15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 9.オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

9.

オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢


はじめに
 「ビザンティン帝国」の滅亡は、1000年代の
「セルジュク・トルコ」の侵略から説明されますが、これが「十字軍」を引き起こして、とりわけ「第四回十字軍のコンスタンティノポリス侵略」が最大の滅亡遠因とされ、そして直接的にはセルジュクを継いだ「オスマン・トルコ」によって引き起こされました。そして、そのオスマン・トルコは東欧に侵略して、そのことが今日の「東欧問題」の原因となる一方、西洋人に「侵略のイスラーム、恐ろしいイスラーム」というイスラーム観を形成させたことが今日の西洋と中東の問題を見る時に非常に大事となります。これは十字軍がイスラームに「侵略の西洋人、残虐非道な西洋人」というイメージを形成させたのと裏腹の関係にあります。

東欧世界
 オスマン・トルコが西欧へと触手を延ばす機縁は
「オスマンが東欧を支配した」ことにあります。東欧ということで何処を指すかというと、一般には旧ソ連の支配下に置かれていた領域を指す言葉、つまり「政治・社会的概念」と思われているようですがこれは困ります。それでは東欧の歴史がみえてこないからです。
 「西洋」が「東・西」という概念で分けられたのは「ローマ帝国の時代」のことでした。やったのはディオクレティアヌス皇帝(245頃〜313年、在位は284〜305年)であり、293年いわゆる「四分割統治」と言われる、ローマ帝国を「東・西」にわけてそれぞれに「正帝と副帝」を置くという体制でした。境界線は現在のイタリア半島とギリシャの間に引かれています。つまり現在のアドリア海の南端ギリシャ寄りからまっすぐ北に線を引きますと、現在のクロアチアまでが西の世界に属し、マケドニアあたりから東世界となります。さらに「宗教」で見てみますと、西は
「カトリック・キリスト教」東は「正教キリスト教」となります。

オスマン・トルコの東欧進出
 「オスマン・トルコ」とは、紀元後1000年代にはるか東から移動してきて中東地方へ進出してイスラーム世界を支配した「セルジュク・トルコ」が衰微していった後に、そこから台頭してきたトルコ人の一派
「オスマン部族」を言います。およそ1299年頃に国としての体裁を整えたとされ、その後勢力を拡大して現在の東欧バルカン地方を皮切りに、やがてビザンティン帝国を滅ぼして(1453年)中東からエジプトまでを支配した「イスラーム大帝国」となりました。その滅亡は1922年ですから、およそ730年ほど続いた長期帝国と言えます。この活動期は、西欧においては「神聖ローマ帝国」が支配していた時期(962〜1806年)とおおよそ重なります。
 ちなみに思想・文化史の上で重要な「ルネサンス」はこの半ばである1453年にオスマン・トルコによってビザンティン帝国が滅亡したのに伴って、そこに保たれていた
「ギリシャ文化が西欧(イタリア北部、とくにフィレンツェ)に流出して復活・再生された現象」をいいますので、ようするにオスマン・トルコの台頭が促した現象であったわけです。
 
そのオスマン・トルコの西洋世界、つまり東欧バルカン半島への進出は1353年頃からはじまり、1361年にビザンティン帝国領であった「アドリアノープル(つまりローマ皇帝「ハドリアヌスの都」という意味の都でローマ時代からの重要都市であった。トルコに落とされて「エディルネ」として今日まで存続)を陥落させてバルカンへの足がかりを作りました。
 しかし、ここはビザンティン帝国領です。何故オスマンが易々とバルカン半島に入れたのかと問題になりますが、これにはビザンティン帝国の問題がありました。すなわち、
「第四回十字軍の裏切り」によって帝国を一時略奪され、ほどなく奪回はしたものの弱体していたビザンティン帝国は、バルカン半島に台頭していた「ブルガリアやスラブのセルビア王国」に対してそれを押しとどめる力を失っていたのです。そのためビザンティンはオスマンにバルカン諸国を攻めさせて弱体させよう、と考えて易々と「東欧への道」を行かせたのかもしれません。しかし結果は、ただオスマンの勢力を強大にしただけの結果となり、やがてみずから「オスマンの軍門に下る」ことになったのでした。

