1.世界遺産にみる地中海域の古代・中世社会 - 30. 中東「シリア」と「ヨルダン」の歴史と文化 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

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INDEX
1. 「マルタ島」の
先史巨石神殿群
2. エジプト・
世界遺産ピラミッド群
3. クレタ島「ミノア文明」と「クノッソス」等
4. 「アトランティス大陸伝説」の「テラ(サントリーニ)島」
5. 小アジア「ヒッタイト文明」と「ハットゥシャシュ」
6. 小アジア「トロイ文明」
7. 古代ギリシャ、「ミケーネ文明」
8. 古代ギリシャ、アテナイの「アクロポリスとパルテノン」
9. アテナイ、「アクロポリスを巡る遺構」
10. 古代ギリシャの世界遺産群
11. 古代ギリシャ、オリンピアなど四大競技会
12. 古代ギリシャ彫刻史
13. 南イタリアとシケリア島のギリシャ遺跡
14. アレクサンドロス大王とヘレニズム世界
15. ローマ帝国、世界遺産「ローマとポンペイ」
16. 南フランスと小アジアのローマ遺跡
17. 中東のローマ遺跡、世界遺産「パルミラ、ペトラ、イエルサレム」
18. ローマのモザイク群、「シケリアと小アジア」
19. キリスト教伝道「パウロの道とエジプトの道」
20. ビザンティンの世界遺産、「小アジアとギリシャのメテオラ、ミストラ」
21. ギリシャのビザンティン世界遺産群
22. キプロス島の世界遺産、「先史、古代ギリシャ、ビザンティン」
23. ブルガリアとルーマニア・モルドヴァ地方の世界遺産
24. イスラーム世界の興隆、「中東、スペイン、エジプト・カイロ」
25. 古代ペルシャ(現イラン)の世界遺産
26. バチカン法王庁と
カトリック大聖堂
27.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その1
28.エスパーニャ(スペイン)
歴史紀行、その2
29.ちょっと変わったイスラーム、イランとモロッコ
30. シリア・ヨルダン歴史紀行
31. フランス(ガリア地方)開拓史
「先史巨石文明」から「ローマ帝国」まで
32. フランス中世の
「カトリック大聖堂」と「宮殿・古城」

30.

中東「シリア」と「ヨルダン」の歴史と文化


中東「シリア」と「ヨルダン」の歴史と文化 拡大地図を見る>>
 「シリア」と「ヨルダン」については17章の「中東のローマ遺跡」および24章の「イスラーム世界の興隆」で扱っているが、「中東の歴史と文化」という視点で新たに入れて欲しいという要望に基づきこの章を新たに作成した。なお、「パルミラ」や「ペトラ」は「中東のローマ遺跡」の方が詳しく紹介してある。また「イエルサレム旧市街」は「ヨルダン領」なのだが(現在はイスラエルに侵略・占拠されている)、ここは「中東のローマ遺跡」と「イスラーム世界の興隆」に譲る。

シリア地方という名前
 
東地中海に面した「中東地方全域」を古代ギリシャ人は「シリア」と呼んでいた。紀元前5世紀の「歴史地誌学の祖ヘロドトス」にその名前が出てくるのが最初。これは多分、それ以前に中東を支配した「アッシリア」に由来してギリシャ人がそのように呼んだのではないかと推測される。
 現在ではこの地方は数カ国に分かれているが、このページはその主体である
「シリア」「ヨルダン」に特化してその史跡を紹介する。

現代のシリア・ヨルダン地方
 中東というのは紀元前3000年に遡る古代の
「メソポタミア文明」の昔から現代までさまざまの民族が躍動し行き交っていた地であるため、さまざまの遺構に埋もれている。
 しかし、現在我々が目にするものは相当に時代が下がった紀元前300年代からのアレクサンドロス大王によるいわゆる
