1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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1. 「マルタ島」の
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2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

17.

中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」

パルミラの都市遺構。 パルミラの墓の谷。 ボスラの劇場城塞。 ペトラの都市遺跡。イエルサレム旧市街


■中東のローマ都市遺跡
中東のローマ世界遺産地図-小 拡大地図を見る>>
現在の「シリア」「ヨルダン」「イエルサレム」
シリアの「パルミラ」「ボスラ」、ヨルダンの「ペトラ」「イエルサレム」
ローマの経済を支える「香料の道」「絹の道」の中継都市。また「軍事的重要性」
ローマ人および現住のアラブ系民族。
 ローマ帝国は、「香料の道」「絹の道」で知られるように東方との交易がその経済の生命線であった。それがローマの富を形成させたのであり、ローマの経済的要は東方への道にあった。さらに、ローマ帝国は東方イラン地方のペルシャとの軋轢に備えなければならなかった。それにはやはり中東領域が要であった。こうした経済と軍事との二つの要因でローマは中東を自らの中心都市としていなければならなかった。
 そのため、中東での自治国であったアラブ系の「パルミラ人」が台頭して独立を志した時もこれを徹底的に叩いたのであるし、「ボスラ」や「ペトラ」などアラブ系の「ナバテア人」の都市も接収していったのであった。こうしてこれらの都市は「ローマ化」されていったのであるが、しかしこの現住民族は自らの宗教は捨てることなく保持しつづけており、したがってこれらの遺跡にはローマの都市の作りと原住民族の神信仰が混在しているというユニークな遺跡となっている。
 「パルミラ」と「ペトラ」はもう有名遺跡の仲間入りをしている。パルミラにはローマ都市の典型である「列柱通り」の最高度に見事なものが残っている。その左右にさまざまの遺構があるのだが、いくつかある神殿はパルミラ人のもの。「ローマと中東」という融合文化のあり方を確認して欲しい。
 「ペトラ」は確かにローマ都市には違いないのだが、遺構はほとんどナバテア人のものとなる。その独特の石窟墳墓群は見た目にも好奇の目を引くが、現地ナバテア人の思いが詰まっている。
 「イエルサレム」の旧市街はもともとヨルダン領だったのであり、従って世界遺産登録もヨルダン登録となっている。しかし現在ここはイスラエルに占領されてしまっている。ここの見所はいうまでもなくユダヤ教の「嘆きの壁」と、キリスト教の「聖墳墓記念聖堂」イスラームの「岩のドーム」となる。前者二つがローマ帝国と関係し、「ローマ帝国とユダヤ教およびキリスト教」の歴史が集約されているところとなる。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
01 パルミラ
【01 パルミラ】
シリアの東部、砂漠の「オアシス都市」。元来、中東領域はアラブ系民族(セム続)の躍動する地であり、この町は「タドモール」と呼ばれ現在でもシリアではそのように呼ばれる。「パルミラ」という名前は、ギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」という言葉が起源とされ、ここを占領したローマ人がそこから「パルミラ」と呼んだと推定。東西貿易の中継都市として繁栄。
02 パルミラの遺跡全景
【02 パルミラの遺跡全景】
ここがもっとも繁栄したのは、紀元後270年頃の「女王ゼノビア」時代となり、その勢力は中東一帯に及んだと言われる。しかし、時代はローマ帝国の時代に入っており、ついにローマによって落とされてゼノビアは捕らわれた。ゼノビアを失ったパルミラは破壊されて、「ローマの町」として再建された。遺跡はその当時のものだが、神殿などは以前のアラブ系パルミラ人のもの。
03 ベル神殿の全景
【03 ベル神殿の全景】
