16.生と死に向き合った哲学者たち - 2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

16.生と死に向き合った哲学者たち
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INDEX
1. 人生をまっとうに考えた最初の哲学者「ソクラテス」
2. 獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」
3. 流れる雲のように自由な「快楽主義のアリスティッポス」
4. 「正義の政治を思うプラトン」はどう生きた
5. プラトンの「天から落ちた人間とこの地での輪廻転生」
6. アリストテレスの「人間、生き方、社会」の論
7. 第二のソクラテス「酒瓶に住んだシノペのディオゲネス」
8. 愛に生きた「犬の夫婦哲学者クラテスとその妻ヒッパルキア」
9. 魂をもって現実を生きる「ストア学派の祖ゼノン」
10.ストア学派の「世界市民、自然に即して、不動心」
11. ストアの哲人「泰然とし自由な奴隷のエピクテートス」
12. ストアの哲人「哀愁の皇帝マルクス・アウレリウス」
13. 「隠れて生きた」快楽主義、「エピクロスの学派」
14. 神秘主義、新プラトン派の「プロティノス」

2.

獅子のように社会と戦った「犬のアンティステネス」


はじめに
 一般の人々が問題にするのは「快楽や財産・地位・権力」のようですが、そうしたものとは無縁に
「ただ人間の優れ」のみを見て生き抜いたソクラテスの弟子として、「欲望や財産・地位・権力」などを蔑み、それだけを追求しているような「社会に戦いを挑み」「犬のように」ほえかかって「人間としての優れ」に意識を向けさせようとした人に「アンティステネス」という弟子がいました。

 さて、ソクラテスは哲学という営みを「愛知(フィロソピア)」という言葉で始めて提唱し、その内容として
「良く生きることについての知の愛し求め」として「人間としてのあり方を具体的・実践的に体現」させていきました。
 そのソクラテスを承けてその弟子達がその哲学を継承していきますが、一般にはプラトンがその代表とされ、さらにその弟子アリストテレスと解説されていきます。しかし一方で古代にはそれとは異なった系譜の哲学があり、それはアリストテレス以降むしろ時代の本流となっていくのでした。いわゆる
「ストア学派、エピクロス学派、懐疑学派」といったヘレニズム・ローマ期の哲学の流れで、そのヘレニズム・ローマ期の哲学の源流ないし先駆となっているのが実は「プラトン以外のソクラテスの弟子達」だったのです。
 そのプラトン以外の弟子の筆頭になるのが
「ストア学派の源流となるキュニコス学派の祖アンティステネス」でした。彼は表題にも示しておいたように「犬(キュニコス)のアンティステネス」と呼ばれています。その理由についてはいろいろ言われますけれど、「彼の生き方」からの命名であったと考えられています。何故、彼は「哲学者として犬のような生」を選び取っていたのでしょうか。

