1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

20.

ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」

小アジア「コンスタンティノポリス」「アヤ・ソフィア教会堂」「カッパドキアのキリスト教都市遺跡」。 ギリシャ「メテオラの修道院群」「ミストラの都市遺跡」


■ビザンティンの歴史と文化の遺産
ビザンティン遺産地図-小 拡大地図を見る>>
現在のトルコの都市イスタンブール(旧コンスタンティノポリス)、トルコ内陸部「カッパドキア」、ギリシャ本土内陸部「カランバカ近郊」、ペロポネソス半島「スパルタ近郊」
現在のトルコの「イスタンブール歴史地区」、奇岩とキリスト教の中心地「カッパドキア」、ギリシャの「奇岩の修道院メテオラ」、ビザンティンの「最後の都市ミストラ」
現在のイスタンブール、旧コンスタンティノポリスは、後期ローマ帝国であるビザンティン帝国の首都であり、カッパドキアはビザンティン・キリスト教文化の中心であった。そして、ギリシャの「メテオラ」はビザンティンの修道精神が作った奇岩の上の修道院であり、「ミストラ」はビザンティンの最後の砦であり後期ビザンティンを代表する。こうしてこの四つはビザンティンの歴史と文化を語る。
ビザンティン・ギリシャ人
 ビザンティン帝国とは、ローマ皇帝コンスタンティヌスがローマの内乱を統一して皇位につき、都をローマからギリシャ都市の「ビザンティウム」に移した紀元後330年が形式的なスタートだが、実質的には、ローマ帝国が機構として東西に分かれ、470年に「西領域」がゲルマン民族によって占拠された後の、残った東領域のローマ帝国を言う。
 しかし、ここは首都であり、ここに残ったものが唯一の正当なる「ローマ帝国」なのであって、滅んだ西領域はただ「旧都」であったにすぎない。したがって法理論的にはここが「正統のローマ帝国」なのだが、西洋人はこの事実を感情的に受け入れがたく、近代になって「ビザンティン帝国」などという呼称を作ったのであった。
 ただし、首都コンスタンティノポリスはもともと「ギリシャ人の都市ビザンティウム」であった。従って結局この帝国はギリシャ語を国語とし、古代ギリシャ文化を融合したものとなり、帝国民としても「ギリシャ人の帝国」となっていった。それが前期のローマ帝国との差違を生み、確かに、分けて考える必要もある。
 ビザンティン文化の特質としては、絹織物など「東方貿易」の成果、「ビザンティン式教会堂」や「イコン」などのキリスト教文化、そして古代ギリシャの遺産としての古典などが挙げられる。このギリシャ古典が近代西洋に流れてルネサンスをうんだのであった。
 イスタンブールで、ビザンティンの始まりであるコンスタンティノポリスを見、秘境カッパドキアとメテオラで、西欧カトリックには消失した初期キリスト教の修道の精神の厳しさを知り、ミストラでビザンティン帝国の残照に物思いにふけるのが良い。
(外国語の日本語表記は厄介で、さまざまの表記法がある。ここではとりあえずの表記とする。
01 トルコ・イスタンブールにて
【01 トルコ・イスタンブールにて】
ビザンティン帝国とは、ローマ皇帝コンスタンティヌスが都をローマからギリシャ都市の「ビザンティウム」に移した紀元後330年が形式的なスタート。以来ここは「コンスタンティノポリス」と呼ばれることになる。実質的には、470年にローマ帝国の西域がゲルマン民族によって滅ぼされて後、東に残ったローマ帝国を「ビザンティン帝国」と呼び習わす。
02 コンスタンティノポリスの城壁
【02 コンスタンティノポリスの城壁】
この都は海に三角の形で突き出しているため、底辺の部分に城壁を築くことで陸からの攻撃を容易に防ぐことができ、コンスタンティヌス皇帝はすぐさまそうした。しかし都が拡大していったのに応じて、皇帝テオドシウスの時代に新たに城壁が作られたのが現在眼にする城壁。413年の完成となる。
03 前に同じ(テオドシウスの城壁)
【03 前に同じ(テオドシウスの城壁)】
