17.哲学入門、哲学的に物事を考えるとは〜西洋哲学史を巡って〜 - 6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

17.「哲学」の一般的な用法と本来の用法
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INDEX
1. 「哲学」の一般的な用法と本来の用法
2. 学問の発祥、「自然哲学者」の誕生
3. 哲学の始祖、「ソクラテス」
4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」
6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」
7. 中世キリスト教神学、「アウグスティヌス」の場合
8. 近代哲学の祖、「デカルト」の思考法と「スピノザ」
9. もう一つの近代哲学の流れ、「ロックとイギリス経験論」
10. 近代哲学の集大成、「カント」の批判哲学とは
11. カントを引き継いだ「ドイツ観念論」
12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」
13. 生と死を見つめた憂愁の哲学者、「キェルケゴール」
14. 近代唯物論哲学の巨星、「マルクス」
15. 生の徹底的肯定者、「ニーチェ」の場合
16. 現実に生きている人間の立場、実存主義の「サルトル」
17. 20世紀の哲学の外観
18. 西洋哲学史概略

6.

「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」


ヘレニズム期の哲学
 アリストテレス以降からローマ時代の哲学を取り扱います。アリストテレス以降のギリシャ世界は西方世界全体に広がっています。そのためこの時代を
「ギリシャ風、ギリシャ主義の世界」ということで、「ギリシャの本名であるヘラス(今日でもそうです)」という名前から「ヘレニズム」と名付けています。
 この時期からローマ時代にかけての哲学の主流は「プラトンやアリストテレス」ではなくなって、
「ストア学派」「エピクロス学派」、あるいは「懐疑派」に代表されてきます。いずれも「人生の形成論」という意味でのソクラテスに立ち返っています。これらの学派の創始者はアリストテレスの直後に出ており、ヘレニズム・ローマ期をつうじて興隆し、近・現代でも「人間の生き方」を問題にする人々に多大の影響を与えています。

ソクラテスの弟子たち
 その根はすでにアリストテレスよりも前、
「プラトンと同時代」に用意されていたのです。つまり「プラトンの兄弟子たち」の哲学でした。
 
古代ギリシャが内乱ペロポネソス戦争で荒廃し、アテナイでは「衆愚制社会」に墮し、ソクラテスが民衆によって殺され、やがてアテナイの敗戦とそれに続く混乱の時期、アテナイには二つの思想傾向が生じていたのです。
 一つは
プラトン(およびその学派、アカデメイア)、アリストテレス(およびその学派、リュケイオン)と続く、哲学の「学的な深み」を示す流れであり、これは哲学史の主流とされます。
 もう一つは、アカデミズムの中ではほとんど取り上げられず、その存在が指摘される程度の扱いなのですが、社会とのかかわりにおいて、求められるべき
「人のありよう」を求める哲学が生じていたのです。後者は、この当時の社会の混乱からして、むしろまっとうな現象であった、といえるでしょう。

 この動きはすでにソクラテスの死の直後から始まっていて、ソクラテスの弟子達の哲学、すなわち哲学史では通常
「小ソクラテス学派」などとおとしめられて呼ばれている人達の哲学でした。この人達はプラトンより先輩の弟子達であって、ソクラテスの生き方そのものに感化され、その一面を強調した哲学を作り上げたのです。
 彼等の哲学は
「実践的」であった、ということもあって理論面においてプラトンに及ばず、そのために「理論だけを哲学」と錯誤している近現代の哲学史では非常に冷遇されているわけです。しかし、この当時の社会の精神状況はむしろこの「プラトンの兄弟子たちおよびその系譜の人々」のほうがより強く反映させており、少なくとも「時代の精神」を見る、ということでしたら、こちらの方こそ相応の評価をしていかなくてはならないでしょう。
 その「プラトンの兄弟子たち」のうち、代表的な人として
「アンティステネス」「アリスティッポス」をあげておきましょう。アンティステネスはプラトンより20歳も年上で、アリスティッポスも10歳年上の先輩でした。

