16.生と死に向き合った哲学者たち -10. ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

10.

ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」


 ストア学派の祖ゼノンを紹介する時に指摘しておきましたが、繰り返しますと、一般に流布しているストア学派の教説ということでは、「自然と合致して生きる」ということが標語として言われ、「不動心(アパテイア)」ということがその骨幹として紹介されます。この紹介の仕方にもいろいろ問題は有りますが、取りあえず専門的なことは抜きにして、ここでの「自然」とは人間も含めあらゆる天地・自然を支配している「宇宙的摂理」と理解しておいて良いでしょう。そして、これは人間においては「理性」において見られ、あるいは人生に現れた時には「運命」と理解しておいていいです。ですから、「人間は理性において生き、あらゆる運命を宇宙的に定められているもの、永遠に自分に定められているもの」として受け止めて生きていくべき、となります。
 
「不動心」というのは、「自然に反する形で感情や欲望、幻想や不安、等々」が起きるのが人間ではあるけれど、それに「惑わされない心のあり方」を意味し、また、何が起ころうとそれは「自分に定められているもの」なのだからとして「何事もそのものとして受け止める心のあり方」となります。この精神をより明確にしたのがゼノンを継いだ弟子たちであり、今回はその弟子たちの代表者を紹介してみます。

ストア学派とコスモポリテース
 キュニコス学派の「シノペのディオゲネス」を扱った章のところで、
「コスモポリテース(世界市民)」という考え方が史上始めて提起されたことを見ておきました。
 実際に、ソクラテス以降の哲学者は、同じギリシャ領内ではありますがアテナイ出身でないものが圧倒的になっているのです。そして彼らの目は「故郷」とか「ポリス」というものから遠く離れているのでした。たとえばキュニコス学派の始祖である「アンティステネス」は、自分自身はアテナイの人でしたが、それでも彼の母親はそうではなく
「北方のトラキアの人」で、彼はそのことで侮辱も受けたようでした。そして次ぎが「黒海の南岸の町現在はトルコ領となっているシノペの生まれのディオゲネス」であり、それをついだ「クラテス」はアテナイ北方の都市「テバイの人」でした。さらに「ゼノン」は「キプロス島」の生まれです。しかも彼の血には非ギリシャ人である「フェニキア」の血も混じっていたようでした。この傾向はさらに続き、ゼノンを継いだ「クレアンテス」は「小アジア(現トルコ領)のアッソス」の出身であり、三代目のクリュシッポスは「キリキアのソロイ(現在のトルコの地中海に面した南岸でその南海上にキプロス島がある)」の人です。さらに下って、中期ストア学派の時代となってもそれを代表する「パナイティオス」は「ロドス島のニカゴラス」の人で、「ポセイドニオス」は同じく「ロドス島のアパメイア」の出身でした。

 こうして、キュニコス・ストア学派においてはこの
「世界市民」という概念は重要な概念になるのであり、そうした「脱ポリス」という性格がこの時代の思想の一つの特質として特記されるのです。
 一方、「プラトンからアリストテレス」においてはその倫理学は徹底して
「ポリスの倫理学」という性格を持っており、ソクラテスの弟子筋はこうして二局分裂の様相を示していたのでした。
 歴史的事実としては、時代はどんどん
「脱ポリス」の方向に流れ、アレクサンドロス大王の登場以来「アテナイが、スパルタが」といった言及の仕方はほとんど意味をなさなくなっています。こうなってはプラトンやアリストテレスの倫理学が受け入れられず、「ポリスに限定されない「心の哲学としてのストア学派」が主流となっていくのもよく理解できるわけでした。ですからまた、ストア学派が「世界に開かれた」という意識を持つ以上、彼等ストア学派はプラトンやアリストテレスのように「学園などを作ることなく」「公共のストア」をその活動の舞台にしていたこともある意味で当然であったわけです。
 もっとも、この公共の場で話しをするということは
「ソクラテス以来の伝統」とも言えます。ところが「キュニコス」とは別の流れであるプラトンは、自分の「学園アカデメイア」を郊外に設けてそこだけを教育の場とし、またアリストテレスも同じく「リュケイオン」と呼ばれる学園を作っていたこと、またもう一つのヘレニズム・ローマ期を代表する哲学であった「エピクロス学派」も「隠れて生きる」をモットーに郊外の学園に引っ込んでいたことと比べると、むしろ「キュニコス・ストア学派の方がソクラテスに忠実」であったと言えるのです。この章はそうした「ゼノン以降のストア学派の代表的哲学者の人生、人となり」を見てその思想をたどってみたいと思います。

