17.哲学入門、哲学的に物事を考えるとは〜西洋哲学史を巡って〜 - 12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

17.「哲学」の一般的な用法と本来の用法
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INDEX
1. 「哲学」の一般的な用法と本来の用法
2. 学問の発祥、「自然哲学者」の誕生
3. 哲学の始祖、「ソクラテス」
4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」
6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」
7. 中世キリスト教神学、「アウグスティヌス」の場合
8. 近代哲学の祖、「デカルト」の思考法と「スピノザ」
9. もう一つの近代哲学の流れ、「ロックとイギリス経験論」
10. 近代哲学の集大成、「カント」の批判哲学とは
11. カントを引き継いだ「ドイツ観念論」
12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」
13. 生と死を見つめた憂愁の哲学者、「キェルケゴール」
14. 近代唯物論哲学の巨星、「マルクス」
15. 生の徹底的肯定者、「ニーチェ」の場合
16. 現実に生きている人間の立場、実存主義の「サルトル」
17. 20世紀の哲学の外観
18. 西洋哲学史概略

12.

ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」


はじめに
 さて、前回見た「シェリング」においては、
「同一なる無限の絶対者」を根底にすえ、その現れとして精神世界と物質世界を考え、その「同じもの」の展開ゆえにその間に質的差異があることはなく、ただ量的に精神性が濃いか物質性が濃いかのどちらかで、いずれにしてもすべてに「精神性と物質性」はあるのだ、という形で両者の統一を計ったのでした。
 しかしそうは言っても、シェリングのところで指摘しておいたように、その「同一」なるものが、たとえ「量的差異」にせよ、どうして
「別」として現れるのかの説明はうまくなされないままにされていました。これを解決しようというのがヘーゲルの仕事になります。ヘーゲルもひどく難解ですが、シェリングを下敷きにしながら読んでいくといいでしょう。

ヘーゲルのシェリング批判
 先ずヘーゲルはシェリングの「絶対者」が精神と物体の「有限者」の根底におかれているとされているけれど、その実、
「無限者としてその外に超越している」という性格をもっていることを批判します。
 そして、超越しているのだとすると、ある意味でこの
「絶対者と有限者は分かれている」ということになり、「対立」しているような格好になってしまう、というわけです。そしてそうだとすると、絶対者は有限者という対立物を持っているという点で「無限者」にならなくなってしまい、結局「絶対者」にならなくなってしまう、と批判します。
 シェリングの場合、絶対者は
「有限者に対するもの」ということで「無限者」という言い方ができるのだと言います。しかしヘーゲルに言わせると、これは「抽象的な無限者」にすぎず、こんなのは「悪無限」だといって切り捨ててしまうのです。

眞無限と絶対者の発展
 こうしてヘーゲルは、絶対者とはすべての対立を越え、すべてを自己のうちに含み込んでいるものでなければならない、としてくるのです。いってみれば、シェリングの
「無限者と有限者を共に含み込んでいるようなもの」です。こんな無限を、シェリング的な、つまり有限者と対概念のような無限者と区別して「眞無限」とよんでいます。これはすべての区別をうちに含んでいて、かつ、同一なるものということになります。
 ということは、これは
「区別の具体的な名前である有限者」をうちにもっていなければならない、ということにもなります。一方、この「有限者」は「変化するもの」です。変化しないで、永遠に自己同一のままとどまっているものなど有限者となるわけもありません。したがって、絶対者というのはこうした「変化をうちに含んでしかも自己自身としては不変化的に自己同一を保っているもの」といういささか頭がこんがらがってくるような性格をもっていることになります。
 こうなりますと、この絶対者は「有限者の変化を伴って発展しながら、しかも自己としては同一性を保っている」のですから、この
「有限者の変化・発展が不可欠」ということにもなってくるのです。止まっている静止的なものであってはならないのです。なぜなら、止まっているということは、変化の主体たる有限者をうちに含んでいないことになってしまい、そうすると「すべてを含む」という意味での絶対者・無限者でなくなってしまうからです。     
 こうして、絶対者はみずから「有限者」として変化し、その
「変化の過程を通して自分自身をあらわす」ということになります。つまり、絶対者とは「発展的なもの」だということになってくるのです。この、絶対者とは発展的なもの、というのがヘーゲルにおいてとりわけ特徴的だ、といえるでしょう。

