16.生と死に向き合った哲学者たち -7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

7.

第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」


 ソクラテスの弟子でありキュニコス学派の祖であった「アンティステネスの弟子の筆頭」「シノペのディオゲネス」という人がいます。この人は「酒瓶」を住みかとしていたとして別名「酒瓶のディオゲネス」と紹介されて良く知られています(「酒樽」と言われることが多いですが当時は木製の「樽」というのは存在せず、酒は土製の「大瓶」に入れられていました)。一般に彼が有名となったのは「その奇行」からで、たとえば食事をするのが恥ずべきことではないのならばどんなところで食事をしてもいいだろうと言って当時にあっては非常識なところで食事をしたり、同様のことが「性的なこと」についても行われたりということが面白おかしく伝えられたからです。これは彼が「社会常識に意図的に戦いを挑んだ」その表現なのですが、現代の哲学史は理論のない「ただの奇人」として殆ど問題にせず、少し詳しい哲学史でも「実践を旨とするキュニコス学派の代表的人物」として名前が挙げられる程度です。
 しかし、このディオゲネスは古代ギリシャ末期の当時からローマ時代を通して
「第二のソクラテス」としてソクラテスの精神を受け継ごうとした人々に「ソクラテスに次ぐ模範」とされていたのでした。私たちとしては「時代の精神」を表している人として、あるいは古代にあっての哲学の理解、つまり「人生の形成としての哲学」の代表者として重要な人物の一人であると考えます。

シノペのディオゲネス
 さて、このシノペのディオゲネスの
「シノペ」というのは彼の故郷を指しています。黒海の南岸、現在のトルコ領となり現在まで健在の町で「スィノップ」と呼んでいる町がそうなります。当時はギリシャ・ポリスですがアテナイからは非常に遠い所となります。
 このディオゲネス以降、古代ギリシャ哲学の担い手達はほとんどがアテナイの出身者ではなくなり「全ギリシャ文化世界」からの出身となってきます。
「全ギリシャ文化世界」とは紀元前300年以降のアレクサンドロス大王によってエジプト、ペルシャなどがギリシャに融合されて当時の西方世界が一つとされた「ヘレニズム時代」を意味します。
 そのはしりがこのシノペのディオゲネスというわけなのでした。実際、彼によって古代ギリシャの最大の特質であった「ポリス社会」に代わる
「脱ポリスの思想としてのコスモポリテース(世界市民)」という概念が言われてくるのであり、そうした意味でも重要な人物なのでした。

ディオゲネスの生涯
 さてこのシノペのディオゲネスの生涯ですが、ディオゲネス・ラエルティオスは、デメトリオスという人が伝えているところによるとその死んだ年はアレクサンドロス大王と同じであったと言われている、と伝えています。それだと
「紀元前323年」ということになります。
 
また別に、彼は90歳近くで死んだと伝えられ、また第113回オリンピック期(紀元前324〜321)にはすでに老齢であったと伝えられています。これらを総合するとやはりこの323年頃に90歳近くで死んだということになりそうです。
 そうすると生まれた年ですが、死んだ時90歳近くとすると、生まれはおよそ前412年頃となり、プラトンより15歳くらい若いことになります。これはアンティステネスの弟子としても頃合いの年齢となります。ただし彼はアテナイ人ではないのでプラトンと同じ経験をしてはいません。また、当時のシノペの状態がどのようなものであったのかも詳しくはわかりません。したがって彼がどういう少年時代をすごしたのかも分かりません。ただ、後年の彼は「
世界市民」というポリスを超越した考え方を言いだしていることからすると、シノペも穏やかで安定したポリスの状況にはなかったのかもしれません。