ストア学派の流れ
 そのストア学派の流れを概観しておきますと、紀元前335年生まれの
「ゼノンを始祖」として、「二代目のクレアンテス」「三代目のクリュシッポス」に代表されるヘレニズム初・中期の「初期ストア学派」の時代を初期とします。
 そして紀元前100年代の
「パナイティオス」(およそ前180〜110年)や「ポセイドニオス」(およそ前135〜50年)を代表とするヘレニズム後期のものを「中期ストア学派」とします。
 そしてさらに
「ローマ帝国」となってからの紀元後すぐに出てくる「セネカ」(紀元後3〜65年)を経て100年代の「エピクテートス」(紀元後60〜130年)や「皇帝マルクス・アウレリウス」(紀元後121〜180年)に代表されるローマ帝政初期の「後期ストア学派」と分類します。
 最後に新プラトン主義とストア学派とを融合したような紀元後500年代初頭
「ボエティウス」までをストア哲学の歴史とすることができるでしょう。およそ800年の歴史となります。
 
この「ストア学派」をはじめギリシャ哲学が再生されるのは紀元後1200年頃からはじまり本格的には1500年代となる「ルネサンス」の時代となるのでした。

クレアンテス
 彼は先にも示しておきましたよう
「小アジアのアッソス」の生まれですが、このアッソスはアリストテレスがアカデメイアを離れて始めて独立した地としても知られます。
 
クレアンテスが生まれた年についてははっきりしないのですが、死んだ時は師のゼノンと同じ年齢の時であったと伝えられ、そうだとすると72歳くらいとなり、死んだ年は紀元前232年と推定されていますので逆算すると紀元前304年の生まれということになりそうです。ゼノンとおよそ30歳ほどの違いということになりそうです。
 彼はゼノンの門下に入る以前からボクシングで鍛え、一流選手であったと伝えられその肉体は見事なものであったことが伝えられています。この
「肉体の鍛え」というのはキュニコス学派の特質とされますが実はそんなことはなく、ソクラテスの頑強であったことは伝説的となっていますし、その弟子のアンティステネスはランニングの選手でプラトンもレスリングの選手であったといわれるように、文武両道を目指していたのがギリシャ時代の若者の普通のあり方でした。ただし「競技者」と言われるほどの者になるのはごく一部ですからその特質は伝記に挙げられてくるに値し、彼らの場合にしても「競技者」としてのあり方は特質されるのでした。
 クレアンテスがアテナイにやってきた年ですが、彼は19年間ゼノンのもとにいたとされていますので、ゼノンの死んだ年が紀元前263年とすると前282年くらい、彼が22歳くらいの時ということになりそうです。その時彼はほとんど
「無一文」でアテナイにやってきたと言われます。ともかくこうしてアテナイにやってきてゼノンの門下に加わったのでした。

