16.生と死に向き合った哲学者たち - 4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

4.

「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた


 ソクラテスの弟子達の中で今日一番有名なのはいうまでもなく「プラトン」です。彼も当時から当代最大の哲学者との評価を得ており、その哲学的理論の優れだけではなく、「良き人間の形成」というフィロソフィア本来の見地からも最高度の人間として評価・尊敬されておりました。
 私たちは現在の哲学史の「理屈だけのプラトン理論の紹介」に、どんなに
「人生を大事に生きていた人間プラトン」がいたかを見失っています。私たちはもう一度、プラトンにとっても「哲学とは良く生きることについての知の愛し求め」だったのだということを思い出すべきでしょう。

ソクラテスとの関係
 
プラトンには幾つかの書簡がのこされており、そこで自分の人生のあり方についてのべている記述があって、それが第一の資料となるほか、他者による伝承もあります。
 まずソクラテスとの出会いですが、私たちは
「大哲学者プラトン」を無意識的に前提してしまい、まるではじめからプラトンは哲学の徒であって哲学理論の研究にいそしんでいたかのように思いこんでしまうところがあって、プラトンが何故ソクラテスに惹かれたのかという問題をあまり問題にしません。しかし「人はなぜ哲学をはじめるのか」という問題はもっとも大事な問いであって、プラトンの場合にも「なぜなのか」は大きな問題です。
 というのも、プラトン自身その書簡の中で自叙伝的なことを述べている箇所があるのですが、その第七書簡の中で彼は
「自分は若い頃は他の多くの若者と同様独り立ちしたらすぐにでも国家社会のリーダーたるべく活躍しようと思っていた」と述べています。つまりプラトンの若い頃の夢はおそらく「将軍」(当時将軍というのは軍事だけでなく実質的な政治リーダーであって今日的に言えば「大統領」「首相」「大臣」に相当するといえます)になることにあったというわけです。これはしかし特別な夢ではなく、実際書簡にも「多くの若者と同様」と言われているよう普通の市民の子弟であればだれでも目標にするようなものでした。なぜならこれがその当時の社会の価値観・常識であったからです。そしてそれはそんなに困難なことでもなかったのです。プラトンも当時の一流の家庭の子弟として当然何の疑いもなく誰もが考える道を考えていたにすぎません。

 
このあたりはプラトンの兄弟子「アンティステネス」や「アリスティッポス達」とはかなり異なっているといえるでしょう。というのもアンティステネスやアリスティッポス達は明らかに、政治的リーダーになるのが立派な人間といった世間的常識の「外」にあって、それゆえに「社会常識・価値観とは異なった立場にある自由なる精神の持ち主としてのソクラテス」に惹かれてやってきたと見なせるからです。
 それではプラトンはソクラテスに何を見たのかということですが、もしプラトンが政治的関心の愚をさとって自由人的人間の徳性へと関心を移したのであったのなら、プラトンもアンティステネス達と同じものをソクラテスの内に見たということになりそうです。しかし、実際はそうではなくプラトンは終生
「政治的関心」を失うことがなかったのでした。その証拠は簡単に示せ、主著としての『国家』『法律』その他の政治・社会的著作、そして実際的活動としての「シラクサのディオンの革命運動」に対する支援などが挙げられます。
 そうだとするとプラトンはソクラテスの内に何を見たのかということですが、それは彼の著作そのものが示すことで、簡単に言ってしまえば、社会的・政治的リーダーあるいはどんな者になるにせよ、そこに
「人間としての優れ」がなければすべては虚偽になるというその根本的な発想であったでしょう。
 このソクラテス的発想法は、実際正しいとは思えても現実にはなかなか、いやむしろほとんど現実化しない
「常識に合致しない」主張とも言えます。ソクラテス以来2500年近く過ぎている現在でも全然駄目です。それだけに人間の生き方について関心を持っていた人たちにとっては、この発想法に気付かされた時は強烈なインパクトを与えられたことでしよう。アンティステネスやアリスティッポスまたその他の弟子達がソクラテスに惹かれてその下にきたのはまずこの点においてであったと考えられます。プラトンもソクラテスから見て取ったことはそれであったでしょう。プラトンは「政治的リーダーにせよ何にせよ、一人前の人間となるために学ばなければならないこと」をソクラテスによって教えられたというわけです。その後ソクラテスの弟子たちはその関心にしたがってそれぞれ自己の道を行くことになるわけですが、彼等ソクラテスの徒に「共通しているのはこの一点」であったといえるでしょう。
 アンティステネスが「真にあるべき人間」をただ人間の内面のみに求めて、そこから社会の腐敗に敢然として皮肉をもって戦う「反社会的生活」へとすすみ、アリスティッポスが社会常識など歯牙にもかけない「流れる雲のように自由な快楽論」へといったのに対して、プラトンはソクラテスにあった
「あるべき本質」の考え方を理論的におさえこみ、「真実にあるべき国家・人間」をめざして「イデア論、徳論、魂論、国家論」へと理論を結晶させつつ、具体的な人生として「教育者」として活動する道を進んでいったといえます。全体としてはそうなりますが、「人生の形成論」を問題にするこの章では「若いプラトン」から追ってみましょう

