17.哲学入門、哲学的に物事を考えるとは〜西洋哲学史を巡って〜 - 17. 20世紀の哲学の外観 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

17.「哲学」の一般的な用法と本来の用法
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INDEX
1. 「哲学」の一般的な用法と本来の用法
2. 学問の発祥、「自然哲学者」の誕生
3. 哲学の始祖、「ソクラテス」
4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」
6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」
7. 中世キリスト教神学、「アウグスティヌス」の場合
8. 近代哲学の祖、「デカルト」の思考法と「スピノザ」
9. もう一つの近代哲学の流れ、「ロックとイギリス経験論」
10. 近代哲学の集大成、「カント」の批判哲学とは
11. カントを引き継いだ「ドイツ観念論」
12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」
13. 生と死を見つめた憂愁の哲学者、「キェルケゴール」
14. 近代唯物論哲学の巨星、「マルクス」
15. 生の徹底的肯定者、「ニーチェ」の場合
16. 現実に生きている人間の立場、実存主義の「サルトル」
17. 20世紀の哲学の外観
18. 西洋哲学史概略

18.

西洋哲学史概略


1、神話(哲学以前)
 人間が人間らしく生きようとした時の
「世界と人間についての本性的問いとその表現」として神話がある。

2、自然学者(「合理的、批判的思考」のはじまり。学問的問いの発生)
 世界や人間に対する「問い」を神話とは違った仕方で自然世界に対しておこなったのが、紀元前600年代に古代ギリシャで出現した「自然学者」と言われる人々でした(始祖タレス、紀元前624頃〜546頃)。彼等の仕事は、神話が問うていた「世界の在り方」をこの
「自然世界そのものの中で」「合理的に」説明しようというものでした。重要な点は次の四点です
 A、自然事物のありようを「神話」で説明するのではなく、「自然物」そのもので説明する。
 B、自然的事物の「観察」にもとづいて、そこから世界のありようを論理的に説明する思考。
 C、自然世界・生成変化に「一つの原理(アルケー)」を見て存在世界全体を説明する。
 D、理性による「理論」として、常に懐疑にさらされ、批判・吟味されていく「学問」の性格の形成。


3、ソクラテス(「よく生きることの知恵の愛し求め」としての哲学のはじまり)
 一方、
「人間の生の在り方」「人間というもの」を問題にしたのが紀元前470〜399年の古代ギリシャのソクラテスでした。そして彼はその問題を追及することにおいて「哲学」を生み出すことになるのです。ソクラテスの与えた哲学の定義とは「よく生きることについての知恵の愛し求め」というものでした。ソクラテスはこの「知恵」という言葉、つまり「ソフィア」という言葉と、「愛」つまり「フィリア」という言葉を合体させた言葉「フィロソフィア」に特別な意味、つまり「よく生きることについての」という限定を与えて、今日いうところのフィロソフィア「哲学」を確立していくのです。
 これは人の生き方が通常「社会」に縛られていて
「社会的な成功」つまり財産、地位・権力などを得ることが「人間としての成功・優れ・幸せ」と考えているあり方に大きな問題を突きつけたものでした。これは当時出現していた「ソフィスト」と呼ばれる人たちが問題にしていたものでしたが、それに対してソクラテスは、もしそうだとしたら社会的な地位や財産を得ていない人は「失敗者・劣った人・不幸せ」ということになってしまうではないか、しかしそうではなく「優れた人」というのはそういうものとは無関係にあるのであり同様「人間の幸せ」というのもそれらが保証するものではない、と考え「人間にとって本当の優れ・幸せ」とは何かを史上初めて自覚的に筋道立って考えたのです。この思考のことを「フィロソフィア」とよんだのです。近代になると哲学は「世界の存在のあり方や認識のあり方」という問題に限定されていってしまいましたが、本来の哲学とは「良く生きることについての知の愛し求め」という意味であったことは忘れてはなりません。
 ですからソクラテスを語る時の標語はほとんどこうしたことに関係してきます。たとえば有名な
「汝自身を知れ」という言葉の意味は「自分というものが分かっていない」というところにあります。そして「無知の知」は、「人は自分の生きる意味、本当の善さ・優れ・幸せなど知ってはいない、ということを自覚しろ」といったようなこととして理解しておいていいでしょう。「魂の配慮」も自分の本来性を「肉体としての生」にではなく「魂(精神・理性)」に求めた時の言葉です。こうしてソクラテスは「あるべき自分、あるべき人生」を求めていったのでした。
その場面で勇気なら勇気を「勇気たらしめている」唯一の共通の
「普遍的性格」を求めたのです。「普遍」とか「本質」といったものの史上初めての自覚です。
 哲学において行き詰まった時に、「ソクラテスに帰れ」とされるのは以上のようなことからで、要するに
「原点に返ってみよう」ということです。