 
若いとき彼は故郷のシノペにあって父親と同じく「両替商」を営んでいたようですが、その父親かあるいはディオゲネス自身かが「貨幣を変造」したことで追放されアテナイに流れてきたようでした。逸話に、彼がその事で非難されたとき、確かにかつての自分は君と同じようなやくざ者だったが、しかし君は今ある自分のようには決して成れないだろうと切り返した、などというのがあるのでご本人であったのかもしれません。
 従って、多分彼が有名になってからのことでしょう、神アポロンが神託でディオゲネスに向かって
「ノミスマ(社会制度・慣習の意ですが、また通貨ともなります)を作り替えろ」と言ったのを、アポロンは「社会慣習・制度」のつもりだったのにディオゲネスが誤解して「通貨」を作り替えてしまったのだ、などという逸話も作られようでした。もちろん実際に彼がやったことは「社会慣習・制度の方のノミスマ」のひっくり返しであって、これと「貨幣のノミスマの変造」がうまくゴロがあうということで作られた逸話となるでしょう。
 彼がアテナイにやってきた時期ですが、それが幾つくらいの時なのかは全く分かりませんが、一人で来たとするならすでに青年期以降でしよう。ともかく彼はアテナイに流れてきて
「アンティステネスを知り、彼に惹かれた」のでした。もちろんソクラテスはもうすでに生存していません。アンティステネスは彼についての章でみておいたように厳しい人でやたら弟子をとらなかったわけですが、この時も杖を振り上げてディオゲネスを追い払おうとしたと言います。しかしディオゲネスは「どんな硬い杖であろうと自分を追い出すことはできないであろう」といって頭を差し伸べたのでアンティステネスは彼を弟子としたと言います。

ディオゲネスの生活ぶり
 そのディオゲネスの生活ぶりは「酒瓶」を住みかにしたという伝承のように、質素を通り越して
「何も持たない」という「乞食以下の生活」になっていました。これは、伝えられているように「流れ者」という必然もあったでしょうが、アンティステネスに惹かれて強引にその弟子になったわけですから意図的にそうしたのだろうし、それはアンティステネスの思想を徹底した彼なりの哲学に基づいたものだったと言えます。ともかく彼は「金銭への愛はあらゆる災いの母である」と主張していたようなので「乞食以下」となっていたのも当然でしょう。
 そうした彼について、テオプラストスという人が
「ディオゲネスは、ネズミが寝床を求めることもなく暗闇も怖れずまた美味なものをほしがりもしないのを見て、自分の境遇を処する術を見いだしたのだ」と伝えているのが紹介されたりしています。
 そしてまた住みかに関しても、当初は「どんな場所も食事をしたり寝たり話しをする場所」にしてしまい、彼は「ゼウス神殿のストア(柱廊)やら公の保管庫やらを指さして、アテナイ人は自分のために住みかを用意してくれている」と言っていたと伝えられています。つまりたとえ神殿であれ何であれ何処でも平気で住みかにしてしまっていたということです。そして最終的に町中に転がしてあった土製の
「酒瓶」に潜り込んでいたというわけです。
 またさらに、ある時彼は子どもが手で水を掬って飲んでいるのを見て
「自分は簡素ということではこの子どもに負けている」といって袋からコップを取り出し投げ捨てたとか、同じく子どもが皿を壊してしまいパンに凹みを付けてスープを入れているのを見て「お椀も投げ捨てた」と伝えられています。こんなでは結局何もかも無くなってしまうのは当然です。

アレクサンドロス大王との逸話
 こうした、
「物にとらわれないディオゲネス」という文脈の中に「アレクサンドロス大王との逸話」もあるわけです。その中で有名なものは、ディオゲネスが日向ぼっこをしているところにその噂を聞いたアレクサンドロス大王がやってきてディオゲネスの姿を見て感動し、何なり望みのものを申してみよと言ったときに、「それではどうかそこをどいてくださいな。日陰にしないでいただきたい」と答えたというものがあります。「自由で世間的価値を超越しているディオゲネス」を伝えて有名なものです。
 