アンティステネス
 アンティステネスは
「キュニコス学派」の創始者と言われますが、「キュニコス学派」というのは「野良犬のような生活」をする学派として知られています。これは世間が「金や地位、権力」を求めて右往左往し、互いに欺き傷つけ合っているあり方を「身を持って批判」している姿となります。
 アンティステネスはソクラテスにおける
「人間的徳性」の優れに感化されてソクラテスに付き従っていました。すなわち「人間における内面的な優れ」、財産だの地位だの権力だの名誉だのといった外的なものに全くまどわされず、ただ「よく、ただしく、美しく」生きようと努力していたソクラテスに人間の理想像を見たのです。
 したがって彼はただ
「内面の徳」にのみ目を向けて、それだけに集中していこうと務めました。そして、世間の評価とか世間の常識とか意に介さず、慣習や表面的礼儀など無視して、貧乏なままにみすぼらしい姿で生きていこうとしました。快楽を追いかけ、財産だの地位だの権力だのに夢中になっている社会の人々に「空しさ」「愚かさ」「不幸」を見て取りました。心が平安に幸せになるのは「内面の徳」だけである、と考えたのです。
 勿論、先生のソクラテスのようにうまくはいかなかったかもしれません。いろいろと苦悩していたことも伝えられています。しかし、ともかく彼は
「世間的な価値をひっくり返し」ました。そして、人間を堕落に誘う肉体的快楽を極力遠ざけ、誠実に生きていこうとしたのです。

 このアンティステネスの弟子の中で一番有名なのが
「酒瓶のディオゲネス」と呼ばれている人で、何もかも捨てて、道ばたに転がっている「酒瓶(古代ギリシャのワインを貯蔵する瓶はちょうど大人の人間くらいの大きさだった)」を住みかにしていたと伝えられる哲学者です。
 彼は
「狂ったソクラテス」ともよばれていますが、それは物にとらわれないソクラテスのあり方を、ディオゲネスは「社会的な価値一切に対して徹底して否定」して実践していったので、見た目には「狂っている」と映ったからでしょう。
 勿論ディオゲネスが目指していたのはソクラテス的在り方です。内面の徳だけを堅持し、他の一切から自由に、他人や世間に規制されない
「真実の自己」を求めました。しかし、彼は先生のアンティステネスよりももっと世間に対して攻撃的でした。自分に対する厳しさは言うまでもありません。彼は財産と言われる限りのすべてを捨て去りました。で、そこら辺に転がっている酒瓶を住家に暮らしていたのです。たくさんのエピソードがありますが、彼は昼間ランプに火をつけて市場の雑踏の中を何か探しているように歩き回ったと言われます。わけの分からない行動に、何を探しているのだ、と尋ねたところ「人間を探している」と答えたと言います。彼にとって、当時のアテナイの人々は「自由人としてのありよう」を失って、「快楽や欲望の奴隷」としか映らなかったのです。奴隷では「真実の人間」とはいえません。彼の狙いとするところは明らかです。

クラテスとその妻ヒッパルキア
 このディオゲネスにまた優れた弟子がおりました。クラテスといいます。彼は、伝え聞いたソクラテスにあこがれ、ソクラテスのようになろうと、親からついだ莫大な財産をすべて町の貧しい人々に分かち与えて、無一文ではるばるアテナイにやってきました。そして、念願どおり
「もっともソクラテス的な人」との評判を得るまでになります。
 その「人間的優れ、徳性」については数々のエピソードがありますが、その
「妻ヒッパルキア」との逸話などが彼の人柄を表しているかもしれません。ヒッパルキアは名門の生まれで美貌の誉れたかく、降るような縁談の話がありましたが、彼女はその外面と同じくらい内面も美しく、世間的な幸福より「真実の幸福」を求め、そしてクラテスの人柄を知るや、一切を捨て彼のもとに走った、といわれています。
 クラテスの方もクラテスで、彼等キュニコスの人々は「結婚」なんぞという世間的なものは拒絶していたのですが、クラテスははじめは拒絶していたヒッパルキアの真実の心を知ると、「人から何と言われることも意に介さず」これを受け入れ、そして生涯二人とも
「犬のような生活」をしながら仲良く暮らしていったと言われています。

快楽主義のアリスティッポス
 クラテスの弟子が、ストア派をおこすことになるゼノンですがそれは後に回して、その前に
「快楽主義と言われるアリスティッポス」を見ておきましょう。
 彼は先輩のアンティステネスと、少なくとも
「外見は正反対の哲学」をもっていました。つまり彼は「快楽」を人生の目的としていたのです。彼は自由で、おおらかで、人付き合いがよく、派手であったと伝えられます。相手が大金持ちなら平気で謝礼のお金をもらい。世間の評判だの常識だのは意に介しませんでした。
 そういうと、今日の快楽主義者と変わらないようですが、これが違います。何も無いときは一杯の水、一切れのパンにも快楽を感じとれたのです。贅沢を求めることはしませんけれど、「贅沢なものが提供されればこれを誰よりも楽しく享受できたし、何もない時はパンくずにも快楽を楽しめた」ということです。プラトンが兄弟子のアリスティッポスを評して
「あなたは王侯貴族の衣装を身につけても、乞食の姿であっても良く似合う」と言っています。
 さて、ソクラテスはパーティーが大好きでした。かといって彼は贅沢をもとめたのではありません。人との付き合いがすきだったのです。彼はまた何も無いときには一切れのパンにも快楽を感じ取れました。快楽をたのしみ、それにおぼれる事なく、必要時には必要なものを恵んでもらって、必要以上のものは決して受け取らず、卑屈にもならず、ニコニコと楽しそうに、何にでも快楽を感じ取れたソクラテス。これがアリスティポスの見て取ったソクラテスでした。ここに彼は最高の
「幸福者」を見たのです。そしてアリスティポスはこれを強調したのです。
 