歴史哲学
 さて、こういうことになって、では
「その発展とは何か」ということになります。もちろん、一般的言い方では有限者の変化の過程だということですが、これは具体的には「歴史」ということになります。つまり、「絶対者は歴史的発展のうちに自らを実現させていく」というのです。あるいは、歴史という発展の中にあって「自己同一」をたもっているものがあり、それが絶対者だと言ってもいいでしょう。こうしてヘーゲルにおいて「歴史」というものが哲学の最大課題になったのでした。
 ところで、物体のほうは自己展開することはないと考えられたので、
「展開するものとしての絶対者は精神」だ、ということになります。ただし、この精神は自然に対立するようなものではありません。むしろこの「精神は自然をも含み込んだもの」なのです。というのも、精神というのは、単なる主観ではなく、歴史的世界の中に自らを実現していくものと考えられているわけですから、歴史というものが単に「主観の産物」ではなく自然とのかかわりにおいてある、と考えられる以上、自然を含んでいるのでなければならないことになるからです。 
 以上のように、歴史とは「絶対者」がその本質を明らかにさせていく過程だ、と考えられ、そしてその絶対者は「精神」だと考えられたわけです。さらにこれは
「理性」ということになり、その本質は「自由」にあるとされ、結局、歴史とは「理性が自由を実現していく過程」ということになります。

弁証法
 一方、こんな具合に絶対者としての理性が自己を実現していく過程が歴史だということになると、歴史にはその
「絶対者の実現という目的」があるというわけですから、でたらめに展開するわけではなく、「一つの摂理」にしたがって目的に向かって展開しているのだ、ということになります。つまり歴史のうちにおきているすべてのこと、人間がやっているなんでもかんでもは「一つの摂理」によって必然的にそうなるものとしてあらわれていたのだ、ということになってきます。こんなのをヘーゲルは「理性のたくらみ」などと呼んでいます。
 それではこの歴史は具体的にどんな具合に展開するのでしょうか。それを述べているのが有名な
「弁証法」です。ヘーゲルの場合、この弁証法に二面があって、一つは「認識」について、もう一つは「存在」についてです。

認識の弁証法
 さて第一についてですが、ヘーゲルにおいては哲学の課題として、以上にみてきた
「絶対者を把握すること」が要求される筈です。そしてそれは、絶対者がこの私たちの世界を超越しているのではなく、この世界に歴史的に展開するのですから、この「世界そのもののうちに把握されてくる」のでなければなりません。シェリングのような「美的直観」などではなく、あくまで「この世界の理性的把握」によらなければならないことになります。この認識の在り方が弁証法で説明されるのです。
 それはどうなるのかというと、まず第一段階として、
「一つの立場を肯定」します。次に第二段階ですが、私たちがこの第一の立場を検討した結果、そこのうちに「矛盾」を見出だします。なぜなら、一つの立場だけですべてを説明し尽くしているということなどなく、かならず、設定された立場と矛盾する在り方を発見してしまうからです。こうして第三段階目にいきます。ここにおいて第一と第二とが付け合わせて検討され、「両者を統一する新しい立場」へと発展するわけです。しかし、この新しい立場もふたたび第一段階となり、また矛盾が発見されて、またより高次な段階へと統一されていきます。こんな具合により高くより高くと発展していく、というわけです。     

 ヘーゲルはこの第一段階目を
「即自的」(アン・ジッヒ)とよび、第二段階目を「対自的」(フュア・ジッヒ)とよび、第三段階目を即自対自的(アン・ウント・フュア・ジッヒ)などと呼んでいますが、三段階目は、二段階目の否定のさらに否定ですので「否定の否定」ともよんでいます。しかし、これはただの否定ではなく、二つの立場をより高次にして「保存する」ことでもありますから、「拾いあげる」とか「保管する」とか、あるいは「やめにする」「とりけす」とかいった意味合いをもった言葉「アウフヘーベン」と言う言葉で表しています。日本訳では「止揚」とか「揚棄」とか訳しています。しかしどうも日本訳というのは何が何だか分からない難しい漢語を使い、一般の人々を哲学から遠ざけ、一人で悦にいっているような感じになっているのは困ったものです。
 以上のような、いってみれば三角形になるような発展の仕方を一般には
「正・反・合」と呼んでいます。もう少し明確には「定立・反定立・総合」とも呼びます。
 ヘーゲルは、とかく人はある考え方を「よし」とするとそれだけにこだわり、その考えかたに合わないものを躍起になって否定しようとしてくる、と言います。こういう認識のありかた(ヘーゲルはこれを
「悟性的認識」と呼ぶ)は当然「自らのうちに必ずある筈の矛盾にも目をつぶってしまう」わけで、全く発展性がない。人はこうした在り方を脱し、理性的思惟に基づき、発展的に考えねばならない、というのであって、ヘーゲル弁証法の重要なところは、こうした「矛盾の統一」を計っていくという性格にあるということがいえるでしょう。

