17.哲学入門、哲学的に物事を考えるとは〜西洋哲学史を巡って〜 - 5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

17.「哲学」の一般的な用法と本来の用法
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INDEX
1. 「哲学」の一般的な用法と本来の用法
2. 学問の発祥、「自然哲学者」の誕生
3. 哲学の始祖、「ソクラテス」
4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」
6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」
7. 中世キリスト教神学、「アウグスティヌス」の場合
8. 近代哲学の祖、「デカルト」の思考法と「スピノザ」
9. もう一つの近代哲学の流れ、「ロックとイギリス経験論」
10. 近代哲学の集大成、「カント」の批判哲学とは
11. カントを引き継いだ「ドイツ観念論」
12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」
13. 生と死を見つめた憂愁の哲学者、「キェルケゴール」
14. 近代唯物論哲学の巨星、「マルクス」
15. 生の徹底的肯定者、「ニーチェ」の場合
16. 現実に生きている人間の立場、実存主義の「サルトル」
17. 20世紀の哲学の外観
18. 西洋哲学史概略

5.

学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」


アリストテレス
 前回のテーマであった「プラトン」の弟子として
「アリストテレス」がもっとも有名で重要な哲学者となります。一般的には「学の体系化」ということを史上初めて成し遂げた哲学者として紹介されます。アリストテレスの哲学は、プラトンと並んで「哲学史」の中核となっています。
 
アリストテレスは紀元前384年〜322年の人なので、したがってプラトンと43歳くらいの年下ということになります。奇しくもソクラテス、プラトン、アリストテレスは夫々43歳くらいずつの年齢差ということになります。
 アリストテレスはギリシャ北方スタゲイラに生まれました。父は、後にアレクサンドロス大王を生み出す
「マケドニア王家」の侍医であり、このことはアリストテレスの生涯、学問傾向にとって重大な影響を与えることになります。アリストテレス自身やがて「アレクサンドロス大王の家庭教師」となってみっちり学問を仕込み、それが「稀代の大王アレクサンドロス」を育成することになるのでした。

アリストテレスの学の体系
 アリストテレスの学問傾向としては、「医家」の子として初めから
「生物学的志向」が強く、これは彼の思考方法を決定的にしています。
 アリストテレスの哲学は多岐にわたり、それが体系化されていることに最大の特徴があり、広範な領域の学の分類と、緻密な観察に基づく理論体系が特質であって、結果的に
「学問の祖」といわれるような在り方を示したのでした。アリストテレスにおいては、「哲学」とは「学問」と同じ意味だったのです。これをバラバラにしてしまったのは「近代」のことであり、そこには長所も短所もあるのですが、現代では「短所」が目立つようになっています。私達は「学問はすべて連動して一つであった」ということをしっかり思い出し新たな学問の構築へと向かわなければならない時期にきているとも言えます。
 
それはともかく、彼の著作は今日残っている著作集によると(若い頃の作品は散逸して一部しか残っていない)次のように整理できます。
1、論理学書………… 学問的考察の方法論としての「論理」についての著作
カテゴリー論、命題論、分析論前書、分析論後書、トピカ、詭弁論駁論
2、生物学書………… 主に動物に関する書
動物誌、動物部分論、動物運動論、動物進行論、動物発生論
3、医学書…………… 人体に関するもの、心理・感情、医学的内容
気息について、自然学小論集、(自然学的)問題集
4、天文・気象学
天体論、宇宙論、気象論
5、自然学書………… 存在の基本である自然的存在物の基本構造について
自然学(あえて言うと今日の物理学に相当)、生成消滅論
6、心理学書………… 生物の生物的原理についての書、人間については心理学に相当
霊魂論
7、存在論…………… 自然学の後におかれる書。「存在そのものの原理」についての書。
形而上学
8、倫理学書………… 社会のなかでの人間の行為の在り方
ニコマコス倫理学、エウデモス倫理学、大道徳学
9、政治、経済学書… 倫理学に連なる書。ならびに各論。
政治学、アテナイ人の国制、経済学
10、弁論術書
弁論術、アレクサンドロスに贈る弁論術(ただし偽作)
11、演劇論
詩学
12、その他
小品集、断片集

