15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 14.西欧世界の性格 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

14.

西欧世界の性格


はじめに
 この章全体の表題は「西洋と中東の宗教的葛藤」となっていますが、これはむしろ
「西欧」とした方が良かったかもしれません。ここではその「西欧諸国の性格」を見て起きます。
 西欧の中世の時代は
「ゲルマン部族同士の西欧内での勢力争い」で、国土を取ったり取られたりのお互い同士の闘争の歴史を繰り返していました。それが、近代になってひとたび世界に出られるようになると「その牙は一斉にその外の世界」に向けられていったのでした。
 現在の
「イギリス」「フランス」「ドイツ」「オランダ」「スペイン」「ポルトガル」あたりがその代表格となるでしょう。現在では「アメリカ」が圧倒的な侵略国(ただし、領土的というより経済的侵略で相手国を属国化するという方法)となります。

世界制覇へと向かう西欧
 近代での世界的規模への侵略となると
「イギリスが最悪国」で、ついでは「フランス」になるでしょう。また「スペイン」も負けていません。
 そのイギリス、フランスの侵略としてもっとも知られているものとしては、
「イギリス」が植民地とした代表である「北米」となるでしょうが、ここは「原住民族を駆逐」して後、今日「アメリカ合衆国」「カナダ」として独立しています。「フランス」の痕跡は今日カナダでの「ケベック州独立運動」などに残っています。
 また、
「カリブ海諸国」も今では独立国になっているものが多いですが、ここのほとんどの国々が「スペイン」「イギリス」や「フランス」の植民地とされていたのでした。
 同様の事情は
「オセアニア」も同様で、「オーストラリア」「ニュージーランド」、その回りにある「何十の島の国々(たとえば英領サモア、英領ギルバート、トンガ・イギリス保護国、バヌアツ英仏共同統治領、ニューギニア、フィジーなどなど)」もことごとく勝手に「イギリス領」にされていました。
 
「アフリカ」もひどいもので、「何十にもなる国々の殆ど全部」がかつて「イギリス」や「フランス」などの植民地だったのであり、そこに「他の列強」が絡んでくるといった状況でした。現在のアフリカの国々での内乱、政治腐敗、医療や教育その他文化的制度の遅れ、貧富のすさまじい格差などは殆どこの時代の負の遺産なのです。
 ひどいと言えば
「中東」も同様で、現在さまざまの紛争の舞台となっている「パレスチナ」「レバノン」「シリア」「ヨルダン」「イラク」「イラン」「エジプト」など「イギリス」「フランス」「ソ連」「アメリカ」などにいいようにされていました。このことが現在の中東での紛争の背景の一つとなっているのです。
 
「東洋」もその牙から逃れることはできず、「インド」は「英領インド帝国」だったのであり、「スリランカ」も「英領セイロン」であり、その他「英領ベンガル」「英領シンガポール」「英領モルディブ」「マラヤ連邦(今日のマレーシア)」「イギリス保護国ブルネイ」などとされていたのです。またさらに今日の「アフガニスタン」の混迷は「イギリスの侵略・植民地化」が元凶なのであり、そこに「ソ連」さらに「アメリカ」が介入していき地獄の沙汰としてしまったのでした。
 
「極東」もひどいもので、「香港」が最近ようやくイギリスから返還されたばかりなのは良く知られています。ここにはまた「フランス」も激しく介入しており、その他の列強もことある事に介入していました。それが今日の日本の右翼によって「日本軍のアジア進出は東南アジア諸国の外国支配からの解放軍であったのだ」などと自分勝手ないいわけに使われることにもなってしまったのでした。
 他方、
「スペイン」「ポルトガル」も負けてはおらず、彼らの無惨な牙は「南米諸国」をことごとく「スペイン語」と「ポルトガル語」の国、「カトリックの国」としてしまいました。南米の文明であった「マヤ」「インカ」「アステカ」など根絶させられてしまったのです。
 こんな具合に、西欧の牙を逃れることのできた国というのは、世界広しといえども
「日本くらい」と言われる状況になっていたのでした。