4、プラトン(ソクラテスの問いを理論化し、哲学としての論を樹立したはじめ)
 そのソクラテスの弟子であった
プラトン(紀元前427〜347)の問題の核にあるのはやはりソクラテスの問題そのものであり、ソクラテスが問題提起者であるとするなら、その問題を発展させ、かつ一つの優れた解答を与えた「回答者」といえるかも知れません。その回答が有名な人間にあり方についての「魂論」や世界や存在のあり方についての「イデア論」ということになるでしょう。ここで、「人間の本性」とか「世界の仕組み」が理論だって説明されてきたのです。その理論は現代に至るも私たちの人間や世界、存在についての理解の一つの典型となりました。
 たとえば、人間論については「魂論」として、
「感性と理性の別」「理性のあり方」といった論となって人間の「欲望的感情」「勇気や節制などの働き」「真・善・美を見る理性」といったものの類別(魂の三部分説)やその働きの論が示されていきました。
 さらに世界の存在のあり方についての論である「イデア論」ですが、これはこの地上世界の存在物が「個々、異なって、生じては消滅する」性格をもっているにもかかわらず、
「一つの共通した」在り方をもっていることの説明として「普遍的実体」といった概念を史上初めて発見したいうことが何より重要です。つまり、「生成消滅し他者に依存する現象・物体」の多の存在に対して、それらを「同じ名によって呼ばれるもの」として判断させる「一つの共通なるもの」(これが「普遍」ということ)を措定し、さらにこれについて「何物にも依存しない、自己のうちにその存在の根拠を持つもの」としてこれを「イデア」とよびましたが、これが哲学史において「実体」と呼ばれることになる概念の史上初めての姿でした。この「普遍」とか「実体」という概念が発見されたことではじめて人類は世界の仕組みを「合理的、論理的に」説明することが可能となったのでした。これが「イデア論」の重要な意味となります。
 また、その「国家論」つまり
「社会の仕組み」についての論も重要なものとなります。つまりここにおいて「人間とその人間が作る社会のあり方」の関係の論が始めて自覚的に思考されたのであり、現代まで延々と続けられる社会・国家の論の端緒が示されたのでした。
 これは人間と社会を対応させて、人間の
「理性」「気概」「欲望」を社会の階層「指導者」「戦士階級」「商人階級」に当てはめて社会のあり方をみていくものであり、ここに「理性」が支配する人間のありかたを社会に充当させた「哲人王」の思想などがうみだされ、同じ理性を持つ者としての「男女平等論」などが展開されたのでした。

5、アリストテレス(人間の問いの在り方を整理し、学の体系を樹立した。また、事物の立場からの哲学のはじめ)
 ついではプラトンの弟子の
アリストテレス(紀元前384〜322)が重要です。アリストテレスの第一の業績としては、人間のさまざまの「問い」の在り方を整理して問題別にして全体を体系付け、人間が「問う」ということの意味を追求したことがあげられます。ここにはじめて「学」という概念と「学の体系」が明確に確立されました。アリストテレスによって始めて、「哲学」や「倫理学」「論理学」といった狭い意味での哲学に属するものの他、「生物学」とか「天文学」「物理学」といった自然科学、あるいは「政治学」とか「経済学」といった社会科学、あるいは「詩学」「弁論術」といったものが「知の構造」の中に体系づけられて「学」として確立したのです。
 アリストテレスの第二の業績は、世界の仕組みを
「自然事物そのもの」の中に求め、説明していったということです。つまり、プラトンによって示された「普遍実体」というものですが、プラトンの場合にはそれは「個物」を離れた超越的な場に考えられました。
 しかし、アリストテレスはそれを個物そのものの中に内在しているものとして理解しました。しかもそれは個物において
「素材(質料)」「目的」「運動」と共に「形そのもの(形相)」として存在していて、そうした構造の中で個物が形成されてくるとしました。それは今日的には「類」とか「種」といったような考え方の始めだと言えるでしょう。さらにその構造を「可能態」から「現実態」への運動として捕らえ、存在世界を「階層的に」理解していきました。つまり存在は「上」を目指して(植物は動物に、動物は人間にという具合です)「合目的」に存在するというわけでした。こうして存在を考える上での二つの大きな立場がプラトンとアリストテレスによって準備されたことになったのです。
 一方、アリストテレスは、ソクラテス的な意味での「人生の形成論」としての哲学を、
「社会的存在」としての人間のあり方に求め、ポリスという社会集団に於ける「人と人の関係のあり方」として追求していきました。この試みは今日「倫理学」という名で呼ばれることになりました。
 さて、以上のソクラテス、プラトン、アリストテレスという三人によって「人間や世界の意味を自覚的に問う」ものとしての哲学は生まれ、養育され、大人にされた、といっていいでしょう。これ以降の哲学史はこの三人の問題の
「時代なりの展開」という形になっているとすら言われるほどのものがあります。