 こうしてみると大半が今日的に言えば
「自然科学的著作」であることが理解されるでしょう。しかしこれらはすべて「哲学の書」だということに注意してください。繰り返しますが、「人間から自然を切り離して」しかも「バラバラに」してしまったのは「近代」のことなのです。本来「人間も自然も一つ」だったのです。だからアリストテレスは「人間の基盤としての自然」を問題にしていたのでした。自然を問うとは「人間を問う」ことと同じだったのであり、間違っても「自然はただの物体で、人間は自然を支配し人間の役に立たせる」などといった近代的自然観などありませんでした。
 他方、すべての存在を
「類別している」ということも読み取れます。アリストテレスの学の方法論というのは、まず「一つ一つの現象を緻密に観察し、それらを類別し、それぞれの性格を分析し、そうして問題を明らかにしていく」といった形だったからです。

アリストテレスの全面的紹介は、今示したように彼の業績が多岐にわたるため「一冊の本」を必要としてしまいますが、ここではプラトンを引き継ぐような形でその「存在についての考え方」「人間の生き方としての倫理学」に限定して紹介します。

何故「自然」が課題とされたか
 しかし、それにしても、ソクラテスの場合「哲学」とは「よく生きることについての知の愛し求め」であった筈で「人間の生き方」が問題ではなかったのか、どうしてアリストテレスの場合「自然的存在物」ばかりが問題とされているのか、といぶかるかもしれません。
 答えですが、ギリシャ人の場合、全存在は
「同じ元のもの」から出来上がっているというのが神話時代からの思考法だったからです。言い方を変えると、「人間に働いている宇宙摂理」「どんな小さな自然物にも働いている」のであって、全存在は「同じ原理を内に持っている」のです。だとしたなら、人間のことが問題だとしても、「原理そのもの」が問題となる限り、その原理をもつ「全自然」をみなければ、その原理はよく理解はできないということになります。
 ソクラテスの問いというのは、必然的に
「全存在の原理」を問題にせざるをえない問題だったということで、それがアリストテレスにおいて明らかにされているということです。
 実際、こういう脈絡で師匠のプラトンも問題を宇宙的規模にまでひろげて考察を深めていったのですが、このときプラトンはその宇宙を「イデア的宇宙」にしたのでした。しかし、アリストテレスにとっては
「この宇宙とは自然的なもの」以外にはなかったのです。それゆえにアリストテレスは、ちょうどプラトンがイデア的世界にこだわったのと同じような態度で「この自然にこだわった」のです。こういった脈絡で彼の場合「自然」が問題にされているのです。それゆえ、多岐にわたると見えるその対象も実は「すべて連なっている」のであって、自然学も生物学も天文・気象も人体・医学・心理学もすべて密接につながっているのです。『形而上学』というのも本来の意味は『自然学の後におかれたもの(メタ・タ・フィジカ)』という意味なのであって、自然的存在物の考察すべての「総括」といった位置にあるものなのでした。

アリストテレスの存在の捕らえ方
 アリストテレスはよく
「プラトンと正反対」と紹介されることがあります。これは事物を考える時、「超越的本質」の視点で考えるか「現実的個物」で考えるかという視点で対比させた時の言葉でこの限りでは反対と言えます。
 ただし、それは
「プラトンの思考の展開」という内容をもち、プラトンとは全く発想法も違う、という意味ではありません。ただ、アリストテレスの思考法には「小難しい」と思う人が多いようです。じっくり議論を追っていくことが必要です。
 取りあえず、プラトンの発展とは何であったかというと、プラトンの
「イデア」がある意味で「超越的」であったのを「事物のうち」にもってきてしまい、ようするに「内在」させた、ということで一言に言えます。ということは、イデアを、たとえばニワトリならニワトリの「種という概念(類とか種の「種」です)」にしてしまった、と考えるとわかりやすいかもしれません。