ソクラテスとの出会い
 
「ソクラテスとの出会いからその死まで」の八年間(20歳から28歳)から見ていきましょう。この時期はギリシャを二分した内乱ペロポネソス戦争において「祖国アテナイの敗戦」、プラトンの「身内がリーダーの一人であった三十人会の暴政」「ソクラテスの裁判と死」というプラトンにとって身も心もずたずたにするようなショッキングな出来事が相次ぐ時期でした。
 その敗戦に至以前、伝えられるところが真実なら、プラトンはすでにペロポネソス戦争が始まっているのに
「悲劇」をもって社会に登壇しようとノコノコ出かけていって、そこで始めてソクラテスに出会って話しをきいて感動してその悲劇の台本を火にくべたなどという伝承があるようにノホホンとしたところがありました。このときはプラトン20歳と推定されます。
 そして、ソクラテスのもとにあって3年目、23歳の時にギリシャの内乱ペロポネソス戦争において
「祖国アテナイの敗戦」という事態に直面します。政治的リーダー志望であったプラトンがこれに何らのショックも受けなかったとは考え難いです。
 
シケリア遠征とかアイゴスポタモイの海戦といった、結果としてアテナイを敗北に導いた大敗においては、アテナイはパニック状態に陥っており悲嘆の声はアテナイを充満していたと伝えられます。そして、全体としてみればこの戦争はアテナイばかりかギリシャ全体を疲弊させ滅亡に導いていたのであり、ツキュディデスが伝えるように「悲惨で実りのない愚かしく悲しみだけの戦争」だったのです。
 そしてまた、プラトンが祖国の敗戦に無念の念を持たなかったわけはないでしょう。しかし、その無念さに伴う憎悪は相手国のスパルタに向けられたのではなく、
「定見も持たず右往左往してそのときそのときの感情だけで動いていたアテナイの民主制」そのものに向けられたようでした。これは確かにひどいもので、たとえば全く法律を無視した「アルギヌウサイ沖の海戦における将軍一括裁判」などが為されてしまうような社会状況があり、それ以前から、つまりアテナイの指導者ペリクレスの晩年頃からのアテナイの民主制というのは「ただの烏合の衆の集まり」で民衆扇動家の扇動に右往左往し感情のままに朝に晩にとコロコロ変わっていたのでした。
 
