16.生と死に向き合った哲学者たち -12.ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

12.

ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」


はじめに
 後期ストア学派にはもう一人の代表的哲学者がおり、それが
「ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス」でした。彼は紀元後121年の4月26日にローマで生まれていますので、「エピクテートスの晩年」に生まれているということになります。
 彼が先帝の
「アントニヌス」の名前をもっている理由ですが、彼はもともとは「ウェールス家」という家系に生まれておりました。ところが、ギリシャ文化の復興に尽力した皇帝ハドリアヌスはその死に際して遺言によって「アントニヌス・ピウス」を後継者として指名し、ついでに「マルクス」をピウスの養子に指定していたのでした。こうしてマルクスは「アントニヌス家」の者となったのでした。
 つまり彼が皇帝になることはこの時の「ハドリアヌスの意志」だったわけですが、ハドリアヌスの目はさすがにするどかったわけです。こうしていわゆる
「五賢帝」の時代が作られることになったわけでした(初代がネルヴァで次がトラヤヌス、その次の三代目がハドリアヌスで、ハドリアヌスの養子とされたアントニヌス・ピアスが四代目、そしてマルクス・アウレリウスが五代目となります。全員「先代の養子」とされて跡目をついでいます)。

マルクス・アウレリウスの生涯
 
他方彼の生まれたウェールス家も名門で、教養の高い家でした。マルクスは家庭教師について勉強に励んだようです。そして才能を示して時の皇帝ハドリアヌスの目にとまり、皇帝はマルクスをとりわけ目にかけたといいます。また彼は幼少の時は体があまり丈夫でなかったようですが「ギリシャ的訓練と呼ばれた肉体訓練」にも精を出し、そのおかげで生来の病弱を克服したといいます。
 マルクスは文学から音楽、舞踏、美術を学び、一方哲学にもっとも心引かれて勉強したようでした。当時興隆していた哲学とはいうまでもなく
「ストア学派」でこうしてマルクスは12歳の時にはすでにストア学派の哲学者の着る「粗末な荒い毛の衣」をまとっていたといいます。彼は有能な家庭教師を得て「エピクテートスの哲学」を教えられ、そうした師達はマルクスが皇帝になった後も彼の相談役としてとどまったようでした。そうした師の一人であった「フロントーとの間の書簡」が残されていますが実に細やかで信頼と愛情にあふれた師弟の様子が見て取れます。マルクスはそうした師との出会いによって、自分生来の性格である「誠実と尊敬、愛」というものを育てていったようでした。
 
そして彼が17歳の時皇帝ハドリアヌスが没し、その遺言で彼は新皇帝ピアスの養子となったのでした。マルクスはこの新しい父であるピアスを非常に敬愛し彼に学び、そしてやがて26歳の時ピアスの娘ファウスティーナ(母であるピアスの妻も同名なので、こちらは「小ファウスティーナ」と呼んで区別しています)と結婚し養父を助けて国政に参与したようです。
 
妻との間も非常に良好であったようですが、子ども達が病弱で夭折した子どもも多かったようです。このことが後に「マルクス・アウレリウスの唯一の失敗」といわれる事件を引き起こしてしまうのでしたが、それは自分の死後の王位を、大した才能や人物を示していなかった自分の息子に託してしまったことでした。
 
彼の「子どもを思う気持ち」が裏目にでた場面でした。彼は「自省録」の中で子どもに対する執着をみずから叱責しているのですが、このこと自体彼の苦しみの表現だったわけです。
 
そして161年に養父のピアスが没します。このとき元老院は、実はピアスにはハドリアヌスの遺言によって二人の養子がいたのですが、マルクス一人を皇帝にしようとします。しかしマルクスは先の皇帝ハドリアヌスの意志を曲げるわけにはいかないとしてこれを拒絶し、「共同統治」としてもう一人の養子「ルキウス」と二人で皇帝となり、自分の娘をそのルキウスに后として与えています。つまり、ルキウスの方が若かったのです。しかし、ルキウスの方もさすがに先帝ハドリアヌスのお眼鏡にかなっていた人物でしたから、そうしたマルクスに尊敬と友情を示し二人の間は平和に終始しました。これは実に希有な関係でした。

主著『自省録』
 生来学問好きのマルクスではありましたが、ストア哲学の教えである
「与えられた運命は甘受すべき義務」として「国政に心血を注ぎ」ます。「高潔で、人民に対する仁愛に満ちた人物像」が伝えられています。
 しかしマルクス・アウレリウスが皇帝になって程なく、
「平和であったローマに暗雲」が差し始めます。即位してまもなくローマ帝国の北方にあってゲルマン人の暗躍がはじまり、また天変地異の災害が生じ、また中東のシリア方面でも原住民族との軋轢も生じていました。
 
中東方面は東西貿易の要衝としてとりわけ重要でしたので、これにもう一人の皇帝ルキウスが赴き事態を治めて戻ってきましたが軍がペストに犯されており、そのためローマは疫病の蔓延となってしまったのでした。
 そうしたさなかゲルマン民族の北方での不穏な動きが報じられ、マルクスはルキウス共々遠征軍を率いていきました。そして事態を収拾して戻る途中、もっとも信頼に足る盟友であった
「ルキウスが病を得て死んで」しまいます。
 一人でローマを背負って立つその後のマルクスは
「戦争」に明け暮れなければならない状況に追い込まれていきます。北方でのゲルマン部族の反乱ばかりか、それにつけ込んだ身内からの裏切りなども生じてしまいます。結局マルクスは北方の国境から南のエジプト、中東のシリアなど、四方八方を駈けめぐらなければなりませんでした。そうして身も心もずたずたとなり、ほどなく彼は病を得て帰らぬ人となったのでした。享年58歳となります。
 彼の不滅の書となる
『自省録』は、状況からしてその多くは陣中にあって書き付けられたものと推測されます。ただし、これは「著作」として意識されて書かれたものではなく「自分自身に対する叱責や励まし、哲学的見解の書き付け、感謝や祈り」といった性格のものですからまとまった文体となっているわけもなく、完成しているとか何とか判断できるものでもありません。