ビザンティン帝国を1000年以上にわたって守り続けた難攻不落の城壁として有名。深さ10メートル幅20メートルという堀と高く分厚い二重の城壁とで形成され、武力で突破することはほとんど不可能とされた。実際、ここはビザンティン兵士が城門の一つのカギを閉め忘れたためオスマンの侵入を許し陥落したという。
04 競馬場のオベリスク
【04 競馬場のオベリスク】
ブルー・モスクの隣に公園状の広場があるが、それはかつての「戦車競争場(ヒッポドローム)」であり、それを示す「オベリスク」が立っている。エジプトから移築したもので、テオドシウスの時代、390年といわれる。オベリスクはエジプトのものだから、当然エジプト王「トトメス三世」の事跡がヒエログリフで書かれている。
05 競馬場の石碑
【05 競馬場の石碑】
写真で見られるように、昔の走路は1〜2メートル下に埋もれたままである。この台座にはオベリスクを建てたテオドシウスとその家族と推定される人々が浮き彫りにされている。競馬場というのはローマ人にとって最大の娯楽の場であったが、しばしば暴動の種となり、ここでもビザンティン史に名高い、帝国の存亡の危機となった「ニカの乱」の舞台であった。
06 水道橋
【06 水道橋】
「ヴァレンスの水道橋」というが、コンスタンティヌスが建設をはじめ、ヴァレンス帝の時代の378年に完成した。コンスタンティノポリスは水が出ないため、こうして外からさまざまに水を引き入れていた。現在眼にするのはユスティニアヌス二世の時代の576年に改修されて二階建てになったもの。最上部が水路となっている。
07 コンスタンティノポリスの起点道標
【07 コンスタンティノポリスの起点道標】
330年以来、ここがローマ帝国の首都であった。従って各地への道はここから始まったわけで、その距離はここを起点として計られていた。その起点を示す道標となる。
08 地下宮殿(地下貯水槽)
【08 地下宮殿(地下貯水槽)】
通常「地下宮殿」と呼び慣わしているが本当は「給水施設」。「水の確保」のためコンスタンティヌスが原型を建造。後にユスティニアヌスが建設した。70×140メートルという巨大なもの。水源は20キロほど黒海の方にいったベルグラードの森から水道で引いてきた。コリント様式の柱がほぼ4メートルおきに立ち並び、元々は336本あったが、現在246本しかない。
09 地下宮殿のメドゥーサ像
【09 地下宮殿のメドゥーサ像】
この給水施設の最深部の柱の下に、ギリシャの妖怪であり「魔よけ」として用いられていた「ゴルゴーンのメドゥーサ」の顔が二体、逆さと横向きになって土台石となっている。コンスタンティヌス以来ここはキリスト教のメッカとなって、メドゥーサは「異教の魔よけ」ということになってしまうので、工事人は「魔よけ」を設置した時遠慮してこんな形にしたと推測されている。
10 宮殿のモザイク
【10 宮殿のモザイク】
コンスタンティノポリスは、ローマ帝国の「首都」であったのだから当然「宮殿」があった。ヒッポドローム(競馬場)に隣接していた筈なのだが現在その遺構はほとんど発掘されていない。かろうじて現在のブルー・モスクの南東にあった宮殿の一部が発掘されて「モザイク」が出てきた。現在「モザイク博物館」とされている。
11 アギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)教会
【11 アギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)教会】
「アギア(ハギア)・ソフィア、現代発音でアヤ・ソフィア」はキリスト教会堂の「原点」としてもっとも重要で歴史的価値が高い。原型はコンスタンティヌス皇帝がおき、息子の二世が教会として建造(360年)、何度か焼失、537年ユスティニアヌス帝によって再建された。オスマン・トルコ時代には「モスク」に改修されたが、現代に復元された。
12 ブルー・モスク
【12 ブルー・モスク】
「アギヤ・ソフィア」にそっくりだが、これはイスラームのモスクで「ブルー・モスク」と呼ばれる。1453年、オスマン・トルコはここを占拠した後、ビザンティンの教会堂をそのまま「モスク」にしたことからその後もモスクをビザンティン様式で建造していった。そのため両者は外観からは区別が付かないような格好になった。