「快楽を楽しむ」。しかし、これは実はとんでもなく難しいことなのでした。「快楽におぼれたら」もう駄目です。「快楽の奴隷」などもはや「自由な人間」でもなくなり「幸福なる人間」とはいえない、となります。そして快楽が失われると「苦痛」を感じるだけになってしまいます。
 また、人生は苦悩と苦痛だらけです。当時のアテナイの状況だけの話ではありません。いつでもそうです。そういう中で、何にでも快楽を感じ取れる人格など、
「己を律し、自己の主体性を確立し、強靭な意志と理性を必要」とします。彼のいう快楽はそのレベルの快楽であって、今日の快楽主義とは全然違います。
 ですから彼の学派は思いがけない方向に行ってしまうのです。すなわち、「快楽」を求めます。しかし、この苦悩の人生の中で、今述べたような意味での快楽主義を確立するなど至難の技です。で、結局、「心身に苦痛のないこと」を目標にするというところまで降ろさなければならなくなる。そしてこの人生に「無関心」に生きよう、ということになってくる。そして、とどのつまり、それができなければ「死ぬがよい」という
「死の勧誘者」へとなっていってしまったのです。アリスティッポスの言う「快楽」の凄まじさが推し量れます。彼の学派は「キュレネ学派」と呼ばれます。

 さて、こうしてプラトンからアリストテレスの時代のもう一つの哲学の流れをみたわけですが、こちらの方が「より強く時代を語っている」ことはいうまでもありません。確かにプラトンの哲学も「イデア」とか「故郷への飛翔」とか、現実を影とみる考え方があります。そうしたところに「時代の反映」もあります。しかしプラトンの兄弟子たちの学派は
「直接的・実践的」でした。彼等は理論より、「実際的に良く生きる」ということを大事にしたのでしょう。この点で「両方をもっていたソクラテス」に劣る、とはいえますが、これも時代が要請したものだとの判断もできます。この上にヘレニズム・ローマ期の哲学が生じるのであって、この時代背景を抜きにはヘレニズム・ローマ期の哲学は語れないのです。

ストア学派
 ローマ時代の最大の哲学学派となる
「ストア学派」は地中海の東、中東に近い島であるキプロス島出身の「ゼノン(紀元前336〜264年)」によってはじめられますが、ゼノンはやはり「ソクラテス」にあこがれ、ついにアテナイに出てきて、ソクラテスにもっとも近い人を求めたところ「キュニコス学派のクラテス」を紹介されその弟子になりました。ですからストア派というのはキュニコス学派を母体としているのでした。
 
クラテスはみっちり彼を指導したようですが、ゼノンは結局その「犬のような」生活についていけず、やがてクラテスのもとから独立し一派を立てることとなります。
 彼はその教えを
「ストア」でなしたところから「ストア学派」と呼ばれるようになりますが、このストアとは「列柱廊」のことで、ここは人々にとっての「憩いの場所」でもあり、オープンな集会場でもあり、演説の場でもありといったような性格をもっていて、市民生活の中心となるような場所でした。こういうところを根城にしたということにもストア学派の性格はのぞいていて、「社会生活のただなかに生きる哲学」という面を語っているでしょう。実際、このストア学派からは政治的指導者や文化人が多く出てくるのです。

ストア学派の思想
 ストア学派の基本的な思想は
「不動心(アパテイア)」とか「自然と合致して生きよ」という標語で紹介されることが多いです。つまり、人間は「自然」によって生まれ、自然によって育まれている。この自然はすべてをうちに包み、すべてを生みだす一つなる「根源」であって、言い方によっては「神」でもあるが、人間はようするにこの「自然の一部」なのだから自然あるがままの姿を全うしなければならない。自然はそれ自体としては本来調和しているものであるが、人間は感情、感覚、欲望が強くなりすぎこのバランスを壊してしまう。したがって、「理性」を強く持ち、「何ものにも動かされない」強い心、「アパテイア」の心をもたなければならない。かくしてこそ、この混乱の世界を克服し、真に徳ある人間となれる、というわけです。
 アパテイアというのは
「不動心」と訳しておきましたが、欲望したり、恐怖したり、要するに心が高ぶることのない「感情に動かされない強い心」だと理解しておいていいでしょう。たしかに、人間は欲望や感情に強く動かされることで醜くなってしまいます。憎しみで動かされれば、過つこともあります。苦しみに動かされれば、混乱します。心が平静に保てれば、それらに耐えて理性的に行動できるでしょう。