「ヘレニズム・ギリシャ時代」からとなる。
 その後ここは
「ローマ帝国」に接収されるが、その代表的な場所が「パルミラ」「ペトラ」となる。他方、原住アラブ系民族は完全にローマ化することはなく、自分たち中東の民としての文化を保ち続ける。
 そして、そのローマ帝国時代にシリアは
「キリスト教史で重要な場所」となる。すなわち「キリスト教伝道者パウロの回心」がシリアの「ダマスコス」で行われたからである。こうしてこの地方はキリスト教の中心地の一つとなり、現在はトルコ領に組み込まれてしまっているが古代シリアの首都であった「アンティオケア」は「五大総主教区」の一つとなっていたほどであった。後代にこの地方は「イスラーム社会」となるが、このキリスト教の伝統も守り続けられており、現在でもシリアの人口のおよそ10%を占めるとされ、社会的にも影響力は強く宗教的差別はないとされている。
 ついで、歴史的にこの地方はいわゆる
「イスラーム帝国の発祥の地」となる。紀元後の635年にアラブ・イスラームのウマイア家がこの地方を支配し「ダマスコス」「ウマイア朝の首都」としたのがその始まりとなる。遺構としてはウマイア朝以来の城壁と城塞、最古のモスクと言われる「ウマイヤド・モスク」などが重要。
 しかし、1100年代にはこの地方は
「十字軍に占拠」されてしまう。その攻防を物語るのがシリアの「クラック・デ・シュバリエの城塞」となる。
 ほどなくアラブ・イスラームは十字軍からこの地方を奪回するが、1400年に入ると「ティムール」に破壊される等の歴史を経て近代に至り、「フランス」に占領された後にやっと取り返して
「新生シリア」となった。
 現在の
「ヨルダン」も歴史的事情は「シリア」と殆ど変わらない。ヨルダンとは「古代シリアの南部地方」と考えておけば良い。勿論、「キリスト教の故郷イエルサレム」を含んでいて(現在イスラエルに占領されている)初期からキリスト教徒が多かった地方であるから現在でもキリスト教の勢力は強い。
01 シリアの砂漠
【01 シリアの砂漠】
シリア・ヨルダンという地方は東部のメソポタミア地方、西部のレバノン山脈沿いを除いては「砂漠地帯」となる。しかし原住民はこの砂漠を越えて東に交易へと出かけ、つまりは「シルク・ロード」を開発し、また南へは「香料の道」を開発していったのである。要するに彼らは「遊牧民」であると同時に「隊商の民」だったのである。
02 シリアの砂漠の羊
【02 シリアの砂漠の羊」
今日でも砂漠に住む原住民族はこんな具合に「昔通りの遊牧の生活」を保っている。ユダヤ教、イスラームというのはこうした「砂漠の民」のものとして発祥し展開していたことを今日の欧米や日本は全く知らない(知ろうとしない)ことが「イスラーム無理解」につながっているといえる。
03 ナツメヤシの原生林
【03 ナツメヤシの原生林】
シリア東部の「パルミラ」のナツメヤシの原生林で、もちろん「オアシス」となる。こうしたオアシスをつなぐようにして隊商隊は旅していき、その中継点は一つの「都市」として発展した。現在「パルミラ」と呼ばれている古代都市はそうして形成されたもので、発祥は紀元前200年頃のヘレニズム時代に遡るが、栄えたのは紀元後のローマ時代となる。
04 パルミラの遺跡の全体像
【04 パルミラの遺跡の全体像】
ここがもっとも繁栄したのは、紀元後270年頃の「女王ゼノビア」の時代となるが、時代はローマ帝国の時代で、ローマの属領自治の状態から完全独立を志したゼノビアにローマは軍を差し向けてくる。ゼノビアは誇り高くその投降の申し出を拒否し、ついにローマによってパルミラは破壊され、再建こそされたがかつての栄華は取り戻せなかった。
05 パルミラの「アラブ城」
【05 パルミラの「アラブ城」】