 クレアンテスの特質を一言で言うと、学者らしい弁舌や論理の冴えを示すことはなく、むしろ
「愚鈍とすら評されるほどに純朴」であったと伝えられていますが、人柄は「誠実で、忍耐強く労苦を惜しまず働いて、そしてストアの哲学の勉強に一心不乱にコツコツと邁進した人」ということになります。ですから評伝では、「彼は本当に健気な心がけで哲学に励み、最後まで教義を愚直に守り続けた」と言われてきます。またゼノンはクレアンテスを「書き難いけれど一度書かれたら容易に消えない、堅く蝋をひかれた鑞板(当時ものを書き付けるのに使われた蝋をひいた板のことで、ようするに当時のノート)」にたとえたと伝えられています。
 ゼノンがたくさんいた弟子達の中からこの
「クレアンテスを自分の後継者」に選んだことについて、現代の哲学史家の中には「疑問」だとして首をひねっている研究者がいるのですが、これはもうストア学派の何たるかを全く理解しておらず、「哲学とは理論体系」なのだと思いこんでいる研究者の評価といえるでしょう。ストア学派の哲学の目的が「良き人格を形成する」ということにあった以上、このクレアンテスが二代目になって何らおかしくはないのでした。ただしこのクレアンテスにも多くの著作があったことは伝えられていますし、理論面での業績も伝えられています。しかしそれはあくまで二次的なもので、その本来の哲学を「脇から支える」ものでしかなかったことはしっかり理解しておく必要があります。
 このクレアンテスについての評伝で一番有名なのがやはりその
「働き振り」で、一言で彼を紹介する時もかならず「赤貧と労働によって知られる」とされるほどです。彼は赤貧の生活の中で勉強したわけですが、昼間は勉強のために働くことができず、「夜になって庭園の水くみの仕事をし、また粉ひきの仕事」もしたようでした。
 ところがそれは夜中の仕事ですから人目に付かないわけで、彼は赤貧なのに昼間は勉強に費やし、しかも筋骨隆々としていることが怪しまれ、
「役人に呼び出されてしまった」といいます。泥棒か何かしていると疑われたのでしょう。そこで彼は事情を説明し庭園の管理人と粉屋の主人に証言してもらってやっと放免されたといいます。
 一方、役人の方はむしろ感動してしまい、彼に
「大層な褒美の金を贈るように議会で議決」したのだけれど、師のゼノンがそんな金はもらうなと禁止したと伝えられます。しかしゼノンの章で再三触れたあの「マケドニアの王であったアンティゴノス」も感心して、こちらは「ほどほどのお金」を贈ったといいます。こちらについてはゼノンの禁止というのは伝えられておらず、まあ適当な金額だということで受け取らせたのかもしれません。というのもゼノン自身アンティゴノスからは度々寄進を受けていたらしいことがゼノン伝のところで読み取れるからです。
 またこのアンティゴノス王はクレアンテスの講義にも出ていて、その水くみの効用について質問したところクレアンテスは
「水くみも土掘りもそして庭園に水をまくのも、その他何にせよすべてひとえに哲学のために、ではないのか」と答えたと伝えられます。これは哲学の何たるかについてのクレアンテスの理解を示しているようです。日本的にたとえると「禅宗」では「食事や掃除、その他生活そのものが禅」としているわけですが、それに近い考え方だと推察されます。しかし伝記作家は、仕事で金を得たのは師のゼノンに支払う「謝礼」だったのだろうだろう、などとつまらない言い方をしています。
 また彼は「愚鈍」とも評されたということは先にも触れておきましたが、同門の人たちから
「ロバ」などと陰口をたたかれても怒りもせず、むしろ「自分だけがゼノンの荷物を運ぶことができるのだ」と応じたといいます。あるいはまた劇詩人が「クレアンテスの愚かさに駆り立てられた」などと劇場にあって観衆やクレアンテスの面前で歌った時も泰然自若としており、かえってそれが「観客の感動」をよんで拍手され、詩人の方が劇場からたたき出されたと伝えられています。そしてその詩人がクレアンテスの所に謝りに来たときも快く許したと言われています。
 また、たびたび自分で自分を叱りつけては
「髪は白くなっているのに分別を欠いている老人」を叱りつけているのだと言っていたようでした。これはクレアンテスが老人になってからのことでしょうが、心乱れた時に彼自身がしていたことなのでしょう。こうして心を静めていたのだと思われます。
 
