1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

19.

キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」

中東の世界遺産、イエルサレム旧市街、シリア「ダマスコス」。 小アジアの「タルソス」「アンティオケア」「ペルゲ」「エフェソス」(以上は未登録)。 キプロス「パフォス」。 ギリシャ「カヴァラ」「世界遺産テッサロニケ」「ヴェリア」「アテナイ」「コリントス」。 マルタ島「パウロの洞窟」。 イタリア半島「世界遺産バチカン」。 エジプトの世界遺産「シナイ山と聖カトリーナ修道院」「聖都アブー・ミーナの遺跡」「ワディ・イン・ナトゥルーンの修道院」。


■キリスト教伝道の道
キリスト教伝道の道地図-小 拡大地図を見る>>
中東イエルサレムとダマスコス、小アジア、ギリシャ、イタリア、エジプト。
「イエルサレム旧市街」「シリア、ダマスコス」「ギリシャ、テッサロニケ」「バチカン」「エジプト、聖カトリーナ修道院」「エジプト、アブー・ミーナ」「エジプト、ワディ・イン・ナトルーン」
西方世界の中世を特徴づける「キリスト教」の伝道の道。ここではパウロによる西洋への道と、ヘレニズム・ローマ期の文化の中心であったエジプトへの伝道を見る。
紀元後50年頃から。
 「中世の社会」を開く機縁をみようとしているが、「古代・中世」の概念規定は領域や視点、また研究者によってさまざまとなる。ここでは社会・文化史的に見て西方世界の古代とはローマ帝政の初期まで、中世をローマ帝国の西域が滅亡して以降の、ローマ帝国の後期(いわゆるビザンティン帝国)以降とし、中世社会の特質をキリスト教およびイスラームによる社会支配の時代とする。
 その中世を用意することになるキリスト教の伝播は、一般には『聖書』の「使徒言行録」に記述されている西洋への伝道者「パウロ」によるものが有名で、何かこれだけが伝道の道であったかのような錯覚までもたれているほどである。しかし、実際にはキリスト教は西洋にのみ伝道されたわけではなく、地元のパレスチナ・シリア地方はいうまでもなく、小アジアは「ヨハネと黙示録の七つの教会」で知られるように初期キリスト教の中心地であり、さらにとりわけ当時の文化の中心地であったエジプト地方への伝播(「マルコ」による伝道とされる)が「キリスト教の伝播の性格」を考える上では重要視されなければならない。また、ローマ帝国に先立ってもっとも早くキリスト教を国教とした「アルメニア」も重要である。
 しかし、ここでは一般的に有名となっている「パウロの伝道の道」と「マルコによるエジプトへの伝道」の結果としての「コプト教会」を紹介しておく(小アジアの「ヨハネと黙示録の七つの教会」は、このホーム・ページの「小アジアのローマ都市」のページに、少しだが収録してある)。
 まずは「パウロの道」をたどってみよう。その伝道の道は現在のギリシャ本土が中心となる。つまりパウロはギリシャで伝道を成功させたことで「西洋キリスト教」を打ち立てたと言ってもいい。
 二つめに我が国ではほとんど知られていないエジプトの「コプト・キリスト教」を紹介しておく。キリスト教は西洋のものという錯覚を脱却して欲しい。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
01 バチカン広場にて
【01 バチカン広場にて】
パウロによるキリスト教西洋伝道の行き着いた場所。現在のキリスト教の最大勢力を誇る「ローマ・カトリック」の総本山。紀元後500年少し前、ローマ帝国の西域はゲルマン人によって占拠された。その中に取り残されたローマ教会は、ゲルマンの王と手をむすび新たなキリスト教を形成していく。そして、ゲルマンの王国の興隆に伴って勢力を伸ばし、かくして西欧人のキリスト教となった。
02 イエルサレム旧市街
【02 イエルサレム旧市街】