「コソボの戦い」
 ともあれ、こうして1389年コソボの戦いとなります。この「コソボの戦い」というのは、バルカン問題の一つ
「東欧でのイスラーム問題」を考える上で非常に重要な戦いになります。すなわち、オスマン・トルコは現在のトルコ領にある「アドリアノープル」から西に侵入してきて「トラキア地方(分かり易くは現在のブルガリアの南方地方からギリシャ北方地帯)」を侵略していきます。
 トラキア地方を南部とする当時の「ブルガリア」は、1187年以来「ビザンティン帝国」から独立していた
「第二次ブルガリア王国」と呼ばれる王朝の時代でした。1200年代の前半頃に領土は拡大して「リラの僧院」なども建設されて文化的にも発展しましたが、1277年農民蜂起などがあって国力が衰退していた時代でした。そこを突かれる形でオスマンの侵略が始まってきたのでした。
 オスマン軍は西進して
「セルビア」に向かいました。そのセルビア地方は12世紀頃に統一されて王国の基礎が作られ、14世紀になって「ステファン・ドウシャン」によって「コソボ」を首都にした王国は現在のマケドニアからアルバニアにまで及ぶ広大な領域を支配するまでになっていました。しかしそのドウシャンの死後は弱体化が免れず、その時代にオスマンが侵略してくる形となったのでした。
 ここでセルビアの「ラザル公」がコソボにあって
「バルカン諸侯と連合軍」を形成し、オスマン・トルコの「ムラト一世」に対して防衛戦を戦うことになります。結果は大敗で、これ以降バルカン半島は「ニコポリスの戦い」「バルナの戦い」などを経て「オスマン・トルコの支配下」に入ってしまうことになったのでした。
 その敗戦の原因として歴史家はあれこれあげつらっておりますけれど、ビザンティン帝国が強力であった時代ならともかく、第四回十字軍に侵略占領されてしまって(1204年)以来国力を回復できずにやがてくる滅亡がみえていた時代です。また、バルカン諸国もビザンティンから独立して王国を築いてはいても最盛期を過ぎた時期のことですから、先に攻められたブルガリアだけではなく、セルビアの西にあったボスニア王国も現在の南ルーマニア地方にあたるワラキア王国も、連合軍となっていましたけれど、
「破竹の勢いであったオスマンに対抗できなかった」ことは明瞭です。
 他方、セルビア人はオスマンによってこの「コソボの地」から駆逐されてしまったわけですが、その後のセルビア人にとってこの「コソボ」の地は
「祖国を守って戦い玉砕した先祖の血」の流れる「聖地」となりました。やがて500年経ち、近代セルビアが独立した時、この「コソボ」は「アルバニア」との国境沿いの街になっていてアルバニア人の大量流入が行われていたのでした。
 この
「アルバニア」は民族的には「イリュリア人」でありトルコ系ではないのですが、オスマン・トルコの侵略以降「イスラーム」に改宗していました。
 そしてアルバニアは「大アルバニア主義」と呼ばれる
「領土拡大主義」を持ち、他方のセルビアもかつての領土への回復を願う「大セルビア主義」を持っていたものですから、ここに「出て行け、お前こそでていけ」の争いになってしまったのでした。それは一進一退の争いになってしまい、長く「旧ユーゴスラビア」の棘のような問題になってしまいます。そして第二次大戦の後「ユーゴスラビア」は一度解体、1945年再編されて社会主義連邦共和国となりますが、共産党の欺瞞に基づく東欧社会主義国の解体に伴い1991年に再び解体してしまいます。そしてここはその解体されて残った「セルビア」の問題となっていきます。そして再びアルバニアとの抗争が起こった段階で「NATOとアメリカのセルビア爆撃」という事態が生じてしまったのでした。
 それにはセルビアの「ミロシェビッチ大統領」のアルバニア人迫害という
「人権問題」という大義名分があって実際多くのアルバニア人難民が生まれていました。そこでNATOとアメリカは空爆に入っていったのですが、攻められて「逃げるセルビア難民の列車は爆撃」されて多数の死者がでるは、「報道機関さえも爆撃」されるはで、結局「セルビアの一般民衆に多大の被害」を与えて軍事介入は終わります。この軍事介入の本当の意図・目的について国際関係に関わる人々はあれこれ議論していますがまだ「一般的見解」とよべるものはなさそうです。ただし、欧米の主張する「人道主義によって」などということを真に受けているのは「欧米贔屓」の人だけです。NSATOやアメリカが「自国の利益を削ってまで他民族を助ける」などということは100%あり得ないからです。もしあるというのなら「アフリカでの紛争・難民」など激減していることでしょう。
 ともあれ、軍事介入に参入した欧米諸国はこの介入を正当なものとしていますが、しかし東欧問題の複雑さを少しでも知っている人たちはこの軍事介入が取り返しのつかない泥沼をバルカン半島に招くことを知っており、NATO・アメリカの爆撃に反対していたのですが、早くもその問題が噴出してきました。それは
「アルバニアの侵略」の問題です。
 つまり、こうして「勝利」をNATO・アメリカに贈呈してもらったアルバニアは、早速その
「大アルバニア主義」を発揮して隣国の「マケドニア」に侵略していったのです。これが「マケドニア紛争」と言われるものです。これはマケドニア国内に住んでいる「アルバニア人の独立」への志向をあおり、アルバニアへの併合を計るという筋立てだと考えられています。アルバニアが、そうした侵略のきっかけとしたのは「コソボのセルビア人」がマケドニアに難民として流入したことを言いがかりとします。しかしかつて「アルバニア人」が難民となってマケドニアに流入した時もマケドニアは温かくそれを保護していたのであり、コソボからの難民も人道主義として保護していたのでした。
 その人道主義を逆手にとってアルバニアは
「マケドニアは親セルビア」であるとして言いがかりを付けたわけで、マケドニアからすればかつて保護してやったアルバニアのマケドニアに対する「裏切り」と呼んでいます。現在はあわてたNATO軍が入って一応収まっていますが、セルビア人だけではなくマケドニア人にとっても「心に作られた亀裂」は収まらないでしょう。そして「コソボ」はもう90パーセントがアルバニア人となって「アルバニア主導」となっています。現在は「自治区」とされ、将来的には「アルバニアの領土」とされていくでしようが、しかし将来にわたって収まるか、とても収まりそうにないと言えます。