また彼の死についてもよく言及されます。すなわち、歯茎が膿んでしまい医者から食事を止められましたが、歯茎が治っても絶食を続け、「自分はもう人生の道のりをあまりに遠くまで来すぎてしまった」と言って死んでいったといいます。
 その苦労の連続とそれに対する堪え忍び、またその立派な体躯などあらゆる面が一つのイメージに結晶され、彼は「
第二のヘラクレス(ギリシャ最大の伝説の英雄で、その凄まじい冒険の労苦とそれを担っていった潔ぎよさ、そして神にも勝ろうという強大な体躯と強さとで知られます)」と呼ばれたと伝えられています。

クリュシッポス
 彼は先に言及したようにキプロス島を南海上に望む
「小アジア(現トルコ)のソロイ」という町の出身でした(別伝では「タルソスの人」とありますが、ここはソロイの直ぐ近くの町です。いずれにしても「小アジアの地中海に近い町」ということになります)。
 彼が死んだ時、年齢は73歳と伝えられ、それは第143回オリンピック期とありますので紀元前208〜205年となります。ということは、生年は282〜278年の間ということになります。そうすると
「クレアンテスとは22〜26歳違いの年下」ということになり、クレアンテスと同門の年下の弟子となります。
 彼はクレアンテスとはその傾向においてひどく異なり、体つきも細身だったようですが、
「気位が高くまた学問において素質がありどの分野においても鋭かった」と言われます
 
しかし、師ゼノンの教えに忠実ではなく、ゼノンや兄弟子クレアンテスとしばしば意見を異にして言い争ったと伝えられています。そんな彼がクレアンテスを継いで三代目の学頭になっているのは、二代目学頭のクレアンテスが自分の足りないところを補う、というつもりがあったのかもしれません。彼は秀才肌で理論家であったからです。
 クリュシッボスは、後には
「プラトンの学園であるアカデメイア学派」で勉強をしたとされますが、別に学派を変えたというわけではなく、学んだのは論理学的なことや数論のようなものだったようです。そして実際「問答法(プラトンの方法論です)」に関する技術では大変な名声を得、その語るべき事柄は有り余るほど持っていたと言われています。ただし同時に「語り方」の点では成功しなかったとありますので実際的な点ではうまくなかったといえます。つまり、その「問答法の論理的展開は見事だけれどスピーチは下手」ということでしょう。要するに学者肌だったのかもしれません。
 実際、彼はその勤勉さにおいては誰にもまけず、その著作は膨大なものであったと言われます。しかし一方で彼はずいぶんと誹謗され、その屁理屈振りや著作の中での不道徳と見られる見解などが非難され、またその著作も引用ばかりで自分の意見がないとかいろいろ言われたようでした。しかしそれもこのクリュシッポスの当時における影響力の強さを物語るものだといえるでしょう。実際彼はその膨大な著作においてストア学派を「理論武装」したと評価され、後世には
「ストア学派の第二の建設者」とまで評価されたのでした。

ストア学派の理論
 ストア学派の哲学理論の内容について簡単に紹介しておきますが、基本的な立場ははじめに紹介しておいたように
「自然と合致して生きること」というキャッチ・フレーズで紹介されることが多いです。つまり、人間は「自然によって生まれ育まれたものとして、自然的運命が与えてきたものをそのものとして甘受して生き、かつ死んで行く」ところに「徳の完成」が見られるというわけです。
 様々の感情や心の動きも自然の与えたものではあるけれど、これが
「反自然的に過度」になるところに「怒りや不安、怨念や欲望などの情念」が生じ、これは自然的理性に反抗して自然から人間を逸らしていくので、こうした「情念に動かされない心(不動心・アパテイア)」を形成していかなければならないとしたわけでした。これこそが「自然と合致して生きる」ことの内容であるとしたのです。
 こうした生き方が善であることを証明し、さらにそれを支えるためのものとしての理論が位置づけられるわけですがこれには
「論理学的部門」「自然学的部門」そして「倫理学的部門」に大別されるとしました。しかしこれらは「一つのものの三つの現れ」であり、それを例えば「動物の各部分」や「卵」にたとえたり、また「畑に植えられた樹」にたとえたりしています。
 例えば「動物」で言えば、論理学的部門は
「骨や腱」に、倫理学的部門は「肉」に、そして自然学的部門は「魂」というわけでした。また「卵」にたとえると、論理学的部門は「殻」に、倫理学的部門は「白身」に、自然学的部門は「黄身」というわけでした。「畑の樹」だと論理学的部門は「畑の柵」に、倫理学は「果実」、自然学は「土壌ないし樹そのもの」というわけでした。
 