原住民族によって「タドモール」と呼ばれたこの地は「ギリシャ・ローマ」によって「パルミラ」と呼ばれることになってしまった。しかし、後に原住民族アラブ人はそれを見下ろすように高台に「城塞」を築く。勿論「要衝の地」だからではあるが、原住民族の誇りを見せている。
06 ベル神殿
【06 ベル神殿】
ローマ化されてもパルミラ人は自分たちの宗教を守り続ける。「ベル」というのはパルミラの主神の名前となる。神格としては西方セム族の主神「バアル」と変わらず、それはヘレニズム・ギリシャの時代には古代ギリシャ人の主神「ゼウス」と同一視された。つまり、天空の神、雷と雨の神であり、文字通り「バアル(主、支配者)」という性格の神。
07 ベル神殿のレリーフ
【07 ベル神殿のレリーフ】
「ベル神」は「豊かな豊穣」の神でもあり、このレリーフは大分摩擦しているが「果実の豊穣」を表していると思われる。後で紹介する「ナバテアのアタルガタス」も同様の神となる。これは世界的に観察されるとは言えるだろうが、「砂漠の民」としてはかなり切実な願いであったことはイスラームとなってからの『クルアーン』での一節でも理解できる。
08 ナボ神殿
【08 ナボ神殿】
記念門を入った左手に「ナボ神殿」がある。これは中東バビロニア以来の「学芸の神・書記の神」となり、さらに運命の記入者という職分を持ち、こうしてヘレニズム・ギリシャ時代にはギリシャの神「アポロン」に比せられていた。
09 バール・シャミン神殿
【09 バール・シャミン神殿】
「バール」とは「ベル」と同じ。ただし、こう呼ばれた時には「天空の支配者」という意味を持つ。したがってヘレニズム・ギリシャ時代ではこちらを「ゼウス・ヒュプシストス(いと高きゼウス)」と呼んでいた。図像的には「ベル」は髭を持たず武装の姿だが、バール・シャミンは「髭」を持ち手に雷を持っていて通常の「バール」の図像となる。
10 アラート神殿
【10 アラート神殿】
ベル神殿から最奧にあるダマスコス門を入ったところにローマ期の「ディオクレティアヌスの軍営」跡があるが、その脇にある中東パルミラ人の神の神殿で、ヘレニズム・ギリシャ時代には「アテネ神殿」と同一視されたようである。要するに「戦いの女神」であり、その神格は中東の主神「女神イシュタル」と同一となる。
11 ライオン像
【11 ライオン像】
アラート神殿の脇から発掘されたもので現在考古学博物館に置かれている。「獅子」は戦いの女神「アラート」を象徴しているのだろうが、獅子は原産地エジプトよりむしろ「中東・ギリシャ」において「強者・王者のシンボル」とされている。
12 墓の谷
【12 墓の谷】
遺跡の西にいわゆる「墓の谷」と呼ばれるパルミラ人の墳墓地帯がある。ここの墓には二つの種類があり、古い形のものは「塔」の形をしており、新しいものは「地下墳墓」となる。「塔墓」は有力な一族の墓と考えられ数百体の遺骸が収容可能とされる。現在10基ばかり残っているが有名なのが「エラベール家の墓」と呼ばれるもの。
13 3兄弟の地下墳墓
【13 3兄弟の地下墳墓】
やがて「地下式」になり、現在50基ばかりが発見されているがその中で有名なのが「3兄弟の地下墓室」と呼ばれるもの。墓の内部に浮き彫りやフレスコがあり、ここには家族の様子を描いた浮き彫りやギリシャ神話をモチーフとした壁画などが見られる。
14 地下墳墓のフレスコ
【14 地下墳墓のフレスコ】
上記の墓のフレスコだが、図柄もさることながら、墳墓を「フレスコで彩る」という発想はそもそもヘレニズム・ギリシャのものである。これはアレクサンドロス大王の故郷であるギリシャ・マケドニア地方の墳墓に見られる特徴であり、ここは完全にその影響下にあることが分かる。比較してみると興味深い。
15 「ボスラ」のローマ遺跡
【15 「ボスラ」のローマ遺跡】
「ボスラ」は紀元前200年代のヘレニズム・ギリシャ期に形成され、紀元前1世紀頃から現在のヨルダンにあるペトラと並んで現住民族ナバテア人による交易の中心地として栄え、この「ボスラ」とヨルダンの「ペトラ」を中心とした一つの国を形成していた。ローマ時代となって、他の諸都市と同様にローマに接収されてローマ都市となり繁栄は続いた。
