17.哲学入門、哲学的に物事を考えるとは〜西洋哲学史を巡って〜 - 4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

17.「哲学」の一般的な用法と本来の用法
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INDEX
1. 「哲学」の一般的な用法と本来の用法
2. 学問の発祥、「自然哲学者」の誕生
3. 哲学の始祖、「ソクラテス」
4. 師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
5. 学問・哲学の体系を形成した「アリストテレス」
6. 「ソクラテスの弟子たち」と「ローマ期の哲学」
7. 中世キリスト教神学、「アウグスティヌス」の場合
8. 近代哲学の祖、「デカルト」の思考法と「スピノザ」
9. もう一つの近代哲学の流れ、「ロックとイギリス経験論」
10. 近代哲学の集大成、「カント」の批判哲学とは
11. カントを引き継いだ「ドイツ観念論」
12. ドイツ観念論の行き着いた先「ヘーゲル」
13. 生と死を見つめた憂愁の哲学者、「キェルケゴール」
14. 近代唯物論哲学の巨星、「マルクス」
15. 生の徹底的肯定者、「ニーチェ」の場合
16. 現実に生きている人間の立場、実存主義の「サルトル」
17. 20世紀の哲学の外観
18. 西洋哲学史概略

4.

師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」


はじめに
 ソクラテスには多くの弟子がおり、そうした人達の中で際だった人達は後にそれぞれ一派を立てていきますが、いずれもソクラテスの精神を受け継ごうとした点では変わりません。
「プラトン」もそのうちの一人でもっとも若い弟子といえました。そして他の兄弟子たちは実践的であったのに対してプラトンは「ソクラテスの問題そのもの」をより精緻により深く掘り下げていったと言えるでしょう。

プラトンの年齢は、紀元前427年〜347年と計算されており、したがってソクラテスとは43歳くらいの年の差があり、ソクラテスが死んだ年には28〜9歳であったと計算されます。

プラトンの対話篇
 ソクラテスは人と人との
「具体的対話」を大事にしたので「書物」という形で自分の考えを残しませんでした。かわりにプラトンが師匠のソクラテスを主人公として「対話篇」という形でその考えを残してくれました。プラトン自身も「対話」のみが真実を明らかにしてくる、というソクラテスの考えをうけついでいたので「対話編」としたのです。ソクラテスが死んでしまった今となっては、そのままにしていたら「ソクラテスの思想」を伝えていくことができません。文字は「直接的な言葉による対話」とはかなり質が落ちて「二次的」なものではあるけれど、伝えないよりはましです。こうしてプラトンは師の思想を残そうとしたのです。
 もっとも、そうしているうちに自分の思想がどんどん成長していって、師匠の
「ソクラテスを超えていった」ということがあります。プラトンの著作にはそうした性格があります。つまり、段々「プラトンの哲学」になってしまっています。そこで、学問的にはプラトンの著作を「初期、中期、後期」とわけ、「初期はソクラテス的」、「中期はプラトンによるその発展」、「後期はそれに対する自分自身による批判・検証」と大別しています。

プラトンの問題
 プラトンの問題のテーマはソクラテスそのままです。つまり
「真実の正しさ、よさ、うるわしさ」とは何か、ということです。ソクラテスはそれについてソフィストのように「人間のとりきめ」などとは考えず「真実」はあるのだ、と考えました。ただ、それが「非常にうすぼんやり」としか人には知られないので、ああだこうだと異なったり、変動したり、恣意的に見えたりするのだ、と考えたわけでした。
 ところが、その「真実」はこの現実世界のどこをさがしてもありはしない。現実世界は確かにソフィスト達がいうように「流動し、不確か」です。しかし、やはり、何にせよさまざまの形をしていてもそれらに共通して
「同じ現象と判断しているもの(たとえば「正しい」としてみましょう)」ということがあるのだとすると、それはすべての正しい物事に「共通の何かある一つの正しさの型」があって、それに則ってそう判断しているのでなければならない、そうでなければ、それは「正しい」とはよばれることはあり得ないからだ、とソクラテスは考えたのでした。
 この
「共通な、ある一つの型」にたいしてソクラテスは「イデア」とか「エイドス」とかの名前を与えました。二つとも「姿、形」という意味です。これはそのままソクラテスの弟子の「プラトン」やまたさらにその弟子の「アリストテレス」に引き継がれていく用語となりました。私達としては「型」とやっておくと分かりやすいかもしれません。

