15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 15.現代の宗教の欺瞞と迷走 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

15.

現代の宗教の欺瞞と迷走


はじめに
 この章全体の
「まとめ」をしておきます。現代の世界は、欧米キリスト教と中東イスラームのぶつかり合いという様相を示しています。これにイエルサレムにおける「政治的ユダヤ教主義者」の自己中心的な頑迷さとパレスチナでの迫害が加わってきます。
 一般に、宗教というのは
「善・悪、正・不正、美・醜」というものを主張します。ですから、それが衝突した時には果てしない闘争になってしまいますが、その違いをお互いが認めて相手に喧嘩をふっかけることをしなければ「平和共存」でき、そうした時代や場所はたくさんありました。何故なら一般庶民は「紛争状態・戦争」はだれでもいやだからです。
 しかし、
「理性・知性」を失った時にはこれらは常に戦闘的となるという性格をもっています。「現代はまさに理性・知性が失われた世紀」と言えます。失っている典型は、私達日本も同罪となるのですが、「欧米とその追従国」といえます。欧米は近代から「植民地政策」をとってきて、現在も中東を中心に「侵略し、滅茶苦茶」にしているからです。そして混乱した中東諸国もまた「理性・知性を失って」しまったようです。泥沼のような「内部抗争」がそれを端的に表しています。
 私たちは「平和」を望み、冷静になって民族のそれぞれのあり方・文化というものを大事にし、
「平和共存」を計って行かなければなりません。

欧米とキリスト教
 欧米は「キリスト教世界」です。そのキリスト教を母体に後に形成されたのが「イスラーム」ですが、イスラームは
「イエスの神性」を否定しています。ですから、キリスト教の側から見るとイスラームは「自分たちを否定している宗教」と見えます。従ってキリスト者はキリスト者である限りイスラームを認めることができません。はっきり言えば、イエスの神性を否定するものなど許せない「憎むべき者」となります。
 宗教という視点から言えばこれは当然と言えますが、ところが、この当たり前の感情をキリスト者自身が意識していません。何故なら、それは
「排他性」を認めることになって、「憎しみ」を持った宗教だということになり、これはどうも「愛の神」を教えたイエスの教えにそぐわないというのは誰でもすぐ分かるからです。ですからその「憎しみ」を認めないようにしているのですが、本音のところでは憎んでいる、というのが現在の多くのキリスト者の心理となります。
 
これが「露呈してしまった」のが2005〜6年にかけて世界中の問題となった「ムハンマドの戯画事件」でした。これはたとえば「ムハンマドが原爆を意味するターバンを巻いてテロを示唆している」漫画などで、イスラームではムハンマドを絵画に書くことも許されないのですが(偶像崇拝につながるから)、ましてやそれが「テロの首謀者として漫画化」されるなどということは「許されざること」でした。
 これを掲載したのは「デンマークの新聞」ですが、もちろんデンマークのイスラーム信徒はこれに抗議をしました。この段階で新聞社が謝罪でもして引っ込めれば多分大騒ぎにはならなかったでしょうが、新聞社は
「言論の自由」を主張して開き直ってきたのです。しかしこれにはさすがの日本の識者も「勝手に過ぎる」と批判しました。何故なら「言論の自由」というのは一定の制約があり、「人を悪意で傷つけたりする報道」など許される筈がないからです。つまり、たとえば逆にイスラームの新聞に「イエス・キリストが爆撃機に乗って爆弾を投下し、畑の子供たちが吹き飛んでいるのを笑って見ている漫画」など掲載したらどんなことになるか分かったものではないでしょう。
 ところが西欧各国はこの
「デンマークの新聞社を擁護」するばかりか、むしろ「イスラーム批判」へとエスカレートしていき、西欧人の殆どがこれを支持しました。この原因については、西欧にイスラーム移民が増大して地元の若者の仕事をうばっているから、とかさまざまの「社会的要因」が指摘されました。その理由は、「ロシアを除いた東欧のキリスト教世界」には、長いオスマン・トルコ支配による「イスラーム嫌いの人」が多い筈なのに、ほとんど「イスラーム排撃」が見られないからでしょう。従って、そうした「社会的要因」が強くあるということはうなずけますが、心理的・感情的要因としては「キリスト教徒は宗教的理由でイスラームを嫌っている」というのがあるということです。
 もちろんその中にあって、
「イエスの愛や平和の教え」をどこまでも守ろうとするキリスト者や、理性・知性をもって「平和共存」を志向しているキリスト者もたくさん居ります。そのおかげで「世界大戦争」にならないで済んでいるのですが、トラブルが絶えないということは「そうではない、憎しみを持った人たち」が大勢居るということです。要するに、知性のない人は「憎い・嫌い」という感情のままに、「排他性・攻撃性」に移ってしまうのです。 
 こうした
「憎しみ」の感情が支配しているのが「現在のアメリカと西欧キリスト教社会」だと言えるでしょう。現在のベネディクト法王による「イスラームのジハード批判」もそうした感情の表れの一つだと言えます。
 ただし、今も指摘したように、同じキリスト教世界の
「正教の世界ではこれが表に出ていません」。彼らもキリスト者ですからイスラームを認めているわけはありません。むしろ「オスマン・イスラーム支配」で苦しみの迫害を受けていたのですから「憎しみ」で一杯の筈なのですが表には出してきません。それはどうも、「アメリカと西欧のあまりにもヒステリックなイスラーム憎悪」に平和への危険性を感じているからのようです。「正教徒であるギリシャや東欧正教圏」はこうして「反イスラーム」を表に出さず、むしろ「反米」の方に傾いています。このように同じキリスト者でも態度が違うので、そのキリスト者のあり方を見ておきます。