6、ヘレニズム・ローマ期の哲学(理論より実践を重視した哲学。心の平安を求める哲学)
 他方、ソクラテスにはプラトン以外にもたくさん弟子がいたのですが、その弟子たちもそれぞれ自分の道を切り開いていました。その中で特に重要なのが
アンティステネス(紀元前445〜355)という人です。彼はアリストテレス以降に主流となる「ヘレニズム・ローマ期のストア学派」への道を切り開いていました。
 ヘレニズムというのはギリシャが社会的に凋落し、北方にあった同じギリシャ人のマケドニアがリーダーとなって、ギリシャ思想が中東、オリエント、中央アジアにまで広がりさまざまの思想と触れあうようになっていった時代です。世界史上有名なアレクサンドロス大王によってこの時代は開かれました。ですから紀元前300年頃からと言えます。ちなみにこのアレクサンドロスの先生がアリストテレスであり大きな影響を与えました。
 ところでこのヘレニズム期の時代の問題は、社会的に乱れ錯綜していた時代の要求として
「心の平安」を求めることにあり、その代表的なものは「ストア学派」「エピクロス学派」「懐疑派」となります。
 ストア学派は、今指摘しましたようにソクラテスの弟子のアンティステネスの学派から直接出てきます。その学派の名前は
「キュニコス学派」といい、この学派にはすべての財産を捨てて大きな酒瓶の中にすんでいたとして有名な「シノペのディオゲネス(紀元前404〜323)」がいます。この学派は世間に背をむけつつも、世間の人々に警句を発し、あるいは皮肉をとばして、ソクラテス的な「あるべき人間への追及」をしていきました。
 しかしここから出た
「ゼノンのストア学派」は社会に背を向けることなく、むしろ堂々と立ち向かい財産や快楽、地位などにうつつを抜かすことのない「何物にも動揺しない強靭な心」を形成しようとしました。その心の持ち主としてソクラテスが理想像とされていたのです。ストア学派では「不動心」というものが追求されたのですが、これは欲望や感情に負けることなく、何事が起ころうとそれは永遠の昔から自分に定められていたこととして受け入れ、心を強く・清く保っていこうとするような哲学で、ここには奴隷であったエピクテトス(紀元後60〜130)、あるいは皇帝であったマルクス・アウレリウス(紀元後121〜180)などの哲人がでています。
 エピクロス学派の場合はソクラテスの弟子の学派から直接でてきたわけではありませんが、その精神は引き継いでいました。すなわち、
ソクラテスの弟子のアリスティッポス(紀元前435〜355)の精神で、彼の場合、人が生きるという時「苦痛」はさけ「快楽」が求められるのは自然なことでこれはむしろ人間の「本性」であるとし、敢えて苦痛をもとめても仕方がない、というところに原点を持ちます。それは、豪華なパーティーも人一倍楽しめ、他方で何もないときには一切れのパン・一杯の水にも満足できたソクラテスに感化されてのことであったのでしょう。しかし、これはとても難しいことなのでした。「快楽の奴隷」になってしまったらもう駄目なのですから。したがって、その精神の延長上にあるエピクロス(紀元前342〜271)「自律の精神」が必要で何物にも動じない「平静な心」が大事だとして、しかるに世間は野獣の住家みたいなものだとして「自分の学園」を作って、そこにひっ込んでしまうのです。
 こんな具合に
「強靭な不動心」「平静な心」をつくろうとするのがヘレニズム・ローマ期の哲学の特質で、長く続くヘレニズムからローマ時代にあって人々の心を強くつかんでいました。ローマ時代というのも決して平穏な時代ではなく、むしろ社会の不条理に多くの人々の心は苦しんでいたことが良く分かります。

7、新プラトン主義(ローマ期の最後の哲学。より宗教的色彩を持つ)
 ローマ期になってヘレニズムの哲学の行き着いた一つの終着とも言える理論が出てきます。それを為したのは
プロティノス(紀元後204〜269)ですが、その特質から「新プラトン主義」と呼ばれます。つまりプラトンの哲学はイデア論に特徴があったわけですが、それは、この不完全で影のような現実にたいして「真実・根源」のような位置にあります。ないし「神」の世界のものと言えました。この学派は、この「真実・根源・神」に自分たちが「同化・融合」されていくことをねがったのです。この世界はイデアから発しているのですから、逆にたどればイデア世界に「帰れる」わけです。一方、イデアも「神」に発していますからこうして私たちは「神」のもとに帰れるとしたのです。神秘主義的哲学と言えますが、これは「心の救済」を求めるようなヘレニズム哲学の必然の結果とも言えます。

中世への移行
 ここで一段落ということになります。この後、哲学は思いもかけない展開を示すことになります。それは
「キリスト教の出現」でした。キリスト教はいうまでもなく、中東のユダヤ民族から発しています。ですから、ものの考え方、世界について、人間についての考え方などまるでギリシャと違う筈でした。それが、ギリシャ語によって伝播していき、下層の人々を中心にあっと言う間にギリシア・ローマの世界に広がってしまうのです。ですから、このローマ時代というのはヘレニズムの哲学を主流として、「新興宗教としてのキリスト教との戦いの時代」でもあったのです。
 ヘレニズムの哲学はそれなりの力もあり、人間の心を強くし欲望に打ち勝つという高貴なものではありましたが、しかしやはり、もともと
「心の強い人」にしかついていけません。これに対し、イエスの教えは「弱者のためのもの」という性格を持っていましたから、社会的にしいたげられていた人々だけではなく、人間の力に限界を感じていた哲学者にも受け入れられていって大きな力をもつようになっていきました。こうして人々はギリシャ哲学からはなれていきますが、高度な哲学はキリスト教にはありませんでしたので、結局、「両者の合体」といった格好になっていくのです。

8、教父の哲学(キリスト教教義を確立するためギリシャ哲学を利用した神学者達の思想)
 キリスト教初期にあって「キリスト教神学」を打ち立てようとした人々のことを
「教父」と呼びますが、彼らはその教義の確立にギリシャ哲学、特にプラトン主義の哲学を使ったのです。キリスト教では「神」が世界を創造したことになっていますが、この神の中にプラトンのイデアがある、という形で両者を合体させるのです。この代表的な哲学者(神学者)が「アウグスティヌス(紀元後354〜430)」でした。
 しかし哲学の本来であった「良く生きることについての知の愛し求め」というのはここに終止符を打たれてしまいました。というのもそれはもう『聖書』に書かれていてそれは「真理」でありそれ以上追求される必要はないとされてしまったからです。
 哲学の仕事は『聖書』に書かれていることの理論的裏付けということだけになってしまいました。こうしたあり方を通常
「哲学は神学の召使い女」になったと表現しています。