イデア
 プラトンはこのソクラテスの考え方をそっくりそのまま受け継ぎます。こうしていわゆる、有名な
「イデア論」が構築されていきます。このイデア論をどう理解しておけばいいかということですが、現代の日本の私達にも分かりやすく譬えを使いますと、「タイ焼き」を思い浮かべてください。たくさんのタイ焼きはどれも似た形はしていますが、アンコが多いの少ないの、黒く焼けたの白っぽいのみんな微妙に異なっています。しかし、みんなタイ焼きであって決して「大判焼き」とは呼ばれません。何故でしょう。それはみんな「タイ焼きの一つの型」でつくられているからです。
 今目の前にあるたくさんのタイ焼きは個々異なり、流動的です。つくられて、存在したかと思うとすぐ食べられてなくなってしまいます。しかし、型の方は食べられてなくなるなどということはありません。すべてのタイ焼きに
「普遍的」で、個々のタイ焼きのように変化することもなく「不動で」、また、ずっと同じままで鯛焼きの個々のものに比べれば「永遠的」とも言えます。
 また、「型」の方は「味」もなければ「色」もありません。タイ焼きの在り方とは全然違うのです。でもこれがタイ焼きの
「原因」であり、「型を与えるもの」です。こんな具合にイデアは個々のたくさんの事物に対して、「一つなる原因・根拠」としてあり、「普遍、不動、永遠」なるものという性格を持っています。こういう「イデア」に則ってこの地上の事物はあると考えたのでした。
 「タイ焼き」のたとえは具体的にものですからイメージだけしか理解できませんが、前回見たソクラテスの見いだした「
普遍(個々異なるすべての現象物に対して、それらを一つとして認識させる共通のもの)」という考え方は、こうしてプラトンによって「イデア」という回答に至ったわけですが、これはさらに「実体(他の何かによって存在しているのではなく、自分自身が原因で自分自身によって存在しているもの)」といったところにまでいきます。これ以降、現代にまで及んでくる「本質」とか「実体」とかの考え方の「史上初の理論」が形成されたのでした。だからプラトンのイデア論というのは有名になっているわけです。

