16.生と死に向き合った哲学者たち - 6. アリストレスの「人間、生き方、社会」の論 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

6.

アリストレスの「人間、生き方、社会」の論


 プラトンの弟子であるアリストテレスの「人間の生き方」についての論は「エティカ・倫理学」と呼ばれます。アリストテレスはプラトン以上に「学究肌」の人であり、「人生の形成」という意味ではソクラテスの弟子の系譜の人々の中ではもっとも弱いとも言えますが、逆のその思想は「もっとも理論立っており体系的」で、近代哲学の模範的な位置にあります。
 「エティカ」という言葉は日本語で「倫理学」と訳されていますが、
「倫」というのは「仲間内、集団」といったような意味で「理」というのは「筋道」ということです。つまり「人間の仲間内・集団での筋道」といった内容です。他方、「エティカ」の方はもともと「動物の巣、生活圏」というような言葉に由来し、いずれにせよ「人間の集団での人のありかた」というのが「倫理学」のテーマなのだと理解しておいてください。

人間は社会的動物である
 まず彼の倫理学の基本的な立場を見ておきます。アリストテレスの言葉として有名なものに
「人間はポリス的動物である」というものがあるのですが、これが彼の立場を表す最も端的な表現です。ここでの「ポリス」というのは取りあえず「社会」と理解しておいてください。つまり「人間とは社会的存在である」となります。また、この「ポリス」というはしばしば「都市国家」などとも訳されることがありますが、「人口が数千から数万単位で、互いに顔見知り」という規模のものだということも大事な知識となります。つまり今日の「国家」とは全然違います。ようするに「一つの町」くらいの単位の社会ということです。

 他方、アリストテレスは
「人間の特質を理性」に見て、その「理性が要求する人間の行為、よき行為の在り方」を考察していくわけですが、その時その行為は「社会の中での具体的行為」として現れるとされるのであって、社会から離れた、言って見れば「純粋・普遍的な人間行動の原理」といったようなものを問題にはしません。あくまでも「現に観察される社会的行為、社会の中での人と人のかかわりの在り方」を問題にしているということです。
 そしてここでは「社会」とやっておいた
「ポリス」というものの内容の理解が重要で、アリストテレスにおいては、現代の多くの社会が目的としている「経済的繁栄」を目指している社会を意味しません。むしろ、ポリスの構成員が皆対等に等しい権利と義務を持ち、手をつないで一つの集団を構成し「正しさを実現していくようなことが要請されている社会」となります。
 したがって、ここでの「エティカ・倫理学」では「社会的に生きていない人」など考慮の外となります。
「社会の中で具体的に大きく活動していく」のがギリシャ人の在り方だったのであり、アリストテレスはそれを端的に表現しているといえます。
 そんな具合ですから、
「社会の中で要求される人と人のかかわり、行為というものが思考できる」ということが「エティカ・倫理学の聴講者の条件」になってくるとアリストテレスは断っています。そうした発想のできない人、あるいは社会生活にまだ経験のうすい子供はこの倫理学の講座の学生として認められない、ということになってきます。