 ストアの賢人達は、
「哲人皇帝マルクス・アウレリウス」がその著『自省録』で言っているように、何ものも必要とせず、何ものも欲せず、享楽のために動物や事物を犠牲にすることもなく、神々やよき人と共に同じ社会に住むに相応しく、他人を責めたり、他人に咎められたりしないような生活を求め、何事が生じようとそれは永遠の昔から自分に定められていたことであり、あらゆる事柄のあらゆる原因は永遠の昔から自分とその事柄をむすびつけていたのだ、と考え、自分を律し、苦難に耐え、おごることなく、享楽におぼれず、真剣に誠実に生きることを志し努力していたのでした。

 哲学理論としては
「論理部門」「自然部門」「倫理部門」をもっていましたが、論理部門を「畑の土地と柵」にたとえ、自然学を「樹々」にたとえ、倫理学を「果実」にたとえています。つまり論理学は「自分達の立場」を定め、他者からの攻撃から自らを守り、自然学は「世界の解釈」を、そして倫理学は「それに基づいた生き方」を述べます。
 その自然学説において、この世界を
「燃える火」にたとえ、この火の展開がこの宇宙となり、やがてこの宇宙も再び一つなる火に燃え上がり吸収される、とする終末論を持っています。こうしてこの世界は終わるのですが、火は再び展開し、新たなる世界をつくっていくことになり、こうして宇宙は永遠に展開し燃え続けることとなるのでした。     

エピクロス学派
 同じ時期に活動していたエピクロスの哲学は
「快楽主義」ということで知られています。この快楽という言葉に一般の人々はどうしても自分の思う快楽、つまり「肉体的な喜び」を思ってしまい、英語の「エピクリアン」もそういう意味です。この誤解は一般民衆の「快楽」という言葉に対する、「肉体的快楽しか考えられない品性の貧しさ」もさることながら、そうした下劣な連中が自分達を弁護するためにエピクロスを引き合いにだした、ということも原因の一つとしてあります。それはすでに当時からありました。あまりのことに論敵である筈のストア学派の人々までエピクロスを擁護し、その真意を述べてやっていたと伝えられているほどです。つまり「肉体的快楽主義ではありません」から、先入観をもたないようにしてください。
 
 この快楽主義にはアリスティッポスという先輩がいたわけですが、エピクロスは特に彼の弟子というわけではありません。しかし考え方として、その基本的な考え方は受け継いでいるようです。
「エピクロス」は紀元前342年〜271年の生涯ですのでストアのゼノンより5〜6歳年長となりますが、完全に同時代人となります。
 
エピクロスは小アジアの現在のトルコに近いサモス島生まれで、30歳ころアテナイに出てきたといわれていますから、その時には彼の哲学はできあがっていたと考えられます。ただアテナイに出てきてからはアリスティッポスのことは当然知ったことでしょうが、どんな影響を受けたかは定かではありません。  
 エピクロスはゼノンとは異なり、世間にあって実際的に哲学しながら生きるのとは逆に、自分の庭園に閉じこもり、
「静的」な生活態度を取りました。したがって、時に彼は「隠れて生きる」哲学者と言われます。
 
この態度は古代ギリシャにあっては非常に珍しい態度だと言えます。古代ギリシャ人は非常に実際的人間で、ポリス社会の中で人々と共に生きることが生の在り方、と考えていたと言えます。だからこそソクラテスは「よく生きる」ということを、「社会の中で」考えていたし、現実社会に嫌気がさしてもプラトンは、社会の在り方を終生の課題とし、『国家』とか『法律』などを主著としたのです。
 ただエピクロスの頃の時代の精神状況はもはやそうした在り方をゆるさないほどにまでになっていたのかもしれません。といって彼は一人で閉じこもったのではなく、
「学園として」であって、その中で真実の社会の実現を考えていたのかもしれません。