民主制というのは民衆一人一人に社会を担う責任感と義務感があって始めてうまく作用するのであって、その責任感が無くなったときには国を滅ぼす危険な「ただの烏合の衆」と化すのであり、プラトンはそれを目の当たりにしていたと言えます。
 そしてさらにプラトンが体験したのが敗戦後の社会のリーダー組織「三十人会の恐怖政治」でした。プラトン自身の書簡によると当初プラトンはこれに期待したようですが、それはもちろん
「これまでのアテナイ民主制の愚かさ・不正の横行」を見ていたことと、さらには「自分の身内のカルミデスやクリティアス」などがリーダーだったのですからです。しかし、その実態が明かになってひどい幻滅に襲われたことが述べられています。ただ、プラトン自身の書簡によると、自分も参加を呼びかけられて気持ちも動いたと言っています。クリティアスかまたは叔父のカルミデスか、あるいは知人もいたといわれているのでその知人からか、いずれにせよこの三十人会はプラトンにとって非常に近いものだったのでした。プラトンの期待は、これまでの不正がまかり通る社会が是正されて正しいやり方に導いていくだろう、というものであったことが述べられていますが、プラトンにとってこれまでのアテナイの民主制というのは「不正のまかり通る社会」であったのでした。
 
しかしその三十人会は「恐怖政治」の政権となってしまいます。そのために多くの人たちが亡命したのですがそこから当然「反三十人会の革命組織」ができて、たった一年で壊滅してしまいました。親族であったクリティアスもカルミデスもその革命の戦闘で戦死していますので、もしプラトンが呼びかけに応じて早々と参加などしていたら彼等とともにプラトンも死んでいたことでしょう。プラトンは、ちょっと様子を見ようと注意深く見守った、と言っていますがその慎重さが幸いしたのでした。
 一方私たちとしては、プラトンはソクラテスの弟子となって以降も
「23〜4歳の時にはまだ実際的政治活動に直接携わることに大きな魅力を感じていた」ということを確認しておくべきでしょう。
 
そして再び民主制が回復したわけですが、これにたいしてプラトンはまたもや希望を寄せたことが述べられています。プラトンはこの当時にはまだ政治体制にかかわらず、何であれ実際的に社会がよくなることを祈願し続けていたことが分かります。ですからこの当時から彼が本質的に民主制に懐疑的であったわけではないことが分かります。

ソクラテスの民衆裁判とその刑死
 ところがそれからわずか数年、プラトン28歳になったときこの民主制はとんでもない実態を見せてくるのでした。いうまでもなく
「ソクラテスの告発とその死刑判決」でした。これにはもちろんさまざまの要因がありますが、少なくともソクラテスに死刑に値する社会的犯罪など何処さがしてもなく、「告発内容はほとんど言いがかり」に近いということは当時のアテナイ民衆にも分かっていたようでした。それは有罪無罪の票が予想外に接近していたこと、死刑判決後に民衆はどうも後悔していたらしいこと、そして死刑が執行されてしまってからは逆にソクラテスの告発者を弾劾し、またソクラテスの銅像など建てて反省の意を示したことなどの伝承によっても了解できます。
 
こうして、かつての民主制もアルギヌウサイ沖の将軍一括裁判などでその問題性をみせつけ、恐怖政治を倒して復活した民主制もまたその制度の根本的問題性を露呈してきた、とプラトンは思ったことでしょう。

政治家への道から教育者への道へ
 先にプラトンは、ソクラテスにおいて政治的活動をするにせよ何をするにせよ立派に事をなすにはその根底として
「人間が立派になっていなければならない」という主張があることを知ってそれに惹かれてソクラテスのもとに通うようになったのであろう、と推察しておきましたが、ここにおいて、「三十人会のごとき少数者制」はもちろんこれまでのような「民主制にもそれは期待できない」と痛感したのかもしれません。
 こうしてプラトンは
「実際的政治活動から身を引き」、やがて一人前となってからはアカデメイアという学園を開校し、「教育者」となっていったと考えられます。つまり政治活動にせよ何にせよ、それ以前に「人間をつくる教育の重要性」を認知したのであろうということで、これはまた「時代の要請」でもあったかもしれません。というのもこれは今日の高等教育機関のはしりなのですが、類似のものはやはり同時代のプラトンのライバルともいえる弁論家イソクラテスにもあるからです。ですからまたプラトンはその『国家論』において「教育の重要性」を繰り返し述べてくることになったのだと考えられます。