何がどの程度問われるか
 ここで考えられている行為というのは
「意識的なもの」「意図的な行為」とされていて「善・悪の判断」が伴ってくるものとなります。ですからここでは「無意識的な行為」や「本能的行為」などは考慮のうちに入ってきません。問題は一にかかって「人が意図して他者とかかわっていく、その行為の在り方」なのです。だからこそ「すべての行為は善を目指している」とか「行為には目的がある」という言い方がされてくるのであり、こうしたアリストテレスの前提的立場の理解は非常に大切です。
 さて、こうした前提をもっているのだとすると、その論は
「数学的緻密さをもつことはあり得ない」ことになってきます。なぜなら「現実的行為」を離れることがないわけですから、現実の行為というものが「絶対的」ではありえず「おおまかなところ」で行われている以上、それを扱う論も「大まかなところではこんなところが言える」というレベルでしかないからです。
 つまり、数学なら「三角形の内角の和は二直角になる」ということが「すべての三角形」にあてはまるわけですが、こんな具合に
「すべての人間にあてはまる行為の在り方など現実的にはあり得ない」わけで、「大体こんなところが善き行為と言えるだろうか」といった程度のことしか言えないわけです。これは、彼の倫理学の目的がただの「純粋な善」の理論的考察ではなく、実際に「良き人になるため」だといわれている事と関係しているでしょう。
 また、こんな事情ですから、「大まかな」という基準にはずれる
「例外的な人間の在り方・状況は考慮の外」になってきます。たとえばひどい災害や災難に襲われている人、重病人、障害を負った人など「平常の状況にない人」は全く考察の外になってきます。要するに、「健康で平穏に生活を送っている一般の社会人」のレベルで事が考えられている、ということです。
 それゆえ、行為の目的として
「幸福」ということがいわれてくる際も、たとえどんな人であってもひどい災難にあっているのでは幸福とは言えない、といわれてくるのです。つまり「一般人のレベルで普通」の状況をひどく下回っていると見なされる人はその限りで「一般の人の行為の目的である幸福」を得ることはない、と考えられているのです。
 つまりアリストテレスは「幸福」ということで
「自己完結的なもの(自己満足と言い換えてもよい)」など全然考えていないのです。結論的に言ってみれば、「社会の中で人と人とが良くかかわり、共に人格が磨かれていって、知性・感性・体力において優れ、社会を暮らすに良く、誉れあるものとしていく働きができる」というところに「人としての幸福」というものをみている、といって良いでしょう。ですから、この時「幸福」という言葉だけに囚われて、どんな貧乏人にも苦難の修行者にも「幸福」はあるのだ、同様、病人だって障害者だって、などというのはアリストテレスとは全然かみ合わないことになります。
 ということは、アリストテレスにおいても(ソクラテスも同様でしたが)財産・名誉・地位・快楽など市民生活における基本の追及価値が
「悪だ」などという評価にもなりません。ただ、ソクラテスやアリストテレスにとって、「それらはそれだけのこととしては幸福を保証するものではない」ということを言うだけのことです。財産・地位など追及されても一向に差し支えはないのですが、ただそれが(結論的に言われてくる)「真実の幸福を保証してくる人間性、知性」などに抵触しない限りにおいてなのです。
 つまり、財産などそれ自体としての価値があるわけではなく、それを「善なるもの」とするか「悪なるもの」とするかは
「人間の人柄や知性によっている」というソクラテス的な見解がここにもあるのです。すなわち、くりかえしますが、求めらるべきは「よき人柄」「知性」なのです。それがあってこそ「よき人と人のかかわり」が可能となるのであり、「よき社会の実現」が可能となるのであって、ここにこそ「人としての幸福が実現してくる」と考えられているのです。

人間の生活の三つの型
 アリストテレスは人間の生活の姿勢をおおまかにわけて三つにわけていますが、それは
「享楽的生活」「ポリス的生活(ギリシャ語でポリティコスと言い、ここでは「ポリス・社会のために働こうとする人々」を意味します)」、そして「観照的生活(理性が理性そのものを見て楽しんでいる状態ですけれどこんなの現実的にはあり得ません。しかし理論上は要求されなくてはなりません)」とになります。無論、理論上は三番目が一番優れた生活の在り方となります。何故なら「人間は理性を持つことによって人間と言える」からです。
 簡単に説明しますと、一番目は私たちの社会でも一番多いタイプで
「利益・快楽」を一番大事に生活している人々です。この人々は究極的には「自分だけの利得、快楽」を第一に考えることになるので、ポリスの目的たる「正しさの実現にはマイナス」の人々とされ、したがって当然評価は低いことになります。アリストテレスはこの人々は要するに「正しさ」の何たるかなどということには興味も示さず「食う」ことばかり考えている「家畜のような人々だ」と酷評しています。これは今日でも現実にたくさん観察され、しかもこうした人々によってギリシャ・ポリスは滅んでいったという事実も挙げられますので、その時代に生きていたアリストテレスの怒りも分かります。
 二番目は
「社会的名誉」を目的とする人々ということになり、その限りではその人々は「有徳な生活」も心掛けるのではあるけれど、これはそうであったとしてもその名誉は結局「他者」から与えられるもので、その人そのものに「付帯」してくるものにすぎないから「十分な善とはいえない」とされます。ちなみに、社会的活動に誠実に邁進していると見えながら実態は権力欲、金儲けという人々もたくさんいたでしょうが、そうした下劣な人間は第一のタイプに属するとされ、ここでは実態としても「社会的名誉」を重んずる人々が考えられています。
 第三の
「観照的生活」というのは、真実を求め、理性に則して、そうしてえられた真実の知を眺めることに喜びを持つということです。こうした生活態度があって始めて「真実」というものが人間に得られてくるわけですから一番善い生活の在り方ということになるのは当然です。ただしこれは理論上のことです。
 つまりアリストテレスの論の運びは、こうした三つの生活法を念頭におきながら「善」や「幸福」について一般の人々つまり「第一のタイプの人々の見解」からはじめ、それを却下して第二のタイプに進んでここに大部分の論を費やして、最後に第三のタイプに触れるというような構成になっているのです。ただ、第三についてはほとんど付け足しといったような感じで、アリストテレスが現実的人間の在り方として論を立てるべきと考えていたのは「第二のタイプの人々」のようで、
「いかにしたら真実に有徳なる人間となれるのか」といったところに彼の倫理学の関心は集中しています。
 そしてそれがゆえに彼の倫理学は結局
「国制論」に移行せざるを得なくなるのです。繰り返しますが、彼の倫理学は「ポリス(国家・社会)の倫理学」という性格をもっているわけですから、どうしたって、では「ポリス(国家・社会)の良い在り方は」というところに議論が移らざるを得ないのでした。