しかし、アレクサンドロス大王は若干20歳にして王位を継いで直ぐにペルシャ東征に赴き、それに成功して大王と呼ばれるようになったわけですが、ギリシャには帰れずに10年後に30歳にしてバビロンで死んでいますのでディオゲネスとこんな形で出会っていたということはあり得ません(東征前の若いアレクサンドロスというのも無理です)。つまり、これは両者が有名となった後に作られた「物語」であることは明らかです。しかし、それにしてはどうも「アレクサンドロスとディオゲネスの逸話」というのがたくさんあって、何かしら両者を結びつけたくなる何かがあったのかもしれません。
 その一つですが、アレクサンドロスは
「もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたらディオゲネスであることを望んだであろうに」と語ったと伝えられています。この逸話は「アレクサンドロス大王の人柄」について語っていると同時に、当時にあってディオゲネスがアレクサンドロス大王にまで知られる人物になっていたということと、「権威とか世間を超絶しているディオゲネス」とを伝える当時の「ディオゲネス評価の一つ」となります。
 またアレクサンドロスがディオゲネスの前に立ち、「お前は余が恐ろしくはないのか」と聞いたとき、ディオゲネスは「あなたは悪人ですかそれても善人ですか」と問い返し、アレクサンドロスが「善人だ」と答えると、
「善人を怖れるものはいないでしょう」と答えたというのもあります。
 ついでにディオゲネスはアレクサンドロスの父であるフィリップス王との逸話もあって、そこではディオゲネスはカイロネイアの戦いに出陣していたが敗戦において捕らえられ王の前に引き出されて、「お前は何者か」と問われた時に
「お前の飽くことのない欲望を探る偵察だ」と答えて、この答えにフィリップスは感服して彼を放免したというものです。全くありそうにない話しですが、これもディオゲネスのありよう・人物像を描写しているものとすれば、そんな逸話を作った当時の人々のディオゲネス評価の一つとして受け止めることもできるでしょう。

精神と肉体のバランス
 ディオゲネスは
「鍛錬」ということを非常に重視したようで、またその鍛錬を「魂(精神)面と身体面の両面」で行ったと伝えられます。ディオゲネスによると「精神と肉体とは切り離せない性格をもっている」と理解されていたようで、身体の鍛錬抜きに魂の鍛錬はないとされていたようです。
 というのも「ことがうまくいく」ということや「強さ」というのは魂だけの問題ではなく身体においてもあるからで
「両者がバランスとれている必要」があると考えていたからでしょう。
 魂の鍛錬は当然
「徳の実践」に向かうために必要であるわけで、快楽ということに対する抑制は快楽と反対のものによって鍛えられて強くなるとされて、「快楽を侮蔑する鍛錬」をしておけば容易にそれができるようになると考えられていたようでした。
 
そこで彼は夏の暑いときは熱い砂の上を転げ回り、寒い冬には雪の上を歩いたり、また雪をかぶった銅像を抱きかかえるなどして様々の機会を捕らえては自分を鍛えていたと伝えられています。
 こうした
「訓練が人間としての優れへと人を導く」ということの例証として、彼は技術・技能・スポーツに優れた人を例に挙げ、それは彼等の日頃の絶え間ない訓練・練習・労苦のたまものであることを示し、そしてそういった「鍛錬が魂の面にまで及んでいれば彼等の労苦は本当に優れた成果を生むだろう」といったと言われています。
 そうはいっても何でも労苦がいいというわけではなく、「無用な労苦」ではなく
「自然に適った労苦」を選べと教えていたようです。
 さらにその生活ぶりは
「ヘラクレス的生活」とされてきますので、これは「社会や家に守られた安楽の生活」とは逆の「嵐に立ち向かう艱難辛苦の生活」になってしまいます。ヘラクレスは12の偉業で知られる神話上の人物ですが、この12の偉業はいずれもすさまじい難行でした。この「ヘラクレス的生活」というのはディオゲネスの師匠であるアンティステネスが言っていたことでした。

理性の重視
 ディオゲネスはこのように既存の価値観ではなく、
「自然に適った」と考えられる価値に従うとなるのでしょうが、これは結局「理性が教えてくるもの」となりそうなのは、ディオゲネスが常々「人は理性を備えるか、さもなければ(首をつるための)縄を用意しているべきだ」と語っていたといわれるところからも確認できると思います。
 そして彼は
「運命には勇気を、法律習慣には自然本性を、情念には理性を対抗させる」と主張していたとされます。こうして彼は、「まさしくノミスマ(社会慣習)を変造していた」のであって法律習慣にしたがうことには少しも価値を認めず「自然本来(内容的には理性)」にあることを尊しとしていた、と言われることになったわけでした。
 そして
「自由にまさるものはない」としていましたがこの自由とは「勝手放題・野生」を意味しているのではなく「社会常識・慣習に縛られない」ということで、具体的には「贅沢や立身出世を価値あるとする見方」を退けることであり、「理性にのみ耳を傾ける」となります。