アカデメイアの創設までのプラトン
 
その「学園アカデメイア」創設はプラトンが40歳、第一回シラクサ旅行から帰ってのこととされていますが、ソクラテスの死の年、つまりプラトン28歳の時から40歳までの時代には彼は何をしていたのでしょうか。この間まずはソクラテスの教えを念頭にした「初期対話篇」の数々を執筆していたらしいということと、さまざまのところへの旅行が伝えられています。
 初期対話篇の性格ですが、いろいろ難しい問題は有りますが、取りあえずは
「ソクラテスを伝える」ことが目的であったことは間違いないです。ただしもちろん、これは「プラトンが理解し自分のものにしたソクラテス」であることは当然です。
 とりわけ大事な著作は
『弁明』『クリトン』『パイドン』で、これはプラトンが立ち会っていた「実際にあった法廷」、そして裁判役の人々はじめまだそれに立ち会った当時多くの人たちが存命の間に書かれている「見聞録的な性格」を持っているので、脚色があったとしても極端にははずれてはいないだろうと推定できます。
 
ここでの「ソクラテスのありかた・精神」が他の初期プラトン対話編にもそのままみえるので、初期対話編は全体として「ソクラテス哲学の記録」と理解されるわけでした。
 そして、その合間を縫ってプラトンは
「旅行」をしていたと伝えられます。伝えられるところでは南イタリアから北アフリカ、エジプトなども含まれており、そしてまた実際プラトンの著作からもそうした各地を訪れていたらしい痕跡を探すこともできます。こうしてプラトンはこの時期、師ソクラテスから死に別れて「独り立ちした自分を形成」していく作業をさまざまにしていたということが伺われます。

シケリア旅行
 そして40歳ですが、
「イタリアのシケリア旅行」が彼の人生の分岐点となってきます。何故こんな旅行が人生を区分する区切りになり得たのかというと、この旅行でプラトンは「タラスのアルキュタス」と、さらに「シラクサのディオン」と相知ることになるからであって、この二人はプラトンにとってソクラテスに次いで「人生に多大の影響を与えた人物」であったと考えられるからです。
 
そうした次第はプラトン自身の残された書簡に詳しく述べられています。アルキュタスとの関係は、彼宛の書簡が第九、第十二書簡の二つがあり、第七書簡や第十三書簡でも何度か彼の名前が言及されてきます。第三回目のシケリア旅行でプラトンが危機的状況に立ち入った時に彼を救出したのもこのアルキュタスでした。
 ただ、プラトンがこのアルキュタスと始めて会ったのがこの第一回のシケリア行きの時であったとの証言はないのですが、諸般の状況からこの時に会っている筈だと考えられるのです。このアルキュタスのいたタラス(南イタリアのギリシャ都市でローマ名はタレントゥム。位置は丁度長靴の底の土踏まずの辺り)というのは当時
「ピュタゴラス学派」の興隆していた地でアルキュタスもその有力な学者の一人でした。
 彼が独特であったのは、彼は単なる学究の徒ではなく、
「優れた学者であると同時に非常に優れた政治的指導者」でもあったことで、将軍職に七回も選出されるという文字通りタラスの最高指導者となり、将軍としての戦いにおいても不敗を誇った人物でした。
 しかも彼は今日的に言えば
「数学の学者」であったのですが、「数学を体系的に考えると同時に、その応用としてそれを国内の統治に適用」しようとしていたことが知られています。詳しくは知られないのですがおそらく「経済原則」をうち立てようとしていたのかもしれません。「政治と哲学を一致」させようというのがプラトンの『国家論』の中核であることは良く知られていますが、アルキュタスはプラトンとは別の地にあってそれを体現しようとしていたとも言えます。こうした人物がプラトンの関心をひかないわけがないと考えられるわけで、事実これ以降二人は非常に親密な仲になっていったのでした。
 ただ、プラトンが何故タラスに行ったのかはよくわかりません。おそらくはピュタゴラス学派の興隆地であったということが理由と考えるのが一番妥当でしょう。というのもプラトンが
「数学」を非常に大事にしていたことは有名で、一般にもプラトンの学園の玄関には「幾何学を知らざるものはこの門をくぐるべからず」と書いてあったという逸話がよく指摘されます。このピュタゴラス学派というのは「宗教的教団」でもありましたが「数」を世界の原理とするところから「数学」の探究において突出していたからです。あるいはプラトンの内にすでに「学園」を作る構想があって、「学問集団という性格を持っていたピュタゴラス教団」に何か学べるところがあるかとこの地を尋ね、そして遇運によってアルキュタスと出会ったというところなのかもしれません。
 
