16.生と死に向き合った哲学者たち -11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

11.

ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」


はじめに
 ストア学派の哲学の課題は
「良く生きる」ということ、そしてそのあり方は「自然に即して生きる」というところにあったため「運命の受容」ということも伴っていました。そのため「社会的運命」も受け入れていたわけで、生まれや社会的地位なども「そのものとして受け入れる」という態度になっていました。ただし、そこに「価値の差」などという観念は全くなかかったため、たとえ「奴隷」であれ「皇帝」であれ同じことで、ただ一点「人間としての優れ」でしか価値の差はみていませんでした。そのため、ストア学派には本当に「奴隷」と「皇帝」とがその代表的哲学者として出現することになりました。「奴隷とはエピクテートス」であり、「皇帝とはマルクス・アウレリウス」となります。ただしこの二人、「肩書き」でイメージされるものとは正反対の全く違った人生と哲学をもつのです。奴隷のエピクテートスは「泰然とし堂々として自由」でしたが、皇帝マルクス・アウレリウスは「哀愁と苦悩と悲しみにまみれている」のでした。

奴隷のエピクテートス
 エピクテートスは紀元後の
「後期ストア学派」に属するわけで、生まれは紀元後のローマ帝国の時代、50年〜60年の間とされており130年頃まで生きていたようでした。
 エピクテートスというと
「奴隷」であったということが有名ですが、ただし、古代ギリシャ・ローマの奴隷というのは近代アメリカなどに見られる奴隷とはその内容が全然違いますので、エピクテートスのような哲学者が生まれることもあり得ました。以下その事情をみましょう。ちなみに、ギリシャ時代では「イソップ物語」のイソップ、つまりアイソポスなどが奴隷として有名人となっている一人です。
 もっとも「奴隷」ではありますので当然「社会的地位」などあるわけも無く、主人に左右される運命にあったということでは変わりません。ただ、近代アメリカの黒人奴隷のように「動物扱い」ということはなく、多くは
「家の召使いから小作人、女性なら乳母、男はやがては執事」のような位置にあったことは「シノペのディオゲネス」の章でもみておきました。そしてまた、いずれは「解放される」ことも普通にありました。
 ともかくエピクテートスは
「奴隷の子」として現在のトルコの観光地として有名なパムッカレ、古代名をヒエラポリスといいますがそこで生まれ、「幼いときに奴隷としてローマに連れてこられた」ようでした。そして「解放奴隷」であったエパプロディートスという人に仕えることになったようです。この人は皇帝ネロの護衛兵を努めていた人物であったとされています。こんな具合に、奴隷もしっかりとした大人になれるように養育され、勉強もすることができ、「解放されて社会的にひとかどの立派な地位の者となる」ことが普通にあったのです。
 エピクテートスが主人のもとでどんな仕事をさせられたのかはっきりしませんが、小さい頃は当時の常識から見て
「小間使い」といったところだったでしょう。ただ彼は足が不自由であったことが知られ、それが病気によるのか(リューマチ説)あるいはひどい目にあって怪我をしたのか(主人の乱暴説もある)はっきりしません。いずれにせよそんな具合では肉体労働はおろか買い物も不自由で料理人にすらなれないわけで、記録係とか座ってやるようなことしかできなかったと考えられます。ものを書いたり計算したりができたのでしょう。そうして才覚を見せていったのかも知れません。
 やがて主人のエパプロディートスはエピクテートスが当時の