キリスト教の発祥の場所。当時ユダヤ人の町で、キリスト教はそのユダヤ教の改革運動家イエスの運動に起因する。その神はその後イスラームの神ともなるので、ここは三つの宗教の聖地となる。中央の金色のドームがイスラームの「岩のドーム」で、そのすぐ真後ろがユダヤ教の「嘆きの壁」となり、その奧の灰色のドームがイエスの死の場所に立てられた「聖墳墓記念聖堂」となる。
03 ヴィア・ドロローサ
【03 ヴィア・ドロローサ】
イエスがユダヤ教の神官たちに捕まり、死刑とされるべく十字架を背負わされてゴルゴタの丘まで歩かされたという。そのイエスが歩いたとされる道が現在「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」として再現されている。言われに従ってポイントがあり、巡礼者はそこで祈りをしている。全体で1キロにも満たないが、狭くて人が多く、商店が建ち並び厳かな雰囲気は全くない。
04 聖墳墓聖堂
【04 聖墳墓聖堂】
紀元後30年頃イエスが十字架に掛けられたといういわれの場所を、300年後の紀元後326年にコンスタンティヌス皇帝の母ヘレナが探しに出かけ、イエルサレムで「イエスが掛けられた十字架や釘など」を見つけたとのことでコンスタンティヌスがそこに記念聖堂を建立したと言われる。紀元後335年とされる。建物はさまざまの破壊にあって、建立当時の面影はない。
05 聖墳墓聖堂内部、「ゴルゴダの丘」
【05 聖墳墓聖堂内部、「ゴルゴダの丘」】
聖墳墓教会の中はさまざまの言われのポイントがあり、ここはイエスの十字架の立てられたところとされて、手前の円盤状の中央の穴の中に手をさしのべると岩に触れることができる。それが十字架の立てられた跡というわけである。
06 聖墳墓聖堂内部、「塗油の石」
【06 聖墳墓聖堂内部、「塗油の石」】
入り口を入ってすぐの正面にあるものだが、イエスの遺体に香油を塗った場所とされている。巡礼者の多くがここで祈り、石にキスしている姿なども見られる。
07 パウロ生誕の地、小アジア(現トルコ地方)の「タルソス」
【07 パウロ生誕の地、小アジア(現トルコ地方)の「タルソス」】
現在のトルコの地中海沿い、シリアに近いところにある「パウロの生誕の地」とされるところ。その近くに、古代シリアの首都で、後にキリスト教の五大総主教区の一つとされた「アンティオケア」がある。ここの遺構としては「井戸」くらいしかない。
08 シリア、ダマスコスの「パウロの聖堂」
【08 シリア、ダマスコスの「パウロの聖堂」】
ユダヤ人であったパウロがイエスの伝道者になったいきさつについては「使徒言行録」に詳しい。そこではユダヤ教徒としてイエスの信徒を迫害し、逃げる人々を追ってダマスコスまできたところ一条の光を浴びて落馬し、天からイエスの声を聞いて回心した次第が語られている。そのパウロを記念した聖堂である。
09 パウロを癒したアナニアの記念教会
【09 パウロを癒したアナニアの記念教会】
パウロは光を浴びて落馬し盲目となって天からイエスの声を聞いたとされるのだが、そのときイエスは、ダマスコスの門を入ればそこに自分の弟子がいてその目を癒すといわれた。そこで門を入ったところそこにアナニアが待っていて、パウロの目に手をかざし、そしてパウロの「目から鱗が落ちた」とされる。そのアナニアを記念した教会がある。
10 アナニアの記念教会
【10 アナニアの記念教会】
アナニア記念教会は現在でも教会として現役であり礼拝が行われている。そのため教会の入り口にライトがついているのだが(どうも場末のバーのようでいただけないが)、ホールにはこのような「パウロの目を癒すアナニア」の石像などが置かれて、雰囲気を出している。
11 アンティオケア
【11 アンティオケア】
現在のトルコ地方の南端、シリア国境沿いにある町で古代シリアの首都。イエルサレムから派遣されたバルナバが活動拠点とした町で、パウロはそのバルナバに呼ばれてここに来てともに伝道の道へと入っていった。後にローマ帝国がキリスト教を国教にしてその活動領域を五つの教区に分けた時、その五大総主教区の一つとされた。現在は田舎町にすぎない。
12 アンティオケアのペテロの聖堂