またアルキュタスの方も、すでに初期対話篇を数多く公刊して名声を挙げていたであろうプラトンの名前を知っていた可能性は大きいと思います。なお、アルキュタスの年代ははっきりしていませんが、後に起きるプラトンのシケリアに於ける危機というのはプラトンが70歳に近い頃のことで、その時アルキュタスが立ち働いて危機を救ったということは未だ政治的な力も持っていたと考えるべきで、だとするとプラトンより10歳程度若いとみるのが常識的かもしれません。そうするとこの第一回のシケリア旅行で二人が出会った時のアルキュタスは30歳前後の青年と考えられます。この若さで社会的に十分認知され将軍にすらなれたことは古代ギリシャでは普通にありました。

 そしてもう一人が
「シラクサのディオン」ですが、プラトンがタラスからシケリア島のシラクサに行った理由もはっきりしません。ディオゲネス・ラエルティオスにある伝承では「エトナの火山の噴火口」を見物しにとありますが、この第一回のシケリア旅行が何らかの見聞を広めるためであったとしたら、これはこれでいいことになります。
 しかしプラトン自身の書簡では
「何らかの偶然、むしろ人間には計り知れない何かの導き」というようなことが言われており、特別の用件があったわけではないことが語られています。しかし結果としてこのシケリア行きはプラトンのその後の人生を大きく変える発端となっていたので、プラトンは「何かの導き」というような言い方をしたのでしょう。
 この第一回のシケリア行きの結果は、プラトンがこの地の支配者であった
「ディオニュシオス一世」と険悪な関係になってしまったこと、危ういところをディオニュシオスの義弟であった若い「ディオン」のとりなしで助かったこと、帰りに何らか危ういことがあり知人に助けられたらしいことなどがあげられます。
 このディオニュシオス一世というのは単に政治的にみれば「相当の傑物」とも言えるような人物で、彼はアテナイのシラクサ遠征を迎え撃ってこれを退けた名将ヘルモクラテスの配下の一人でしたが、そのヘルモクラテスがシラクサの政争において負けて追放され、やがて死んでしまった後に身を起こして政争にうち勝っていき、たちまちのうちに
「シラクサの独裁的指導者」になってしまった人物でした。軍事的才能において天才的で、外交・政治的政略に優れ、やがてシケリア全島から南イタリアのギリシャ諸都市を攻略し、以前のアテナイに並ぶほどの大勢力を築いた人物でした。こうした人物は、なるほどたしかに政治的には大人物となって国力は増大させても、大体において独りよがりで専制的になるのが常で、彼の場合も外人の傭兵を身近において自らは堅固な要塞の中に住んで市民を専制的・独裁的に支配するという典型的な独裁者となっています。
 
ただし彼はみずから悲劇を書いたり文化人を呼んだりしている面も持っていました。また都市自体が贅沢で享楽的であったことが記されているということは、富も独り占めというわけではなく市民もその富を自分のものとしていたということでもあるでしょう。こんなディオニュシオスであったので、アリスティッポスの章でも触れたように、プラトンやアリスティッポスも招待されてこのディオニュシオスのところを訪れたりなどしていたのでした。
 