16 世界遺産、ボスラの劇場
【16 世界遺産、ボスラの劇場】
紀元後になってローマ帝国の時代となって106年トラヤヌスの時代に膝下に敷かれて接収されローマの町となった。この時代に繁栄はさらに増し大きな都市となっていく。後期ローマ帝国の呼び名であるビザンティン帝国の時代までそれは続き、さらにここがアラブ・イスラームの時代になっても聖地メッカへの街道町として栄え続ける。
17 要塞化されたボスラの劇場
【17 要塞化されたボスラの劇場】
イスラームの時代に十字軍に攻められることとなり、かつてのローマ劇場は城塞に改造され、十字軍の攻撃にも耐え抜く。しかし中東の民ではないオスマン・トルコの時代となって見捨てられていく。ここの遺跡はその城塞化された劇場が世界遺産となっている。勿論、こうした「要塞化されたローマ劇場」が残存している唯一の例となる。
18 世界遺産、ダマスコスの町にて
【18 世界遺産、ダマスコスの町にて】
シリア人は大の親日家である(いやイスラーム圏全体がそうだと言える)。しかし、日本人はそれに気づかず、むしろイスラームの人々に対してマイナスの感情をもっている人が大多数なのだが、それは欧米の悪意ある宣伝に乗せられているだけである。そんなことでは世界平和など語る資格もないので、正当なイスラーム国理解に努めるべきであろう。
19 ダマスコスの城塞
【19 ダマスコスの城塞】
「ダマスコス」は、この地方の記録にある最古の都市の一つ。紀元前10世紀以降はアラム王国の首都であり、前732年にアッシリアによって滅亡。それ以降、ペルシャ、ギリシャ・マケドニア、ローマの支配地となっていた。この町が歴史的に脚光を浴びるのはローマ時代となってからで、城塞はその当時からあったはずだが、現在見るのはアラブ時代のもの。
20 ダマスコスのスーク
【20 ダマスコスのスーク】
シリアにかぎらないのだが、イスラーム国の多くはこうした「巨大マーケット」を持ち、ここが人々の生活の基盤となっている。デパートだのスーパーだのコンビニだの欧米型流通機構は存在しない。日本の一部観光客がそれをいぶかり「遅れている国」とかいうと聞いたことがあるが、何か「おごりと無知」をさらけだしているようである。
21 ダマスコスの「パウロ記念聖堂」
【21 ダマスコスの「パウロ記念聖堂」】
欧米キリスト者にとって「ダマスコス」と言えば「パウロの事績の舞台」となる。「使徒言行録」によると、イエルサレムで迫害されたキリスト者がここまで逃げてくるのだが、それを追いかけてきたユダヤ教指導者の一人「パウロ」がここで光を浴びて落馬して「イエスの声」をきき「伝道者」に回心したというもの。それを記念した聖堂となる。
22 ダマスコスの「アナニア教会」
【22 ダマスコスの「アナニア教会」】
パウロは「盲目」となって、イエスの指示に従ってダマスコスの町に入る。そこにはイエスの「夢見」の指示に従って待っていた「使徒アナニア」がおり、その目をいやしたとなる。こうしてこの町はキリスト者の町へとなっていくのだが、現在もその衣鉢は継がれており、これはその使徒ゆかりの「アナニア教会」となる(どうも風情はいただけないが)。
23 パウロとアナニアの像
【23 パウロとアナニアの像】
アナニア教会の前庭に置かれている像であるが、これはアナニアがパウロの目に手をかざし、すると「パウロの目から鱗のようなものが落ちた」とする使徒言行録の記事に基づくもの。「イエスを知らなかったパウロの目が開かれた」という意味であるが、ここから「目から鱗」という言葉ができた。
24 マアルーラのキリスト教会
【24 マアルーラのキリスト教会】