【12 アンティオケアのペテロの聖堂】
アンティオケアはパウロの活動拠点となったのだが、現在パウロを忍ぶものは何もない。後代の、使徒ペテロを記念した聖堂の遺構が残っているだけである。ただしペテロが、パウロやバルナバのようにこのアンティオケアと特別な関係を持っていたということはない。
13 キプロス島「パフォス」
【13 キプロス島「パフォス」】
パウロの第一回伝道旅行となるが、それは後の伝道旅行と比べれば小規模のもので、キプロス島から小アジアの地中海沿いのいくつかの都市だけとなる。「使徒言行録」では「パフォス」での伝道を興味深く伝えている。それによると土地の総督は、魔術師を退散させたパウロの教えに熱心に耳を傾けている。ただし、このパフォスの言い伝えは逆で、パウロは迫害され縛られたとある。
14 小アジア、現在のトルコのペルゲ
【14 小アジア、現在のトルコのペルゲ】
ペルゲについてはこのホーム・ページの「小アジアのローマ都市」でも扱っているようにローマ期の小アジアにおける大きな都市の一つであった。従ってパウロがここに来て伝道しようとした意図は良く理解できる。パウロがくぐっていった門の遺構がこれである。
15 ペルゲのアゴラ
【15 ペルゲのアゴラ】
アゴラというのはギリシャ語で「町の集会広場」を意味し、政治、経済の場でもあり、人々はここで談話を楽しみ、また何かを訴えようとした人はここで演説などもしていたので、パウロがここでイエスの神について語っていたことはほとんど間違いない。
16 ギリシャのカヴァラ
【16 ギリシャのカヴァラ】
現在名をカヴァラというが、昔日の「ネアポリス」であり、パウロが小アジアのトロアスからわたってきた場所がここになる。港町として栄えていたところであった。パウロはいよいよここから「ヨーロッパ」に足跡を記すことになるのである。
17 カヴァラの「アギオス・ニコラオス教会」
【17 カヴァラの「アギオス・ニコラオス教会」】
カヴァラの港近くにある教会だが、昔の港の突堤跡が残り、パウロが上陸したところとされている。したがって、この教会の表にはパウロの上陸する場面のモザイクが掲げられている。それなら「聖パウロ教会」とでも呼んだら良さそうなのにと思うが、実際昔はそう呼ばれていたらしい。他方、聖ニコラオスは「海・航海の守護聖人」なのでその教会が港にあるのは自然である。
18 古代エグナティア街道
【18 古代エグナティア街道】
カヴァラ近郊にある古代のエグナティア街道で、この街道は西にまっすぐ延びてテッサロニケに至り、さらに西に延びてアドリア海を渡ってアッピア街道につながり、北上してローマに入る幹線道路であった。パウロはここを歩いてテッサロニケに向かうことになる。
19 フィリピのリュディア記念洗礼聖堂
【19 フィリピのリュディア記念洗礼聖堂】
カヴァラは港町であり、主要な都市は少し離れたフィリピであった。パウロの目的地はこのフィリピであり、ここで得た最大の実が「リュディア」という女性であった。彼女はパウロの言葉に耳を傾け、パウロによって洗礼を受け、ヨーロッパ最初のキリスト者となったのであった。そのリュディアを記念する洗礼聖堂が洗礼の川の傍らに建てられている。
20 フィリピのリュディア川
【20 フィリピのリュディア川】
リュディアがパウロによって洗礼を受けたとされる川がこの川であり、後世それに由来してこの川は「リュディア川」と呼ばれることになった。現在でもとてもきれいな水が流れ、ヨーロッパ最初の洗礼が行われた場所としてふさわしい。
21 リュディア川に設置されている洗礼所
【21 リュディア川に設置されている洗礼所】
現在ここには洗礼のための施設が付設されている。ギリシャ人はここで洗礼をうけることを何より誇りに思っていると聞いた。正教は今でも全身を水に浸ける洗礼のあり方が生きているので洗礼施設はこんな形になる。
22 リュディアの肖像
【22 リュディアの肖像】
リュディア記念洗礼聖堂の内部に置かれているリュディアの肖像画である。リュディアは「ヨハネ黙示録の七つの教会」の一つであるテアテラの町の出身であった。テアテラは「紫布」で有名で、彼女はその商人の家の者であったと「使徒言行録」にあり、そのためこの肖像画も「紫布」を羽織っている。