コスモポリテース
 ただしそうは言っても
「社会的無秩序」には警戒していたようで、「法がなければ市民生活を送ることは不可能である」と主張していたようです。つまり彼も市民生活の野生化を主張していたわけではなく、人間の生活での文化は大事にしており、それはポリスがあって始めて可能となるとし、それは法によって保証されると考えていたようなのでした。ただその法の内容が問題になるわけなのであって、「既存のポリスのあり方及びその法が違う」と考えられていたのでしょう。
 彼は「何処のポリスの人か」と問われた時
「自分はコスモポリテース(世界市民)だ」と答えたと伝えられています。この「コスモポリテース(世界市民)」という概念はここではこれ以上の説明がないのではっきりしたことはいえませんが、人間が一つのポリスの価値観や習慣にとらわれ、そのポリスだけの人間として狭く生きるのではなく「世界の人間を等しく人間として捕らえて、すべての社会を一つの社会として生きるべきだ」という主張だとしたら、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの「ポリスの哲学を転覆」させている「革命的で、ある種すさまじい思想」であったと言えます。これは思想史的には、「脱ポリス」概念の始まりとして大事であり、これは後のローマ期のストア派やエピクロス学派に顕著にでてくる概念の源として見なせます。
 こうしたところから彼は
「社会に対して噛み付く」ような態度になっていったのであり、それは当然「政治・文化的指導者」とか「金持ち」などの社会的に立身出世している人、名門を鼻にかけている人々、贅沢な暮らしをしている人々、軟弱な人々、世間に流されて生きている人々に対してのものでした。
 
ですから例えば「学園」など作ってそこの長に収まっているインテリもその批判の的になってくるわけで、従ってアカデメイアなどという学園を作ったプラトンとはどうも仲が悪かったようでいろいろと逸話が伝えられています。

ディオゲネスとプラトンの関係
 プラトンがディオゲネスとはどういう男かと問われて
「狂ったソクラテスだ」と答えたというものがありますが、これは当然「褒めた言葉」ではなく、ソクラテスの真似をしているつもりのようだが「気違いだ」というようなニュアンスのものでしょう。他に伝えられているプラトンのディオゲネスに対する態度も、いずれも好意あるものではないです。
 ディオゲネスの方も負けては居らず、例えば
「プラトンの講義(ディアトリベー)は暇つぶし(カタトリベー)」であると駄洒落で揶揄していたとか、プラトンが家にシラクサの王ディオニュシオスのところからやってきた人を招待したとき、ディオゲネスが絨毯を踏みつけて「プラトンの虚栄」を踏みつけてやるといったとか、ぶどう酒をねだっておいてプラトンが樽を送ってやったところ「所望されたものを計算もできない」と言ったとか、イチジクを分けてやると言われてプラトンがそれを食べたところ「分けてやるとはいったが食べてもいいとは言わなかった」とか、こんな調子ではプラトンならずとも怒れてきて当然です。
 ですからプラトンの方もディオゲネスに対して、
「お前は見栄を張っていないと見せることによってどれほど多くの見栄を人前にさらしていることか」とこれは絨毯事件の時ですが切り返したり、「とどまるところを知らないおしゃべり」と評したり、「ディオゲネスは犬」だと言ったとか、ディオゲネスが水をぶっかけられてそのままの姿で立って大勢の人に身をさらしていた時プラトンは、もし諸君が本当に彼を気の毒と思っているならここから立ち去りたまえと言ったけれど、それは「ディオゲネスの虚栄心を皆に教えようとしてのこと」であったとかいろいろ伝えられています。
 こうしたプラトンとのやりとりの中で有名なのがプラトンの
「人間の定義」に対するディオゲネスの揶揄で、それはプラトンが「人間とは二本足で羽根のない動物である」として好評を得たとき、ディオゲネスは「羽根をむしり取ったニワトリ」を携えてきて、これがプラトンのいうところの人間だといったので、その後プラトンは先の定義の言葉に「平たい爪をした」という語句を付け加えることにした、というものです。
 またもう一つ、プラトンのイデア論において
「机そのものとか、杯そのもの」という言い方がされたとき、ディオゲネスは自分には「机や杯」は見えるけれど「机そのものとか杯そのものなど一向に見えないね」と言ったと伝えられます。これに対してプラトンは、「それはそうだろう、というのも君は机や杯を見る目は持っているようだが、机そのものや杯そのものを見る“知性”を持っていないからだ」と応じたといいます。
 