シリアではキリスト教の勢力も強い。ダマスコスから北へ50キロほどのマアルーラはキリスト教の村である。ここには古く伝統的な教会があり、言葉もイエスの時代のアラム語を保持している貴重な村となる。この村の中心となっている教会に二つがあり、一つは伝統的な「正教」の教会でもう一つが「ギリシャ・カトリック」の教会となる。
25 マアルーラの「テクラ教会」
【25 マアルーラの「テクラ教会」】
「テクラ教会」は「ギリシャ・カトリックの教会」であるが、これは「伝統的キリスト教正教と西欧に分派したカトリックの習合」的な教会で「帰一教会」とも呼ばれる。その代表的な教会はシリアでは「聖テクラ教会」となる。これらの教会はカトリック世界に近い一部の東欧や、十字軍が展開して支配していたシリア地方に多いことになる。
26 テクラ教会の正面
【26 テクラ教会の正面】
この現象は、「カトリック」が分派して以降に、伝統の正教の教会をカトリックに引き入れようとしたことから生じた。特徴を一言で言うと、典礼としては伝統の正教のままだが「権威としてのカトリック・バチカン」を認める教会を指す。その現象は、カトリック教会によって起こされた「中東侵略軍、十字軍」の時代たる12世紀頃から現れた。
27 ダマスコス「ウマイヤド・モスク」
【27 ダマスコス「ウマイヤド・モスク」】
イスラームの最初の王朝である「ウマイヤ家」によって紀元後715年に完成した現存する最古のモスク。この「ウマイヤド・モスク」以来壮麗なモスクの建築が始まった。この経緯は、もともとはギリシャ神殿のあったところにキリスト教の「ヨハネ教会」が建てられ、イスラームは当初はその東半分を借り、後に全部買収して西側まで拡大したとされる。
28 ウマイヤド・モスクの内部
【28 ウマイヤド・モスクの内部】
モスクの内部はどこも似ている。とにかくイスラームは「偶像崇拝禁止」であるから内部には絵画や彫像はない。特徴的なのは「床一面の絨毯」となる。これはイスラームの礼拝が「身を投げ出す」形を取り「平伏」するためである。
29 ウマイヤド・モスクの「ヨハネの墓」
【29 ウマイヤド・モスクの「ヨハネの墓」】
ここの最大特徴は、「ヨハネ教会」の由来である「洗礼者ヨハネ」の墓が内部にあって今でも大事に保護されていることである。イスラームはキリスト教を母胎にしているため、「絵画・彫刻」以外は大事に保存する。そのため当初の時代はキリスト教徒と「共存」していた。しかも、南東角にある「ミナレット」は「イエスの塔」と呼ばれる。
30 ウマイヤド・モスクの「ミフラーブ」
【30 ウマイヤド・モスクの「ミフラーブ」】
モスクの最大特徴は「イスラームの聖地メッカ」の方角を示す「壁のへこみ」となる。これは本来「へこみ」だけで良いのだが、ここに幾何学模様などの装飾が施されるようになった。信者はこのへこみの方向に向かって礼拝することになる。右端に見えるのは「ミンバル」といい、説教壇となる。モスクにあるのは本来この二つだけで良い。
31 世界遺産、クラック・デ・シュバリエ
【31 世界遺産、クラック・デ・シュバリエ】
ダマスコスから北に160キロほど行ったところにある要塞跡だが、もともとは1000年代にアラブ・ホムスの王によって建造されていた城塞を1100年代に十字軍が来襲して占拠し大々的に改築したもの。しかし1271年に再びアラブのマムルーク朝によって奪回された。そのため内部は西欧様式やイスラーム様式のものが混在している。
32 クラック・デ・シュバリエの模型
【32 クラック・デ・シュバリエの模型】
標高650メートルという丘の上にあり、城塞の規模は200×140メートルほどの長方形。外壁に13の塔がある。二階建てで、一階はアーチ型の天上をもった部屋がある。二階部分はテラスが設置されている。また大きな塔や銃眼をもった壁がしつらえられている。
33 クラック・デ・シュバリエからの眺望
【33 クラック・デ・シュバリエからの眺望】