西欧人の気質
 「西欧」がこんなにも侵略的であることの原因として、俗説として
「彼らはヴァイキングの末裔だから」といった説明も良くされます。「ヴァイキング」というのは北欧起源のゲルマン人の一派で、フランスのノルマンディ地方に定住した部族のことを「ノルマン人」とも呼びます。彼らは良く知られるように、航海術に巧みではるか彼方まで海をわたって遠征して「海賊」を働いていたと紹介されますが、現在のイギリス人というのはこの末裔なのであり(ノルマンディー公ウィリアム・ギョームによる建国)、従って「海賊的」であるというわけでした。これは分かりやすいですが、確かにこの「外へ」という感覚は受け継がれていたとしても、だからといって侵略的になるのかどうか疑問も生じます。
 しかし、目的はやはり
「領地の拡大」「経済的利得」の獲得にあるという方が当たっているでしょう。西欧人の祖となるゲルマンが「西欧」内で勢力の伸張を計っていた時代も「領地の拡大」「経済的利得」ですさまじい動きを見せていたのだし、外に向かっては「十字軍」などが典型で、あれは「聖なる軍隊」でも何でもなく、「権力の強化を計るカトリック法王」「領地拡大を狙う西欧の騎士」たちの思惑がうまくあっていたことから形成されたものでした。その十字軍の性格は「第四回十字軍」のビザンティン帝国への裏切りと首都コンスタンティノポリスの占拠(こうして「ラテン王国」を作ってしまう)に典型的に現れてきます。
 
しかし目的が「土地と権力の目的」となると、この「侵略性」は何も西欧人特有のものではないということになります。そんな目で歴史を見てみれば、歴史上に大領地を形成した侵略的民族は西欧人に限らず世界中に観察されます。ペルシャに攻められギリシャの存亡がかかっていたという半ば正統防衛的なアレクサンドロス大王の東征などわずかな例外をのぞけば、大体が「領土と経済の野心」に基づいた侵略が各地で繰り広げられていたわけです。その典型的な例を私達は現在の世界でも身近にもっているのでそれを見ましょう。

アメリカの場合
 西欧の衰退に伴って世界の各国は独立していったのですが、実は代わって別の西欧の流れの国が
「違った形での世界侵略」をしているのでした。それが「イギリスの流れを受け継ぐアメリカ」なのでした。
 
第二次世界大戦後に限ってもアメリカが何らかの口実を設けて派兵していった国を列挙してみると以下のようになります。

1946、1950〜53年・・
中国。1950〜53年・・韓国・朝鮮。1954,1967〜69年・・グアテマラ。1958年・・インドネシア。1959〜60年・・キューバ。1964年・・ベルギー領コンゴ。1965年・・ペルー。1964〜73年・・ラオス。1961〜73年・・ベトナム。1969〜70年・・カンボジア。1983年・・グレナダ。1986年・・リビア。1980年・・エルサバドル。1980年・・ニカラグァ。1989年・・パナマ。1991年・・イラク。1993年・・ソマリア。1995年・・ボスニア。1998年・・スーダン。1999年・・ユーゴスラビア。2002年・・アフガニスタン、継続中。2003年・・イラク、継続中

 さらに最近も話題になっていることですが、以上の軍事行動に先立つ時代にも重要な侵略をたくさんしていました。有名なのが
1898年の「キューバ」「フィリピン」への両方面の派兵です。口実は「スペイン植民地からの解放」でした。しかし実際やったこととは「フィリピン、グアム、プエルトリコの占拠」であり「キューバに軍政」を開いて半植民地にしてしまったことでした。現在、グアムはアメリカに帰属した他これらの国々は独立していますが、キューバなど今以てアメリカの執拗な介入を受け続けています。上記の派兵の大義名分はいつの場合も「圧政からの解放」「正義の戦い」でした。しかしやっていることは「アメリカの侵略」「アメリカの傀儡政権の樹立」であり、要するにそこでの「アメリカの利権の獲得」なのでした。こうして「アメリカの軍需産業の興隆」が計られたのでした。こうして現在「世界の富の59パーセントをアメリカ一国が占める」という状況を作り出したわけです。「イラク侵略」の目的の一つとして「石油利権の奪取」があったことは現在事実として明らかにされてしまいました。

