16.生と死に向き合った哲学者たち -8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

8.

愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」


 シノペのディオゲネスにも多くの弟子達がおり、その代表的な人が「クラテス」となります。そしてもう一人「クラテスの妻ヒッパルキア」の名前を特記しておかなくてはなりません。彼女こそ哲学史に登場する「女性哲学者の第一号」となるからです。
 彼らの師ディオゲネスは「乞食」のような姿をしていましたが、その精神は輝く黄金のようでした。その弟子クラテスも同様となります。ということはその妻ヒッパルキアもそうなります。彼女も
「乞食の様な姿」でした。しかし、その精神は本当に輝く黄金のようでした。「良く生きよう」とし「誠実に生きよう」とした彼らは「外見」は汚く貧しく哀れでした。女性の身にしてみればいやがって普通です。しかしヒッパルキアは違いました。彼女は裕福な家にうまれ、姿に美しく、しかも心まで美しく、クラテスの「汚く醜い外見」の中に隠された黄金の光を見ることができたのです。そして彼女はすべてを捨ててクラテスのもとに走っていったのでした。この章は哲学史には出てこない「美しい夫婦愛」を見ることになります。

クラテスの生れ
 
クラテスからですが、彼の故郷はテバイというところで、ここはアテナイからそう遠くありません。テバイはオイディプスやアンティゴネなど神話・伝承、悲劇の題材となった人たちがたくさんいることで有名なところです。クラテスの盛年は第113回オリンピア期とされていますので紀元前328〜325年となります。この盛年というのが40歳頃だとすると、彼の生まれは368〜365年頃、プラトンが60歳頃でシノペのディオゲネスが45歳頃ということになります。
 
ということになると、テバイがエパメイノンダスという英雄的将軍のもとにペロポネソス戦争後スパルタを破って(紀元前371年)ギリシャの指導的地位に立って興隆した時期の終わり近く、つまりエパメイノンダスの晩年ということになります。エパメイノンダスの死後はテバイは指導的地位を失いますが、しかし有力なポリスとしてギリシャにおいて重き位置を占めていました。しかし後にマケドニアに刃向かい壊滅の状態にされてしまいました(紀元前335年)。
 しかしクラテスはいつの時かその故郷を離れ、アテナイに出てディオゲネスの弟子になっていたのでした。それがいつ頃のことなのかは伝えられていません。ただそのきっかけが悲劇の中で
「テレポスという英雄が身をやつし、乞食姿」となって生きているのを見たからだとされています。そのテレポスとは「エウリピデスの作品『テレポス』の主人公」を意味しているのでしょうが、これはどうもクラテスが有名となってから作られた「逸話」といえそうでほとんど信用できません。何故ならこの物語自体はハッピーエンドになるのであって「乞食姿」というのも敵国に忍び込んだ英雄の「身を隠す」ものでしかなく「内的徳性」の要求する財産価値の放棄とは違うからです。クラテスの「乞食姿」と「テレポス」を引っかけたというだけのことでしょう。
 伝承では彼は名家の生まれだったのだけれどその
「土地財産を売り払い大金を得て、それを市民に分かち与えてしまい、こうして堅い決意のもとに哲学に励むことになった」といいます。あるいは師となったシノペのディオゲネスが彼に説いて土地財産を捨てさせたとも伝えられていますが、いずれにしてもどうも「家・財産を投げ捨てた」ようでした。そういうことになると、クラテスがディオゲネスの弟子となったのはまだ家財産が健全なままの時ということでしょうから、テバイがアレクサンドロス大王に壊滅させられる前、つまりその時はクラテスが30歳頃になりますので、そうだとするとクラテスがディオゲネスの下にやってきたのは20代後半ということになりそうです。

ディオゲネスの弟子クラテス
 ディオゲネスのもとに学ぶことになったクラテスは、とにかく
「欲望にうち勝つ克己心」を大事にしたようで、「愛欲」を抑えるのは「飢え」か、さもなくば「時(多分老齢ということでしょう)」、これらが役に立たなければ「首吊り用の縄」を用意しろなどといっていたようです。ただし彼には後で触れる有名な妻「ヒッパルキア」がおり子どもまで生んでいますので、夫婦間の愛情と性交は「愛欲」ではなく、ここで言っているのは「淫らな欲情」だけを意味しているのでしょう。ただ、通常キュニコス学派では「夫婦」などという「社会的繋がり」は持たないはずなのですが、クラテスとヒッパルキアの場合は特別なのであってそれは後で紹介します。
 そして世の人が
「幸せ」と呼んでいるものは「虚栄が手にいれた虚しいもの」としていましたがこれはキュニコス学派に共通の認識です。そして、哲学から得たものとして「はうちわ豆と何事も気にしないこと」と言ったようでした。この「はうちわ豆」というのはよくわかりませんが、どうも上品な食べ物ではなく「相当に下品な食べ物」であったようで、例えば後でみるストア学派の祖となるゼノンが「恥ずかしがり」なのを師であるクラテスが直そうと、この豆のスープを持って町中を歩かせようとしたところゼノンはそれに耐えられずその豆のスープを投げ捨てて逃げ出したなどとあります。
 