したがって、この第一回のシケリア旅行でシラクサにプラトンがやってきたと聞き知ったディオニュシオスはプラトンを招待したことは十分に考えられます。しかし、これもアリスティッポスをみた折り触れましたが、プラトンはアリスティッポスのように「嫌なことも柳に風と受け流して楽しむ」などということはできなかったわけで反抗的な態度を示していました。またシラクサの都市の享楽的なあり方にも嫌悪の感情を示しています。つまりあれやこれや「ディオニュシオスを怒らせて」しまったわけで、こうして危ういことになってしまったのでした。もしこの時ディオンがいなかったらプラトンはここで命を落としていたかもしれません。
 ディオンについては後のプルタルコスがその
『英雄伝』の中に彼を取り上げていますので逸話的には多くのことが知られますが、清廉で誠実、知性ある人物でプラトンがその「理想とする国家の実現を彼に託した」とされるほどの人物でした。実際後に彼は腐敗しきってしまったシラクサを一度は革命によって転覆し、「正義と誠実による政治」を志したのですが、腐敗し享楽を望む市民達の理解が得られず、そうした民衆に迎合した仲間たち、それもプラトンのアカデメイアの同僚によって暗殺されてしまうという悲劇の人物となります。プラトンはこの誠実で知性あふれるディオンを愛し、彼のために万難を廃して支援し、晩年になっても危険を省みずにディオンのためにシラクサに赴くということまでしておりプラトンの後半生を支配する人物となっていきます。
 ともあれ、こうしてアルキュタスとディオンという二人の心の友を得てプラトンはアテナイに戻ってくることになったわけですが、その帰国に当たっても、怒りの収まらないディオニュシオスの差し金でプラトンは命を狙われ、結果としてアテナイの敵国であったアイギナに置き去りにされ
「奴隷として売られそう」になり、たまたま来合わせた知人によって身請けされたとかの逸話が伝えられています。

アカデメイアの創設
 こうして帰国後、プラトンはアテナイ郊外の
「アカデメイア」に自分の学園を開くことになったのでした。この背景にプラトンの「現実政治に対する絶望」があったろうということは先にも指摘しておきました。この政治に対する絶望については彼の書簡の至るところに確認できます。そして第七書簡にはっきりと言われてくるように「国家のことも個人のことも、それらの正しいあり方はフィロソフィア=愛知・哲学(良く生きることについての知の愛し求め)から以外に見極めることはできない」という結論にいたったわけなのでした。再三指摘しておきましたが、これがプラトンの哲学に対する根本的態度であったということです。
 通常私たちは
「政治と哲学は相容れない」と考えています。政治は正・不正よりも「損得に基づく現実処理」に尽き、哲学は現実よりも「真実・本質」を求め「正・不正を問題にする」からです。ソクラテス自身にそうした見解があり、その立場からソクラテスは現実的な政治活動への忌避を述べていました。しかしプラトンは違っていました。彼は若い頃現実政治の世界に飛び込もうとしていて、ソクラテスの弟子になってもその思いは変わらず、そして「政治に絶望してもなおかつ理想の政治を追い続け、それ故に革命を志すディオンに思いを託したりしていた」のでした。これがおそらくソクラテスや他の弟子たちとプラトンを分ける「プラトンの最大の特徴」と言えるでしょう。
 ともあれ、こうしてプラトンはアカデメイアにあって
「教育と学究の生活」に入ったのでしたが、これはプラトンにとってはソクラテス的な意味での「良く生きる」という人間のあり方の実現でもあったでしょう。こうなってからの、つまり40歳から60歳までの20年ほどのプラトンの姿はあまり定かではありません。おそらく静かな学究と教育に専念していたのでしょう。そして多分あの膨大な『国家』を執筆していたのではないかと推察されるくらいです。