13 アギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)のマリア
【13 アギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)のマリア】
「アギヤ・ソフィア教会」の後陣(アプシス=聖所)の上部にある「イエスを抱くマリア」となる。ビザンティンの教会堂は基本的に後陣にこうした「イエスを抱くマリア」を配する。ただし、教会モザイクははじめから描かれたわけではなく、後代となって盛んとなったもので、これはモザイクとしては比較的初期の800年代のもの。
14 イエスに捧げ者をする皇帝たち
【14 イエスに捧げ者をする皇帝たち】
900年代末と推定されるモザイクとなるが、おそらく皇帝が教会に捧げたものであろう。自分の先祖となる偉大な二人の皇帝「創始者コンスタンティヌス」が「コンスタンティノポリスの町」を、「ユスティニアヌス」が「アギア・ソフィア教会堂」をイエスとマリアに捧げている図柄。
15 デイシス図
【15 デイシス図】
ビザンティンのモザイクのテーマとして非常に多く扱われているもので、向かって右の「洗礼者ヨハネ」と向かって左の「マリア」が中央のイエス・キリストに人類の救済を嘆願している図柄。一般に「デイシス(古典発音ではデエーシス)、嘆願」と呼ぶ。その代表的なものとなり、1261年、コンスタンティノポリスを十字軍から奪回したときの記念奉納と考えられている。
16 トルコ、カッパドキアにて
【16 トルコ、カッパドキアにて】
トルコのカッパドキアが歴史的に名高くなるのはローマ時代に入って「キリスト教」が盛んになってから以降のことで、不毛のこの地に修行者がくるようになってキリスト教の一つの中心地となった。「カッパドキアの三聖人」として有名な神学者たちを排出し、膨大な数に上る教会が建設され「ビザンティン文化」の中心地となる。
17カッパドキア全景
【17カッパドキア全景】
ここが「観光名所」として世界的に有名になったのは、その「奇岩群」によって。これは太古の昔の火山の爆発で堆積した岩が長年の歳月によって風化し、「キノコ型」をはじめさまざまの「奇形」をした岩石の群れとなって異様な風景を生み出した。
18 奇岩(ラクダ)
【18 奇岩(ラクダ)】
地層の組成によって「硬度」が異なるため、柔らかい部分は削り取られ、堅い部分が残ったためさまざまの形の奇岩が生じた。この奇岩は「ラクダ」と命名され、奇岩造形の代表とされる。ともあれ、こんなところだから「水」や「農作物」に豊かであるわけも無く、メテオラ同様、こんなところに集まってきた正教の修行者のすごさを示している。
19 奇岩(三姉妹)
【19 奇岩(三姉妹)】
「エセンテペ」は、「奇岩群のパノラマ」が見られるところで、三本のキノコはここの風景。数億年前の火山の爆発で凝灰岩や溶岩などが積み重なり、長い間の風雪で柔らかい部分が浸食され、硬い部分が上方に残って「きのこ型」となった。自然の作る景色も世界遺産指定の大きな要因となっている。
20 ギョレメの岩窟教会群
【20 ギョレメの岩窟教会群】
ここの岩の塊は柔らかいので、容易に掘ることができた。300年代、キリスト教の修道が盛んとなって、人の住まぬ不毛のこの地に修道僧が集まってきてその岩を掘り、たくさんの教会を造っていった。それを岩窟教会と呼んでいるが、ただし初期のものは少なく、多くは10世紀から11世紀のものとなる。
21 岩窟教会入り口
【21 岩窟教会入り口】
ここにはいくつか「イコノクラスム(イコン廃止運動)」の影響と推察される「幾何学紋様の絵」を持つ教会もあり、それは写真の出入り口のところの十字架文様にも現れている。
22 蛇の教会の内部フレスコ
【22 蛇の教会の内部フレスコ】
ビザンティンのイコンの様式は大体決まっていて「図式的」なのだが、中には少々稚拙と言えなくもないが通常の絵画のような表現をしているものもある。この「聖ゲオルギオスとテオドロスによる大蛇(悪霊)退治」も絵画的といえる。
23 リンゴの教会内部フレスコ
【23 リンゴの教会内部フレスコ】