アンティステネスの時代
 
彼の生年も没年もはっきりしていませんが、とりあえず紀元前455年〜360年頃ではないかという年代が推量されています。ということはソクラテスと14歳くらいしか違わない年下で、プラトンとは28歳くらい上ということになるわけです。ただこの激動の時代にこの年齢差は三人に同じ経験をさせてはおらず、また、ソクラテスが刑死したときアンティステネスは56歳頃というわけで、もうすでにその哲学観は確定しており、プラトンほどにはソクラテスの刑死がその哲学に影響は与えなかったでしょう。
 さて、私たちは何にせよ
「生きる」ということを問題にする人々というのは、先ずもってはじめはその「社会の中での具体的人生」のあり方において問題を感じる人々だと考えておきます。ですからその人が生きている社会のあり方というものがとりわけ問題になると理解します。ですからアンティステネスの場合も、「彼の生きていた社会のあり方」というものが問題になっていたと理解します。
 それはいうまでもなく
「紀元前300年代に入る直前から直後のアテナイ社会」ということになります。ということはもうアテナイ社会の衰退期ということで、彼はギリシャを二分しての内乱であったペロポネソス戦争の後半の泥沼、そして敗戦、それにともなう社会の混乱、とりわけ戦後成立していた少数者支配である「30人政治」での恐怖政治と大殺戮、大量の市民の亡命と反政府運動、30人政治の崩壊、混乱の中でのソクラテスの死刑、といったような事件のただ中にいたことになります。社会の倫理観は動揺し恣意的となり、金や権力にすがる風潮、「力こそ正義」とする考え方、こうした中でアンティステネスは「人間として良く生きること」を問題にしていたのでした。
 こうした問題はもちろんアンティステネスが始めて問題としたわけではなく、むしろ師である「ソクラテスの問題」でした。アンティステネスはそのソクラテスに惹かれて弟子となっていたのですからそのソクラテスの問題を自分の問題としていたのも何ら不思議ではありません。そしてそれはむしろ
「時代の問題」でもあったのです。ですからソクラテス、アンティステネスに続いて「具体的な生、実践的生」を問題とする人々が続々と続いて結局「ストア学派」「エピクロス学派」「懐疑学派」といった「実践的生」を問題にするヘレニズム・ローマの哲学が生まれることになったのでした。この時代の哲学者は、こんな時代だったからこそ「人間としての誠実な人生」というものを意識して「身をもって体現」していこうとしたのでした。
 その先駆をソクラテスとして、それについでいたのが「アンティステネス」であったのです。アンティステネスはこうした時代にあって、ソクラテスの課題であった「真実あるべき社会」の追求を越えて明確に
「反社会的」となっていきます。

アンティステネスの出生
 それには彼の出生も関係しているかもしれません。彼は両親ともアテナイ人という「生粋のアテナイ人」ではなく、母親が
「トラキアの人」だったようでした。トラキア人は北方の辺境の民で野蛮人と見られていたようで、そのため彼は人から馬鹿にされることがあったようです。それに対してソクラテスがその馬鹿にした人を「たしなめた」逸話が伝えられ、またソクラテスはアンティステネスが武勇を示した時、もし彼の両親が二人ともアテナイ人であったら彼はかくも卓越した者とはならなかったろう、とアテナイの人々に皮肉っぽく言ったとか伝えられています。「民族の生粋・純粋性」のみを誇り、「人間としてのあり方」をみようとしないアテナイの民に対する強烈な皮肉と言えます。
 伝えられているところではアンティステネスは前426年の「タナグラの戦い」で奮闘しめざましい活躍を示したようでした。そしてまたアンティステネスの方も、両親がアテナイ人で生粋であることを自慢する人を軽蔑したと伝えられます。逸話としては、彼も当時の市民の誰もがスポーツの鍛錬をしていたのにならい「レスリング」の競技者であったと伝えられていますが、彼は自分の出生を馬鹿にする者に対して、自分の両親は別にレスラーではないけれど自分はレスラーとして十分な者になっている、と応じていたと言われています。つまり
「両親の生まれ」が問題になるわけではないということを言いたかったわけでしょう。いずれにせよ、「アテナイ社会にすんなり受け入れてもらっていない」アンティステネスが見られます。

アンティステネスの学問
 そのアンティステネスは当初は
「弁論家ゴルギアスの弟子」であったと言われ、そのため彼の著作にはゴルギアス風の文体が持ち込まれていると言われています。その後彼はソクラテスを知るに至って彼に惹かれ、「自分の弟子共々」ソクラテスのもとに加わったと言われています。そうだとすると、すでに「弟子をもっている一人前の盛年」になってからソクラテスの下に加わったことになります。プラトンがその著作の中で「晩学の人」といささか冷ややかな態度で揶揄して言及している人とはこのアンティステネスのことを指しているのだろうと言われています。
 しかし、一人前になって弟子までいるのに、その自分のあり方を捨てて
「弟子まで引き連れて別の人物の門下に加わる」など通常の人間にはなかなかできることではありません。真実のためには「見栄も外聞も捨てて良い」とするアンティステネスの人柄がしのばれます。そして彼はアテナイの市内とは7キロ強ほど離れたペイライエウス(現在のピーレウス港近辺)に住んでいたけれど、毎日ソクラテスのもとに通ってきたといいます。