西欧世界の形成
 取りあえず、以下に西欧の主要国の成立の経緯の概要を示しておきますが、要するにここの歴史は
「ゲルマン部族の領土の取り合い合戦」であり、今日ではそれぞれ独立国として「異なった国」のように見えますけれど、「民族は一つ」だということはしっかり理解しておく必要があります。

イギリス
 私達が「イギリス」と呼んでいる国は、正式には
「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」となります。グレートブリテンというのはフランスの北対岸から北に長く延びている島全体のことですが、ここはさらに「イングランド(フランスに面した島の底辺から中央にかけての東側)」、「ウェールズ(イングランドの西南に面した地方)、「スコットランド(島の北部地方)」に分かれ、これにブリテン島の西にある島「アイルランド」の北東部が「北部アイルランド」として加わっています。これ全体を日本では「イギリス」と呼んでいるとしておいていいでしょう。
 経緯ですが、
「ケルト民族の渡来」から見ておきましょう。紀元前9世紀頃からはじまっていたと推定され、6世紀頃まで断続的に続いていたようでした。ですからこの時代は取りあえず「ケルト人の諸国」があったと言えます。
 それがローマの台頭に伴って
「カエサル」が侵入してきます。紀元前55年とされます。こうして「現住ケルト民族を支配するローマ」という構造が生じましたがこの時代はまだ小規模だったようです。それがさらに紀元後43年になって、ローマ帝国皇帝クラウディウスがブリテン島の南部を制圧しました。
 ところが400年代となって
「ゲルマン人のローマ侵略」が生じ、ローマ帝国はブリテン島を放棄し、ブリテン島は「ゲルマン支配」となります。こうしてブリテン島南部にはゲルマン人による小規模の国のごときが5世紀から9世紀にかけて乱立し、それを「七王国時代」などと呼んでいます。その中で勢力をのばしたアングロ・サクソン族の「アングル人」にちなんで「イングランド」と呼ばれる地方が形成されていったのでした。
 ですから、先に指摘した四つの地方のうちの三つ、つまり「西部のウェールズ」「北部のスコットランド」「隣りの島のアイルランド」はまだ「ケルト人の国」であったと言えます。結局それ以降のイギリス史とは
「イングランド」の勢力の拡大・侵略史のようなことになってくるわけです。
 ところでそのイングランドですが、1000年代に入って大陸からの部族の侵略となり、ついに1066年フランスにあった
「ノルマンディー公ギョーム」が進出してきて「ウィリアム一世」を名乗って君臨することになります。「ノルマン」というのはもちろん「ゲルマン人」の一派で、北欧の「ヴァイキング」と呼ばれる海洋部族(一般に「海賊」と言われる)がフランスの西北部に落ち着いた時の呼び名となります。したがって、その後のイングランドは言い方を変えれば「フランス系王家」となるわけで「プランタジネット家」の支配となっていきます。この王家はフランス地方の西半分も領有していました。つまり当時のイギリスというのは「フランスの一部」だったとしてもいいわけでした。フランスからわたった部族ですから当然といえば当然でした。こうして勢力を伸ばし1282年にはイングランドが「ウェールズ」を併合しています。
 ということになると、大陸にあった本家の親族(これは
「西フランク(現フランスの原型)」となる)と事を構えることになるのも時間の問題で、実際すぐに戦いとなり、結果的に100年戦争(1339〜1453年)などということになり、はじめはイギリス側が優勢でしたがフランスに「ジャンヌ・ダルク」が現れて形成逆転してイギリスは負けてしまいました。こうしてイギリスは「島に閉じこめられてしまった」というわけで、これ以降イギリスはイギリスとしてのあり方を形成していくことになるのでした。ですからたかだか500年くらい前からのことというわけです。
 その後のポイントですが、1541年にはイングランドの
「ヘンリー八世」がアイルランドに介入しています。1603年には「スコットランド王がイングランド王」として即位することになり「ジェームス一世」を名乗ります。従ってここに「スコットランドとイングランドの連合国」が自然にできあがってしまったわけで、1707年に「グレートブリテン」を名乗ります。これが今日の「イギリスの正式名称の元祖」となるわけですからたかだか300年くらい前というわけでした。そして1801年にアイルランドを併合してしまうのですが、1922年に再びアイルランドは独立を勝ち取り、現在となっているわけでした。