遺跡はかなり広い。東西に広がった東端の「ベル神殿」を皮切りに、西に列柱道路を歩いていく格好になる。「ベル」というのはアラブ系パルミラ人の主神の名前。神格としてはアラブ系セム族の主神「バアル」と変わらない。古代ギリシャ人の主神「ゼウス」と同一視されたように、天神であり、文字通り「バアル(主、支配者といった意味)」という性格の神。
04 ベル神殿
【04 ベル神殿】
紀元後1〜2世紀の建造。本殿を囲むように柱廊があり、祭壇や集会室なども付設されていた。一見するとギリシャ風の柱を持つが、影響を受けているにしても、これは中東の神殿模様。神域は一辺が210×205というほぼ正方形。ただし、神域の壁など現在も良くその姿を留めているように見えるが、実はここは後世のイスラーム時代に要塞として使われていてその名残となる。
05 ベル神殿内部
【05 ベル神殿内部】
内部に入るとギリシャ神殿との違いは明らかで、ギリシャ神殿にはこうした形の内部祭壇はない。図像的に「ベル」は髭を持たず武装の姿で、さらに、紀元後一世紀頃から、太陽を表す「ヤルヒボール」と月を表す「アグリボール」と三体で表されここに安置されていた。
06 神域の犠牲獣の道
【06 神域の犠牲獣の道】
神殿の前には祭壇があり、そこで獣が屠られた。その血を流す施設なども観察される。写真はその犠牲獣を引いて祭壇に導く通路となる。左右に階段状のものが見られるが、実際に階段であったのか、あるいはここに座って犠牲獣を観察したのか不明。
07 記念門
【07 記念門】
遺跡歩きは、通常「ベル神殿」から西に列柱道路を散策するという形になる。はじめは「記念門」で、これはローマ五賢帝の一人ハドリアヌス(在位117〜138年)を記念して作られたためこの名前がある。凱旋門様の造り。もっとも特徴的なのは、ここで門をくぐる道が曲がっているため、どちらの方向から見ても正面となるように、門は上から見ると三角形の形に作られている。
08 ライト・アップされた記念門
【08 ライト・アップされた記念門】
パルミラ遺跡はほとんど整備されていないのだが、唯一観光客を意識しているのがこの記念門で、夜になるとライト・アップされている。
09 列柱通りから記念門
【09 列柱通りから記念門】
ローマの都市は幹線通りの左右に柱をずらっと配して列柱通りとしていた。パルミラの列柱通りは長く、また柱も高く見事で、数あるローマ遺跡の中でももっとも見応があるとの評価がなされている。
10
【10 】
この列柱通りはラクダで行き来することを意識していたのではないかと言われる。その証拠として、列柱の上の棚は彫刻を置いていた棚であるが、それが異様に高いのはラクダの背に乗ってここを行き来する人の目線の高さを計算したからだと言われる。
11 ナボ神殿
【11 ナボ神殿】
記念門を列柱通りに入った左手に「ナボ神殿」がある。「ナボ」はアラブ系バビロニアの神であり、主神ベル・マルドゥクとその妻ツァルパニートゥムの子とされる。中東全体に広まったが、学芸の神・書記の神であり、さらに運命の記入者という職分を持ち、運命にかかわるところからその崇拝も高まったと考えられる。こうして古代ギリシャでは「アポロン」に比せられていた。
12 パルミラの遺跡全景
【12 劇場】
隣にローマ劇場がある。ローマ都市に劇場はつきものだが、劇場といっても芝居や出し物だけではなく、さまざまの行事や用途に用いられていた。ここは典型的なローマ風の作りで保存状態もよい。その南隣には「フォルム(集会広場)」があり、市場や行政施設などがあった。つまりこの地域が都市の中心であった。
13 ベル神殿の全景
【13 テトラファイロン】
「テトラファイロン」は英語だが、原義はギリシャ語の「テトラ(四)+ピレー(門)」で、四つの柱が一組になったものがさらに四つ組み合わされて構成される門をいう。列柱通りのほぼ真ん中にあってこの通りのシンボル。四つの柱の真ん中に彫像が置かれていた。
14 ベル神殿
【14 バール・シャミン神殿】
テトラファイロンのところを右に曲がって200メートル位のところにある。キリスト教会堂にされていたため保存状態はいい。「バアル・シャミン」とは「空の主」という意味で、したがって古代ギリシャでは「ゼウス・ヒュプシストス(いと高きゼウス)」と呼んでいた。図象表現は異なるが、実態は「ベル」と同じと考えて良い。
15 テトラファイロン・列柱通りから見る「アラブ城」