ここは丘の上だから四方が遠くまで見通せる位置にあり、敵の来襲をいち早く察知出来る。要塞というのはどこでもそうしたものだが、このようなわけでここはアラブ側にとっても十字軍にとっても「要衝の地」となっていたわけで、ここを巡っての攻防戦が長く続けられたわけである。
34 クラック・デ・シュバリエの「モスクのミンバル
【34 クラック・デ・シュバリエの「モスクのミンバル」】
ここは一般に「十字軍の城塞」と紹介される。そのため、ここを訪ねた人はイスラームの「モスクのミフラーブと説教壇ミンバル」を見ていぶかるのだが、ここは「もともとアラブ人の城塞」で、十字軍に奪われたけれど後に奪回しているのだから「モスク」があって当たり前と言える。
35 ヨルダン「首都アンマン」
【35 ヨルダン「首都アンマン」】
ここから現在のヨルダン領に入る。そのヨルダンの首都は「アンマン」となる。アンマンはヘレニズム期のプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス2世フィラデルフォス(在位、BC288〜246年)が形成したとされ「フィラデルフィア」と呼ばれていたが、後にローマに併合された。歴史に埋もれていたが、近代になって首都として復活した。
36 アンマンの町並み
【36 アンマンの町並み】
アンマンの町は一種独特の雰囲気を持っている。建物の色が一定なのもそうであり「白系」か「茶系」なのだが、見る方向にもよるけれど全体としては「白い町並み」となる。多分法令などで統一されている筈である。また、ここは「パレスチナ難民」「イラク」その他からの難民であふれていると言われ、当然社会問題となっている。
37 アンマン城
【37 アンマン城】
アンマンにはローマと同じく「七つの丘」があると言われているが、その一つ「ジャバル・ウル・カラ」には「アンマン城」と呼ばれる古代・中世の城塞跡がある。ここからの眺めが素晴らしいとしてアンマンを訪れた人は必ずここに来る。遺構としては写真に見られるように「形あるもの」は殆どないが、昔日の様子は見て取れる。
38 ヘラクレス神殿
【38 ヘラクレス神殿】
この丘で一番目につくのがこの「ヘラクレス神殿」であり、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(在位、161〜180年)の時代に建造されたとされる。「ヘラクレス」は古代ギリシャの豪傑の名前だが、これが神格化されて神殿が造られるようになるのはローマ時代からで、たくさんの神殿が各地に造られている。
39 アンマンの「ローマ劇場」
【39 アンマンの「ローマ劇場」】
丘からのローマ劇場の眺めだが、この劇場はローマ皇帝アントニヌス・ピウス(在位138〜161年)の建造になるとされる。6000人規模のものとされていてローマ劇場としては「並」ではあるが保存状態は良い。特に、舞台背面に設置されている(写真だと手前)「列柱郎」は特徴的。
40 豊穣の女神像
【40 豊穣の女神像】
アンマン城にある考古学博物館は大きなものではないけれど興味深いものがある。特にここで有名なのは「死海文書」であるが、私としては「現住民族ナバテア人の豊穣の女神、アタルガタス」の像を勧めておく。ここに生きていた現住民族の息吹に触れるためである。
41 女神像
【41 女神像】
この像は正体がはっきりしないのだが、かぶり物から推定すれば「ナバテア人の女神」となる筈である。しかし「顔立ち」は完全にギリシャ・ローマのものである。おそらく両者の「融合形態の女神」だと推定される。つまり「文化の融合の一つの現れ」となり、こうしたものは「文化の流れ」を伝えてくれて興味深い。
42 世界遺産、ペトラ
【42 世界遺産、ペトラ】