 どういうことかというと、現実のニワトリは個々みな異なっているわけですが、みんな「ニワトリ」という
「種」を持っており、どんな変わり者も「アヒル」とは呼ばれません。
 さて、卵からニワトリが生まれます。この卵は、はじめから
「ニワトリになる可能性」を持っていて、それ以外のものになる可能性は持っていません。どうしてこういうことになるのか。プラトンの場合は、「卵とニワトリ」なんぞという事物の関係はさておいて、ニワトリは「ニワトリのイデアに参与」することでニワトリになっていたのですが、アリストテレスは、この卵のうちにニワトリが「可能的に」「内在」していたのだ、と考えたのです。これは「個物」に視点をおき、その個物の特質を個々の個物に共通の「種」とする考え方だと言って良いでしょう。
 今、「ニワトリという形がすでに卵のうちにあった」と言いましたが、この
「形」のことをアリストテレスは「エイドス(これを「形相」と訳しています)」と呼んでいます。先生のプラトンあるいは大先生ソクラテスの用語そのままですが、それはどのようなものでしょうか。

「可能態から現実態」
 さて、卵という
「ニワトリの材料」は(「材料」とは「ヒュレー」という原語ですが、日本では「質料」と訳しています)、何らかの「形相(つまり「エイドス」ですが、これは「物事をそういう形とする原因」であり、ある意味でプラトンの「イデア」を引き継いでいます)」を内に宿しており、そしてその質料の内なる形相は「可能態」から「現実態」へと移行していくのだということになります。
 ではどんな具合に
「材料・質料は形相を実現させていこう」とするのか。さて、ものごとが生じてくるためには「原因」が必要です。雨で言えば、先ず「材料」となる水蒸気がなければなりません。次に、それが冷やされるという「作用」がなければなりません。そしてさらに、雨という「形」がなければなりません。ニワトリの場合でも、卵という「材料」があって、暖められるという「作用」があって、ニワトリという「形」が必要なのと同じです。こうして三つの原因があげられましたが、しかし、これは「何のため」なのでしょう。例えば、彫刻家が「ヴィーナス像」をつくるとして、彼は何のために像をつくるのでしょう。それはたとえば「奉納するため、とか飾りにするため」とかの目的のことです。その「目的」がなければ、彼は像をつくりませんから、像はでき上がってこないでしょう。同じように、事物が出来上がってくるのには「目的」がある筈なのです。

「四つの原因」
 このように原因には
「材料(質料)」「作用(運動)」「形(形相)」「目的」の四つがあって、これらが全部そろってはじめて事物は生じてくるとなります。
 これは人間のつくる「物、たとえばヴィーナス像」なら分かりやすいですが、しかしこれと同じことは自然世界にもあると考えられているのです。自然は無駄には何もつくらないし、かといって「ただの物体の機械的運動」でもないと考えられているのです。なぜならもしそうだとしたらこの
「自然そのものに意味はなくなり」その中にある「人間も意味がないもの」となり、生きることにも意味はなくなり、「善だの悪だの正義・不正義」とさわぐのも馬鹿らしいことになるからです。
 ということは、自然そのものに
「意図」「目的」があることになります。これはすでにプラトンも問題にしています。つまりプラトンの場合だとすべての事物はそれが「よい」と言われるその在り方を目指して存在しているのです。「よさ」はイデアにあります。すべてのイデアは「善のイデア」に統括されているのです。こうして事物はイデアを「あこがれて」存在し、そのイデアになろうとしている限りにおいて「善」をめざしていることになり、「世界が完成」していく、といった具合です。
 アリストテレスもこの考えを受け継いでいます。つまり、雨が降るのはたとえば大地をうるおし気候を整え動物・植物を育む等々のためであり、それはそうすることで
「自然世界が自然世界として成立する」からです。つまり、あらゆるものは「何か」のためにあり、巡り巡って自然世界全体が完結するのです。この構造はもう少し後で示します。
 ともかく、こうして事物の存在の原因として四つがいわれることになりました。まとめると、材料としての
「質料」、作用としての「運動」、できあがるべき「形」、そして「目的」です。もっとも、「形」というのは、ようするに「目的」であり、「目的」というのは「形」を実現することですから、これらはある意味で一緒になってきます。また、運動というのも、その「目的」たる「形」をめざすということで発動されるのですから、これもその「目的」「形」と一緒になってきます。ですから、大事なのは「質料」「形相ないし目的」ということになります。
 