【15 テトラファイロン・列柱通りから見る「アラブ城」】
テトラファイロンから先も列柱が並んだ通りが続く。左は元老院跡となり、奥にアラブ城が見える。このアラブ城は当然後代のアラブ・イスラームによる建造となる。
16 住居跡から葬祭殿
【16 住居跡から葬祭殿】
列柱通りをアラブ城の方向を見て右手は住居地区となっていた。テトラファイロンから西の列柱通りは未整備で瓦礫の山となっているので、この住居地区を縫って歩くことになる。
住居跡は中庭を列柱が囲みその回りに部屋を配するというギリシャ・ローマの住居と変わらない。ただし、ここの住居は大きくはない。
17 葬祭殿
【17 葬祭殿】
列柱道路の端に突き当たったところに葬祭殿がある。「葬祭殿」というものだが、パルミラでは三種類の墓があり、一つは塔墓、二つめは地下墳墓、三つ目が神殿様墳墓となり、この葬祭殿はその神殿様墳墓の唯一の原型を留めているものとなる。地下が納棺堂となっている。
18 アラート神殿
【18 アラート神殿】
葬祭殿のところから列柱通りは左折するが、先の右手に「ディオクレティアヌスの軍営」がある。その手前にこの「アラート神殿」がある。「アラート」というのはアラブ系の女神で、本来は大地母神であったようだが、ここでのアラートの神格は中東の主要女神「イシュタル」と変わらないようで「戦の神」とされ、そのためギリシャ人は女神アテネと同一視していた。写真は、軍営の方から見て。
19 ディオクレティアヌスの軍営
【19 ディオクレティアヌスの軍営】
ローマがここを接収した272年の後、南方のペルシャを意識して300年前後に作られたローマの軍営地跡。ディオクレティアヌスは、ローマの混迷の時代を平定してローマの統一を取り戻した皇帝。ところで、女王ゼノビアのいた筈の宮殿が見つかっていないのだが、一説では、ここに存在していたのをローマ軍が取り壊して城塞にしてしまったとも言われる。
20 墓の谷の塔墓
【20 墓の谷の塔墓】
遺跡の西にいわゆる「墓の谷」と呼ばれる墳墓地帯がある。古い形のものは「塔」の形をしており、その「塔墓」は有力な一族の墓と考えられ数百体の遺骸が収容可能。現在10基ばかり残っているが、有名なのが「エラベール家の墓」と呼ばれるもの。四階建てで300体ほどが引き出し状の墓に収められ、それぞれに個人の姿をかたどった胸像がきざまれていた。
21 地下墳墓内部
【21 地下墳墓内部】
墓はやがて「地下式」になり、現在50基ばかりが発見されているがその中で有名なのが「3兄弟の地下墓室」と呼ばれるもの。墓の内部にフレスコなどが見られ、ここにはアキレウスとオデュッセウスを描いた壁画などがある。なお、日本隊が発掘したことで知られる墳墓はここではなく、遺跡の南東にある墳墓群にある。
22 ボスラ
【22 ボスラ】
世界遺産のボスラであるが、町としてはヘレニズム期に形成された。しかし紀元前1世紀頃から、現在のヨルダンにあるペトラと並んで、アラブ系ナバテア人による交易の中心地として栄えた。ナバテア人というのは、もともとは遊牧民族だったが交易によって繁栄するようになって定住するようになり、この「ボスラ」とヨルダンの「ペトラ」を中心として一つの国を形成していた。
23 ボスラの要塞と化したローマ劇場
【23 ボスラの要塞と化したローマ劇場】
紀元後になってローマ帝国の時代となって、ボスラも106年トラヤヌスの時代に膝下に敷かれて接収されローマの町となった。ここの遺跡はその城塞化された劇場を中心にローマ時代の遺構が見られる。
24 ボスラの劇場
【24 ボスラの劇場】
劇場は完全にローマ劇場の形態をしている。要塞にされていたために保存状態は非常に良く、かつての姿をほとんど保っている。ただし、要塞にされたことで、頑丈な城壁や内部の部屋構造などは相当に改造されている。
25 ペトラ
【25 ペトラ】
ペトラであるが、ボスラと似た歴史を持ち、紀元前のヘレニズム期に遊牧民族であったアラブ系ナバテア人が交易で行き来するキャラバンを保護し、それによって税金を取り立てることから定住したのがはじまりで、106年にローマの膝下に入る。その文化はヘレニズムの影響を強く受けていることが遺跡から理解できる。「ペトラ」という名前自体ギリシャ語で「岩」という意味。
26 ペトラ遺跡への道
【26 ペトラ遺跡への道】