人柄のよさ、徳とは「ほど良さ・中間」
 そうしたアリストテレスの倫理学で一番有名なのが
「ほど良さ・中間」という概念でしょう。ただしこれはアリストテレス倫理学の一部と言ってよく、しかも究極の徳性を表しているというわけでもないのですが、分かりやすいというか現実的であるという理由からでしょうか有名になっています。
 これは
「人柄にかかわる優れ(アレテー)」に関して言われてくるものであり、簡単に言ってしまえば、徳というのは「中間」を得るところにある、ということで、例えば「勇気という徳は猪突猛進と臆病の中間にある」というわけです。ただしこの中間は算術的に10の中間は5といった具合にきめられてくるのではなく、徳の類によって過剰な方(勇気なら猪突猛進の方)により近くにその「中間としての徳(つまり勇気)」が見出だされる場合もあるし、不足の方に、例えば「節制」というのは欲の過剰なものとしての「ふしだら、締まりのなさ」からより遠く、欲の不足としての「禁欲の方により近いところ」に見出だされてくる、というわけです。
 そしてさらにこれは
「人に応じ、状況に応じて変動する」ものです。これは丁度「食事量」が人に応じ、状況に応じるのと同様だとされます。つまり、相撲の関取たちに「適当な食事量」と小さな可愛い少女たちの「適度な食事量」が全然違っているのと同様だとされるのです。つまり、勇気でいえば「戦士」に要求されるあり方・程度と可憐な少女に要求されるありかた・程度は全然違うというわけです。ですから、同じ勇気といったって、たしかに臆病からは遠くにあるとはいっても「どこにあるか」は良く分かりません。「おおよそこんな辺り」といったぼんやりしたものでしかないのです。ですから、同じ行為をしても「人によって評価もちがってしまう」わけで、ある行為が、「猪突猛進」型の人からは「臆病」といわれ「臆病傾向」の人からは「無茶な行為」といわれてしまうかも知れないのです。ですから、この「中間としての徳を見出だしてくる思考の優れ、つまり知性」というものが大切になってくるわけです。