イデアの働き
 ではこの「イデア」はどんな働きをしているのでしょうか。答えですが、このイデアは個々バラバラのものを、バラバラであるにもかかわらず、ある一つの「共通の」名で呼ばしめる
「規準」と考えてもいいし「範型」と考えてもいいです。当然、イデアは「物質的性格」を何ひとつ持っていません。何故なら、「物」というのは多であって、一つ一つバラバラで、生成してきてそして消滅します。こんなものの一つが「全ての物」を規定するものになるわけもないです。たとえば「美しいバラ」が、全ての美しいものの規準になるわけもないのとおなじです。
 そういうわけで、このイデアは例で言えば「すべての美しい物」に
「共通する一」であり、生成とか消滅したりするものではなく、言って見れば「永遠」なるもので、「色」とか「形」とか、要するに「物質にある性質」は何も持たないのです。
 「こうしたものがない」とすると、何故たとえば「美しい」少女も、花も星も、夕焼けも、鳥の声も、音楽も、みんな全然違うものなのに、同じように「美しい」と言われるのかの説明もできないのです。プラトンに言わせると、これらはある一つの
「美の基準・範型」に照らして、それぞれ現象のあり方は異なるけれど「いずれも美の基準・範型にあっている」ということで「美しい」と呼ばれるのだ、となります。
 また
「美の比較」も同じように説明されます。例えば、「この少女は美しい」と思ったとする。しかし、また違った少女を見た時「もっと美しい」と思ったとする。ところがまた他の少女を見た時「更にもっと美しい」と思ったとしましょう。何故こんなことが可能だったのでしょうか。これはこの少女達とは「別」「美の規準」があって、これに照らして我々は、「第一の少女は美しい」と判断したのだけれど、しかし「第二の少女はこの規準にもっと近い」ということで「もっと美しい」といったのであり、第三の少女は一番規準に近いということで「さらにもっと美しい」と判断された、というわけです。
 ここでの
「規準・範型」のことをプラトンは「イデア」と名付けたわけで、これによってはじめて「他として多であり異なっているこの地上世界の在り方」が説明されたのです。
 しかし、今も言ったようにこんなものが「この地上世界」にあるわけもない。言ってみれば、心(魂)が見るものとでもいいようがないですが、残念ながら我々の心は曇っているから「よく見えない」。だから私達はいつも間違えたり独り善がりの考え方をしてしまうわけです。そこでプラトンはこうした
「イデアの世界」を想定して、それへの接近を「哲学の道」としたのでした。

ヌース(理性・知性)
 それではそのイデアはどのようにして見いだされていくのでしょうか。そんな「イデア」なんて感覚によって見ることも触ることもできません。しかし我々は見ることも触ることもできないものについての「知」も持っているのです。たとえば、「位置だけあって大きさを持たないもの」などがそうですが、そんなものこの地上世界にあるわけありません。しかし我々はそれを知っています。「点」です。また、完全なる「円」などというものが具体物として地上世界に存在しているわけがないのも知っています。でもそれについて幾何学という「知」が成立しているわけです。これらの「知」は
「理性・知性」に基づいています。そこで、同じように「見えないイデア」についても理性で迫っていったら、「知」に至れるのではないか、プラトンはそんな風に考えたのです。
 
しかし、なぜこのヌースは、ないし人間は、そんな真実を知れるのだろう。それについてプラトンは興味深い「人間」についての考えを示しています。

魂の三部分説
 それは
「人間の心を三つの要素」に分けてかんがえる考え方であり、これは「人間精神のあり方を本格的に考えた史上最初の理論」となります。もちろん現代の心理学から見ると単純でしょうけれど、このあり方はたとえれば飛行機を発明したライト兄弟を思えばいいでしょう。現代の航空理論からすればライト兄弟の飛行機なんておもちゃみたいなものです。しかし、ライト兄弟が居なければ「現代の飛行機」は存在しなかったのです。ライト兄弟の飛行機から発展して現代の宇宙ロケットが生まれてきたのです。同じように、プラトンの「魂論」があって始めて今日の心理学・精神医学へと進歩してきたのです。
 さて、その「魂論」ですが、それは人間の心(魂)を
「感覚・感情的働き」「恥とか優しさ、勇気、公平・心の広さ、友情などといった心の働き」そして三つ目に「思惟し、判断し決断する心」を分けて考察したものでした。プラトンはこうした人間の心の在り方全体を「プシューケー」とよびました。日本では一般に「魂」と訳しています。分かり易くは「人間の精神とか心」というニュアンスで捕らえておいていいです。そしてさらに上にみられる三つの働きについてそれぞれの働きをくわしく考察しました。