第二回シラクサ旅行
 そして60歳となり再びプラトンの人生は激しく動き出します。それはあのシラクサのディオニュシオス一世の死にはじまり、若い二世が後を継ぐことになったのでしたが、20年来の知己となっていたディオンがその後見役となり
「プラトンの理想とする国家」を建設したいのでシラクサに来て欲しいと要望してきたことがきっかけでした。
 プラトンはひどく悩んだことがその書簡から生々しく知られます。ディオニュシオス二世は若い、若者は熱しやすく冷めやすい、ということをプラトンはアカデメイアで若者と一緒に生活する中で身にしみていたようでした。それにシラクサはディオニュシオス一世によって完全な専制君主国家にされていて市民は脆弱に流れているのをプラトンは20年前に目の辺りにしていたわけです。
 「危険が多すぎる」と多分プラトンは思ったのではないかと推察されます。何で老いの身になってこのアカデメイアを離れて「教育と学究、執筆」を中断してまで危険な賭けともいえるシケリア行きを断行すべきなのか、と思ったことでしょう。しかしプラトンは二つの理由で敢然としてこの招聘を受諾していったのでした。
 一つ目の理由がやはり
「実際政治」でした。プラトンは理想とする国家を説いていましたがそれは机上の空論のためではなく今もってプラトンは「現実化」すべきものと考えていたのです。それを「空論」にしてはならないと思ったのが理由でした。「あるべき国家」を思考していた者がそれを実らせようとするなら「これがチャンスだ」と思った、と述べられてきます。「老いてなお若き時の理想に燃える若い魂」を持ち続けているプラトンが見られます。
 そしてもう一つの理由が
「ディオンに対する信義と友情」でした。プラトンはもし自分が行かないことでディオンの目論見が破れ、彼がアテナイに亡命するようなことになったとき、どの面下げてディオンに会えようか、などというようなことを言っています。自分の苦労や命を優先して志を同じくする友の信義を裏切るなどできないというわけで、ここにはあのソクラテスの精神がそのままに生きているのを見て取れます。
 実際プラトンは、こうすることで
「フィロソポス(良く生きることについての知の愛し求める者)の面目を失なわずにすむ」のだとも言っています。彼の脳裏には「正しさを優先して命を捨てていったソクラテス」の面影が強くあったのでしょう。
 こうしてプラトンは出かけたのですが、はたして結果はプラトンの懸念の通りでした。実をいうとディオンとディオニュシオス二世とは血族的にも非常に近く、義理の叔父・甥であると同時に義兄弟という関係であり、このあまりに近すぎる関係が
「同族間の勢力争い」につながっていたのです。ディオニュシオスに近いものは彼がプラトンの影響でディオンに屈するのではないか、ひいては自分たちの権力が失われるのではないかと怖れてプラトンの追い落としを画策していたのでした。こうした次第はプルタルコスの「ディオン伝」に詳しく書かれ興味深いものがあります。プラトンは、自分が行った時はすでに政争の渦中にあってディオンが陰謀をたくらんでいるという中傷が渦巻いており、自分は必死になってそれを妨げようとしたけれど力なくおよそ四ヶ月でディオンは追放されてしまった、と嘆きながら報告しています。
 
シラクサに残されたプラトンは噂で「殺された」と言われたほど世情は騒然としていたようですが、ディオニュシオスの方はどうもこんな時にプラトンに危害を加えたら反乱分子が膨れ上がるとでも思ったのか、あるいはプラトンを自分の陣営に組み入れようと思ったのか、またあるいは本当にプラトンと親しくなりたいと思ったのか、はっきり理由は分かりませんが逆にプラトンに対して厚遇するという態度に出ています。
 これはどうも嘘ではなかったようでプラトンもディオニュシオス二世が
「自分に敬愛の情をもってくれた」と言っています。ですからプルタルコスは、ディオニュシオスはディオンに対して嫉妬していたらしく、プラトンがディオンととりわけ親しいのに焼きもちをやいてプラトンと自分との間を親密にしたかったのだ、と伝えています。
 プランもそうしたディオニュシオスの態度を伝え、ディオンを追放した男であるにもかかわらずディオニュシオス二世に対して悪意はもっておらず、むしろ二人の仲の修復を望んでいたようです。残されているプラトンのディオニュシオス二世あての書簡においても、その筆致は
「親しい者への挨拶とざっくばらんな自分の状況の報告」となっております。
 
しかしディオニュシオスの取り巻きは相変わらずプラトンを怖れ、ディオニュシオス二世にその哲学を学ばせることを妨げたようで、プラトンは結局無為の内に城中に引き留められていたようでした。しかし翌年の春になってシラクサとカルタゴなどの関係が険悪となって戦争が勃発することになり、やっとプラトンは「またいずれの来訪」を約束させられてアテナイに戻ることができたのでした。
 