ヨルダンの遺跡と言えば「ペトラ」と相場はきまっているが、ペトラの歴史はボスラと似ており、遊牧民族であったナバテア人は同時に「交易のキャラバンの民」ともなっていたわけで、それに成功してヘレニズム期あたりから町を形成していったのがはじまりとされる。「ペトラの町」は切り立った断崖の岩の間を1.5キロくらい入っていった奧にある。
43 エル・ハズネ
【43 エル・ハズネ】
「断崖の岩の間(シークという)」を抜けたところに見られるのが「エル・ハズネ」と呼ばれる岩窟聖堂となる。いろいろ言われるけれど、結論的に矢張りこれは「ナバテア人の聖堂」とするのが良い。そして二階部分の彫像はナバテアの女神「女神エル・ウッズ」とする。もっとも「霊廟」であっても良い。「聖堂」であることでは同じだから。
44 王家の墓
【44 王家の墓】
ペトラの町の風情はこんな具合である。写真は「王家の墓」と呼ばれる岩窟聖堂群であるが、その意味については未だ議論がある。それより注意すべきは「岩窟聖堂」という様式で、これはギリシャ・ローマにはない完全に原住民族特有の文化となる。そしてこの「岩窟様式」はさらに中央アジアに伸びていくのだが、その西端に相当することである。
45 カスール・エル・ビント
【45 カスール・エル・ビント】
「カスール(城)」と呼ばれているが、実際はナバテア人の主神「ズゥー・シャラー」と「女神エル・ウッズ」を祭った神殿と考えられ、町がローマ化されてもなお原住民文化が保たれていたということである。なお、ローマ帝国ははじめの頃は支配領域で「ローマ化」を徹底しようとしたのだが原住民族の反発が強く、結局至る所で「譲る」ことになっている。
46 ジェラシュのローマ遺跡
【46 ジェラシュのローマ遺跡】
アンマンの北50キロに位置する。町の初期の形成はナバテア人によるとされるが、本格的な町作りは紀元前200年代、アレクサンドロス大王以降のヘレニズム・セレウコス朝時代。ローマの台頭により、紀元前64年ローマに接収される。中東のローマ都市の中核となる10都市(いわゆるデカポリス)の一つとされる。古代名は「ゲラサ」。
47 ゼウス神殿
【47 ゼウス神殿】
ジェラシュの遺跡はローマ遺跡の中でもその規模や残存状態、美しさは屈指のものがある。特にローマの都市列柱がもっとも見事に残っていることで知られているのだが、神殿も良く残っており、これはゼウス神殿となる。南門を入った左手にあり、時代的には紀元前のヘレニズム時代に建造されたが、現在眼にするのは紀元後2世紀に改造されたもの。
48 アルテミス神殿
【48 アルテミス神殿】
ニンファエウムの左手後方に、古代ギリシャの山野の女神アルテミスの大きな神殿遺構が残り、高さ13メートルとなるコリント式の12本の柱が観察される。アルテミスは当然ギリシャ時代から勢力のある女神だったが、ローマ期に入ってむしろその勢力はましたようで各地に立派な神殿が造られている。その代表例とも言える。
49 戦車競争場(ヒッポドローム)
【49 戦車競争場(ヒッポドローム)】
戦車競争の競馬場の遺構とされるものは、存在はしていてもどこも「ほとんど原っぱ状態」である。その中にあってこのジェラシュの競馬場(ヒッポドローム)は見事な残存状態を示しており非常に貴重なのに余り特筆されていないのは何故なのか?規模は245×52メートルので15000人収容とされる。
50 ネボ山
【50 ネボ山】
「ネボ山」は『旧約聖書』でのモーゼの終焉の地として知られている。モーゼはエジプトから同胞のユダヤ人を率いてカナンの地(パレスチナ)に向かい、砂漠を彷徨ったあげくについにネボ山にたどり着き、ここで神はモーゼに行くべき地を目の前に望むまでは許したが、その地にモーゼが入ることは許さなかったと『申命記』の34章は語っている。
51 ネボ山からカナンの地(パレスチナ)を望む
【51 ネボ山からカナンの地(パレスチナ)を望む】