フランスとドイツ
 現在の
「フランス共和国」の起源は一般に紀元後800年に成立した「フランク王国」にあるとされます。この「フランク王国」はローマに侵入したゲルマン人の一派で、「カール大帝(ドイツ語発音、フランス語発音ではシャルル)」の時代に大勢力となっていて、ローマ教会は彼に「西ローマ帝国」の称号を贈与したのでした。
 ところがカールの死後、跡目争いとなって結局フランク王国は三分割されることになります。そして
「西フランク」「中部フランク」「東フランク」となりました。その条約を「ヴェルダン条約(843年)」と呼び、さらに「メルセン条約(870年)」で明確にされます。ヴェルダン条約の段階ではちょうど縦割りに三分割だったのですが、メルセン条約で中部フランクが西と東に帰属されて消滅し、その南方のイタリア半島は「教皇領」さらに南方は「両シチリア王国」などで、ちょうど現在の「フランス」「ドイツ」「イタリア」に相当する領域が形成されていきます。従って、これをもって「現在の三国」の起源と言えます。
 
「西フランク」が現在のフランスとなるわけですが、フランスの仇敵はイギリスとなっていきます。1180年に即位した「カペー朝のフィリップ二世」は国内のイギリス領を奪取して王権をのばしていきますが、ちょうどフランスの北端にあってイギリスと海を挟んで向かい合っている「フランドル地方」を巡って両国がぶつかりそうであった時、「カペー家」が途絶えてしまったのでした。その後は身内の「ヴァロワ家」が継ぐのですが、他方「カペー家」出身の「イサベラ」はイギリスのフランス系王朝(括弧付きでこう呼んでおきます)である「プランタジネット家」にとついでおり、その子の「イギリス王エドワード」はそれをもってフランス王位継承を主張して「ヴァロワ朝」に反抗してきたのです。こうしてフランドルを巡っていわゆる「百年戦争」ということになったのでした。当初劣勢であったフランスですが「ジャンヌ・ダルク」の出現で勢いを盛り返してフランスの勢力を伸ばして行くという歴史となっていったのでした。時代的には1400年代になりますが、以上までの100年代からの動きも、これ以降の動きも世界史的には「田舎の出来事」くらいのことで、西の世界は「トルコ人王朝、つまりセルジュク朝からオスマン朝(1000年代から20世紀まで」が躍動しており、その結果として「ビザンティン帝国の滅亡(1453)」などがあり、さらに「モンゴル(1200年代にすさまじい動きをしており、ロシア地方南部支配から東欧にまで進出)」「ティムール(1300年代から1500年)」などが世界を動かしていましたし、エジプトにあっても、独特のイスラーム王朝が台頭し「十字軍」を撃破するなどの重要な事件が頻発していました。
 この「フランス」、あるいは西欧が世界史的に重要になってくるのは
1700年代に登場した「ナポレオン(1769〜1821年)」からだと言えます。ナポレオンはフランスの革命軍に加わって王党派を打ち破って総裁となってフランスを支配することになります。そこからのナポレオンの動きは全西欧を支配下に置くような動きとなり、それは一時成功するのですが、これは逆に各地の「部族意識」を触発する結果となって、各地の諸侯の反乱・独立となっていくのでした。このことが近代の西欧のありかたを決定していくようなことになっていきます。ようするに、現在の西欧の国々の「国意識」というのはやっとこの当時に醸成されたといっても過言ではないのです。たかだか250年くらい前のことでした。