正教世界
 ローマ時代に国教にされたキリスト教の伝統を今に伝える
「正教」はビザンティンの伝統を保持する「ギリシャとロシアを中心に、東欧の東域」にかけて分布しています。ただ「ロシア」の場合は長い「ソ連・共産党政権」による宗教弾圧があって、今では容認されて「人々の心には復活してきている」ものの「社会的影響」はあまりないと言えます。
 正教は
「救済の祈願」にそのまま対応するように、人々の心と生活の背景となっています。その「生活感の強さ」が一つの特徴と言えます。生活と宗教が不可分に表裏一体となっているのです。ここでの精神は「イエスの十字架において人類は救われている」とする思想のもとに、「神への感謝と祈り」を主要要素とし、儀礼的には初期の時代以来のやり方を守り続けています。
 正教は「初期教会のあり方を守る」というのを原則的規範としているので教義や儀礼の形式はどこも変わらないのですが、生活に密着しているということでの
「地域性」が濃厚に出てきて、ギリシャの正教はギリシャ人的であり、ブルガリアのそれもルーマニアのそれもロシアのそれも、何がどのようにとはうまく説明できないのですが、明確な特徴を示します。

カトリック
 他方、カトリックというのは
「西欧から東欧の西域、さらに南米の全て」に分布し、北米でも強い勢力を持つほか世界的に分布していて「キリスト教会派の中で最大会派」になっています。ここは「バチカンという最高権威の下に階層社会」となっており、そのため秩序がもっとも強固であり、「絶対性と権威」において特徴が示されます。
 カトリックにあっては
「教会は聖、社会は俗」として、聖は俗を救うべきとして「慈善活動」をし、神父は妻子も財産も持たず「伝道のために生涯を尽くす」といったプラスの面があり、そうした局面での「心優しい信者」もたくさんいます。
 しかし反面で、
「封建体質と権威的態度」において庶民・労働者を見下し、「政治権力と癒着」し、キリスト教ではない「異教徒・少数民族に対して攻撃的」である、といったマイナスの要素も強く持っています。従って、「保守的で権力的」な面で「平和の阻害要素」があり、法王も「権力的な人がでてくる一方で、慈善や平和のために生涯をかけた法王」もでています。この「二局分裂」がカトリックの問題となります。

プロテスタント
 もう一つがプロテスタントとなりますが、ここは
「北欧を中心に北米」で勢力を持ちこれも全世界的に分布しています。特徴としては、本来的に「カトリックへの反抗」という性格を持ち、従って、カトリック的な要素を廃して「法王や教会権威」を認めず、「『聖書』とイエスの言葉」だけにキリスト教の信仰を求めようとしたものです。司教も特別な「選ばれた者」であるわけではなく、「万人が神に仕える司祭」なのだという立場をとりました。従って教会堂もカトリックのような華美な装飾は持たず、ただ十字架だけというのが多いです。しかし、現在ではカトリックとプロテスタントの関係は良好で敵対性はほとんどありません。