ペトラは、高くそびえ立つ岸壁の狭い間を1.2キロほど抜けた秘境に作られた都市であり、外界から遮断されていた。現在もその狭い岸壁の間(シクという)を抜けて訪れなければならない。途中ナバテア人の民間宗教の遺構を数々みていくことになり、この正面の四角い岩はナバテアの神「ズゥー・シャラー」を象徴する「ジンの岩」と言われ、ナバテアの信仰形態を伝える。
27 オベリスクの墓
【27 オベリスクの墓】
「シク」に入るすぐ手前の左手にある。オベリスクというとエジプトの高い塔状のものを思い浮かべるが、それと類似のものが屋根の部分に四本彫り込まれていることから「オベリスクの墓」と呼ばれている。このペトラには、いわゆる建造物はほとんどなく、それに相当するものは岸壁をくりぬき彫刻した「岩窟家屋」となる。今日見る多くは、問題は多いがとりあえず「墳墓」とされる。
28 シク
【28 シク】
ペトラの町への入り口は、こうした岸壁の間の道を行くわけで、この道のことを「シク」と呼んでいる。前を行くのはナバテア人の衣装をつけた現地の人。
29 シクから見るエル・ハズネ
【29 シクから見るエル・ハズネ】
シクを辿ることおよそ1.2キロほどで正面に岩窟家屋が見えてくる。崖の岩肌を彫り抜いた神殿風の彫刻で幅約30メートル、高さ43bとなる。柱はヘレニズム・ローマ期を代表する古代ギリシャのコリント様式。ここは「宝物殿」などと思われて、そのため「ハズネ(宝物庫)」と呼ばれているのだが、それは建物の上部の壺の中に宝物があると信じられていたから。
30 エル・ハズネ
【30 エル・ハズネ】
ここから宝物は発見されず、むしろ埋葬された遺体が発見されたことから王族の霊廟だったのではないかと言われている。ここに彫り込まれている彫像についてもさまざまに言われているがはっきりしない。上部中央の人物像らしきものについても、ナバテアの女神「エル・ウッザ」ともエジプトの女神「イシス」とも言われている。
31 ファサードの道
【31 ファサードの道】
エル・ハズネを正面に見てシクは右に曲がる形となり、すぐにシクは広く広がる。その広がったあたりの左右にも岩窟家屋が彫り込まれているが、この広い道を「ファサードの道」と呼んでいる。ファサードとは「建物の前面」を指す言葉で、岩窟家屋の前面が並んでいるところからの命名である。ここは墳墓ではなく一般的な家屋だったかと推定。
32 ローマ劇場
【32 ローマ劇場】
ギリシャ・ヘレニズム時代からローマ時代の都市に劇場は必須のものとなる。演劇というよりさまざまの行事・集会に使われるためである。ここも岩を彫り込んだものとなる。建造時期はアレタス四世(紀元前9頃〜40頃)の治世下。ナバテア人の国の時代のものだが、おそらくヘレニズム文化の影響の下に建造されたのだろう。33列で3500の収容。
33 アーンの墓
【33 アーンの墓】
劇場からさらに進むと岩に挟まれた地形はなくなり、大きく広がる。その右手前方に、岩窟家屋の大がかりなものが見えてくる。一般に「王家の墓」と呼ばれているものである。ただし本当に「墓」であったか否かは全く確定されない。それに四つがあり、連続的に並んでいる。一番手前のものを「アーン(壺)の墓」と呼んでいる。命名の由来は不明。
34 アーンの墓の「法廷」
【34 アーンの墓の「法廷」】
アーンの墓の前面に庭状のものがあり、ここはギリシャのストア(列柱廊)のような形態を持ち、意味不明のマド状の四角いくりぬきがある。現地の人々はここを「エル・マハカマ(正義の法廷)」と呼んでいて、現在でもこの墓のことを現地ガイドは「法廷ないし裁判所」と呼んでいる。
35 絹の墓
【35 絹の墓】
隣は「絹の墓」と呼ばれている。色具合が絹のように見えるところからの命名と思われる。
36 コリント様式の墓
【36 コリント様式の墓】
その隣は「コリント様式の墓」と呼ばれるが、その柱の様式からの命名である。ただし破損がひどくその痕跡がたどれなくなっている。特徴的なのは、「エル・ハズネ」と形が似ていることである。
37 宮殿風の墓
【37 宮殿風の墓】
四つ目が「宮殿風の墓」となるが、言うまでもなくその装いが宮殿風に立派であることからの命名である。五層まで見えるが(上の三層は短い)、左側の上の二層は崩れてなくなっている。このタイプはペトラに二つとない独特のもの。四つ入り口があり四つの部屋があるが用途は不明。