アンティステネスの人柄
 彼はいわゆる
「キュニコス学派」の祖とされますが、それは彼の教えたところが「キュノサルゲス(文字通りには「白い犬」)」の体育場であったためと言われている、と古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは伝えています。また、その思想についても「刻苦に耐えること」「情念に惑わされない心」とのみを挙げており、別に「犬のような生活ぶり」を本質として挙げてはおりません。
 しかしながら他方で、ディオゲネス・ラエルティオスはアンティステネスを評して
「口ではなく、言葉によって人々の心に噛み付くよう生まれついた犬であった」といった言葉を彼について述べています。つまり、すでにアンティステネスにおいて「犬のような」という態度があったことが理解できます。また、これは文脈からして「褒め言葉」であって、決して侮辱的な言い方ではありません。そこで一般には、この「キュニコス学派」は「犬(キュオン、形容詞がキュニコス)のような生活ぶり」から命名されたと理解しています。つまり、アンティステネスの「反社会的特質」が実生活に反映したとき、当時の社会のあり方からして結果的にアンティステネスは「社会に噛み付く」ことになり、これがさらに徹底されて「反社会的生活」「社会の価値観の侮蔑」「野良犬のような生活」となっていったは道筋であったと言えます。これがはっきり現れるのは「アンティステネスの弟子のシノペのディオゲネス」の場面となります。
 ただ、アンティステネスは
「社会に噛み付く」とは言われていても、「彼の人柄はむしろ非常に素晴らしい」ものであったことが伝えられています。師であるソクラテスに対する尽きせぬ敬愛と情愛は伝えられる文献のすべてがそれを保証し、また、哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスはテオポンポスという人の評価を伝え、テオポンポスはソクラテス門下の中でこのアンティステネスだけを賞賛し、彼は非常な才能を持ち、機知に富んだ会話によってどんな人をも自分の思うままに導いたと言っていたと述べて、そのことは彼の書物でも確認できるとしています。加えて、同じことは著作家クセノポンの『饗宴』からも読み取れるとして、クセノポンはアンティステネスについて、交際するにはこの上なく楽しい人であるが、他の事ではきわめて自制心に富んだ人であったと述べている、と伝えています。
 
ちなみに「クセノポン」という人はソクラテスの弟子の一人であり、数々の著作を現代にまで残しているほどの人物です。古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは「ソクラテスの三大弟子」として「アンティステネス」と「プラトン」及びこの「クセノポン」を挙げているのですが、その理由は当時にあって理想的と見られたクセノポンの「高潔な人生」にあったと考えられます。

 しかし、アンティステネスには反面で
「厳しい」ところもあったようで、とりわけそれは弟子に対してそうであったようです。伝えられているところでは、何故弟子にそんなに厳しいのかと問われて「医者だって患者にはそうしている」と答えたとか、弟子が少ないことを問われた時にも「銀の杖で彼等を追い払うからだ」とか答えたと言われています。銀の杖とは何なのか説明されていませんが、価値があるものだがそれで殴られると痛いというような意味で、「教えは価値あるものだが厳しい」といった意味なのでしょう。とにかく「労苦こそが善」であることを、凄まじい困苦の冒険に生きたヘラクレスを例に出して説明していたらしいので、その労苦を強いられた弟子としたらたまったものではなかったのでしょう。
 そして
「快楽に耽るくらいなら気が狂っている方がましだ」などとも言っていたようです。そして贅沢を善きものとしている人々に対して、君の敵の息子達がどうか贅沢な暮らしをしてくれるように、と皮肉に応じたと言われますが、これは当然「贅沢が柔弱な人間を造る」という認識からでしょう。そして彼自身の生活は当然ひどく質素なものとなり、下着などもつけず、着古した上着を二重におって上着と下着にしてしまった最初の人であり、あごひげを伸ばし、ずた袋と杖を携えていたと言われています。実はこの格好はその後の(キュニコス的な)哲学者の定番とされたような格好であったようです。