キリスト教の発展史
 ところで、キリスト教というのは、
「イエスを神の子、救世主キリストと認めてその教えを守る宗教」と規定されます。イエスの教えの骨格は、「虐げられている者、神を求めるもの、愛をもって人と接しようとするもの、平和を望む者」であって、初期段階では虐げられていた女性や下層民に受け入れられていた宗教でした。しかし、これは上層階級にあっても「苦しみ」「愛をもとめ」「平和を望む」人々にも受け入れられていきました。
 ここまでは「イエスの宗教」といえましたが、やがてローマの国教となり皇帝と結びつき、やがて教会は分裂して
「西欧カトリック」は皇帝をも膝下に敷く「権力」となっていくという歴史になってしまいます。そして歴史的にバチカンのように「世俗権力」と一体となったキリスト教を主流として発展していきます。
 そのため、その
「権威となった主流の教会」を離れて、「庶民の中にあってイエスの教えを実践」しようというキリスト者、「山野や修道院にあって神をもとめるキリスト者」と三つの道に分かれていきます。
 そして現在、
アメリカにおいて「国家主義的キリスト教」という新しいタイプのキリスト教が生じていますが、これは、国家と結びついているという点」、「自分だけが正しいとする独善性」、「自分と違う考えのものは悪として滅亡するべき」といった排他性・攻撃性など、中世のカトリックが持っていた性格をそのまま持っています。
 ここには「虐げられている者の救済」「愛と平和」といった「イエスの思想」などかけらも見えません。異端裁判、魔女狩りなどで有名な中世西欧のいわゆるカトリックは
「バチカン教」とでも呼んだ方がいいようなものですが、同じように現代のアメリカのものはまさに「アメリカ教」とでも呼ぶべき「独善的新興宗教」のような性格をもっていると言えます。

アメリカの特質
 アメリカが何故そんな宗教を生み出すことになったのかというと、それは
「アメリカという国の形成」にそもそもの原因があります。現在のアメリカは「アメリカ民族」といった歴史的民族によって形成されたものではなく、歴史や伝統もない、ただ「理屈」だけで200年ほど前に作られた「人工国家」です。「アメリカ人」というのは「アメリカ国籍を持つ者」ということであり、これが他の民族と決定的に異なる点です。つまり「日本人」はどこの国籍を持つことになっても「日本人」と判断されます。それは「日本民族」の一人という判断によるものであり、これは「イギリス人」であれ「ロシア人」であれ「インド人」であれ、どこでも変わりません。「人は民族によって規定される」のが一般的です。ところが「アメリカ人」だけは違うのです。彼らは「アメリカという国によってのみ規定されている人間」なのです。だから彼らは「国に対して異常なほどの依存性」を持ち、「愛国心に異常に敏感」であるわけでした。この場合の「国」とはアメリカという「国体」です。つまり「大統領に指導されている国体」です。ですから「アメリカ大統領」というのは王国における「国王並の尊敬と権威」を持っているのでした。
 一方、通常我々が用いる「愛国心」でいう「国」とは
「民族」であり「民族の伝統・国土」に裏打ちされたものです。これはもう「民族の命」であり、「愛せよ」などと命令されて愛するものではありません。つまり、たとえ我々がどこの国籍を持つことになったとしても、故郷を愛し思い、オリンピックで日本選手を応援してしまい、日本人がノーベル賞をもらうと誇りに思ってしまう、その「心」「愛国心」なのです。
 ところが
「政治家のいう愛国心は違っている」のですが、これが多くの人々に理解されていません。この時の国とは実は「国体」を意味していて、ひいては「国体をつくっている自分たち権力者」を愛せよという命令と変わらないのです。言葉が同じであるためこの二つの愛国心を区別できない人が多く、それを政治家は利用して「愛国心」をいうのですが、その時には彼らは密かに「国体」を意味させているのです。それを多くの一般庶民は「民族」と誤解してしまって賛成してしまうのです。しかし、この区別はしっかりつけておかなくてはなりません。
 そしてアメリカ国民は「民族」がないので、彼らの愛国心とは
「国体のみ」となります。そして「キリスト教がアメリカ人=アメリカのという国の国籍を持つ者」にとっての精神的支柱となっている場合、それは当然のように「国粋主義」となってしまうのでした。
 
もちろん、その危険性を察知してそうならないようにしているキリスト者も多くいて、そうした人々は「リベラルは」と呼ばれて一定の勢力を持っていたのですが、ブッシュ元大統領以来、残念ながらその勢力は著しく減退してしまっています。