9、スコラ哲学(中世の哲学。キリスト教神学のための哲学。哲学は神学の召使い)
 こうしてキリスト教教義が確立すると、あとはそれを細かく議論していくだけのこととなります。スコラとは教会付属の学校のことで、スコラ哲学とは、その教師たちのものということです。なされることは、「真理を求める」ということではなく(真理はすでにキリスト教において示されている)、
「教義を詳しくし厳密にする」ことだけでした。そのため概念を規定し「論理学」を発展させていったのです。
 その他にはいわゆる
「普遍論争」でプラトン的イデアの考え、そしてこれが教会の正統ともされていたのですが、これに対する批判が生じているのが注目されます。
 また、中期になるとアラブ経由で
「アリストテレスが流入」してきて、新しい教義の確立の仕方が提唱されてきます。それを為したのが中世を代表する神学者「トマス・アクィナス(1225〜1274)」で、彼は存在の階層をアリストテレス的に階段状に考え、その一番上に「目的としての神」を置く形でキリスト教の世界像を確立するのです。しかし、後期になってプラトン・アリストテレス的な考えに対する批判が高まって、「信仰」と「哲学」の別がいわれるようになって、中世哲学は終りとなっていくのです。

中世の特徴
 ここでまた一つの時代が終りました。しかしこの時代は非常に長かったのに、神学的にはともかく、哲学的には大きな発展はありません。たしかに、今日の目からみればそこに世界観や特に論理学においての深化がありそれなりの成果を指摘することも可能です。しかしここでは、キリスト教という「真理」がすでに与えられていてそれを無視してはいかなる思考も不可能でした。なされることは
「キリスト教教義の確立」だけなのです。哲学というものが「人間の立場で、自由に、人間理性によって批判的に思考する」というところにあるのだとしたなら、残念ながらそれはなかったとしか言い様がないのです。
 ただし、キリスト教文化、キリスト教神学は発展していますから文字通りの「暗黒」ではありません。ただ、ギリシャ的な意味での
「理性による自由な発想と批判的探究」という意味での哲学はないという意味です。これ以降、こうした意味での「哲学の復権」が始まっていくのでした。

10、ルネサンス(ギリシャ文芸復興運動。キリスト教カトリック、スコラ学からの脱却)
 ここで、ルネサンスと呼ばれる「時代の事件」が生じてきます。これは一大文化革命でした。ルネサンスとは文字通りには「再生」という意味ですが、内容は
「ギリシャ文芸復興運動」のことで、いくつかのポイントが指摘できます。

A、 まず、狭い意味での哲学の世界の出来事としては、理性によって信仰をたてることの矛盾が認識され、「理性と信仰が別」とされていきます。それはちょうどルネサンスのはしりとなるころで、「オッカム(1285〜1349)」などが代表です。
B、 ビザンティン帝国から直接ギリシャ古典が入ってきたこと。それはプラトンを含み、さらには昔どおりのアリストテレスも復活しました。フィチーノによって西洋に「プラトンブーム」が引き起こされ、「新しいアリストテレス解釈」がポンポナッツィなどによって紹介されていきます。
C、 自然世界をキリスト教的に説明するのではなく、自然を「自然そのものとして説明」しようという「自然哲学」が生じたこと。これには、「コペルニクスやガリレオ」などの自然研究が大きな影響を与えたと考えられます。やがて自然哲学者「ブルーノ」などを生んでいきます。  
D、 羅針盤などの発明により、大航海が可能となって東方貿易が盛んとなって商人の力が増大し、「中世封建制が崩壊」していったこと。 
E、 直接ルネサンス運動ではありませんが、宗教改革によって「カトリックの権威が失墜」したこと。

 以上のようなことによって、ようするに
「中世的なものが退けられていった」ということが何より大事なのです。もっとはっきり言えば、「カトリック的キリスト教の支配が崩壊した」ということです。ここから人々はふたたび「神」から自由になって、「人間の立場」で、人間のこととして世界を考え、人間の在り方を考えられるようになったのです。したがって、哲学の世界は、キリスト教的哲学、つまりスコラ学から自由になって、全く新しく「世界や人間」を考えなおそうとしていきました。これが近世哲学の特質となるのです。
 ですからともかく、キリスト教を前提としないで、むしろそれを取り払って、人間のこととして「もっとも明らかなこと」を探しだし、それを基盤として世界や人間のことを考えていこうとします。
「聖書にかわる基盤」の探し求め」が近世哲学の特質と言えるのです。ですからここでの哲学の主要課題は、カトリック神学に縛られない「新たな視点からの世界の存在の構造」の把握と「その世界認識」に絞られてきます。

11、デカルト(近代哲学の祖。人間の立場、理性によって、あらゆる先入観を廃して新しく考えなおす)
 「デカルト(1596〜1650)」
はこれまでのキリスト教・スコラ哲学的な思考はもちろんのこと文字通りすべての前提的考え方を排除して、「全く新しい基盤」を立てそこから世界と人間とを考えていこうとした「近世最初の哲学者」となります。ここに彼の最大の業績があると言えます。そしておこなったのが、ともかくすべてのものを疑ってみて、どんなつまらない疑いにも動じない「絶対確実な事実」を見つけ出そうという作業で、通常これを「方法的懐疑」と呼んでいます。そしてここから見つけ出された「確実なこと」というのが、間違えるにせよ、夢見ているにせよ、騙されているにせよ、そんなことを考えている「思考する主体としての我」の存在だったのです。それを表現しているのが「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という言葉だったのです。これが世界や人間を考える「基盤」とされたのでした。そして人間の「精神」「物体」とを二つの独立した存在としてそれぞれを考えていったのです。この、「精神と物体」という分け方自体はすでに古代ギリシャからありましたが、しかしギリシャでは精神も物体も同じ一つの「自然」の中にあるものと考えられていて、近世的な意味での「独立した実体」とはなりません。ここにはじめて「実体」として全く独立的な精神と物体が示されたのです。