 
しかし彼も師のソクラテスのようにはなかなか自然体でそういう生活になっていたわけではないようで、「頑張ってそうしていった」らしく、ここにどうしても自分に強いていった無理が見えたようでした。つまり、ある時自分の粗末な上着を翻してそのほころびが見えるようにしたとき、師のソクラテスから「そのほころびからお前の虚栄心が見えてしまうよ」と諭されたという逸話が伝えられているからです。これは「ソクラテス伝」のところにもでてきます。
 そうではあってもアンティステネスは必死にそうした自分や社会と戦い、
「世の評価・評判というものとは無縁」にありたい、むしろそうあるべきだと考えていたようで、「孤高を保とう」と努力していたようです。
 ですから
「お世辞を言ってくるような人間の間で生きるよりむしろ鴉の群の中に居たい」とか「悪い人たちから褒められると自分が何か悪いことをしたのではないかと心配になる」とか、年少の弟子であるプラトンがアンティステネスの悪口を言っていると聞かされて「立派なことをしていて悪い評判を立てられるのが王者らしいのだ」とか言ったと伝えられています。

 そうしたアンティステネスでしたので、今紹介したようにどうも
「名門の生まれで気位の高かったらしいプラトン」とは肌合いが合わなかったようでした。プラトンがアンティステネスのことをその対話篇の中で、それとは名指ししていないものの「冷ややかな言い方をして揶揄」していることは先に紹介しましたが、アンティステネスの方も「鼻息の荒い馬」にプラトンを譬えて揶揄していたという逸話も伝えられています。馬はこの当時「貴族」のものでした。プラトンを「鼻息の荒い鼻持ちならない貴族」になぞらえたわけです。
 
もっとも同門の弟子で「高潔さで知られたクセノポン」と「プラトン」も仲が悪かったと伝えられており、「天才肌のプラトン」が何かしら仲間うちでは気にさわるところがあったのかもしれません。実際おもしろいことにプラトンの著作にクセノポンは名前すら全然触れられてこず全く無視されているのでした。クセノポンはプラトンの名前くらいちゃんと言及しています。同じくソクラテスの門下とはいっても大分気質の差があったようなのが興味深いです。この気質の差が、同じような問題意識を持ちながらもその哲学のあり方を三者三様にしていったのでしょう。

アンティステネスの思想
 
そのアンティステネスの思想ですが、古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスのまとめによると次ぎのようになります。
 まずその思想は
「人間としての優れは教え得る」ということにあり、哲学とは「人間としての優れを持つことが高貴ということを証明すること」であったとされます。ちなみにここでの「人間の優れ」と訳したものですが、原語は「アレテー」といいます。「アレテー」の内容は、何によらず「それがあることでそのものが優れていると言われるその所以」ということで、たとえば「ナイフのアレテーとは良く切れること」となります。これが人間に適応されたとき、内容的に「徳」となるとされてきたのですが、儒教の「徳」とは異なるため、まぎらわしいので研究者は困っています。そこで取りあえずここでは「人間としての優れ」としておきました。ともかく、これが核となって、さまざまのことが言われてきて、「幸福は人間の優れだけで足りる」「ソクラテス的強さ以外何一つ必要ではない」「人間としての優れは実践の中にあり、多くの言葉も学問も必要ではない」とされたようでした。
 