「何事も気にしない」というのはおそらく彼の哲学の神髄を言うのでしょう。師であるシノペのディオゲネスの「運命に対して心構えができている」というのと似ているようですが、「運命」という言葉に連想される「耐える」というニュアンスがなく「もっと自然」のような感じがします。ともあれこうして「恥だの外聞だの気にせず世のしきたりに挑戦するキュニコスの徒の一人」が生まれたわけです。

クラテスにおける鍛錬
もちろん、師であるディオゲネスが重要視していた
「鍛錬」はクラテスにもついて回っており、彼は夏には厚い毛皮をまとい、冬はおんぼろの姿で「克己心」を鍛え、水だけをのんでワインなど飲まず、食事も「パンとはうちわ豆のスープ」くらいのものだったようです。肉体にしても体操をして体を鍛えていたようですが、「彼の顔つきは醜く、その体操の姿も笑いを呼ぶようなもの」であったと伝えられていますが彼はそんなことは一向気にせず、自分を励まし体操をしながら、やがてあの連中は自分の無精を嘆く時がくるのだと言っていたようです。

アレクサンドロス大王との逸話
 クラテスについても師のディオゲネスと同様にアレクサンドロス大王との逸話が伝えられ、アレクサンドロス大王がクラテスの祖国テバイを再建して欲しいかと尋ねた時、
「それには及ばない、また別のアレクサンドロスがそれを破壊するだろうから」と答えたというものです。
 アレクサンドロス大王がクラテスと会っているという逸話自体はアレクサンドロスの生涯から言ってあり得ませんので(アレクサンドロスはペルシャ東征前にテバイを滅ぼしたのは歴史的事実ですが、直ぐにペルシャへと遠征し、ペルシャを滅ぼしはするもののバビロンで病死してしまいついにギリシャに戻ってくることがなかったからです)、これは
「世の繁栄というものに価値を見ていないクラテス」を言っているとも、あるいはまた「ポリスというものにこだわりをもたなかったシノペのディオゲネスと同じ精神をもっていたクラテス」を言っているのか、いずれとも理解できます。
 そして祖国ということについては、自分は運命によっても攻略されることのない
「世間の不評と貧乏という祖国」を持っているのだとか、また自分は「嫉妬の企みに全然動じなかったディオゲネスの同胞・同国人」である、とも言っていたようでした。

著作
 彼には
『書簡集』と題された書物がすくなくともローマ時代までは現存していたようで、その文体はプラトンに似ており実に素晴らしく、また悲劇作品も書き、それは哲学的性格を持っていたと伝えられています。そして例えばということで一つの詩句が紹介されていますが、その内容は「私の祖国は城郭の一つの塔、また館の一つの部屋にかぎられるのではない。大地すべて、どの町どの家にも住まいするよう我々には用意されているのだ」という師の教えの一つである「コスモポリテース」の思想を語ったものでした。

ヒッパルキア
 このクラテスに並んで有名なのが先に言及した女性哲学者
「ヒッパルキア」で、哲学が「人間として徳性のある人生を形成すること」と理解されていた古代にあってこのヒッパルキアも女性でありながら「哲学者」として評価された「史上始めての女流哲学者」と言えます。
 
もちろんキュニコス学派は今日的な意味合いでの「理論派」ではありませんから彼女にも特筆すべき「理論的著作」などはなかったようで、従って現代の哲学史では彼女のことは全く無視されています。しかし古代から中世の時代、世界は何処でもそうであったようにこのギリシャにあってすら女性というものは社会的活動の外に置かれて疎外されていたということを考える時、このヒッパルキアの存在は特筆すべきものがあると言えます。
 