ちなみに、話しをソクラテス以前の自然学者に返すと、アリストテレスに言わせると彼らはこの「質料」や「運動」、あるいは目指さるべき「形」などについて議論していた、という評価になるのです。その限りで彼らも「フィロソフィア」をしていたといえるだろうとアリストテレスは言ったのでした。

カテゴリー
 こうした考えは勿論「事物」の緻密な観察、分析に基づいています。彼は事物の存在の在り方もただ漠然と「在る」などとはしませんでした。事物はある「個体」について、白いとか黒いとかの
「性質」、30センチとかいった「量」、どこそこにいるといった「場所」そのほか、「何時」とか、「何をしている」、とか「どんな目にあっている」とか、「どんな状態」とか、そんな具合に10の在り方(これを「カテゴリー」と呼びます)に区分して考えています。
 そういう緻密さと、イデアを事物に内在させたような
「事物中心」のものの考え方がアリストテレスの特徴と言えるでしょう。この「事物中心」の考え方が、「超越的イデア」を中心とするプラトンと「正反対だ」と言われるわけです。

自然は目的に向かっている
 さて、その事物中心の彼の世界についての考え方はどんなものであったか、といいますと、一口で
「はしご、ないし階段的構造」だと言えます。つまり下のものは、上のものになろうとしている、と考えられています。断絶はありません。「自然は一つ」なのです。
 ニワトリの例で「はしご・階段」を説明してみますと、ニワトリは卵(ニワトリの材料・質料)の「形相」です。しかし、このニワトリは同時にフライド・チキンの材料(質料)となっています。フライド・チキンはニワトリという「質料」の「形相」なのです。さらに、フライド・チキンは人間の「血・肉」の材料(質料)となります。物事はこのように、何かの
「形相であると同時に、何かの質料」なのです。
 勿論、人間の目にこの関係がよく見えないものもたくさんあるでしょうが、自然世界は連なっているのですから、何らかのつながりの「仕方」というものがある筈です。そのつながりの仕方をアリストテレスはこのように見たのです。しかし、こういう
「つながり」を起こすものがなければならない筈で、また何時までたってもこのつながりが終わらない、では困ります。ここにアリストテレスは「第一の運動を起こすもの、および、最後の形相」をいわなくてはならなくなります。勿論、同時に、「もう決して何かの形相ではない、ただの質料」もいわなくてはなりません。

最終目的
 この
「最後の形相」というのは、もう決して他の物の「質料」になることのない「純粋の」形相です。で、結局、あらゆる事物はこれを目指しているということになるわけで、そういう意味でこれはすべてのものを動かしている「第一の起動者」ということになり、したがって、この自然世界のこういう「つながり」の在り方をつくりあげた「張本人」ということになるわけです。これはもう自然世界の中に探せませんからアリストテレスは「神」などとも呼んでいます。これは「完全そのもの」「善そのもの」であって、すべての事物はこれを目指して生まれ成長していくのだ、というわけです。それを目指していくことが事物の存在理由なのです。そうしてこそ自然全体が完成するからです。ここも、すべてはイデアをあこがれ存在している、としたプラトンを引き継いでいます。