 心の発動として最初に出てくるのは
「生物的な感覚的・感情的な働き」で人間は先ずこの働きで動こうとします。動物はこのレベルだけの動きしかしません。
 人間もこれが心の動きの最初ですけれど、しかし多くの人間はこれだけでは動きません。第二の心の働きとして、
「恥の心」「勇気やいたわりの心」でその感覚や感情を押さえて行動に移る、ということもあります。これを取りあえず「美的感覚の心」あるいは「気概・徳性」としておきましょう。
 さらに、第三の心の働きとして、人間は
「これが正しい」「これが善だ」と考えて「恥を忍んで行動する」「他人からどう思われようと正しい行動をしよう」とする心もあります。これは「思考、判断、意志の心」となるでしょう。このように人間の心は複雑です。しかし、一番大事なのは三番目の「思考、判断、意志」といった働きです。これが「正しい」とか「善」であるということを見て、「感覚・欲望」をコントロールし、「優しさや恥じの心」が「良い形」で発動されるようにしてくるからです。プラトンはこの三番目の働きを「ヌース(理性とか知性とか訳している)」と呼びました。
 そして、この「ヌース」は「身体」とは全く異なった原理のものとして、身体的でないものにかかわるとしたのです。つまりたとえば
「神」を考え、神とかかわれるのもこうした「物体ではない人間本体」のところでである、ということになります。
 我々が、先に例を挙げておいたように、現象世界には存在しない「点(「位置だけあって大きさがない」という定義ですから、こんなもの現実世界にはあり得ません)や完全なる円(大きさを持つ限りそれは「完全」とはなりません)」を知っているのもこのヌースにおいてなのです。現象世界は物体の世界です。ここは流動し個々バラバラで「真実」を示してきませんが、その
「現象世界を通してこのヌースは真実を見る」ことができるのです。プラトンはこんな風に考えました。
 ということは「イデア」はこの
「ヌース」がかかわりヌースが捕らえてくるものということになります。従って我々はこのヌースを磨いていかなければならないということになってくるわけでした。
 以上のような「魂の働き」をプラトンは
「人間そのもの、人間本体」といった意味でつかうようになります。これは譬えとして現代風に説明してみると「自動車と運転手」とたとえればわかり易いかもしれません。向こうを走っているのは「自動車」です。私達は「車という外観」を見ています。制限速度をはるかに越えてぶっ飛ばしている車、右に左にハンドルを切って乱暴に車線を変えてる車、緩やかに上品に走っている車、いろいろです。でもそれは「運転手」が動かしているのです。運転手の性格が車に表れているわけです。
 同じように、私達は「身体」において動いているのですが、それを動かしているのは
「三つの部分から成り立っている魂」だ、というわけです。私達の行動、態度、身体の現れ、服装などは「魂が決めている」のであって「身体そのもの」が決めているわけではありません。ですから、私達は何よりも「魂」を大事にし、「魂をより美しく」していかなければならない、となるわけでした。

国家篇の問題
 プラトンは以上のように「イデア論」や「魂論」で有名ですがもう一つ「国家」についての思考でも有名となっています。もちろん
「国家について論じた史上初めてのもの」になり、「国家・政治論の原点」となりました。
 ところでこの著作に示される国家像はしばしば「理想国家」であるとされます。しかし理想という意味を「現実的に実現さるべき理想」と理解してしまいますと、とんでもないことになってしまいます。確かに議論の上では「実現可能」だとか言われ、さまざまな国政の比較なんかやるものですからつい騙されてしまいますが、プラトンの著作は「対話編」であり「芝居の脚本」みたいなものですから
「対話の上でのさまざまの論の交叉」があり、時には「自説の反対の論」なども出てきてしまいます。本当の所はこの書の内容は全く「非現実」的なものだということを良く理解しておいてください。
 要するに、ここの「国家論」は全く
「理屈だけ」で考えているものです。そうすることで「現実が見えてくる」からです。つまり、ここでの論は、「人間感情・心理や社会習慣、思いこみ」などを一度全部投げ捨てて、純粋に「理性だけによった理論」として見ようとしています。そこにおいて「感情や習慣」に支配されている人間社会の現実や矛盾が露呈されてくるからです。そういう意味では「思考実験的な性格」を持っているのです。
 たとえば、
「同じ理性を持つ者である限りでの男女平等論」などがあるのですが、これなどは、人間ないし社会の「女は劣等という思いこみ」の矛盾を見事に露呈させています。また人間感情を投げ捨てている条件下での論として(動物の飼育で行われている)「女性・子供の共有論」「優者優先論」などは、人間社会が決して「理性だけで人工的に形成されるものではない」ということを見事に指摘しているわけです。あるいはまた「扇情的な音楽や演劇の排撃」なども展開されます。これも人間の「感情」の上に成立している現実社会のあり方を良く見せてくるわけです。