友愛
 そしてアリストテレスの倫理学でもう一つ有名なのが
「友愛(フィリア)」論です。これはさまざま徳について論じてきた最後にそれらを完結するように語られてくるものでした。すなわち、諸々の徳が論じられた後、社会の中で要求される「徳の究極のものとして正しさ、正義」といったものが長々と論じられるのですが、ところが、それで終わりになるのではなく、さらに付け加えられて、そうした「徳が完全に全うされるには友愛が必要」だとして語られてくるのです。したがって、この「友愛」というのは一種の徳というより、「徳が徳として完成される場面」といったニュアンスであり、それゆえ「徳に伴ってくる」というような言い方がされてくるのです。「友愛が伴なっていない徳など徳とは言えない」ということです。あるいは「すべての徳は、結局“友愛”という形になる」と言った方が正しいかもしれません。
 さて、アリストテレスが言うには、通常私たちが
「友愛の対象としての友人関係」になる動機として、先ず相手が「快」である(つまり愉快であるとか楽しいとかの内容です)や「有用性」(これは役に立つ、といったようなことです)を求めた結果だと考えられると言います。しかし、これはその「快」や「有用性」が目的であると言える限りにおいて「真実の友」とは言えず、真実の友とは「相手が善き人」であるから、というその点を愛することによって結ばれた関係なのだ、結論づけます。
 一方この
「善」というのは、一つの行為においてたまたま善であった、というようなものであっては何時また善でなくなってしまうかもしれませんからこれは具合が悪い。つまり、「人格そのもののところで成立している善」でなければならないわけで、それは要するに「善」ということが分かっていて意図的に善を為し、それゆえに「善き人」となっているということですから、当然これは「理性」の場面に成立しているものとなります。
 こういう
「理性において善き人」というのは「人間性そのもののところで善き人」ですからお互いに似ています。そして相手の善も自分のものと同様ですから、互いに相手を自分のように見なせ、ここに相手が「他なる自己」のごとくに見る関係が出来上がってきます。こうして、「相手のための善を相手自身のために願う」ということが必然的に伴ってくることになります。無論こんな関係は稀有にしか成立しないでしょう。しかし、これが目指すべき関係だ、と言われればそれは確かにそうなのかも知れません。
 一見、「こんなの面白くも楽しくもない」と思うかも知れませんが、アリストテレスはここにこそ
「本当の楽しみ・快」があると指摘しています。なぜなら善き人というのは「善き行為」を喜びそこに快を感じる筈で、だとしたならその「善を実現している相手と共にいることほど楽しいものはない」筈だからです。そしてまた、こうした人は、その善の実現を願っているわけですから、丁度、正しさの実現に「他者」が必要なように(たとえば荒野で孤独となっている自分一人のところでは「正しさ」もへったくれもありません。正しさとは他者に対して「正しい行為」をなすことにおいて始めて実現してくるのです。アリストテレスは「ポリス(公共社会)の倫理学」を考えているのですから当然そうなります)、同様に、その善をなす相手が必要なわけでその相手を求めるのが必然です。その相手として先ず「親しき友」が選ばれるのは当然で、したがってこうした人も友を求めることになるわけです。
 一方、こうした関係にある友は互いに善を相手に尽くしていくわけで(もちろん社会全体に善の実践をしていることはいうまでもありません。それがあって始めて「善き人」だったのですから)、自分自身の確立のためにも
「有用」この上なく、先に挙げた「快」もあって、「友」と言われるものに特有なすべてが備わっていて、最高の「友愛」が実現し「ここにこそ人は幸福を感じるだろう」というわけです。こういったところには、意識していなくても「正しさ・正義」は実現しており、他の徳もすべて実現している筈だということになってくるのでした。
 ひるがえって、私達のレベルでも「愛する者」を得ている時ほど「幸せ」を感じることはないわけで、その二人の関係には今ここでアリストテレスが指摘したすべてが実現しているとも言えます。アリストテレスの場合にはこの二人の関係が「二人だけ」にとどまって居らず
「社会において実現していたら」ということとして理解しておけばいいでしょう。

政治学
 このような倫理学は、必然的に、
「人がそこに居て行為する社会」というものの考察を要請してきます。なぜならアリストテレスの倫理学というのは今みましたように「ポリス(社会)を良く正しくする」というような所にその目的が見られていたからです。
 それゆえ、『ニコマコス倫理学』は必然的な流れとして
『政治学』へと移行するようになっています。しかし、この『政治学』という訳ですが、これは英語の「ポリティックス」に引きずられた訳で、日本訳として定着してしまっているものの、どの訳者もコメントせざるを得ないくらい「下手でまずい訳」でして、原語のポリィテイカというのは「ポリスに関することども」といったような意味です。「ポリスに関することども」というのが元来だということは、ここには「政治そのもの、政治的支配、統治のあり方」が問題にされているわけではなく「ポリス(社会)の在り方」が問題にされているということを意味します。さらに、この当時のポリスというのは今日の国家とはまるきり違っているわけで、したがってここに書かれていることを「今日の国家あるいは政治」にあてはめたのではとんでもないことになってしまいます。それなのに、そういう誤解が非常に多いので注意してください。
 他方、ここに
は「人が生活すべき社会の在り方」について非常に鋭く深い洞察があって、その点で今日にまで生きているのであって、そのように読む限りにおいて今日でも最高度の書物となっているのです。