23 ギリシャ、テッサロニケ
【23 ギリシャ、テッサロニケ】
パウロはフィリピからテッサロニケへと至る。テッサロニケでパウロは土地のユダヤ人たちに激しく迫害されたことが記されている。使徒言行録は決まって「苦労の末に伝道を成功させた」という筆致で書かれているので、その「苦労話」がどこでも述べられてくる。その多くは「ユダヤ人による迫害」であり、ここではそのユダヤ人による迫害が強く記されている土地となる。
24 テッサロニケ、「ディミトリオス教会」
【24 テッサロニケ、「ディミトリオス教会」】
パウロは結局テッサロニケを逃げ出さざるを得なくなると「使徒言行録」は記すが、他方で「多くのギリシャ人の信徒を得た」とも伝えており、それは『聖書』のパウロ書簡「第一、第二テッサロニケ書」が証拠立てている。その根は後にここをビザンティン第二の都市として教会群を形成させるのであり、それが今日世界遺産の主要理由となっている。その代表的な教会がここになる。
25 ヴェリアのパウロ記念碑
【25 ヴェリアのパウロ記念碑】
テッサロニケのパウロの友人たちはパウロを近くの町ヴェリアに行かせたと「使徒言行録」は伝える。ここではパウロはうまくいったのだが、テッサロニケのユダヤ人がここまで大勢押しかけてきたため、パウロはアテネへと出発することになる。そのヴェリアでのパウロを記念して碑が建てられている。
26 ギリシャのアテネ、「アクロポリス」
【26 ギリシャのアテネ、「アクロポリス」】
パウロはアテネへと入り、ここでも伝道を始める。通常、パウロはアテネでの伝道に失敗したと言われることが多いのだが、それはかなり浅薄な意見である。「使徒言行録」は「苦労話」とその上での成功を述べるというパターンになっていて、ここでも「苦労」を述べていて不思議はない。骨子は「それでも信徒を得た」という方にある。
27 アテネの「アレオパゴス」
【27 アテネの「アレオパゴス」】
パウロはストア学派やエピクロス学派の哲学者と論争になって、このアレオパゴスの丘で演説をする。ここで「あざ笑った」という人、「いずれまた詳しく聞く」と言った人々の存在を使徒言行録は述べる。それは一般に言われるような「失敗」という筆致ではなく、その中に「パウロに従った人々がいた」という方に比重がかかっていると読むべき。その演説の記念が銅板としてはめ込まれている。
28 コリントス
【28 コリントス】
『聖書』の「第一、第二コリント書」に明らかなように、パウロにとってこのコリントスの伝道は非常に重要なものとなった。この「コリント書」によってパウロのギリシャ伝道の意図・全貌が推察できる。写真はコリントスの港から町に入る「レカイオン通り」と、奧にコリントスのアクロポリスが見えるが、この姿がパウロの始めて目にしたコリントスということになる。
29 コリントスの「演台(ベーマ)」
【29 コリントスの「演台(ベーマ)」】
このコリントスにあってもパウロはユダヤ人たちの迫害にあい、彼らはパウロを捕らえて「法廷」(と『聖書』の日本訳はしているが、原文は「ベーマ」であり、ベーマとは「足台、演台」という意味である。ただし「演台」であるから被告人がここで弁明する場所ともなり得たので「法廷」でも意味は通じる)に連れ出されたとある。そのコリントスのベーマの遺構となる。
30 小アジア、エフェソスの「アルテミス神殿跡」】
【30 小アジア、エフェソスの「アルテミス神殿跡」】
小アジアのエフェソスはパウロに縁が深いことが使徒言行録で確認できる。エフェソスは古代から小アジア最大の大都市であり、そのシンボルが古代世界七不思議の一つに数えられる「女神アルテミスの神殿」であった。キリスト教にとっては「使徒ヨハネと聖母マリア」の流れた地であり、ヨハネ黙示録のヨハネの地でもあり、七つの教会の代表的な町でもあった。
31 エフェソスの劇場
【31 エフェソスの劇場】