このディオゲネスのイデア論にたいする冷たい反応は師であるアンティステネスにもあったものですが、この辺りの逸話はプラトンが「知性的理論派」であるのに対してディオゲネス達の「現実主義」を表しているものとして、あるいは近代以降はプラトン重視ですから「プラトンの無理解の代表」として言及される逸話です。
 他方、ディオゲネスが
「理屈を嫌っていた」らしいことは他の逸話にも見え、例えばエレア派は論理において「運動の否定」を主張したのですが、それに対してディオゲネスは立ち上がってそこいらを歩いて見せたという逸話も伝えられています。
 こうしたディオゲネスの態度はとにかく
「現実にどう生きているか」ということが問題なのだというキュニコス学派の態度をよく表しています。これについては、ディオゲネスが「立派なことを語りはするがそれが行為に現れていない人を、キタラ(琴)にたとえていた」という逸話を挙げておきましょう。つまり「琴は美しく奏でることはするがそれだけの話しで、琴には知性もなく理性もなく人のいうことを聞くことも理解することもできない」というわけでした。ディオゲネスにとっては「何を語るか」ではなく「どのように行為しているか」が問題だったということです。

ディオゲネスの迷信批判
 「知性や理性」を大事にするディオゲネスが、当然でしょうが
「迷信や占い、秘儀の類」を侮蔑していたことも伝えられています。例えば秘儀にあずかり死後の幸福をと説いた人に対して、「立派な行いをした人物が“秘儀に与っていない”ということであの世で泥土の中に落とされ、下らない人生を送った人間が“秘儀をうけた”ということで幸せになるというのではずいぶんと笑うべき事ではないか」と言ったとか、ある人が身を清めているのを見て、「君が身を清めたからといって文法上の誤りが拭えないのと同様、人生上の誤りから免れることはできないのだ」と言ったとか、あるいは「夢見が悪かった」といってクヨクヨしている人に、「目覚めている時の行為には少しも注意をしないのに寝ているときの幻について大騒ぎをするのか」と言ったとか伝えられています。

社会にかみつくディオゲネス
 こんな具合に「噛み付き」は当然プラトン達インテリに対してだけではなく、むしろ世間一般の人々に対して行われていました。よく紹介されるのが、
「白昼ランプをかざして、人間を捜している」といいながらあちこち歩き回ったというものです。もちろん、この「人間」というのは「知性と理性をもって有徳に生きている人」を指しています。
 同様の趣旨のものとして、彼が
「オーイ人間よ」とよびかけたので大勢の人が集まってきたところ彼は杖を振りかざし「俺が呼んだのは人間であってクズではない」と言ったとか、あるいは彼が公衆浴場から出てきた時「人は多かったかい」と聞かれた時には「いいや」と答えたが、「混んでいたかい」と聞かれた時には「うん」と答えたとか、オリュンピアから帰った時、大勢集まっていたかいと聞かれて「ああ大勢だった、だけど人間はわずかしか居なかった」と答えたとかたくさんあります。
 しかしこれはどうも「同胞であるアテナイの市民」に対してのもので、スパルタの人々は立派な人々と見なしていたようです。例えば、ギリシャのどこに優れた(むしろ勇気あるというべきかもしれませんが、両者は同じ内容を持っています)人間がいるかと問われて、優れた人間ならさがせばどこの地にもいるだろうが、
「優れた子どもたちならスパルタで見られる」とか、彼がスパルタからアテナイに戻ろうとしていたとき、どちらへ行くのですかまたどこから来たのですかと問われて「男部屋から女部屋へいくところだ」と答えたとか伝えられています。スパルタは尚武の国として質実剛健を旨とし、人々は非常に質素な生活をしており口数も少なく、また肉体の鍛錬に日を費やし、秩序正しい生活をしていましたからディオゲネスには当然気に入ったでしょう。しかし彼は自分の気にいった土地で安楽に暮らすのが目的であったわけではなく、人々に「人間の真実」を伝えようとしていたのでスパルタに居を構えることはしなかったのでした。