ウィーンの攻防
 さて、この「オスマン・トルコ帝国」は東欧バルカン半島を手中にしただけでは収まらず、やがてビザンティン帝国の都
「コンスタンティノポリス」を陥落させていきます(1453年)。ここに1000年以上にわたって存続した「ローマ帝国」は滅んでいったのでした。
 そしてその後、オスマンはオスマン史上でも最大のスルタンと言われる
「スレイマン一世」の時(在位1520〜66)に最盛期を迎え、彼は「ハンガリー」へと攻め入っていきます。そして1529年には「ウィーン」を包囲していきます。これが「第一次ウィーン包囲」と言われるもので、当時ここは「神聖ローマ帝国のハプスブルク家」の支配領域であり、その伸張が東欧を支配するオスマンにとって脅威であったからでしょう。スレイマンは12万と言われる軍を動員して「ウィーン」を包囲しますが、堅固な城壁に妨げられ、さらに予想外に早い冬の到来のために20日ほどで引き上げざるを得ませんでした。歴史に「もし、だったら」というのは無意味ですが、もしスレイマンが数ヶ月にわたって攻めることができたらウィーンは陥落したであろうと言われ、この事が全西欧に「オスマン」への恐怖心を植え付けたと言われます。俗に言われる「右手にコーラン、左手に剣」という「西欧人のイスラーム観」はこのときに作られたものでしょう。
 引き上げたものの、スレイマンはハンガリーの全土を掌握していることには変わりがありません。他方、ハプスブルク王朝は、
「もしウィーンを落とされたら帝国の滅亡」につながるとして、先ず台頭してきていたプロテスタント勢力との妥協へと進みます。これはつまりカトリックであったハプスブルク家がハンガリーのプロテスタント貴族と対立して迫害していたことから、そのプロテスタント貴族の後押しによってオスマン軍がウィーンを攻めていたということがあったからです。こうした処置によってその後ウィーンは非常に堅固になり、難攻不落となっていきます。
 
「第二次ウィーン包囲」と言われるものはカラ・ムスタファ・パシャによって行われたもので1683年のものです。しかし、これは「無謀」としか言いようがない遠征であったと言われ、用意万端のウィーンであり素早くポーランドから援軍が到着したためにオスマン軍は惨敗を喫し、こうしてオスマン朝は中央ヨーロッパの支配力を失ったのでした。

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