「人間としての優れとは何なのか」という問題は、ソクラテス以来今日でも大問題となるような事柄といえます。しかし、時代の風潮なのでしようか、近代以降一部では問題だとは言われながらも、決して哲学の主流の問題とはされてきませんでした。近代以降の人間は「人間、理性、科学に対する絶対的信頼」と「科学文明の享受」「進歩史観」などに身をまかせて、こうした問題を真剣には扱っていないと言い得ます。
 しかし
「人は本当にはどう生きるべきなのか」ということが問題になった時にはこの問題は避けて通れない問題になってくる筈です。そしてここに答えられる「人間としての優れを身につけることが、人間として高貴であるということ」「幸福は、人間としての優れを身に付けることだけで足りる」「だからそれを求めていこう」というのがソクラテス自身が示していた解答でした。アンティステネスはその意味でソクラテスの問題をそのものとして受け継いでいるといえます。

 そして問題はここからですが、人間としての優れは
「実践の中」にあり「多くの言葉も学問も必要ではない」としたことが哲学史上で評判が悪いわけでした。学問の立場からは「言葉と学問は大事ではない」というのは受け入れられませんから。しかし、アンティステネスもある意味では当然のことを言っているにすぎないのです。つまり、我が国の言葉に「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、これは、いくら論語を勉強して論語の解釈ができても、儒教の本来の目的である「君子的あり方」が実生活に反映されていないのではそれでは論語を知っていることにはならないという意味でしょう。ソクラテスの真実も「良き人となる」というところにあったのであって、「世界や存在についてうまく説明できる」ということが本来の問題であったわけではありません。アリストテレスやストア学派の言葉「理論に逃げ込んでそれで哲学をしているつもりになっている」人々に対する批判を思い起こせば、古代において哲学がどういう意味をもっていたかを良く理解できるでしょう。
 
これに対し、実生活のあり方など全然関係なく、ただ「優れた理論体系さえあれば優れた哲学者」とされるのは近代以降の評価なのです。それは時代の要請でしょうからそれはそれでかまいませんが、だからといって古代の哲学者の評価までそうした態度で為しているのは公正を欠くと思われます。その時代にとっての意味をきちんと位置付けておくべきでしょう。

 アンティステネスに戻りますと、ディオゲネス・ラエルティオスはさらにアンティステネスの言葉として
「賢者は市民生活を送るに当たって、既成の法律習慣にしたがうのではなく人間としての優れの法にしたがう」というものを紹介してきます。これは結局「反社会的態度」になってしまいます。ソクラテスはみずからそういう言い方はしませんでしたが、「市民皆さんの言うことより神に従う」と主張しそれを貫いたことからして、あり方としては結局そういうことであり、それ故「社会に殺されてしまった」のでした。なぜなら社会の法律は必ずしも「人間としての優れ」など核とはしておらず、むしろ「人間の欲望の充足」の方向に秩序を立てようという傾向を持っているからで、しかもしばしば権力者の思惑で決められてしまいます。
 これは今日でも全く変わりません。ですから、ローマ時代などでは
「哲学者の追放令」などがしばしば出されていたのです。当時の哲学者が、アンティステネスの系譜にあるストア学派に限らず、大体このソクラテス・アンティステネス的な考え方を継承していたからです。アンティステネスはそのソクラテスの態度をはっきりと意識的にさせているといえるでしょう。
 そして哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、ディオクレスという人が記録しているアンティステネスの言葉を紹介してきますが、その中に
「身内の者よりむしろ正しい人を重んずる」「人間としての優れは男子のそれも女子のそれも同じである」というものがあります。共にソクラテスに源を帰すことはできますが、当時の社会通念とは全く距離のある見解で、しかも彼は「学園の学者」ではなく「市井の人」として生きていたようですからその反社会性はより目立ったことでしょう。
 一方この「人間としての優れ」の獲得について、アンティステネスはソクラテスの徒として
「思慮」「理性」を重んじことも伝えられており、「思慮はもっとも堅固な防壁である、それは崩れ落ちることもなければ裏切りよって敵の手にわたることもない」と言っていたようでした。さらに「人は自分自身のゆらぐことのない理性の働きの中に防壁をきずかねばならない」とも言っていたようです。