38 王家の墓の全体像
【38 王家の墓の全体像】
下に降りて王家の墓を全体的に見ている。写真をとっているこの場所はローマ列柱通りに入る手前であり、要するにこの王家の墓はカギ型に展開している町の中心の部分にあることになる。つまり、人々は日常的にこの墓を見るようにして暮らしていたことになる。
39 ローマの列柱道路とアーチの門
【39 ローマの列柱道路とアーチの門】
ペトラが紀元後106年にローマの支配下に入って後、町はローマ風になっていった。その最大の印をローマの町特有の列柱道路とローマ風の門に見ることができる。ここは奥まった場所になるのだが、ローマ時代にはここがこの町の中心市街であったということになる。
40 カスール・エル・ビント
【40 カスール・エル・ビント】
アーチ門を出て左手に「カスール・エル・ビント(つまりエル・ビント城)」がある。「城」などと呼ばれているが城でも何でもなく、ナバテアの神「ズゥー・シャラー」と女神「エル・ウッザ」を祀った神殿である。
41 エド・ディル
【41 エド・ディル】
門を出た先のところにレストランがあり、ここからさらに道は山道となって続いていく。およそ40分ほど岩山の道が階段状になっている道を行くと「エド・ディル」に到着する。これは、後世キリスト教の修道士の修道の場所として使われていたらしく、そのために「ディル(修道院)」と呼ばれているのだが、本来はナバテア人の神殿だったと推定されている。高さ45、幅50メートルとなる。
42 イエルサレム
【42 イエルサレム】
イエルサレムは、紀元前1000年頃イスラエルの王ダビデが襲って占拠し、古代イスラエルの首都とされた。しかしイスラエル人はまとまらず、内乱や外憂に晒され、結局ローマ時代に反乱を起こしたことでこの地を追われる。現在再びイスラエル人の町とされているがこれも国際的に大問題で、また皮肉なことにイエルサレムのシンボルはイスラームの「岩のドーム」となっている。
43 オリーブ山から全景
【43 オリーブ山から全景】
イエルサレムは世界遺産となっているが、登録は「ヨルダン」である。つまり、第二次大戦の後、欧米の思惑でイスラエルという国がパレスチナ人の領域に作られてしまったのだが、それでもイエルサレムの旧市街は「ヨルダン領」とされていたのである。それが現在イスラエルに占拠されているのが実情であり、この写真の領域は本来「ヨルダン領であるイエルサレム」である。
44 ローマ遺跡
【44 ローマ遺跡】
ローマ時代に当然ここはローマ風の町になっていたのだが、イスラーム支配の間に消滅してしまった。ローマ時代の遺構は現在発掘中で、「カルド」と呼ばれる「列柱通り」が復元されている他は、この神殿の丘の麓での発掘作業が進められている。
45 嘆きの壁
【45 嘆きの壁】
ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こしたため、紀元後の70年ユダヤ神殿は破壊され、ユダヤ人は追放される。しかし四世紀頃になって特定の日には帰参が許されるようになり、この時にユダヤ人はこの破壊された神殿の壁の前に立って自分たちの運命を嘆いたという。これが「嘆きの壁」の由来。現在の壁は神殿の「西壁の名残」で高さ18メートルある。
46 聖墳墓記念聖堂
【46 聖墳墓記念聖堂】
コンスタンティヌス皇帝の母である「ヘレナ」がイエルサレムを訪れ、ここを掘ってみたところイエスを含めて三人が磔とされた三本の十字架がでてきて、ついでイエスが被せられた「茨の冠」や「打ち付けた釘」、「十字架が立てられた岩」や「イエスの墓所」を発見したという。これをきいてコンスタンティヌスはそこに聖堂を建てさせたという。イエスの磔後300年後であった。
47 岩のドーム
【47 岩のドーム】
ユダヤの「嘆きの壁」の真後ろに、イスラームの「岩のドーム」がある。これはローマ帝国とは関係がなく、イスラームの預言者ムハンマドが神にみまえるため天使ガブリエルによってここの岩から天に昇っていったという伝承に基づき、イスラーム信徒はその岩を守るために聖堂を建てた。しかし、ここを占拠したユダヤ人は何かと介入してきて問題となり、そのため現在は入場できない。
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