ディオゲネスの皮肉
 そして、ディオゲネスは人々に
「皮肉な態度」で迫っていったのでした。例えば、真面目で真剣な話しには人々は集まってもこず、下らない話しだとワッと集まってくるのを見て、「人々は下らぬ話題には真剣に、真面目な話しにはノロノロだ」と言って咎めたり、人々は競技だと目の色を変えて真剣になり全力を尽くすのに、「立派な良い人間になるということについては誰一人競い合おうとしない」とか、文献学者はホメロスの英雄「オデュッセウス」の落ち度についてはいろいろ探し求めるのに「自分自身の落ち度については全然さがそうともしない」とか、音楽家は琴の調子は合わせるのに「自分の魂の調子は不調和なままにしている」とか、天文学者は天のことには目を向けるけれど「自分の足下のことは気にもかけない」とか、弁論家は「正義」について論ずるには熱心だけれど「少しも正義を実行しようとはしない」とか、人々は金持ちより正しい人の方が立派だと賞賛しながら他方で「金持ちを羨ましがっている」とか、健康を神々に祈りながら「山ほどのごちそうをたいらげたりしている」とか、何時の世にも尽きない話で一杯です。

奴隷となったディオゲネス
 
ディオゲネスがアテナイの対岸のアイギナ島にいこうと船に乗り込んだところ海賊に襲われてクレタ島まで連れて行かれて奴隷として売り飛ばされてしまったという事件が伝えられています。こんなことは当時よくあった話しですのでこの話しは事実らしいですが、こうして彼はコリントスのクセニアデスという人に買われて彼の奴隷となり、そしてコリントス(アテナイからほど遠くないポリスで歴史を通して重要なポリスでした)で生涯を終えることになったようです。先に紹介した「アレクサンドロス大王と日向ぼっこ」の話しはこのコリントスが舞台となっています。
 しかし、これまで見た逸話はアテナイを舞台にしていますので、そうするとこの奴隷にされたという事件はディオゲネスの晩年だと考えられます。ともかくこうして彼が奴隷として売りに出されて、お前はどんな仕事ができるのかと問われて、
「人間を支配することだ」と答え、たまたまそこに来合わせていた立派な衣装をつけた男を指さし「あの男には主人が必要である、あの男に俺を売れ」と言ったといいます。その男はいいなりにディオゲネスを買ったのですが、それがコリントスのクセニアデスというわけでした。ディオゲネスはクセニアデスに向かって、「たとえ自分は奴隷として買われたのだとしても自分の指図には従ってもらわねばならぬ、それはちょうど医者や航海士が奴隷であってもその指図にはしたがわねばならないのと同様だ」と言ったといいます。
 しかしクセニアデスはどうも
「ディオゲネスの正体」を見抜いていたようで(アテナイでディオゲネスを見知っていたのかもしれません)、その言を受け入れ自分の息子達の教育ばかりか家のこと一切をディオゲネスに任せてしまったといいます。こうされてディオゲネスの方も家政すべて万事うまく処理していったので、クセニアデスは「自分のところには福の神が舞い込んだ」と大喜びで吹聴して歩いたといいます。
 一方、ディオゲネスの知人がこの事を知り身代金を払って彼を買い戻してやろうとしたところ、ディオゲネスは
「ライオン(つまり自分)を飼っているとして、ライオンを怖れている方(つまりクセニアデス)がライオンの奴隷(つまりクセニアデスの方が自分の奴隷)なのだ」と言ってその身請けを断ったといいます。あるいはディオゲネスはこのクセニアデスのところが気にいったのかもしれません。彼はこのクセニアデスの息子達の教育に全力をつくしているのです。まず通常の子どものやる学業(読み書きソロバン)を教え、ついで乗馬、弓術、石投げ、やり投げを指導し、さらにレスリングの訓練に通わせたけれどここでは競技選手向きの訓練ではなく「健康で強靱な体を作ること」に専念させたといいます。それから今度は「詩人や散文作家、また自分の著作の中から数多くの章句」を覚えさせ、また学んだことが「記憶にとどまるようあらゆる方法を練習」させたといいます。生活の方では、「身の回りの事は自分で始末できる」ようしつけ、「粗食」に甘んじさせ、「水だけ」をのませ(つまりワインはのませなかった)、「髪は短く」刈り、「飾り物」などつけさせず、「下着」もつけさせず、「靴もはかせず裸足」のままで、「口はキリッと結び」「しっかり前をみて」キョロキョロあたりを見回すようなことはさせず、また時には「狩り」にも連れていったといいます。
 