 さて、
「住民全員が互いに顔見知りで良く相手を知っている」ということがこのポリスの性格として重要でした。それでは「ポリスは何のために形成されねばならないのか」、というとそれは「良く生きる」ためにであるといわれます。これは経済的満足だけを意味するものではありません。さきに見た倫理学のところにあった「幸福」を実現するためにです。ということは「人柄として有徳」であり「理性的」な人間を実現し「善き人だからということで友愛の関係にある」人々の社会になるということになってくるでしょう。もっと言えば、「理性の現実活動」が実現して「最高善」が現れ出ることをめざすものとして成立する、という事です。もちろん、現実の社会が「こうなっている」ということを言っているわけではありません。そうではなく、「ポリス(社会)というのはそれを目指してあるべきもの」という指摘です。
 
「ポリスの形成目的」としてはこうした性格を持っているわけですが、アリストテレスの具体的論は、ポリスの成立として先ず「家」の在り方から、そして「村」の在り方へと進み、最後に「ポリス共同体」へと考察が進められていきます。しかし、そうはいってもポリス共同体はただ家が大きくなって村になり、さらにそれが大きくなってポリスになったなどと単純に考えられているわけではありません。むしろ、もしそうだったならば、「家父長制度」となりその延長上に「専制君主国家」になってしまうだろうとアリストテレスは指摘し、実際アジアの国家はそうなっている、と言っています(もちろんここでのアジアとは中東を指し、具体的には「ペルシャ帝国」を考えていたでしょう)。ギリシャ・ポリスはそうはならなかったわけで、そうはならなかった特殊な在り方のところにポリスの性格を見ようとしているわけです。それが先に挙げた「善の実現」に向けられた「理性の自己実現」という目的なのでした(ただし、残念ながらギリシャ・ポリスはアリストテレスの期待を裏切り、没落していきましたけれど)。
 ともあれ、こうしてアリストテレスは、先ず
「理論上最善のポリス」を考察して、その上で「具体的な社会体制を検討」していくわけで、ここにたくさんのページがさかれてきます。
 ここで言われるのが有名な
「最善のポリスは君主制」(ここも訳語が恐ろしく拙劣で非常な誤解を読んでしまう原因となっています。つまり「君主」と訳されてしまったギリシャ語原語は「“最善者の”支配制」といったところで、このように訳しておかなければアリストテレスの理論は全く理解できません。)、第二が「少数者制」(これも意味は「少数の“優れた人々による”合議制」です)、第三に「民主制」となり、第四にその民主制の堕落形態としての「衆愚制(といっても人々は自分たちが「衆愚」だとは決して思わず相変わらず「民主制」を主張します。しかし、客観的に見るとそうなるということで、アリストテレスは「自分が生きている当時のギリシャ世界」をそう見ていたのですが、これは歴史的にも「正しい判断」であったと言えます)」、第五が少数者制の堕落形態としての「寡頭政治」が、そして「最悪なのが専制君主制」とされるのでした。
 近代以降、民主制が「健康な政治」の中で最低とされていることでアリストテレスは評判が悪いのですが、これは
「当時の民主制と名乗っている社会の実態を知らない」か、あるいはもっと言えば「民主制の何たるかの考察」すらしていない単なる中傷でしかなく、私達は「民主制を維持することの難しさ」をもう少し考えてみるべきでしょう。
 それはともかく、アリストテレスはそうした「良きポリス」を形成するための必須の条件として、結局、論は最善の国家を構成する市民の
「教育」という問題になっていきます。ここにこそ彼の真の問題があったわけで、私たちは社会の善し悪しの問題とは教育の問題であるというアリストテレスの主張を(具体的内容は今日にはとても適用できませんが)、「金と利得と効率」のことしか考えない現在の社会をもう一度振り返ってみる事も必要なのではないかと考えるわけです。

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