存在の弁証法、ないし史的弁証法
 第二の存在の弁証法は、以上の弁証法的発展が
「絶対者の自己展開の発展過程」に適用されたもので、ようするに、私たちの認識の構造が弁証法的やり方でより高次の認識に至るというだけのことではなく、「存在のありかたそのもの、ないし歴史的発展のありかたそのものが弁証法的」なのだ、ということになります。
 すなわちヘーゲルを受け継いだ「マルクス」の説明で紹介すると、歴史の場合、
「歴史的にある社会が確立されている」とします。これをたとえば「封建社会」としてみましょう。長い間この封建社会は続きました。しかし、その内部に「問題・矛盾」が孕まれているのであり、それがやがて「表に出てきて」社会問題となります。こうして、その「矛盾を解決」するように「近代市民社会」へと変貌していきます。ところがここにもまた「問題・矛盾」が内部にあって、やがてそれが露呈して社会問題となります。そうしてその矛盾を解決するように「資本主義社会」が形成されていきます。しかしまたここにも「問題・矛盾」があって、それが露呈した段階でそれを解決しよようと「社会主義社会」が出現する、といった案配です。この説明の仕方はヘーゲル弁証法を受け継いだ「マルクス」の説明ですからこの場合は「矛盾は物質・生産物」に孕まれている矛盾となりますが、ヘーゲルの場合は「精神」となると考えておけばいいでしょう。マルクスの説明の方が分かりやすいのでマルクスで説明しましたが、「構造」は同じです。

ヘーゲル哲学の概要
 
ヘーゲルの重要なポイントは以上のようなものでしょうが、以上にふれられなかったヘーゲルの体系を簡単に示しますとつぎのようなことになります。
 ヘーゲル哲学の体系はまず
「論理学」からでしょうが、ここでは自然や精神についての根本的考え方が示されます。
 第二に
「自然学」ですが、ここでは自然というものが、確かに「絶対者の展開」ではあるものの、絶対者が自分を外に表してきた時の姿以上にはなく、それ自体として発展するものではないとしました。
 第三が
「精神哲学」ですが、ここではその「絶対者の具体的」ありかたが見られます。すなわち、以上に見られてきたように、絶対者は私たちの世界の彼方にあって仰ぎ見られるものではなく、「具体的にこの世界に実現してきているもの」と考えられていました。
 こういうことになりますと、その
「倫理学」も、「理念を追及する」といったものであるよりむしろ、「具体的生活の場面での人と人の在り方」が問題になる、ということになります。つまり「善そのもの、あるいは徳性」といった「道徳の立場」よりも「人倫の立場」ということでしょう。その人倫の具体的姿とはいうまでもなく「家族、社会、国家」ということになります。ヘーゲルの立場だと、こうした具体的場面を無視して「理想的な善」を立て、それを目標とする、といったような倫理学は単に抽象的な思惟の産物でしかない、ということになります。

ヘーゲル批判と現代哲学
 ヘーゲルの有名な言葉に
「理性的なものは現実的であり、現実は理想的だ」というのがありますが、一見ずいぶんとこの汚れきって醜悪な面を持つ現実に楽天的で、悲しみ苦しみにあえいでいる人間のことなど微塵も考えていないようですが、それも以上のような哲学からして当然の帰結であったのでしょう。
 したがって、ヘーゲル以降の(ここから現代哲学とよんでもいいでしょうが)その哲学の主流は
「苦しみ、不安にある人間、生きることの意味をもとめる哲学」へと傾いていくことになるのです。マルクスもキェルケゴールもニーチェも、そしてその系譜にある「実存哲学」などがその代表となります。

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