「ストア学派の代表的哲学者として知られたムソニウス・ルーフス」の下で勉強することを許しているのです。もっともその前に彼は「キュニコス学派の哲学」を相当程度に勉強していたとされています。どのようにして勉強したのかははっきりしません。「奴隷」という観念でエピクテートスの若い頃を考えたらもう分からないことだらけです。
 要するに、
「生まれからして根っからの奴隷なのに」若くして読み書き計算は修得し、教養にあふれ、そしてキュニコス学派の哲学に関わる書物すら読破していたというわけです。普通に考えると、いくら天才とは言え、何だかんだ言っても「奴隷」なのだから「高等教育」を受けたり、またそんな「哲学の本を読む暇」などあり得ない筈なのに、と思います。しかし事実は私達の感覚を越えています。しかも、これはエピクテートスだけの例外ではないのです。
 そしてルーフスの下に弟子入りしたとき
「もうすでに彼は十分ストアの精神が身に付いていた」ことが報告されています。これは「キュニコス学派の書物を読破」していたのなら当然でしょう。しかしストア学派とキュニコス学派は違いますし、当然まだ若輩のエピクテートスでしたからルーフスによってみっちり厳しい教育を受け、それはエピクテートスにとって非常に大切なまた実りある時期であったようでした。
 ただ彼がいくつの時にルーフスのもとに弟子入りしたのか、またどれくらいの期間彼の下で勉強したのかといった細かいことははっきりしません。そしてしばらくして彼は主人のエバプロディートスから
「解放されている」のですが、それがまたどうしてかもはっきりしません。ただし、当時「解放」ということは全国的に日常的にあったということは言えますので「特別なこと」ではなかったとは言えます。
 そして自由となってからは自分で生計を立てなければならないわけですが、足が不自由ですから農業はおろか大した仕事はできないわけです。しかし彼は
「ストアの賢人」なのですからそんな事に思い煩う訳もありません。世間で生活のことに汲々としている人をいぶかり「人間飢えてもそうたやすく死ぬわけがない」と泰然として、自分一人が喰うくらい何とでもなるとしていたようです。
 そして相変わらず勉強に励んでおりましたが、彼が40歳頃の時ドミティアヌス皇帝の
「哲学者追放令」によってローマを追われることになりました。「哲学者追放令」とはすごいですが、当時の哲学者が「徳性・善・正」のみへの服従を旨とし、「社会の不正や悪、欲望的あり方を鋭く指弾していた」からだと考えられます。これはすでにローマ皇帝の二代目であるティベリウスの時代から起きていたことであり、追放ばかりが死刑にされた哲学者も多くいたことが伝えられています。悪名高いネロの時代にも起きていますし、ドミティアヌスは二度もこうした発令をしています。こうした扱いがなくなるのはその直後の皇帝「ネルヴァ」からで、ここから「五賢帝」の時代がはじまりエピクテートスの後半生はそうした恵まれた時期となります。
 翻って、哲学者がこうした働きをしていたのは
「ソクラテス以来のギリシャ・ローマの特徴」ともいえ、近代以降の哲学が如何にその原型からはなれてしまったのかも理解されます。
 他方、40歳のエピクテートスがそのディミトリオスの法令によって追放されたということは、この頃彼はそうした
「哲学者として世に知られた人物」になっていることが了解されます。そして、追放されて彼がやってきたのがイタリアの対岸であったギリシャのエペイロス地方のニコポリスでした。そしてこの地で教え、「当代随一の哲学者」として有名となりその盛名を慕って「皇帝ハドリアヌスも彼を訪ねた」ほどであったと言われています。ハドリアヌスという皇帝は人一倍「学問・文化」を大事にして人格も高邁で「五賢帝の一人」に数えられているほどの人ですから十分あり得た話しでしょう。