ここに残存している教会のほとんどは大体同時期(10〜11世紀)なのに、さまざまのタイプのイコンが見られるのもカッパドキアの特徴と言える。写真の、通称「リンゴの教会」のイコンは、普通のビザンティン教会でみるイコンと同じ基調の一般的なものと言える。
24 地下都市(入り口の閉鎖岩)
【24 地下都市(入り口の閉鎖岩)】
ここには、いわゆる「地下都市」と名付けられている地下空間が数百もあり、一つ一つが数万から数千人も住めるとされて「都市」と名付けられている。一般にはアラブ・イスラームの迫害を逃れてキリスト教徒が地下に都市を造って潜入したと説明されるが、これには疑問や謎が多すぎる。未だ研究途上と言えるが、一見の価値はある。
25 ウフララ渓谷の岩窟教会
【25 ウフララ渓谷の岩窟教会】
この近在に渓谷があり、そこにも多くの遺構が残されている。ウフララ渓谷は数キロの渓谷トレッキングになるが、渓谷の崖には墓やら教会跡などが随所に観察される。
26 ギリシャ、メテオラにて
【26 ギリシャ、メテオラにて】
ギリシャの中部にあるメテオラは「奇岩とその上に立てられた修道院」で有名。奇岩の数は60本ほどで高さは平野部から300メートルもある。巨岩の林は人を寄せ付けず、そのため「人を避けて修行」しようとする修行者が住み着くようになり、人が近寄れない崖の上にと登っていって、結局その上に「庵」、さらに「修道院」に発展させてしまった。
27 メテオラ全景
【27 メテオラ全景】
修行者がすみついた理由として、オスマン・トルコの迫害を怖れて北方にある正教の聖地アトスから逃れてきた、などと一般に言われるが、これは「正教」の何たるかを理解していない俗説。本当のところは「ヘシカスム(静寂主義)」と呼ばれる正教の思想に基づくものと言える。「ヘシカスム」は、人や俗世を避け内面のみに眼を向けるので、ここは格好の場所。
28 メテオラからの景色
【28 メテオラからの景色】
ここに修行者がやってきて岩の割れ目などに住みつきだしたのは、修道院などが作られるずっと以前1000年代に始まっているとされる。「庵」の時期から「修道院」へと「昇格?」したのは聖アタナシウスが1356年にアトスからここに来て、伝えられるところでは九人の修道士と共に「メガロ・メトオロン(メタモルフォシス修道院)」を建設した時となる。
29 ルサヌゥー修道院
【29 ルサヌゥー修道院】
始めは修道士がロック・クライミングで登り、登ってからはロープなどで建築資材を引き上げたとされるが、ほぼ垂直の絶壁なので想像を絶する難工事となる。こうして「修道院共同体」が作られて15〜16世紀に絶頂期を迎え、修道院の数は大小合わせて24にまでなった。現在は生きている修道院は6つしかない。わずかに残った修道士や尼たちが聖地を守っている。
30 アギア・トリアダ修道院
【30 アギア・トリアダ修道院】
現在これらの修道院にくるのは容易で、車のための道も開かれ、階段もできている。ただし、中には数百段の階段を上らなくてはならないところもある。
31 ウリゾナ(釣り縄)
【31 ウリゾナ(釣り縄)】
昔は「ウリゾナ」と呼ばれる「釣り縄」を使って崖を上り下りしていた。勿論、水や食料やさまざまの建築資材の必要があって下界に降りなければならなかったからである。しかし、この縄は切れるまで取り替えることをしなかったというのだから、ずいぶんたくさんの修道僧が落ちて死んだのではなかろうか? 現在は使われていない、念のため。
32 移動のためのつり箱
【32 移動のためのつり箱】
孤立している岩山のてっぺんにある修道院同士の行き来は、こうした「移動用釣り箱」が工夫されていた。これは現在も使われているが、下は何百bの谷底である。風の強い時などさぞかし怖いのではなかろうか? ウリゾナといいこの釣り箱といい、正教の修行のすさまじさを見せつけている。
33 ギリシャ、ミストラにて
【33 ギリシャ、ミストラにて】
ギリシャのミストラであるが、ビザンティン帝国は第四回十字軍の裏切りによりフランク族によって帝国の首都コンスタンティノポリスが奪われ(1204年)、このミストラに砦を建造されてしまう。これが町の始まりとなる。亡命していた皇帝ミカエル八世が1259年にミストラを攻め、こうして二年後に帝国をフランク族から奪回した。
34 最後の皇帝コンスタンティヌス像
