰囲気を作ってくる。
38 ミフラーブ
【38 ミフラーブ】
そしてもう一つ特徴的なのが「ミフラーブ」で、これは「メッカの方角」を示すのが本来の役目だから通常は壁に「くぼみ」を作ってそこに装飾を加えるという程度。しかし、ここのミフラーブは「小さなホール状」となっていてアーチ型の「入り口」を持ち、装飾はこりにこっており(当時建築技術が群を抜いていたとされる「ビザンティン」から職人を呼び寄せたと言われる)天上も素晴らしい装飾となっている。
39 モスクと教会の併存
【39 モスクと教会の併存】
先にも少し触れたが、ここの最大特徴が「モスクとキリスト教会の併存」となるだろう。写真左手はモスクで、イスラーム文様の「赤・白の段だら模様のアーチ」が見え、右手はキリスト教礼拝堂として人々が椅子に座っており、その頭上にはカトリック教会に独特のオルガンが見えている。こんな極端ではないが、スペインの教会には「イスラームとキリスト教」の融合建築・美術(ムデハル様式)が至るところで観察される。
40 メスキータ内部の教会
【40 メスキータ内部の教会】
写真だけ見るとここが「イスラームの礼拝堂の中」とは誰も想像できないであろう。完全なキリスト教会である。しかし、イスラームとキリスト教とはもともと同じ神を持つ宗教だからなのか、あるいは双方とも礼拝堂の形などどうでも良かったせいなのか、「借用」していたり「共存」していた例はスペインだけではなく中東にも見られる現象だった。つまり、平和な時代・場所も歴史的にはたくさんあったのである。
41 グラナダ「アル・ハンブラ宮殿」にて
【41 グラナダ「アル・ハンブラ宮殿」にて】
アル・ハンブラ宮殿の入り口のところに居るが、この宮殿は781年に及ぶイスラーム勢力の最後の王朝「ナスル朝(1232〜1492年)」の宮殿となる。キリスト教軍が勢い高く攻め寄せてきていた時代である1230年頃に城塞が築かれたのが始めだが、ナスル朝はキリスト教軍との戦いは避けるようにして経済的に発展し、170年くらいたって現在のような広大な王宮の姿としていった。
42 アル・ハンブラ宮殿の遠景
【42 アル・ハンブラ宮殿の遠景】
「アル・ハンブラ」とは「赤い城」という意味だが、この宮殿の建つ高台も含めてその外観が全体として赤茶けて見えるところからの命名である。写真に見られるように、この王宮の外見は西欧に見られる王宮のような絢爛豪華さは全くない。むしろ「地味」である。しかし内部に入ると絢爛・壮大なイスラーム美術に圧倒されるのである。
43  宮殿敷地
【43 宮殿敷地】
王宮の敷地自体は相当に広大だが、見学に値する「ナスル朝宮殿」は広くはない。多くの人が間違えるので注意しなければならないのはナスル朝の宮殿の前に大きな建物がありそれが宮殿と思われてしまうことがある。しかし、これはキリスト教の時代となっての「カルロス一世(神聖ローマ帝国皇帝「カール5世」)の建造した宮殿で、本来のアブ・ハンブラ宮殿とは無関係である。
44 ナスル朝の宮殿「大使の間」
【44 ナスル朝の宮殿「大使の間」】
カルロス一世宮殿の裏側が「ナスル朝宮殿」となる。最初の見所が通称「天人花のパティオ(中庭)」の前にある「コマーレス宮」の「大使の間」となる。ここで先ずこの宮殿の美術表現を観察することになる。ここは「極彩色」の表現は持たず、むしろ精緻なアラベスク文様となる。
45 天人花(アラヤネス)のパティオ
【45 天人花(アラヤネス)のパティオ】
この宮殿は言って見れば二つの「中庭(パティオ)」の回りに回廊や部屋がしつらえられていると形容できるのであるが、その一つ目の中庭となる。「天人花の生け垣」を持つところから一般に「天人花のパティオ」と呼ばれている。そこに長方形の「池」が設置されていて、建物が映り独特の美しさを作っている。この写真には「コマーレス宮」が映っている。
46 ライオンのパティオ
【46 ライオンのパティオ】
コマーレス宮を抜けたところが「ライオン宮」となり、124本の列柱で囲まれたその中庭には円陣を組んで12頭のライオンが並んでおり、その口から水が流れ、ライオンの円陣を中心として十字に水路が造られている。現在この庭は砂利敷きとなっているが、かつては一段低くなっていて季節には花の絨毯となるようになっていたとされる。このライオン宮が王の居住空間であったと見なされる。
47 ライオンのパティオの回廊
【47 ライオンのパティオの回廊】
前の写真に見られるように、このパティオを囲むように回廊がしつらえられているが、この形はイスラム型のアーチと形容でき、アーチ部分は幾何学的な模様が刻まれ、二本の細い柱がそのアーチを支えるようになっている。いかにも東方世界的な様式は魅力である。
48 二姉妹の部屋
【48 二姉妹の部屋】
「ライオンのパティオ」の北にある建物がこの宮殿での最大の見物となる部屋で「二姉妹の部屋」となる。「二姉妹」とは何なのかどうもはっきりわからないのだが、この部屋の噴水の脇に置かれていた二対の美しい大理石に由来するという説もある。しかし、この部屋の美しさは、とりわけ王の寵愛を受けていた二人の姉妹の部屋であったのだ、などと勝手に想像をたくましくして見ていた方が楽しい。
49 二姉妹の部屋の天井
【49 二姉妹の部屋の天井】
天井が「鍾乳洞」のようになっており、蜂の巣状の鍾乳石飾りを、高部の透かし彫りの窓からの柔らかな光が照らし出すようになっている。こうした造りがナスル朝美術の特徴であると言える。つまりこのアル・ハンブラ宮殿は何処にも「華麗な色彩」は持っていないのだが、その造りの繊細さと、この部屋での場合は「光」と融合してさまざまの「光の踊り」を作り出す仕組みとなっているわけである。
50 ヘネラリフェの「アセキエの中庭」
【50 ヘネラリフェの「アセキエの中庭」】
王宮の外とはなるものの王宮に隣接した丘(太陽の丘)い「別荘」が作られていた。その一つ「ヘネラレフェ」が残り、ここはグラナダの脇にそびえる「シエラ・ネバダ山脈」から流れる水を利用してたくさんの水路や噴水を設置し、通称「水の宮殿」とも呼ばれる。その代表的なものが「アセキエの中庭」であり、噴水のアーチとなっている。
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