 一方、現代のドイツの基盤となる
「東フランク」の方ですが、ここは962年に「神聖ローマ帝国」を名乗ったことで有名となります(ただし、当初は「帝国」とのみで、「神聖ローマ帝国」という呼称にしたのは1200年代になってから)。この神聖ローマ帝国は1806年まで継続します。                 
 ただし、この東フランクは「帝国」と名乗って一応とにかく皇帝をもつのですが、むしろ「諸侯の領域」の
「連邦国家」といった様相になっています。つまり、「一つの国家」としての意識や民族意識はほとんど無かったとされます。皇帝は教皇から戴冠されるということで教皇とのつながりは強固にされましたが、皇帝の意識は「教皇」にのみ向けられていたため「ドイツ皇帝」といっても殆どドイツ国内に居らず、「大空位時代」などと呼ばれる20年にわたる期間を作っていたほどでした(1256〜73)。その後もドイツ領内での皇帝の権力は弱体のままで、皇帝カール四世は1356年「金印勅書(黄金文書)」をだして七諸侯を「選帝候」としてみとめていました。つまり、この七人が皇帝選出の権限を持つというようなもので、皇帝の権力はこの七人ににぎられていたようなものといえました。
 1400年以降、皇帝を
「ハプスブルク家」から出すようになっていますが、国内にはその直轄領の他に大小の諸侯の領地や自由都市などが乱立しており、およそ300と言われる「領邦」がありました。統一などまるで考えられない状況でした。その間、ドイツ人は北方のエルベ河の東領域に進出して「ブランデンブルク辺境伯領」「ドイツ騎士団領」などを形成していき、この「ブランデンブルク」と「ドイツ騎士団の後代であるプロイセン公国」がやがて合併して「プロイセン王国」となっていきます。1701年となります。
 しかしその後
「フランスのナポレオンの侵入」によってドイツはようやく民族意識に目覚めて、統一国家の必要性を感じるのでした。当時のドイツは「ライン同盟」「スイス「イタリア」「ベーメン」「ウェストファリア王国」「プロイセン王国」「ワルシャワ王国」「オーストリア帝国」などと諸侯が分立していました。その統一の争いは「オーストリアのハプスブルク家」と「プロイセン」が中心となり、最終的に「プロイセンのヴィルヘルム一世」によって「ドイツ」としての統一となったのでした。他方、歴代の神聖ローマ帝国皇帝を輩出していた「ハプスブルク家」は「マリア・テレジア」が継承し「オーストリア」として独立して存続しドイツとの軋轢となっていくのでした。

スペインとポルトガル
 「スペインとポルトガル」の両国の発祥も新しいものです。
「イベリア半島」は歴史的に「ローマ帝国の属領」として登場します。やがて400年の後半、ゲルマン人の大移動に伴うローマ帝国内への侵入となって、ここに入り込んだのは「ゴート族」でした。しかし、600年代後半に南から進出してきたイスラーム勢力によって北方に押し戻されてしまいます。ここに、イベリア半島に「イスラーム・ウマイア朝」が形成されていきました。この地方の「最初の確固たる王朝」の誕生でした。それから数百年、ローマ法王の権力の増大策により「西欧キリスト教徒」が北から南進をはじめ、1100年代にはイベリア半島の半分くらいまで進出してきます。これを「国土回復運動(レコンキスタ)」などと呼んでいますが、これは法王庁・キリスト教徒、つまり西欧側の「侵略の口実としての言い分」です。
 そして
「カスティーリャ王国」「アラゴン王国」「ポルトガル王国」が形成され、イベリア半島はもとからの「イスラーム王朝」を加えて四つの勢力となりました。ところが1479年に「カスティーリャ」と「アラゴン」は「アラゴン王フェルナンド5世」「カスティーリャのイサベル王妃」の結婚という形で統合され、ここに「スペイン王国」が成立することになります。そして1492年に「イスラーム・ナスル朝」の都「グラナダ」が落とされ、イスラーム王朝はアフリカへと撤退していったのでした。こうして、ここは「スペイン」と「ポルトガル」の2国だけとなったのでした。要するに、スペインの建国はたかだか500年くらい前ということなのでした。

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