一方ディオンの方もおそらくプラトンの働きとディオニュシオスの心が柔らかくなっていたためなのでしょう、追放という扱いは取り消され、「外遊」扱いとなって財産も搬出が許され毎年の収入も彼の手元にとどくことになり、もともとシラクサの独裁君主ディオニュシオスの身内なのですからその財産も膨大で、人が驚くほどの豪奢な生活ができたと言われます。
 
そして五年後、再びプラトンはディオニュシオスからの招聘をうけます。さすがにもう高齢となっているプラトンは断ったようですが、ディオニュシオス二世はあきらめず再三再四の要請を繰り返し、ついにはタラスのアルキュタスに働きかけて来てくれるよう要望させ、またディオンの妻や自分の妻、彼女はディオンの妻の姉妹でしたので、そちらからもディオンに働きかけ、こうしてディオンは再びシラクサで活動できる機会と思ったのかディオンまでプラトンに働きかけてきて、こうしてついにプラトンは65歳という高齢を省みず三度シラクサへと出かけて行くことになってしまったのでした。
 プラトンは前回以上に嫌な予感をもっていたことを告白していますが、結局は
「アルキュタスとディオンへの友情が優先」したのでした。また、やはりひょっとしたらディオニュシオス二世を説得し「ディオン共々理想的政治」が実現できるかもという一縷の望みも持っていたようでした。
 しかし他方、何故ディオニュシオスはこんなにまでプラトンにこだわったのか、それはおそらく先に指摘しておいた
「ディオニュシオス二世のディオンにたいする競争心」からであったろうとプルタルコスは推察しています。というのもディオンはプラトンのアカデメイアに学んで後に二代目の学頭となるスペウシッポスと親しくなるなど学友に一目置かれ、またその人柄は多くのポリスでも賞賛されスパルタなども彼に市民権を与えるなどギリシャ各地で盛名をはせるようになっていたからです。
 しかし結果はまたもや惨めなものでした。プラトンは
「三度目の神助け」などと言っていますが、今度もまたディオニュシオス二世はディオンの召還という約束をまもらず、のらりくらりとした態度からついにはむしろその財産を奪うという挙にでてプラトンとの仲は険悪となり、またさらにさまざまのことからディオニュシオスの傭兵や親衛隊によって「命を狙われるという危機」に陥ることになり、タラスのアルキュタスの懸命の助けでようやくプラトン自身が「またもや運良く命拾いをした」という状況でほうほうの態で逃げ帰ることになってしまったからです。
 事はこれで終わりにはならず、遂に
「ディオンの革命軍の旗揚げ」となってしまい、アカデメイアの学友達も多くこれに参戦してディオンは一度は革命に成功します。しかし、さまざまの動乱のあげくに事もあろうにその「アカデメイアの学友に暗殺」されてしまうという悲劇的な一生を終えることになってしまいました。
 この間のプラトンの心情を察するにあまりあるものがあります。
「正義に基づく実際政治の実現という自分の理想の決定的な挫折」「ディオンとディオニュシオス二世というそれぞれなりに自分を慕ってくれた者達の友情の回復の失敗」、そして革命軍の旗揚げと「アカデメイアの弟子達の参戦(ここではエウデモスといった有能な弟子などが討ち死にしています)」、そしてついには「自分の弟子によるディオンの暗殺」といった、どれ一つだけでも夜も眠れないような心痛の事件が次ぎから次ぎにと生起したのですから。
 これがプラトンの後半生の人生でしたが、私たちは
「自分の若いときの理想を老いてなお追い続ける若い魂」と、「友情に命までも賭けて苦難の旅をしていく誠実な魂」とをここに見ることができると言えるでしょう。しかもこの苦難の期間プラトンはアカデメイアにあって教育と執筆に全力をかけ、いわゆる後期対話篇と呼ばれる数々の著作が書かれていたのです。

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