12、スピノザ(大陸合理論の代表。デカルトの後継者)
 しかしデカルトは精神と物体の二つの関係をうまく説明できませんでした。これでは、
「考える私」と「身体としての私」がバラバラになってしまいます。そこでスピノザ(1632〜1677)は「神」を持ち出しました。しかしこれはもうカトリックの教会が言う「キリスト教の神様」とはちがっていまして、「宇宙の摂理、宇宙の力」みたいなものです。そして人間の精神も自然そのものも、この「神の現れ」ということで統一しようとしたのです。私たちが生きることの意味はこの「神」のもとに帰ることにあるということになります。

13、ロック(イギリス経験論の祖。認識を経験によるとし懐疑論を提唱)
 一方、こうした人間と自然物との関係をいってみれば「理性主体」に考えるやり方とは違って、
「経験」を主体に考えてみようという態度も生じていました。それが「イギリスのロック(1632〜1704)」によって代表されます。
 ロックは経験に先だった認識内容(これを「本有観念」といいます)を否定し、
「あらゆる認識は経験によっている」と考えました。これがすべての思考の基盤となるのです。こうした立場をいうのが「タブラ・ラサ」つまり「白板」ということで、私たちの心はこんな「白板」みたいなもので、ここに「物事が書き込まれる」ような具合で認識が生じてくると考えます。ところが、感覚が言ってくることというのは丸いとか赤いとかいったことだけで、それが「りんご」なのか「さくらんぼ」なのかは教えてきません。
 それは私たちが
「感覚をくっつけ合わせて整理して」「判断」しているわけです。しかし、この時、間違って「くっつけ合わせて」いる可能性もあります。こうしてロックの立場では「人間の認識は経験による以上、人間に確実な認識を得ることは不可能」という結論になってしまったのでした。

14、バークリーとヒューム(イギリス経験論、ロックの後継者たち、より一層懐疑論へ。物質の実在、精神の否定)
 そのロックを徹底していく動きは、まず
「バークリー(1685〜1753)」に見られます。彼は、ロックがみ認めた「感覚の背後に予想される実在」まで否定し、物質的実体はただの観念としてきます。実際、もし感覚だけを認めるという立場に徹したとしたら、ただ赤いとか甘いとかいった直接的体験しかみとめられないはずで、形すらすでに「赤い」や「堅い」といった直接経験から「複合されたもの」ということになってきます。複合されたものは「観念」です。こうして、「在る」といわれうるのは「観念」と、その観念をつくりだす「精神」だけということになってきます。この精神が知覚するわけですが、こうして存在がいわれるのだとすると、「存在とは知覚されていること(エッセ・エスト・ペルキピ)」ということになってしまいます。そして彼はこうした構造そのものを保証するものとしての「神」をいってくることになるのです。いってみれば、神が知覚していてくれるからこの地上のあらゆるものもその存在が保証される、といった具合です。
 バークリーにつづいて
「ヒューム(1711〜1776)」がでてきますが、彼のところで、ついに「精神まで否定」されてしまいます。あるのは「一瞬一瞬の知覚」だけで、これを「連続したものととらえる」ものなど、感覚は全然保証してきません。心といっているものも、つぎつぎにあらわれてくる「観念の束」にすぎない、とされます。「金槌が頭に落ちてコブができた」といった類いの「因果律も否定」されてしまいます。あったのは「金槌が頭の上に落ちた」という経験と「コブができた」という経験だけで、二つの間の関係など経験は決して言ってきません。私たちがかってに予測しただけのことです。
 こんな具合にしてロック以来の経験論は、事柄を精緻にみて、人間の勝手な思い込みや予測を拒否し、「確実」と言われ得るものだけにとどまって議論をたてようとした結果、すべてが疑わしい、という
「懐疑論」になってしまったのです。

近代哲学の特質
 これは、一つの思い込み、前提を暗黙に認めて議論することをやめようとした
「近代の精神の」一つの結果なのでした。わたしたちが学ぶべきは、こうした「徹底的な論の追及の態度」でしょう。
 なぜなら私たちはとかく「権威」や「常識」にこだわったり、「具体的生活」のありかたを前提にしたり、「自分に都合のいい」ように何かを暗黙の内に前提してしまったり、様々の理由で論をねじまげて「論理そのもの」が何をいってくるかを聞こうとしない傾向をもっているからです。彼等がやったのは、
「論そのものが何をいってくるか」であったのです。
 しかし、その追及の態度の立派さはそれとして、結論が「何も確かなものはない」という
「懐疑論」では「世界の構造や存在のありかた、また本来の人間の生きる意味を問うものとしての哲学」は終りになってしまいます。
 一方、デカルトたちの「人間理性から」という立場もヴォルフあたりになって、全く一人よがりの、頭だけで考えた理屈(これを
「独断的形而上学」といいます)に落ち込むことが認識されてきます。こうして「理性」もだめ、経験もだめということになって、私たちが物事を認識する武器の二つともが否定されてしまいました。これでは困ります。ここにこの打開が試みられねばならなくなります。