パウロの物語の中でのエフェソスは、第三回の旅行に際しての出来事が有名で、パウロはこのエフェソスに居たときに再びギリシャへの伝道旅行を企図したとある。そんな折り、「女神アルテミス神殿」への参拝客を目当てに女神像の土産物を作っている業者がパウロに反感を持ち、大騒動となって劇場になだれ込んで騒いだという。その劇場がこの写真のものとなる。
32 マルタ島の「パウロの洞窟」
【32 マルタ島の「パウロの洞窟」】
パウロは第三回目の旅を終えて戻ってきたところをユダヤ人に捕らえられてしまう。そこでパウロは「ローマ市民権」の資格を発動して自分をローマに護送させる手に出る。ローマ市民権というのは絶大な資格でローマでしか裁くことができなかった。こうしてパウロはローマに向かうが、途中嵐に遭い「マルタ島」に逗留することになる。そのパウロを記念するマルタ島の洞窟である。
33 ローマのバチカン
【33 ローマのバチカン】
パウロはこうして帝国の首都ローマへとくることになった。そこからのことについて「使徒言行録」は、パウロは一人の番兵を付けられたが一人で住むことを許され、家を借りて二年の間住み、訪れる者たちに神の国について語っていた、とだけ伝えて終わりとしている。その火だねが、後代こんな豪壮な教会となっていったのだが、パウロは何を思うであろうか。
34 バチカンの「ピエタ像」
【34 バチカンの「ピエタ像」】
パウロの苦難と熱情に基づくローマへの旅は終わった。その後のローマのキリスト教は紀元後800年頃からのカトリック・バチカンの「サン・ピエトロ大寺院」に代表される。そのシンボルともなっているミケランジェロの「イエスを抱く聖母マリアの像(通称ピエタ)」となる。1499年の制作である。
35 バチカン、「サン・ピエトロ大寺院の内部」
【35 バチカン、「サン・ピエトロ大寺院の内部」】
この聖堂はコンスタンティヌス皇帝が紀元後315年に基礎を置いたのが始まりで、その後の歴史の中で修復・再建が繰り返され1626年にウルバヌス8世によって建造されたものが現在の姿となる。その豪壮・華麗さは有名で、言われのある部分を一つ一つみていくだけで半日では足りないほどとなる。
36 ペテロの玉座
【36 ペテロの玉座】
この聖堂は「サン・ピエトロ(つまり聖ペテロ)」という名前を持つように、使徒ペテロに由来している。パウロと違って、ペテロがローマに来たという記録・証拠は何もないのだが、ローマ教会は自分たちの教会は第一の使徒ペテロに由来するとして、この教会をペテロの墓の上にあるとしている。そのペテロの墓とされるものの上にあるのがこのペテロの玉座となる。
37 エジプトの砂漠
【37 エジプトの砂漠】
エジプトは初期キリスト教の時代、小アジアと並んで最大の中心地であった。アレクサンドリアがローマ帝国の最大の文化都市であったからである。アレクサンドリアで、旧約聖書となるユダヤ教の経典が紀元前200〜300年にかけてギリシャ語に訳され、以来数々のキリスト教神学者を生んでいく。また、エジプトの砂漠は修道という道をうみだした。
38 エジプト、シナイ山
【38 エジプト、シナイ山】
旧約聖書の世界から見ると、モーゼが神から十戒を授かったという「シナイ山」がシナイ半島の南にある。それほどきつい山ではなく、健康な者なら登るのに困難ではない。自信がなければラクダでも八合目あたりまで登れる。ユダヤ・キリスト教・イスラームにとっていずれも聖地であるから巡礼の登山者が絶えない。
39 シナイ山の日の出と朝焼け
【39 シナイ山の日の出と朝焼け】
このシナイ山でのハイライトは日の出を拝むことで、従ってこの登山は深夜からはじまる。朝焼けの山頂というのはモーゼが神にまみえたというその情景が思い浮かべられるからであろう。
40 聖カトリーナ修道院
【40 聖カトリーナ修道院】
モーゼのシナイ山ということで、この地にはキリスト教の初期から信者がやってくるようになり、言い伝えではコンスタンティヌスの母であるヘレナが、イエルサレムのゴルゴダの丘に続いてこの地に「モーゼの燃える柴」を発見させて(337年)その回りに聖堂を築いたのが修道院の始まりとされている。以来、伝統的なキリスト教・正教の修道の地として今日まで存続してきた。