 つまり、プラトンは人間に「不正」が生じることの原因を探ろうとするのですが、その時、個人としての人間と
「おおきな人間としての国家」を平行させて議論を進めていきます。ここでの論は人間と社会を対応させて、先の魂論で示された人間の「理性」「気概・徳性」「欲望」を社会の階層「指導層」「戦士階級」「商人階級」に当てはめて社会・国家のあり方をみていくものであり、ここに「理性が支配する人間」のありかたを「哲人王(つまり、ここでの「王」とは「理性」のこと)に支配される社会」の思想などとして見ていこうとするのです。
 大事なので繰り返しますが、現実の人間や国家は欲望が渦巻きゴチャゴチャだからそのままでは議論も混乱しています。だから、そうした混乱のもとである「感情や欲望」をきりすて、全く
「理性」だけで物事を見ていこうとしたのです。そうすれば、ともかく「理屈の上」ではどういうことになるのかということは見えてきます。そうすればまた現実のゴャゴチャも見えてくるだろう、ということです。
 今いったように、ここでは、
「論の上で」不正を生じさせる元凶となる「欲望・感情・感覚」は全くマイナスの要因とされて排除されてしまいます。したがって、欲望・感情・感覚にかかわるすべての事柄は排除されることになるのです。たとえばお芝居だの音楽だの物語だのは「善」を言わない限り全部だめです。こうしてプラトンはともかく「理性」に合致するものだけで「国家」を考えていこうとするのです。ですからこんなものが「現実」に実現されるわけもありません。実現したらそれはもはや「人間」の国ではなくなり「天使の国」になる、そうした意味での「理想」なのです。

 二点目に注意しなければならないことは、この「国家」というのは今日のごとき広大な領域をもった「国家」を意味しないということです。当時の国家とは、つまりポリスですが、今日でいえば、人口が数万、大きくても数十万クラスの、ようするに
「町」です。しかも、大人はほとんどの人が全員「兵士」として戦友であるし、日常的にも何らかのことでいっしょに仕事をしたり議論したりで「市民全員がたがいに見知っている」のです。全然聞いたこともない人が社会的指導者になるなどということは絶対にありません。こういうポリス社会を念頭においておかないと意味がわかりません。

 三点目に注意しなければならないのは、当時の市民の在り方、職業意識、女性の位置付け、奴隷制といった
「当時の社会状況」が反映しているということです。この市民社会の内実を無視しては正確な理解にならないのはいうまでもありません。

 四点目に注意しなければならないのは、言葉の意味内容を考えなければならないということですが、たとえばプラトンは
「フィロソポス(哲学者)」が国のリーダーにならねばならない、とこの著作の中で主張しています。この時、この哲学者を今日の「大学の哲学教授」のごときをイメージしてしまったらとんだお笑いになってしまうのはいうまでもありません。実際に賢帝であり本当に哲学者であったローマ皇帝マルクス・アウレリウスであってもこのプラトンの国家篇でのいわゆる「哲人王」にはなれません。つまりプラトンは「個人」と「国家」を平行させているといっておきましたが、ここでの「哲学者」というのは「個人」の場面に直すと「理性」ということになるのです。「哲人王とは理性だけの人間」なのです。ですから「現実の人間」は「哲人王」なんかになれっこありません。「理性だけ」の人間なんていませんから。