15、カント(大陸合理論とイギリス経験論の統合。近代哲学の源)
 その打開をなしとげたのが「カント(1724〜1804)」でした。カントは
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』で有名です。
 先ずカントはヒュームの結論に大きな打撃をうけたようでした。経験によっている限り私たちは認識が得られない。これはヒュームが言っている通りのように思えました。しかし一方でそれにしては私たちは何とははっきり言えないにしても何かは知っているようです。ここでカントは一つのことに気付きます。つまり、経験というけれど、これは、外界にあるものが直接そのまま感じ取られているわけではなく、
「人間」が「人間の立場」で「人間にとって」という形でうけとっているのではないか、ということでした。つまり、私たちの感覚は、事物を感覚する時、ある特殊なフィルターを通して感覚する、あるいは比喩的に言えばある「色メガネ」を通して見ている、ということです。いってみれば、人間は「自分にとって見えるように、そのように事物を理解している」ということであって、事物は人間の感覚どおりにある、というわけではない、と考えたわけです。こんな具合に、「経験は事物の側から私たちにその姿をみせてくる」というのではなく、逆に「私たちの方から事物に対してある仕方で働きかけている」としたわけで、こんな逆転の見方を天文学の発見になぞらえて「コペルニクス的転回」とよびます。
 こうして、外界を私達は「感性」によってデーターとして与えられ、さらに私達はそれを「悟性」によって一定の方式に従って統合して一つの判断に仕上げていくとして、さらにその悟性よる認識を保証してくるものとしての「理性」を示してそれらのあり方についての詳細な論を展開したのでした。これが
『純粋理性批判』の内容になります。
 ここでどういうことが言われてくるかというと、事物は経験されたそのままが真実だ、と考えていたこれまでの考え方が崩された、ということで、ようするにヒュームはそんな具合に考えたから「懐疑論」になってしまったわけで、そうではない、ということになればまた始めから経験の位置付けを考えなおせる、ということでした。こうしてカントは人間の感覚の在り方からはじめ、さきほどの比喩でいうなら「フィルター」ないし「色メガネ」の在り方を解明していきました。
 こうして、経験による認識の在り方とその対象とが明らかにされていきましたが、それは結局「経験世界」だけについての話ですから、
「神」とか「魂」、つまり、わたしたちの心が関係する事柄は全然明らかにされません。これでは「人間の生きる意味」だの「善い、正しい、美しい」といった、人間にとってより大事な問題は「空しいこと」になってしまいそうです。ここでカントはそうした「価値」にかかわる別種の「認識能力」を指摘してきます。それが「実践理性」でした。ここで強調されるのが「善意志」と「道徳律」というもので、これは中世においては『聖書』に人間の善・悪の起源をみていた考え方を廃し、人間理性の見る「法則性として倫理を捕らえる」新しい考え方でした。またこれは人間が人間たる限りにおいて、つまり人間の本性としてその存在が確認されるとされます。その点でこれは「外界を認識する能力」より高いと判断されました。そしてカントはこの能力に根拠をおいて「人間の生きる意味」や「善い、正しい、美しい」といった問題を追及していったのです。これは長い中世の「神による善・悪」といった見方を脱して真に近代的な人間倫理を考察する最初の思考であって、その後の倫理学の方向を定めたと言えます。
 こうしてカントは先ず存在論や認識論の場面でデカルトの流れとロックの流れを統一し、ここからその後の哲学が出発した「湖」となりました。そしてさらにカントにおいては、デカルトやロックが『聖書』やスコラ学に代わる新しい基盤をつくろうという仕事に手一杯であったことを越えて、本来の哲学の目的であった「生きることの意味」も理論的に追及しようとする態度も戻ってきています。さらにカントはこの二つの世界、つまり「感性の把握する世界」と「道徳世界」の橋渡しという問題については「自然の合目的性」という考え方によって結合してこようとします。これが
『判断力批判』の内容となります。私達がカントを問題にしなければならないのは、以上のような意味でカントはキリスト教に縛られていた中世の思考を脱して「人間の立場」で世界や人間を考えようとする近代的思考の湖であると言う意味においてです。

16、フュヒテとシェリング(カントの後継者。より精神に傾き、よりロマン的)
 カントにおいてあたらしい出発が試みられたのですが、その後はカントの不備を解決しようという方向に哲学は向かっていきます。つまり、やはりカントでも
「外界にかかわる認識」と「実践にかかわる認識」がどうもうまく結びついておらず、バラバラである印象はぬぐえません。これがどうしても気持ち悪いわけです。そこでこの両者を結びつけようという試みがなされていくわけです。はじめは「フィヒテ(1762〜184)」で、彼はカントの立場を受け継ぐわけですから、「実践理性」に重点をおいてこの結び付きを解明しようとします。この時、「理性」を「自我」としてとらえているのが特徴的です。そして物質的対象は「非我」と呼ばれることになり、何か「私」というものが強く意識されてきます。ところで、この実践にかかわる理性、つまり「実践的な私」は「能動的」でそれゆえにこれが基本的な私たちのすべての原動力になっているとします。そして私たちはこの実践にかかわる自分というものを完成させていこうとするのだけれど、その途上でじゃまものにぶつかってしまう。それが「私ならざるもの」「非我」「外界」だとして、結局、外界の認識というのは、私たちが自分を完成させていこうとする途上ででてくるものなのだとしたのです。
 こんな形で両者を関係づけたのですが、ここでもまだ不備が言われました。それを解決しようというのが
「シェリング(1775〜1854)」でした。彼はフィヒテが実践理性つまり精神的な側面に「絶対的なもの」をみて、物質はそれに依存するような格好にしていたのに対し、その両者の下に絶対者をおいて、この絶対者の表れとしてこの両者が在るとしました。したがって、「精神も物質も同じ絶対者の現れ」として、両者ともに「精神性も物質性も含まれている」のだけれど「量的な差」があって一方はより精神的に、一方はより物質的に現れるだけとしたのです。つまり両者とも「同一なるもの」の展開というわけで、しばしばこれは「同一哲学」などと呼ばれました。こうして、精神と物質の両方の下に同一なる絶対者をおいて、両者はその「展開」という形で結び付けました。