イスラーム
 イスラームは
「現在の中東・オリエントから北アフリカ、さらに中央アジアから小アジア、東南アジア」に分布し、インド、中国西部にも浸透し、さらに西洋、ロシアにまで勢力が広がり、信者数は十数億となりますます増大しています。
 分布の特徴は発祥の地「アラブ」から中東・中央アジアなどの「遊牧民国家」「北アフリカ」など、今日いわゆる
「発展途上国」とされる地域、ないし「貧困層」に強く浸透しています。世界人口での経済分布は75パーセントが「貧困層」とされているので今後ますます増大すると考えられています。これは多分イスラームが貧困層のニーズに応えているからで、それは「神の下にすべての信者は平等」という精神と「富は回遊さるべし」という教え(これが現在機能していないのがイスラーム諸国の大きな問題)にあると思われます。つまり、現在のイスラーム諸国の「政治指導者は利益優先で親米政権」となって「民衆弾圧」も激しいです。そのため民衆との乖離が目立ち、いつイスラーム革命が起きても全く不思議ではなく、実際現在おきているわけでした。要するに安定していません。
 また
「党派」の問題も深刻で、イラクやレバノンでの「シーア派」の増大はイスラーム諸国に深刻な問題を生んでいます。つまり、シーア派の伸張は主流派のスンニ派にとって困ることでした。そのためイラクではフセインが台頭するシーア派を押さえようとかかりました。ところがそのフセインは反米の筆頭であったためアメリカに憎まれて排除されてしまったわけです。当然イラクは「シーア派」の主導となりました。こうして「イラン・イラクはシーア派の勢力が拡大」し、その影響下にレバノンでもシーア派が主導的になってきています。
 そのためスンニ派の政治指導者たちは「レバノンがイスラエルに侵略されても」見て見ぬふりをしているのでした。さらに
「パレスチナを見殺し」にしているわけですが、パレスチナの見殺しはイスラームとしてほとんど「裏切り行為」なので、将来的にイスラーム国家指導者はどのようにイスラーム民衆から評価されることになるかが問題となるでしょう。イスラームは宗教的熱情が強い宗教なので、欧米の侵略が続く限り今後とも闘争は続いていくことになるでしょう。

ユダヤの場合
 パレスチナを限りなく混迷に落としているイスラエルの宗教が
「ユダヤ教」ということになりますが、ここは古代にあっては「貧しく過酷な土地」という状況の民族でした。したがって彼等は「神に頼んで」救済してもらうしか自分たちの救済の方法がありませんでした。砂漠という土地の貧しさにしろ、過酷な気候にしろ、人知ではどうにもならなかったからです。
 彼等は自分たちの過酷な運命を
「先祖による神への離反」として説明して(アダムとイヴの物語)、「罰であり止むを得ぬこと」と受け止めて「苦難」に耐え、そして「神への絶対服従」において「豊かな土地が与えられる(カナンの地)=パレスチナ地方」としたのです。
 この「約束」を
「契約」と呼び、他に神的なものを認めない「唯一神」信仰となり、それへの服従として「神の律法」を遵守しました。つまり、ここの「神」は「罰を与え」「律法を順守」させ、「見張っている厳しい神」でした。その代わり、この神は「ユダヤ人だけを選んで(選民思想)」恵みを与えるとされ、ユダヤ人はユダヤ人を迫害するものを滅ぼし世界に君臨するという思想を持ちました。これがユダヤ教の性格であり、この神への服従者として「ユダヤ人」であるとしてきたのでした。
 ユダヤ人は紀元前1000年くらいにこのパレスチナ地方への進出を成功させましたが、三大で分裂し、その後は他民族支配となり、ローマ時代に反乱を起こしてこの知を追われたのでした。そして2000年もの間このパレスチナ地方には居なかったのですが、
「神との契約」を盾にこの地にこだわり、そして60年前にイギリスとドイツの戦争にまつわって「イギリスの欺瞞政策」に基づいてここに流れ込み、戦後の混乱に乗じて「イスラエル」を建国したのでした。
 西洋の歴史において迫害されていたユダヤ人の気持ちも分かりますが、
「平和共存」の道を探るのなら良いとして、「一方的にパレスチナ人を迫害・追放」しようというのは許せるものではありません。
 つまり、頑迷なユダヤ人は、
「カナンの地つまりパレスチナは自分たちユダヤ人が神からいただいたものである」として、「イスラームであるパレスチナ人はここに住んではならない」として武力に訴えているわけですが、そうした宗教のありかたは「負の働き」の典型と言えます。
 為さねばならないことは「パレスチナ人の撲滅」なのではなく、何とか
「平和共存」の道を探ることでしかないのです。

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