マルクス・アウレリウスの哲学の特徴
 運命が原因なのか、あるいは幾多の戦場で体験した悲惨が原因なのか、いやむしろ幼くしてストア哲学などに邁進していた
「人生そのものものに対する懐疑」が原因と思われますが、マルクス・アウレリウスの哲学というのは「哀愁に満ちており」、「苦悩と死の影に支配」されているものとなっています。
 ストア学派というと、いかなる艱難辛苦にも、いかなる感情の高ぶりや、あらゆる欲望にも
「心を動かされない不動心」「運命の受容」が言われるため、この学派の人々は「つねに泰然としていた、何者からも自由であった(エピクテートスにはこの「自由」という言葉がやたら出てきます)」という印象があります。先に紹介しておいたエピクテートスがそうでした。
 ところがマルクス・アウレリウスは全然違います。全く
「泰然となんかしていません」「苦悩と自責の念と悲しみと不安」に充ち満ちています。先に指摘したように、彼の主著は陣中にあって書き付けていた「心の日記」とも言えるもので、ギリシャ語原語では『自分自身に向けて』といった直訳となるものです。日本訳としては『自省録』という訳語が一般的となっています。
 ここには、
「死」という言葉が氾濫しています。どのページをめくっても「暗く悲しい」言葉が連ねられています。その内容は「自分に向けた警句」「自責」あるいは「叱咤」あるいは「哲学の言い聞かせ・確認」「先達への謝恩」となっています。
 そのことは
「マルクスは終生苦悩の中に居た」ということです。その「苦悩と格闘するための武器」「ストア哲学」だったのです。マルクス・アウレリウスを紹介する時良く引用される言葉によると「人生は一瞬」に過ぎない。人のありようは「流れ行き」、その「感覚は鈍く」、その「肉体は腐りやすく」、「人の心(魂)は渦を巻き」、その「運命は分からず」、「すべては夢・幻」のごときである。人生とは「戦い」であり、あるいは「(永遠に続く)旅の一時の宿り」でしかない。死後の名声など「忘却」に過ぎない。そんな我々を導くことができるのは何か。それはただ一つ「哲学(人としての優れを追い求めて生きること)」だけである、ということになります。
 そこで人はどう生きていくべきか、人は人の内なる「
ダイモーン(文字通りには「神的なる何ものか」という意味で、具体的には「理性」ないし「人間本性」を意味していると言えます)」を守り、これが損なわれることのないように、「快楽と苦痛を統御」できるように保たねばならない。何事もでたらめに行うことがあってはならず、「偽を為し偽善」を働いてはならず、自分に生じてくるあらゆる出来事は「自分の本来に結びついている」ものとして喜び受け入れなければならず、何よりも「死」を安らかな心で待ち、「死」とはただ生物を構成しているものの解体でしかないと見られるように、あらゆるものの変化と解体とは自然によるのだ、そして、「自然によることに一つとして悪いことなどない」のだ、というような見解となります。

「アディアポラ」
 要するに、一般の大多数の人が求める「健康とか富、名誉、あるいは長生き」などは「
どうでもいいこと(ギリシャ語原語では「アディアポラ」で「異なりがない、どうとでもよい」ということです)」で、自分の理性的意志によって統御できない外的なもの付帯的なもの(健康・病気、富・貧困、名誉・中傷、長生き・死など)は熱望して求めたり嫌悪して避けようとしても、どうにもならないときはどうにもならないのであって、ただこれを「そのものとして受け入れれば良い」のだ、となります。
 他方、
「内面の生」については自分の理性的意志に従わせることができるのであって、そこに「人間としての自己確立・独立性と自由と平安がある」とします。
 それを可能にするのは、一途に
「人間としての優れ」を追い求めていく(これが哲学の意味)ことによる、とされます。ちなみに「人間の優れ」と訳した言語は「アレテー」であり、これは通常「徳」と訳されますが、内容的に通ずるところは有りますけれど、むしろ「それがあることによってそのものが優れていると評価されることになる何ものか」なのであって、これが明晰判明ではないためにむしろ「追求されなければならない何ものか」となるようなものです。つまり「徳」とやってしまうと儒教的な具体性がイメージされて具合の悪い訳となります。
 こうして「人間としての優れ」を追い求めていく中で、人間が
「宇宙的な摂理」の中にあることを自覚し、人間的感情や欲望を克服し、「何者にも動じない不動の心(アパテイア)」に到達する、となります。しかし、当然人間は「有限なるもの」ですから完璧になどできっこありません。こんなことはマルクス・アウレリウスは嫌というほど自覚していました。ですから「ある制約のもとに」しかできないわけで、「可能な限り」となってしまいます。ここにマルクス・アウレリウスの「苦悩と格闘と悲しみと悲哀」がでてきてしまうわけで、マルクス・アウレリウスは自分が「負けてしまう」ことをいつもいつも自覚しなければならなくなっていたのでした。マルクス・アウレリウスには、人間としての「強さ」も「弱さ」も共存してあり、その両面を「正直に素直に誠実に」露呈しているが故に、マルクス・アウレリウスは「最大級の哲学者」として歴史に残ってくることになったと言えると思います。

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