 こうしてアンティステネスはストア学派のもっとも厳格なタイプの派の開祖となったのであるとディオゲネス・ラエルティオスは評価をし、シノペのディオゲネスの
「不動心(アパテイア)」、その弟子のクラテスの「自制心(エンクラテイア)」、そしてストア学派の祖となったその弟子のゼノンの「堅忍不抜の心(カルテリア)」といった概念に道を開いたと言ってくるのでした。
 
なお彼の著作としてたくさんの書名が伝えられていますが残念ながらそれらすべて散逸してしまいました。ただ、アリストテレスには「定義」とか「命題」といった論理的課題に対してアンティステネスは独自の見解を示していたという言及があります。しかし、これについてはテーマからはずれるのでここでは深入りしないことにします。

 以上のようにみてくると、アンティステネスはソクラテスが身をもって示した生き方を
「意識化し自覚的にした人」つまり「ソクラテス的生き方」を一つのタイプとして確定した人であったと位置づけることができそうです。そうした意識的な生き方において人にそのあり方を説くことができ、そうであることによってそうしたタイプの弟子を持つに至り、後のストア学派を用意することになったと言えるでしょう。

キュニコス学派の突きつけている問題
 
キュニコス学派は現代にまで通用するいくつかの重要な問題を指摘しているのですが、それが哲学史的にあまり問題にされていないのが不当な評価と言えます。では、そのキュニコス学派が突きつけていた問題とは何だったのでしょうか。
 その重要な問題の一つは、
「人間の徳性という問題に、理論がなじむのか」という問題を提起している点です。現代の私たちはたくさんの理論を持ち「倫理学」という学問も持っています。私たちはこれに何の疑いも持っていないのですが、しかしはたして「倫理学」という学問は「何に立脚して成立しうるのか」という根本的な問題をこのキュニコス学派は突きつけているのです。つまり、「具体的行為、具体的社会」に立脚しない、あるいはそれに「反映されない」倫理学とはどんな意味があるのか、という問題です。
 また私たちは
「何で快楽を退けなくてはならない」のでしょうか。キュニコス学派はこれを「敵視」しましたが、その意味はどこにあるのでしょうか。ソクラテスだってパーティーを楽しんでいました。もちろん「過度に溺れて」は体も心も駄目になってしまいますが、この「快楽というのは人間の生活のベース」なのではないか、これが無ければ人は働かず、文化を創ることもなくなるのではないか、労働とは何なのか、文化とは何なのか。実はキュニコス学派は「社会ばかりか文化も否定」しているようです。「快楽」を否定すればそうならざるを得ません。いや、否定というよりも、キュニコス学派は「社会というもの文化」というものを根本的に考え直そうとしているのです。「快楽とは、それを追い求める社会とは、そしてそこに成立する文化とは」という問題です。実際、こう問われて現代の私達は何と答えて良いのでしょうか。
 シノペのディオゲネスの言う
「コスモポリテース(世界市民)」という提題も非常に重要な問題提起だと考えられます。しかしここでも私たちは、人間にとって「特定社会」は当然あるべきもの、国家の文化は良いものと信じて疑っていません。ですからキュニコス学派の問題が分からないのですが、今日私たちの社会ないし国と言ってもよいですが、それは「互いに侵略しあい紛争だらけ」です。「自分だけの国、自分だけの社会」にこだわることがこうした事態を生んでいるわけです。また現代の文化の代表としての科学は地球そのものを崩壊させようとしています。私たちは「社会というもの、文化というものを根本的に考えなおさなければならない」時にさしかかっているのです。もちろん私たちは社会をなくすことなどできず、原始時代に戻ることもできません。しかしその意味を根本的に問い直すということは常に行われていて良かったことなのであり、キュニコス学派の意味というものももう少し真剣に考えてきても良かったのではないかと思うのです。

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