「自然に合致して生きる」という主張が核なのですから「倫理学」がどのたとえでも核の部分になるのは当然でそれは「果実」とたとえられます。そしてそれを支えるのが゜「自然学」でありそれは「樹そのものに」、そしてその学説を守る「言葉・体系的論理」としての論理学的部門が「柵」にたとえられるのは分かりやすいです。
 ただしストア学派の人々はこれらを一緒くたに論じる人もあれば、それらに順番をつけて論じる人ありでかならずしも一致しているわけではありません。基本的な分類法ということだったのでしょう。倫理学的部門は当然「徳論」を中心に
「善・悪、その中間、などの価値の問題」が論じられます。自然学部門はヘラクレイトスの「ロゴスと火」の説を復活させて、「この宇宙を一つの秩序に従って燃え上がる火とたとえるある種の終末論」が特徴的です。「論理学的部門」は言葉にかかわることがら一切で「論の立て方」そのものですからいわゆる「論理学」の他「弁論術」などがふくまれ、言葉や文の持つ意味のあり方、解釈のあり方などが論じられます。

中期ストア学派
 さらにここで中期のストア学派を簡単に紹介しておくと、先に言及しておいた
「パナイティオスとポセイドニオス」という二人のロドス島生まれの哲学者が代表します。その特質は、これまで学問の中心になっていたギリシャのアテナイから「ストア学派をローマに持ってきた」ことが第一に上げられるでしょう。ここからストア学派は「ローマの哲学」という装いを持ってくるのでした。まだローマ帝国として世界を支配する以前のローマであり、ローマがせっせとギリシャ文化の受容に努めていた時代でした。
 そしてそういう性格のものであったせいか、この頃のストア学派はプラトンやアリストテレスの影響も受けており、そうした
「諸々の学派をストア的に折衷させる」という傾向を示しています。そして段々と悪く言えば「通俗的」に、よく言えば「一般の市民にも浸透しやすいもの」となっていき、その典型が「セネカ」によって示されます。これはしかし通常いわれるように「通俗的になった」と悪い意味にとらえるより、ストアの精神であった良く生きる生き方の実現という面での「実生活的な面がより強調された」と理解してよいでしょう。一般市民にとっての実生活への実現ということになるとどうしても「理屈通り」にはいかなくなるわけで、理論的純粋性は保てず「折衷的」にならざるをえません。そうした傾向性をこの時代のストア学派は持っていたのでしょう。それが再びストアの教えに純粋となり、しかも実生活に実現されるというそうした意味で完成されたストアのあり方を示すのが後期の「エピクテートス」「ローマ皇帝マルクス・アウレリウス」の二人だといえるでしょう。二人の思想は理論的体系として語られているわけではなくエピクテートスのものは「弟子による語録」で、マルクス・アウレリウスのものは「自省録」と訳されているようにやはり「自分による語録」ですが、両者ともストアの精神が良く示されています。そうしたこともあってこの「エピクテートス語録」やマルクス・アウレリウスの「自省録」は今日まで歴史をかいくぐって残り、近代以降の人々にも多くの感銘を与え続けているのでした。章をあらためてこの二人を紹介します。

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