 彼のいう「快楽」ですが、これはアリスティッポスよりもっと
「静的」なものでした。その「快楽」は「自然が促す欲望が満足される」こと以上を意味しないのです。それはつまり、飢え、渇きといったもので、いってみれば、一切れのパン、一椀の水があればいいのです。「贅沢は最大の敵」です。なぜならそれは「結果的に最大の苦痛」をもたらすからです。現代人を見て見ればすぐ分かることです。快楽を求め、「もっと、もっと」と言い、「限りなく求め続け」、贅沢三昧をしてまだ「不満で一杯」です。不満で不満で、自然を破壊してまで快楽を求めてまだ不満で、イライラして当たり散らし、金を求めて人をだまし、下劣な快楽にうつつを抜かし、未来のこと、子孫のことなど爪の先ほどにも考えません。
 こういう在り方は
「快楽の奴隷」であって、決して「自律した、自己が確立した人間」とは言えません。「自らのみじめさ、下劣さ、愚かさ」を知らない分だけ「余計不幸」です。エピクロスはこのことをよく知っていたのです。
 人間は確かにそうした欲望をもっています。しかし、この欲望を野放しにしたら「快楽の奴隷」になってしまう。これでは真実の「快楽」とは言えない。これはどこに起因しているのかといえば
「心の弱さ、混乱」でしょう。したがって、心が乱されず平静であればこの「不幸」から逃れられます。エピクロスはそうした心を求めたのでした。この心の状態を「アタラクシア」と言います。「下劣な欲望に乱されず、死を恐れて騒がず、自由でのびのびした心」を言います。例えて見れば「晴耕雨読」の心境なのでしょうか。
 また、死の恐怖に関して、それを克服するのに
「唯物論」を利用したことがしばしば大きく取り上げられます。つまり、「死の前に死はなく、死の後に死はない」というわけでした。また、すべての苦とか悪とかは「感覚」のうちにあるわけだけれど、「死とは感覚がなくなること」を意味しているのだから同時に「一切の苦と悪から解放される」ことでもある、だからいたずらに死を怖れたりすることは無意味なことだとしていました。

懐疑派
 もう一つヘレニズム・ローマ期を代表する哲学を紹介しておきます。それは
「懐疑派」といい、この学派は「ピュロン(紀元前360〜270年)」によっておこされますが、ピュロンが問題にしたことは当時のすべての哲学者と同様「心の平安」であったと言えます。
 
その学説は一言で言えば「人は物事をこれこれと判断するが、それはそうではないこととして現れることもあり、決して普遍的にこれこれと言いうるものなどはない。それなのに人々は物事をこれこれと断定し、そして裏切られて悲しみ苦悩することになる。事物は疑わしいというのが真実のあり方だということを認識すれば心の憂いを招くことはない」といった形でまとめることができます。
 つまり整理すると、「物事は本来どのようにあるか」ということについて
「物事の本質は不確か」であり、我々はその「本質とやらを把握することはできない」となり、従って「我々はすべての事物について判断をしてはならない」となり、そうすれば「われわれの心は平静を得られる」という順序になります。ですから我々は何についても「肯定・否定」をしてはならず、何ごとについても「判断を中止し(これを通常エポケーといいます)、沈黙すべき」となります。
 もちろんここでの事物というのは自然科学の対象をいっているわけではなく、倫理的・美的・感覚対象を意味します。彼の問題は
「如何に生きるべきか」というところにあり、自然科学的現象の法則にあるわけではないからです。端的に言えば問題は「善・悪、正・不正、美・醜、快・不快」といったところにあります。「心」が苦しめられるのはこうした問題のところにあるからです。
 またこの懐疑論は「すべては疑わしいのが真理である」というように受け取ってはなりません。それでは「一つの真理」があるということになってしまい、それを「独断的」に表明しているということになってしまうからです。そうではなく
「真理があるともないとも判断しない」ということなのであり、事物は一つの姿を示しているのだけれど「それが真実」と断定することに間違いが生ずるというのであり、すべては相対的に流動的にあるのだから制止的に断定・判断するなというわけでした。
 
もちろん現実的な生の場面では一つの生き方を「選択」しているのであってここに一つの判断があるということは言えます。つまりこの懐疑論というのは目的なのではなく、心の平静を得るための手段とも言えるのであって、実際この派の人々は高潔で気高い生き方をしていたことが伝えられています。
 イメージとしては日本の禅の高僧をイメージすれば良く、彼らは事物の実相を「
空ないし無(それ自体として存在している実体というものはない、すべてはすべてに依ってあり相対的・流動体としてある、といった思想)」と捕らえていたわけですが、この「空とか無」とかいうのがこの懐疑派のいう「エポケー」に相当するともいえるのでした。

 以上の哲学は
「時代の要請したもの」とも言えます。ただ、「哲学とは人生の形成論」であったという「ソクラテスの精神」はより強く彼らに受け継がれていたという評価はしておかなければなりません。

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