【34 最後の皇帝コンスタンティヌス像】
ミストラの奪回後の200年間、ここは重要地としてビザンティン皇帝の第二子以下の子や兄弟といった皇帝直属の親族の手によって統治され、ペロポネソス半島のほぼ全域を支配下におくことになる。ビザンティン帝国最期の皇帝コンスタンティヌス・パレオロゴスも皇帝となる直前はここの領主であった。
35 ミストラの全景
【35 ミストラの全景】
ミストラはこの町自体が「砦」といった性格をもった都市であったため、守備に徹した町の造りをしており、小高い山の上に城塞を持ち、山の中腹に王宮を置き、その下に街路を配するという形になっている。1453年のコンスタンティノポリスの陥落の後も、ここは7年間持ちこたえるが、ついに1460年に落とされ、こうしてローマ帝国は歴史から消えていった。
36 ミストラの都市廃墟
【36 ミストラの都市廃墟】
陥落の後、ここはオスマンの地となり教会はモスクに変えられ、宮殿にはトルコの高官が住むことになってしまう。しかし程なくヴェネツィアに攻められ陥落してしまう。その後も多難で、結局廃墟と化したが、ここは後期ビザンティンの面影を強く残し、それによって世界遺産指定されている。
37 ミストラの都市廃墟
【37 ミストラの都市廃墟】
ミストラの廃墟を歩いていると、こうした空間に出てきて、そのまま歩いていくとタイム・スリップしてしまうような感覚に襲われる。他にもそうした異次元誘因を持つ遺跡も多いが、ここはとりわけその力が強い。
38 エバンゲリストス教会
【38 エバンゲリストス教会】
ここはビザンティンの町であるから遺構としては当然教会が多い。教会は下の町に多く建造され、中腹には王宮付属の教会があった。これは下の町の教会の一つとなる。「エバンゲリストス教会」という名前の教会堂は聞き慣れないが、文字通りには「福音教会」という意味になる。
39 ハンタナッサ教会
【39 ハンタナッサ教会】
「パンタナッサ教会」は、ミストラの廃墟の中で現在も生きて続けている教会。数名の尼僧によって守られている。ここに入ると、かつてのビザンティン時代の息吹が回帰してくるようで貴重である。
40 ミストラの教会内部
【40 ミストラの教会内部】
廃墟となった教会の中に入ると、文字通りかつてのビザンティン教会の生きていた時代に誘われてくる。そうした空気は現場に立たないとわからないが、ミストラの教会はとりわけ時を超える誘因力が強い。
41 内部のフレスコ
【41 内部のフレスコ】
ミストラの教会の壁画は損傷が激しいが、かつてのままの現場の空気を強く残している廃墟であるため、「神の国への通路」「神の国の鏡」というイコンの本来性を何処よりも良く保持しており、その前に立つと神の国へと誘われていく感覚が良く理解できる。
42 内部のフレスコ
【42 内部のフレスコ】
中には保存状態の良好な壁画もある。典型的な教会壁画の一つで、これはイエスによる「盲人の治療の奇跡」を描いたもの。教会壁画はイエスの事跡を中心に描かれるのが基本となる。
43 双頭の鷲の石碑
【43 双頭の鷲の石碑】
ここはビザンティンの町であるから、ビザンティン帝国の紋章である「双頭の鷲」に出会う。「双頭の鷲」は「帝国」というものそのもののシンボルとされて、コンスタンティノポリスの陥落の後は、ビザンティン皇帝と姻戚関係にあった「ロシア皇帝」に引き継がれる。しかし、近代の西欧「ハプカブルク家」も用いたりしてややこしくなっている。
44 丘の上からの王宮
【44 丘の上からの王宮】
かつてのビザンティンの領主の住んでいた王宮。左右二つの館から成っているが、右手のものが古く1200〜300年代のもの。外側には柱廊がめぐらされ、バルコニーからこの地方一帯が見渡せた。左の館は新しく、1600年代のもので三階たて。
45 ミストラを守る尼僧
【45 ミストラを守る尼僧】
パンタナッサ教会にあって現在もこのミストラを守っている「尼僧」。遺跡の下に現在のミストラの村があるが、村人は祭りというとここに集まって、昔通りに祭儀をとりおこなっている。そういう意味でビザンティンは「今もここに生きている」といえる。
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