そしてその息子達もディオゲネスを敬愛して慕い、彼が死んだ時にはこの息子達によって葬られたといいます(別伝ではディオゲネスの弟子達がこの埋葬の主体となるべくその息子たちと争い、協議した結果コリントスに近いイストモスに両者で埋葬したとも言われます)。

ディオゲネスの正体
 このコリントスでのディオゲネスの姿は、アテナイにあって「犬」といわれた「奇行のディオゲネス」とは何やら違う感じがします。
「有徳で良き教育者」のディオゲネスがいるからです。しかしおそらくディオゲネスの正体はこちらにあるのだと考えられます。つまりその「犬のような奇行・皮肉・噛み付き」というのは「腐敗した社会に対する哲学者の戦い」としての「戦士の姿」なのであり、「鎧をとった時の彼の正体」はこのコリントスでのクセニアデスの家の中でのディオゲネスであったのでしょう。とにかく彼は一生懸命誠実に生きていきたかったのでしょう。
 これについても、彼がもう老境にさしかかった時、もう年なのだからゆったり暮らしたらとアドバイスされたとき、彼は、
「もし長距離レースを走っていてゴール近くになったとき一層力を入れるのではなく力を抜けとでも言うのかい」と答えたという逸話が伝えられています。「生きている限り最後の最後まで全力で生きるべきだ」という人生に対するディオゲネスの態度が良く伝えられた言葉です。
 しかし実はそうした
「ディオゲネスの正体をアテナイの人々も見抜いていた」ようで、アテナイの人々は彼が若者達に乱暴されているのを目にしたとき、その若者達をひどく仕置きをしたと伝えられ、またある若者が彼の住居にしていた酒瓶をわざと割ってしまったとき、アテナイの人々はその若者をひどく懲らしめ、ディオゲネスのために別の瓶を用意してやったとも言われています。ですからこのディオゲネスを伝えているディオゲネス・ラエルティオスは「アテナイの人々は彼を愛していた」という言葉まで使っているほどです。そして彼の講義の聴講者の中には「誠実な人とあだ名をとっていたポキオン」「多くの各界の指導者達」が混じっていたと言われています。
 ディオゲネスは哲学をすることについて
「他に何がなくても少なくともどんな運命に対しても心構えができていることだ」と答えたと伝えられていますが、これは後のストアの精神にそのまま受け継がれていきます。また、「教育・教養」について、それは若者にあっては「節度の獲得」、老齢の人には「慰め」、貧しい人々にとっては「財産」、富める人たちにとっては「飾り」である、という言葉もよく知られています。
 こんなディオゲネスであったために、哲学を志した人々、つまり「生きることを誠実に考えようとした人々」は
「第一にソクラテス、第二にディオゲネス」と呼んで彼らの精神を受け継ごうとしていたのでした。

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