そうだとするとイエルサレムを望むのに格好の山であるこの山がそのモーゼ終焉の地であるネボ山であろうとされているわけである。場所的には死海の北端の東となる。その言われから古くから教会堂が建てられていた。後にここにフランシスコ修道院が建てられてしまったが、わずかながら4世紀に遡る教会堂の痕跡をみることができる。
52 ネボ山の案内板
【52 ネボ山の案内板】
矢張りここに立つと「どっちがどこだ」とだれでも思う。そのため案内板があり「死海」やその地『聖書』になじみのパレスチナ地方の地名とその方向をしめしてくれているので分かりやすい。死海は左手奥となる。
53 死海
【53 死海】
死海は矢張り訪れておかなければならない。その存在はこの地方の最大特徴であると同時に、この周辺での出来事がモーゼ以来のイスラエル民族の侵略と現住部族ペリシテ人(現在の「パレスチナ」の由来)との確執の歴史を物語るからである。今私が浮かんでいるその先が「イエルサレム」となる。
54 ムカーウィル(ヘロデ王の城塞)
【54 ムカーウィル(ヘロデ王の城塞)】
ここは「ヘロデ王」の城塞跡とされ、ここで「サロメが踊って、その褒美として洗礼者ヨハネの首を望み、お盆に乗せられたヨハネの首がサロメに与えられた」と、『聖書』ばかりか「ヨセフスの歴史書」にも記載されている「事件」が起きた場所となる。
55 ムカーウィルの丘
【55 ムカーウィルの丘】
ここは、場所的にはアンマンから西に向かい死海に着く直前の一つの丘の上であり、どうも「こんなところに城塞?」と思えるような何もない裸の丘が連なる辺鄙な丘の上となる。いぶかしげに登っていった先にヘロデ王の城塞の跡があった。実際写真に見られるように城塞跡があるのだから仕方がない。昔はそれなりの場所だったのだろうか?
56 マタバの「ゲオルギオス教会」
【56 マタバの「ゲオルギオス教会」】
キリスト教関係の遺構で知られ、この町にはモザイクで知られた幾つかの教会遺構がある。代表的なのが「聖ゲオルギオス教会」で、六世紀のイエルサレムを表すモザイクがあることで有名。ただし半分ほどが失われている。町の名前が書かれていて聖書にゆかりの土地の名前が157カ所も記されていたといわれ現在でも歴史資料として重要とされる。
57 マタバの「マリア教会」
【57 マタバの「マリア教会」】
マタバにくるのは教会に残されているモザイク群の見学が目的となるのだが、この「マリア教会」のモザイクはこともあろうにギリシャ神話の「アドニスの物語(愛と美の女神アフロディテが愛した美少年の物語)」となっている。これはローマ邸宅を教会に流用した結果だろうけれど、余りにも「マリア」と不釣り合いなのが面白い。
58 世界遺産、アムラ城を背景に
【58 世界遺産、アムラ城を背景に】
アンマンから東は砂漠が広がるが、その周辺には「城」という形で紹介されている「砦、あるいは隊商宿、王族の宿泊所」と見られる建物が点在している。およそ7〜8世紀頃の建造となる。その中でこの「アムラ城」だけがユネスコ世界遺産に登録されている。ここは王族の宿泊所か隊商隊の宿かであったと考えられている。
59 アムラ城
【59 アムラ城】
世界遺産指定の理由だが、砂漠の隊商隊の宿としての残存状態の良好さ、建物としての独特さ、そして内部の壁画の珍しさによると思われる。一般に砂漠の城の中でもっとも美しい城と紹介されるのだが、これは少々持ち上げすぎ。
60 アムラ城の壁画
【60 アムラ城の壁画】
建物としては小さく、入り口を入った最初の部屋はホールとなっており、かなりはげ落ちているが「裸の少女天使?(と見えるのだが、通常あり得ない。ともかくすごく珍しい)」や瓶(酒瓶?)を傍らにした王族と見られる男性が描かれている。奥の部屋がサウナとなっており、ここに「北半球の星座」が描かれている。これらの壁画は何を語るのか?

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