エピクテートスとソクラテス
 そのエピクテートスですが、彼もソクラテス同様著作というものを残してはいません。その教説はやはりソクラテスと同様弟子の記録によって知られています。それはアリアノスという弟子の書いた
『ディアトゥリバイ』というものと、あと少しのエピクテートスに関わる断片とがあります。『ディアトゥリバイ』とは要するに「折々に語った話し」といったようなもので「語録」といったようなところなのでしょうが、うまい訳語がないままに我が国での岩波文庫の訳は『人生談義』となっています。この書と断片とによってエピクテートスの哲学の内容が知れるわけですが、ここではエピクロスのソクラテスに対する態度をみていきながらその哲学を見ていきたいと思います。実際というか当然というべきか、そこでは「ソクラテス」という名前の氾濫になっているからです。
 さて、先ずエピクテートスの哲学に対する態度を始めにみてみましょう。そこで彼は、
「哲学のあり方を三つ」に分け、「第一のもっとも必要な部分」はたとえば「偽を為すな」というような「態度・行為・原論などに関わる原理の実行」に関する部分、そして第二に「その証明」にかんする部分、そして第三に「その証明に関しての確実で明晰な説明」の部分とがあるとします。
 第三の部分とは「これが証明でありうるのはどうしてか」「証明とは何であるか」「帰結とは何であり、矛盾とは何であり、真とは何か、偽とは何か」というようなものである、とします。そしてこの第三の部分は当然第二に基づき、その第二は第一の部分に基づいているわけで、したがって
「もっとも必要にして固執しなければならないのは第一の部分」ということになるのだ、というわけでした。
 そしてそれに続けて、それなのに
「哲学者を標榜している人々は逆のことをしている」と批判し、何故かというと彼らは「第三の部分」にもっとも時を費やしそれにもっとも夢中になっていて、そして「第一の部分をおろそかにしている」からで、従って彼らは「平気で偽を為し、嘘はつく」けれど「偽を為したり嘘はつくべきではないという証明」はできるようになっているわけだ、と付け加えています。
 これは痛烈な皮肉で、現代の私たちにも痛烈に響き、哲学を事としているとしている者はグウの音もでないでしょう。しかしこの批判が
「ソクラテスに由来」するものであることは、このテーマのどの章でもみられる「ソクラテスのあり方」から十分に指摘できることであり、またストア学派の先駆であるキュニコス学派のアンティステネスもこの精神を強く引き継いでいました。しかしその後、一般に理論家と思われているアリストテレスですら批判しているような、そしてさらにエピクテートスが指摘しているような、「第三の部分にのみ夢中になる自称哲学者」が多く現れていたのです。エピクテートスはそれを批判しているわけですが、これは「ソクラテスからストア派」までの流れを見ている私達にはもうしっかりとその理由が分かると思います。何故なら哲学とはソクラテス以来「具体的な人生の形成」にあったからです。