倫理学
 世界がこんな具合に考えられているわけですから、人間のことにしても同じで、存在の階段で言えば、
「人間は、動物の上にいて神の下」にいることになります。そして、人間に自然的に与えられているあらゆる能力が発揮されて神に向かって行っていれば、その人は「善く」、したがって「幸福」ということになります。具体的にはどういうことになるでしょう。
 
通常、人は幸福を「快楽」に求めているようです。そのために金を求めます。確かに、色々な物に不足してヒーヒーいっていては「幸福」とは言えないかもしれません。災害や病気に苦しんでいても幸福には具合が悪そうです。しかし、それらが満足されれば「幸福」なのでしょうか。どうも人はこれだけでは「だめ」なようです。
 つまり、一方で人間は金をかけても、人に知られなくても、いろいろ
「自分を磨こう」とします。これは「何かの功利のため」というものではありません。ただ、その人の「人としての在り方を磨いている」だけのことです。しかし、ここに人は満足を覚え、また、あるいはその人は一層の尊敬を得たりします。もっとも、そのために磨いたというわけではないのですが、そう評価されてくるわけです。人は、どういうわけか、自分では「金」を一番大事にするくせに、金を儲けた人を尊敬するということは決してなく、むしろ、「人間を磨いている人」をやっぱり尊敬してしまうのです。何とはなく、それが「人間にはもっとも大事」なことだということをうすうすながら知っているからです。

 こんなわけで、人の幸福には
「生命的・生物的満足」「社会的な、徳的な生活」「精神的・理性的・知性的」な在り方と三つが実現してこなければならないとなります。これは人間にある様々の能力、「生命的、成長的能力」「感覚的、欲望的能力」そして「徳的な能力」さらに「理性的、知性的能力」が開化した状態であることはいうまでもありません。しかもこれは「階段的」です。つまり、「感覚・欲望はすべての生物が持って」います。ところが「徳的な能力は人間だけ」です。さらに「完全な理性」となると神様だけです。もちろん人間もそれに与っては居ますが「不完全」です。これがより花開けば人間は「神に近い」と言えるでしょう。人間はそうして「人間だけの能力、徳的な能力」を発揮し、そして持ち物としては「より少ない理性」を「より多く持つことができるようにしよう」と生きていきます。それが人間の存在の意味だと考えられるからです。「欲望」にまみれていては「動物」に成り下がってしまうわけです。
 要するに、人間の能力の中で
「人間固有のものとしてもっとも人間的な能力」、つまり一番「神」に近い能力は「理性」だということになりますから、理性が花咲いているのが一番優れていて、一番幸福だということになります。つまり、理性が真理を知って、それを見て喜ぶ在り方で、これを「観想的生活」などと呼んでいます。

人間は社会的生物である
 ただし、これはまあ「理屈の上」ということで、実際にはアリストテレスは
「人間は社会的動物である」として、その社会において求められる「徳的な生活」に一番力点をおいて人間の在り方と幸福を語ってきます。
 そこで展開されるのが
「中間」というありかたで、これはさまざまの条件下における要求される行為の在り方で、「バランス」「調和」と考えると分かりやすいでしょう。つまり、勇気ということだったら、「蛮勇・猪突猛進」になってはこれは「バカ」と言われるだけになり、逃げてばっかりでは「臆病、卑怯者」になってしまいます。そこで、その「中間」を求めなければならない、ということになるわけです。この時、その状況によってその「中間」は異なってきます。たとえば、暴漢が暴れているという時、か弱い女の子が立ち向かって行くのは猪突猛進であり感心しません。かえって厄介なことになってしまいます。彼女に要求されるのは警官を呼びに走ることくらいです。しかし、この場に屈強な警官がいたとして、彼が怖がって他の警官を呼びに走ったとなるとこれは困りものです。万事につけてそうです。ですから「中間・バランス」を求めるのは結構難しい。そこでアリストテレスは、人が「つい陥りやすい傾向の逆のほうに自分を向けたら」、などとアドバイスしてきます。「事実」を重視するアリストテレスですから、彼の倫理学はかなり現実的です。


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