 くりかえしますが、『国家』篇の内容は、ようするに、
「理性のみによってすべてが支配」される在り方を描いているのです。確かに、ある意味では「理想」とはいえるでしょう。特に、個人の場面に返したらそうなります。感情・欲望が理性に支配され、勇気や恥の心も理性に合致しているというのは理想です。しかし、これが国家に適用されたら、感情を高ぶらせる仕事、音楽や芝居は追放され、欲望にかかわる職業、商人だの何だのは必要最小限度に(これでは「商売」にならないでしょうけれど)、勇気を体現すべき兵士はいいとして、君主ときたら本当は雑務なんかに関わることなく真理そのものを楽しんでいたいのに、感情的職業や欲望的職業を見張ってコントロールするため「イヤイヤ政務につく」、という具合になるのです。
 しかし、大事なことなのですが、こうしてはじめて
「現実が見えてくる」のです。プラトンはただ「夢心地」に理想の国を描いていたわけではないのです。ここに見られた国家の有り様を現実の国家にダブらせた時、いろいろはみ出てくるところがみえて、その「はみ出し具合」や「はみ出す原因」もみえてくるだろうということで考察しているのです。

 こういった立場から、有名な三つのパラドックスの論などが出てきます。第一の論は、
「男性も女性も同等の教育がなされ、同等の仕事につくべきだ」とする論です。これは現代的意味での男女同権思想というより、「女性も理性を持っている」とみなされたからで、そして女性も「理性において劣るところはない」とプラトンは見ていたからです。これはしかし大事な思想でしたが、残念ながらプラトンが蘇った近世においてもこの思想は握りつぶされています。男性社会に都合が悪かったからでしょう。
 ただ、この当時の古代ギリシャでは現実の女性は政治への参加など許されていない時代ですからプラトン自身がこれを言うのにものすごい警戒をしています。そして「この当時の実際に合わせた社会」の論(『法律篇』)を書いた時にはこの思想は後退しています。「男女平等論」は当時の現実にあまりにも合わないからです。しかしこの当時にそうした
「男女平等論」が書かれたという事実に多大の関心を持つべきだと思いますが、それを今日まで「論ずる人間が居ない」ということの方がよっぽど問題です。

 二つ目は、
「配偶者と子供の共有」という論です。これは現代人からみるとひどい話にみえますが、それは「人間の感情」によっているわけで、ここでプラトンが試みている「理性だけ」で見るという立場からすると、「感情的・個人的な男・女の取り合い」なんか感心しないとなってしまうのも分かります。「理屈だけで言えば」、優れた男が優れた女と一緒になり「優れた子ども」がたくさんえられればそれのほうがいいに決まっている、という話になって不思議はありません。ようするに、「優性学的」、そして「効率のよい教育」という観点だけでなされている議論だからです。もちろん、こうした話しになったところで「現実の人間」というものが見えてくるわけで、「動物は優生学的に見るのに、人間にはそうしないのは何故か」という問題が浮かび上がってくるのです。『国家』篇というのはこんな態度で読まなければならないのですが、残念ながらこのようにプラトンを理解する人は殆どおらず、何か「現実的理想国家論」を書いていて、しかもとんでもない理論を展開していると思ってプラトンを批判している人が大半なのが不思議です。

 三つ目が先に言及した、国の指導者は
「フィロソポス(哲学者)」であるべきだという論だったのです。しかし、この哲人王は「感情はなく、欲望もありません」「理性」だけの人間です。そして個人所有の財産もなく小さいときから厳しい教育を受けさせられます。なんとも、こんな人間だけにはなりたくない、という人間像が出てきます。これも「理性」だけで物事を見ていったら、という前提からの論なのでした。
 しかし、再三注意したようにこれは
「現実を浮き立たせる」ためでした。つまりこうしてこそ、現実のさまざまの問題がみえてくるのです。プラトンの読み方というものを私達はもう一度見直して見るべきでしょう。


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