 エピクテートスにとって、その
「第一の部分で生きた哲学者の典型」がソクラテスということになるのは当然で、エピクテートスは「ソクラテスを自分の人世の目標」にしていました。彼は、「自分はソクラテスより優れているということはない、だが優れてはいなくても劣ってはいないというだけで十分だ」と言ってそれを目標にするとしていました。そのあり方については分かりやすい例を引き、オリンピックで何回も優勝している群を抜いた競技者であったミロンを挙げて「競技者たちは皆ミロンのようになりたいと思って練習しているのだけれど、先ずそうなれる選手はいないしそのことは誰でもそう思っている。だけどそうだからといって彼らは鍛錬をやめることはない」と言っています。
 要するに
「人はどんなことにせよ最高の者になる望みがないからといってそれに向かって心を遣うということは止めはしないだろうし、止めてはならない」ということです。私達の場面で分かりやすく言って見れば、たとえば野球選手たらんとしている人が「すべて野茂やイチロー」のようになれるわけではないけれど、だからといってその選手は「努力を止める」ということはなく「目標に向かって頑張る」わけで、エピクテートスの場合は、「自分はソクラテスに並ぶ哲学者になれはしないだろうが、それに向かって努力することをやめることはない」と言っているわけです。
 同様の見解は他でもあり、
「ソクラテスは完成の域」に達していた、そしてソクラテスは自分が出会うすべてのことについて「理性以外の何物にも」とらわれることはしなかった、「人はいまだソクラテスのようでないとしても、ソクラテスたらんとしているかのように生きるべきである」と言っています。
 このソクラテスのありようは、ソクラテスの章で見ておいたように、吟味に吟味を重ねて見いだされてきた行為の原則、それはもちろん
「理性による吟味によって導きだされてきた原則」であったわけですが、「それに照らして具体的な態度・行為を為すべき」で、「社会的常識や価値観、あるいは先入観、感情や欲望、他人の評価などを優先させてはならない」というもので、こうして「自分の人生に責任をとるようにして死んでいった」わけでした。
 こうした態度は確かに非常に難しいわけで、エピクテートスが言うように、ソクラテスは
「完成の域に達している」といえるかもしれないけれど、通常の人間にはおいそれと真似のできるようなものではありません。しかしエピクテートスは「それを目指して生きていこう」といっているわけでした。
 理性については、ソクラテスが
「理性」という能力に信頼して、感情や欲望あるいは「他人」を物事・行為の証人とすることなどせず、「理性と理性とをぶつけて吟味している問答相手」のみを証人とするという態度を引用しています。これはつまり、「理性」と言ったって何か共通的に絶対確実なものがあるわけではなく、人によりその「理性がみるもの」というのもいろいろと異なっているのが人間というものなので、人は互いにその「自分の理性が見る見方」をぶつけ合ってその自分の見方に矛盾や隙がないかを「吟味し合う」必要があるのです。これが「ソクラテスの問答法」というもので、「自分勝手なものの見方」をしてはならないというでもあります。
 また、プラトンの『弁明』を念頭においてのことでしょう、
「ソクラテスは(理性による、ないし理性と理性とのぶつけ合いという問答法による)吟味を経ない生を生きるべきではない」といっていた、という言葉を引用し、さらに「吟味を経ない心象(自分だけの印象や思いこみ)をうけとってはならない」とも言っています(三巻12章)。
 そしてエピクテートスにとってはプラトンの『弁明』や『クリトン』で描かれているソクラテスの
「毅然とした運命の受容」の仕方がとりわけ模範とされているようで、「告発者はなるほど私を殺すことはできようが、私そのものを損ねることはできない」という言葉を再三引用してきます。これはつまり、殺されるということを人は大変な災いとおもうのだろうけれどそれはそうではなく、「正しさを損なうことこそが大変な災い」なのであって、今自分は告発者たちによって殺されていくけれども、かれらによって自分は「正しさを損なうことはない」のだ、という意味でした。
 そしてさらに
「この事が神のお気に召すのならばそうおこるがよい」という言葉も繰り返されています。これは、文字通り「正しいと信じてやってきたことで、それが死という結果になるのが神の御心なのだとしたらそれはそうなるのがよいことなのだろう」という意味でした。これはまた『弁明』で繰り返されている「神への服従」ということでもあるでしょうが、「神」といってもこれはキリスト教のような宗教的な意味合いではなく、むしろストア学派的には「自然ないし運命」の受容とも言え、あるいは「それが正しいとして生きてきた自分にたいする責任」ともいえます。こうした態度は実際ソクラテスを伝えるプラトンやクセノポンの至る所にみられるわけですが、エピクテートスもそれらの多くを引用してくるわけで上記のものの他にも、たとえばソクラテスの「神がそこに配したのだとするならその場に踏みとどまって危険をおかさなければならない」という言葉もみられ、さらには「神がソクラテスに対してなしたように、退却の合図があったのならば将軍にしたがうように合図するものに従え」というのも同様でこれは今の言葉の言葉のもじりとなります。このソクラテスの言葉にある「神」というのを「運命ないし自然」という言葉に置き換えたら「ストア学派」的となります。もっとも、ソクラテスの場合の「神」にしてもストア学派と同様の内容をもっており、それを「人格にたとえた」言い方をしているものです。キリスト教以前の話しですから「キリスト教的人格神」など全く考えられてはおりません。
 こんな具合にエピクテートスはソクラテスを理想としていたわけですが、それは何のためにであったかというと、
「ソクラテスは人間を人間として支配する者であった」という三巻7章の言葉にあるように、「人間は欲望や世間的・社会的価値観、他人の評価の奴隷」であってはならないからです。「自己を律するということが自由ということ」であり、自分自身と争わず他人をも争わせないということが「知徳兼備」ということでした。
 始めに指摘したおいたように、通常ストア学派というと
「自然と合致して生きる」ということが標語として言われ、「不動心(アパテイア)」ということがその骨幹として紹介されますが、その自然とは「神とも言えまた理性」でもありました。エピクテートスはそうした有り様を説明するのにソクラテスを引き合いに出すのであり、実際ストアの哲学とはソクラテスにあるといわんばかりなのでした。こうして、ソクラテスによって始められた「哲学の精神」は、どの学派どの哲学者よりも勝って「ストア学派の流れ」にこそ強くあるということが指摘できるのでした。

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