また、このヒッパルキアを哲学者として伝え残した「ギリシャ・ローマの人々」というのもなかなかのものがあります。

 さて、彼女は後で言及する兄のメトロクレスがクラテスに感化されてその門下に加わったことからなのかクラテスのことを知り、その話しに感動しまたその
「哲学的な人生の送り方にすっかり惚れ込んでしまった」と伝えられます。そして彼女の家は名家で、そしてまた彼女自身も素敵な女性であったらしく求婚者がたくさんいたとされていますが、その誰にも目もくれず、求婚者達の家柄・財産・身なりなどにも全然心動かすことなく、一途にクラテスを思い続け、果てには「クラテスと一緒になれなければ自殺する」とまで言って両親を脅したとも言います。
 困ってしまった両親は、仕方なく当のクラテスにあきらめさせるよう頼んだのでした。そこでクラテスも「他人事ではない」ということで説得に及んだのですが全然駄目でした。クラテスはついに立ち上がり、彼女の目の前で自分の身に付けていた衣服を全部脱ぎ捨て、
「お前が婿にしようとしているものとはこれだ、そして財産はこれだけだ、そしてまたお前が私と同じことに従事するのでない限り私と共にいることはできないのだ」と言い放ちましたが、ヒッパルキアは迷うことなくクラテスと一緒になることを選んだと伝えられます。
 そしてそれからはクラテスと同じキュニコス学派らしい
「乞食の衣服」をまとい、クラテスとともに「どこにいくにも一緒」で、また「人前であれ公然と夫婦の行為」をし、一般には女は同伴できない「宴席にも一緒についていった」のでした。これらは当時の「一般の女性にとってはあってはならないこと」でした。女は「家」にいるべきもので、昼日中ちゃんとした家の子女は外を歩き回るなどということは許されず、もちろん人前で夫と交わるなど有り得べからざることですし、宴席にノコノコついていくなどということもあり得ることではありませんでした。宴席は男性だけのものだったからです。要するに女とは「奥ゆかしく」なければならないのが当時の(何処でも何時の時代も、ですが)絶対の倫理だったのです。
 連れて歩いていたクラテスもクラテスですが、それについていっているヒッパルキアは当時にあっては
「奇怪そのもの」と見られたでしょう。まさに「犬」と評されたキュニコスの精神、つまり「社会常識や世間の評判、社会的価値観に噛み付き、戦いを挑む精神」そのものを体現している「女性戦士」の姿が見られます。これは当時の社会のあり方からして「男以上の精神力」を必要としたはずでヒッパルキアの凄まじさが忍ばれます。

哲学者ヒッパルキアにまつわる逸話
 そうした彼女の哲学者としての姿を伝える逸話が幾つか伝えられていますが、例えば
「無神論者」として有名なテオドロスをやりこめた話しなどがありますが、これは無神論者らしく「正・不正など無い、というニヒリズム」をテオドロスが主張したのに反論したものらしく、「正・不正」などないのだからテオドロスが為していることは別に不正ではないと主張するのなら、私ヒッパルキアが為したことも不正ではないということになる、ところでテオドロスがテオドロスを殴ってもこれは不正ではないのだから、私ヒッパルキアがテオドロスを殴っても不正ではないのだ、とやり返したというものです。
 なかなか鋭い知性を持った女性であることが推察されます。そしてこの時テオドロスは反論できなかったからなのでしょう、やにわに彼女の上着をまくり上げたといいます。キュニコス学派の彼女ですから
「ぼろぼろの上着一枚だけしか身にまとっていない」筈ですのでこれではたまりません。全身丸裸のまんまが晒されてしまいます。しかしこのときも彼女は通常の女性の見せる「狼狽の姿を全くみせず泰然」としていたといいます。
 そしてまた
「機織りをしない女」(当時機織りは女の命とすらされる女の仕事でした)と冷やかされた時も、「機織りに使う筈の時間を教養のために使ったとして間違った考えだとは思えませんでしょう」と言ったとあります。こうした逸話を通して見られる彼女の姿は、「一徹で精神力において優れ、知性的で機転が効き、しかも愛した男に誠実で、自分の生き方に確固とした信念と自信とを持って、しかも社会と戦う姿勢をもった素晴らしい女性像」が見られる気がします。

クラテスとの出会い
 
ところでヒッパルキアがクラテスを知るきっかけが何であったかは伝えられていないのではっきり分からないのですが、先に示したように、兄であるメトロクレスがクラテスの弟子になっていたのでその縁だろうと推察しておいたのでした。
 その
「メトロクレスがクラテスの弟子になったいきさつ」の方は伝えられております。それによると彼はもともとは「アリストテレスの門下であるテオプラストスの弟子」であったのだが、ある時「弁論」の稽古をしていたとき「オナラ」をしてしまったといいます。「稽古」だとするとすぐ脇に仲間も師匠もいたのかもしれません。当時は「人前でオナラ」をすることは非常な恥であったようです。ですから「喜劇」などではやたらに「オナラの場面」などがでてくるほどです。そういうわけで彼はすっかり意気消沈して家に閉じこもり、食を断って死ぬつもりになってしまいました。
 これを心配した家人に頼まれてクラテスがメトロクレスを説得することになったのですが、クラテスはあらかじめ
「はうちわ豆」をたらふく食べて出かけ、メトロクレスに向かって「オナラは別に恥ずべきことではなく自然現象」で、しかも出ないとなるともっと異常なことになることを説いて納得させ、そうしているうち「自分でもオナラ」をし、メトロクレスと同じ立場に立ったことを見せたといいます。「はうちわ豆」を食べていったのはこのためだったというわけです。
 
こうしたクラテスに心打たれたメトロクレスはそれ以降クラテスの下にあってキュニコスの哲学を学び、やがてはクラテスを継ぐ人物になっていきました。そして弟子も育てこうしてキュニコス学派の命脈は保たれていくことになったのでした。

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