41 聖カトリーナ修道院から見るシナイ山
【41 聖カトリーナ修道院から見るシナイ山】
この修道院は、本来は「マリア」に捧げられた修道院であったが、10世紀頃アレクサンドリアで殉教した聖女カトリーナの遺物がここにもたらされて、以来「聖カトリーナ修道院」と呼ばれるようになった。この修道院は砦のような頑丈な壁をもっているが、それは盗賊からの防御であり、イスラームもここは大事にしており現在でも平和共存している。中にモスクもある。
42 エジプト、アブー・ミーナ修道院
【42 エジプト、アブー・ミーナ修道院】
アレクサンドリアから南西に降りたところに世界遺産「アブー・ミーナ」がある。「聖メナス」に由来し、彼は紀元後285年の生まれとされる。キリスト教の公認以前の人であり、エジプトには相当早くからキリスト教が伝播・興隆していたということである。殉教の彼を埋葬したところに町が作られ奇跡を起こす聖地として興隆した。1959年に、聖地の近くに記念修道院が建立された。
43 アブー・ミーナの町の遺構
【43 アブー・ミーナの町の遺構】
昔日の町の遺構であるが、そこにいくまでの数キロは原野であり木の一本もないところで、土はぬめって滑りやすく、危険な池があちこちにあり、立ち入り禁止になりはしないかというようなところである。しかし、言われを知っていれば行きたくなる。
44 アブー・ミーナ
【44 アブー・ミーナ】
行ってみるとこんな場所で、ただの廃墟と言える。しかし、この町は意外に広い。そこを歩きながら、かつての教会跡などを探してあるくのは一つの遺跡巡りの醍醐味と言える。
45 アブー・ミーナの教会跡
【45 アブー・ミーナの教会跡】
ここは確実に集会のための建物、バシリカかあるいは教会跡であると判断される。だとすると昔日あったとされる「聖アタナシウス教会」である可能性もある。
46 ワディ・イン・ナトルーン
【46 ワディ・イン・ナトルーン】
アブー・ミーナからギザ方面に東南に降りてきた砂漠の真ん中に、世界遺産、修道の聖地「ワディ・イン・ナトルーン」がある。そもそもキリスト教における修道というのはエジプトが発祥地であった。その修道の精神は今も生きていて、この地に一つの修道の中心地ができあがっている。写真はそこの「聖マカリオス修道院」である。
47 聖マカリオス修道院
【47 聖マカリオス修道院】
聖マカリオスというのは修道の始祖である聖アントニウス(251年頃〜356年)の最大の弟子で、この地で修道生活に入り、彼を慕う者が集まってきて修道院部落が形成されていった。その中心修道院がここになるわけで、300年代に建設されている(マカリオスの墓の上に立てられた)。エジプトのコプト教会の総主教は歴代ここの出身者となっている。
48 マカリオス修道院の教会内部と聖職者
【48 マカリオス修道院の教会内部と聖職者】
教会内部と聖職者であるが、「コプト十字」と呼ばれる十字形が興味深い。聖職者の黒づくめと髭は伝統的なビザンティン教会と同様だが、頭巾のようなかぶりものとなっているのは珍しい(伝統的ビザンティン教会の場合は黒い帽子)。
49 マカリオス修道院の内部
【49 マカリオス修道院の内部】
伝統的ビザンティン教会の内部は壁画モザイクでうめつくされるのだが、ここにはそれはない。またカトリックのような豪壮・華美さもなく、質素で簡素なたたずまいはむしろプロテスタントの教会に近いものを感じさせる。
50 マカリオス教会のイコン
【50 マカリオス教会のイコン】
それでも「イコン」はあり、扉の上部によく観察される。このイコンの様式が興味深く、伝統的ビザンティン様式のような「威厳・荘重さ」「神の国の鏡」といった風情はなく、むしろデザイン的で、無礼な言い方ではあるが、漫画的でむしろ「愛らしい」感じがして、厳しい修業との奇妙なギャップが感じられる。
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