17、ヘーゲル(ドイツ観念論の行き着いたところ。つまり近代哲学の行き着いたところ)
 しかしシェリングの絶対者はなんとなく精神や物質の基盤としてあるということはいえても、これがどうして「精神と物質」として展開されてくるのかは説明されていないようです。それを説明しようというのが
「ヘーゲル(1770〜1831)」の仕事でした。そしてヘーゲルは、この絶対者の「中に」精神と物質を含め、したがって絶対者は本来的に「精神と物質」として展開せざるをえないのだ、と考えたのです。そしてその展開は「歴史」として現れると考えます。そしてそれは「理性の自由への追及」として現れるとし、ここに、「理性的なものは現実的であり、現実は理性的である」といったある意味でひどく楽観的とも言え、ロマン的すぎるとも言える結論になってしまい、これが批判される格好で現代哲学が生じてくることになるのでした。しかし、その理性の展開の論としての「弁証法」という考え方は、多大な影響を人々に与えることとなり、特にマルクスに受け継がれて「唯物弁証法」を生み出したのが重大でした。
 その弁証法というのは、ある「一つの確立された在り方」があったとして、これは意見でも社会でも存在でも何にでも適用されますが、その
「確立した在り方の中に必ず矛盾がふくまれ」、それがやがて露呈してきて「葛藤」の状態になり、そしてその矛盾が解決される方向で「新しい在り方が確立する」、しかしそれも、やがて内部に含まれていた矛盾が露呈し、葛藤となり、また新しい在り方が確立する、しかしそれもまた、と言う具合にどんどん発展していく在り方を言ったものです。
 さて、こうしたヘーゲルの哲学には、近代が問題にしてきた、聖書やスコラ学を廃して、人間の立場で自由に批判的に考え、私たち人間、また私たちがそこにいる「世界」というものをどう考えていくかの基盤を求める、という哲学の営みの集大成といった性格がありました。結果は「理性」におちつきましたが、あまりに
「理性至上主義」で「人間の生の実態」がまるきり見えていません。こうなって、物凄い反発の嵐となっていくのです。その一つが「生産・経済に見られる人間の実態」に注目したマルクス唯物論であり、もう一つが人間の「不条理で非理性的な在り方」に注目するものでした。この二つの立場はソクラテス的な意味での「人生の形成論」ともなっていきます。もちろん、他にもまだいろいろありますが、やはり代表はこの二つの立場になるでしょう。

18、マルクス唯物論(現代的唯物論の祖。その理論は現実社会や経済学に適応される)
 
「マルクス(1818〜1883年)」によって提唱されたためこの名前で呼ばれるわけですが、もう一人盟友の「エンゲルス(1820〜1895年)」の名前も忘れてはならず、通常二人の名前を連ねて呼ぶことが多いです。
 この哲学の特質は、ヘーゲルのあまりに理性主義的・観念的な哲学に反対し、世界の本質は
「物質」にあるとして「物質の内的運動」による「弁証法的唯物論」を打ち立て、さらにその論理が歴史に現れているとする「史的唯物論」を提唱したことにあります。
 またこうした「物質」に本質をみることは「人間・社会」の見方を「生産物中心」に見ることにつながり、その哲学は結局
「経済学」へと移行しました。
 簡単にその構造を示すと、物質は「固まった」ままのものではなくその量の変化において質的な変化をするとして
「発展性」をみました。いわゆる「量は質に転化する」という標語となります。またこの発展の仕方には法則がありそれは「安定」「矛盾」「止揚(統合)」という三段階の連鎖になるとします。これはヘーゲルの哲学に於ける「弁証法」の物質への転用です。この構造を人間社会に当てはめると、「生産物」が根底にありその量の変化に応じて社会のあり方が変わるとなります。ですからまた「文化」というものもその生産物の質や量に応じて変わってくるとなります。この構造において「生産物」は根底にある「下部構造」となり「文化」はその上に咲いた「上部構造」ということになります。
 歴史はこの生産物の変化に応じて変わるのであり、それには法則があって、これはヘーゲルの弁証法をそっくり適用して
「史的唯物論」を主張してきます。つまり、食物に支配される人間社会ですが、これは発展するというのであって、その在り方はヘーゲルの弁証法の法則にしたがっているとするのです。ようするに、一つの社会が確立していてもそこには必ず生産物とその流通にかかわる矛盾がふくまれていて、富裕な支配階級と虐げられた下層階級ができてそこに「階級闘争」という矛盾が露呈し、それが解決される方向で新しい社会ができるが、そこにもかならず矛盾が生じて闘争となり、また新しい社会ができる。しかし、そこにもかならず矛盾が出てきて、再び新しい社会へ発展するが、そこにもまた再び矛盾が出てきて、という形で、社会は発展していくというわけです。こうして人間社会は段々進歩してきてやがて「資本主義から共産主義に移行」すると考えたのでした。論理的には、一つの「安定期」があり(定立・正)、しかしそこにいろいろ「問題が出てきて」(矛盾・反)、それが乗り越えられてまた安定する(止揚・合)、しかしこの安定(定立・正)も再び問題を起こし(矛盾・反)、また新たに乗り越えられねばならない(止揚・合)といった具合に歴史は展開するというわけでした。これを「弁証法的発展」と名付け史的唯物論という理論で示したのでした。
 マルクスの哲学には「しいたげられていた労働者の解放、人間性の回復」という側面があるため、多くの人々の共感をよんで現代に最も重大な影響を与えた哲学者の一人ですが、マルクス主義を名乗る「政治イデオロギーとしての共産主義」の欺瞞と非人間的な権力構造が露呈されて破綻してしまったのでした。

19、キェルケゴール(実存哲学の祖。個々の人間の現実に生きている在り方への視点)
 ヘーゲルの「理性重視」にたいする反論はもう一方で「人間の現実」がそんな甘いものではない、というところからおこされます。すなわち、ヘーゲルは人間をすべて「理性」としてくくってしまったわけですが、
「キェルケゴール(1813〜1855)」にいわせると、そんなのは全然人間を説明などしていないと言うのです。人間は「個人個人」自分というものがあって、この「個人」というありかたは一人一人においてみな「異なって」いるはずで「取り替え」はできません。人間はエンピツや机とは違うのです。したがって、真理というのも何か人間の外側に客観的に存在しているのではなく、「この私」にかかわってくるようなものとしてなければならない、としてきます。「主体性こそ真理」なのです。このように、「個々の人間の現実にある存在」に注目するのがキェルレゴールの特徴です。
 こうして人間をみるわけですが、さて人間はヘーゲルがいうような具合に「わけが分かって」いるわけではありません。むしろ何にも分かっていないのが現実です。人間は「不安」の中にいるのです。そこで、自分の人生を自分で作っていかなければならず、それは「選択」ということでしかなく、その時、その選び方は
「あれかこれか」の選択になってしまう、としてきます。こうして人間の取るべき生き方を考えていったのでした。

20ニーチェ(西洋哲学史の伝統的思考法を転覆させた現代哲学の祖)
 いわゆる現代にもっとも影響を与えた哲学者としてはマルクス他に
「ニーチエ(1844〜1900)」の名前も必ず挙げられます。ニーチェはしばしばキェルケゴールとならんで「実存主義の祖」ともいわれ、「生の哲学」の先駆ともいわれますが、そうした狭い規定を越えて「西洋哲学の伝統的思考法を転覆」させた哲学史上でも最大限に重要な意味を持った哲学者となります。その哲学の特徴としては、西洋を支配しつづけている「真実界と背後世界」という二分法、とりわけ「神の国と追放の地、罪ある人間」という捉え方をする「キリスト教にたいする批判」がそのすべてともいえ、「ギリシャ的な円環的・回帰的世界観と英雄的人間観の復興」という性格をもっています。
 すなわち、人間は現在の弱い在り方を脱皮して「強い人間」へと成長すべきものとしてある、としてその方向に
「超人」という概念をいってきます。そしてこの世界を否定的にみるのではなく、こうあるのが善い、という仕方で肯定的にみていくべきだとして、この世界を「永遠回帰」するものとして捕らえられる強さを要求しました。こうした「現実にある人間の生」への強い意識が実存主義とむすびつけられるところがあったとも言えますが、ニーチェの特色はむしろ「背後世界の否定」というところにあったと言えます。

21、サルトル(実存主義の代表者)
 実存主義の代表的哲学者としては、
「ドイツのハイデガーやヤスパース、フランスのサルトルとマルセル」が代表的です。特にハイデガー(1889〜1976)はその哲学理論が、単に実存主義という枠を越えて西洋哲学史上での存在論に対する鋭い考察があるものとして高く評価されています。
 他方、実存主義というのは哲学だけの現象ではなく、文学や演劇においても重要でした。そうした、
「実存主義という運動」そのものを見ようとした時にはフランスの二人のほうが重要でしょう。なぜなら彼等は文学においても演劇においても多くの仕事を残しているからです。
 サルトルにとって問題であったのは当然「人間」という存在でしたが、その人間のありかたは「もの」とはことなり、
「自分で自分に立ち向かい」「今ある自己を否定し」「あるべき自分にむかっていく」というところにある、と捕えたことが基本となります。ここに、「もの」にたいする「即自存在」という言葉や、人間に対する「対自存在」という言葉での説明があり、「そうあるものと決められていない」ありかたをする人間の「自由」に対して「呪われた自由」「自由という刑に処せられている」といった表現が使われていきました。そして人間は「自由な投企によってそのつど創造されるもの」とされます。
 このサルトルの態度は具体的にはマルクスに近付けさせていったわけですが、結果は「共産党に裏切られて滅亡」でした。しかし、こんなところにもマルクスの現代に与えている影響の強さというものが推し量れます。

22、現代哲学の代表
 現代哲学については「マルクス主義」と「実存主義の代表としてのサルトル」を紹介しておきましたが、それ以外にも以下のようなものがあります。ただし、これらは殆ど社会的影響を与えることができず、20世紀後半からの世界は「哲学不在」のようになっており、人々は哲学的思考からも遠くなっています。「哲学の復権」が如何にして起きうるかが私達の課題となっています。以下については「20世紀の哲学の外観」のページを見てください。
1、生の哲学。2、プラグマティズム。3、新カント学派。4、現象学派。5、分析哲学。6、フランクフルト学派。7、構造主義。8、ポスト構造主義。

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