15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

8.

西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」


キリスト教十字軍の問題
 現在の中東を巡る紛争の背景には
「キリスト教十字軍」の問題が大きく横たわっています。これは「中東の西洋観」および「西洋の中東観」をつくりだしたものとして重要です。
 「十字軍」というのは、一般には時代的には紀元後1000年代の終わりから1200年代半ばまでの
「西欧のローマ・カトリック」が西欧諸侯を動員して「中東、特にイエルサレムやエジプトにあったイスラーム勢力」を攻撃した軍を意味しますが、ローマ法王は自分に対抗する「キリスト教内の活動・分派」にもさまざまの十字軍を形成して相手を虐殺していますので、要するに「ローマ法王の軍隊」というのが実態です。
 取りあえず「イエルサレム」をめぐっての「十字軍」だけに限定して話しを進めますが、この「十字軍」の評価に関しては、攻めたのは
「ローマ・カトリックというキリスト教勢力」「西欧人」です。ですから、現在の欧米キリスト教徒にとっても、これは「聖地の奪回戦」であり「祖先の武勲」と理解されることがほとんどです。一方、攻められた方のイスラームとすれば「西欧人に攻められ多くの同胞が虐殺された事件」となります。
 「歴史学」という学問は近代になって西欧人によって
「西欧中心」につくられたので、これまでの十字軍についても「聖地奪回のための聖戦」という評価で語られてきたと言えます。つまり、一昔前までは「キリスト教の宗教的熱情」「騎士魂の発露」などと言われていたのですが、しかし20世紀も後半になって冷静な科学的歴史が言われて「西欧中心史観」の反省もなされるようになり、十字軍についても「法王の権力の拡大」、「封建領主の領地の奪取」「イタリア商人の利得の暗躍」「アラブ人蔑視と撲滅」など「醜い思惑」によっていたことが判明しています。ただし、「宗教的熱情」や「騎士魂の発露」が全くなかったわけではなく、一部にはあって「美談」の類もあるのですが、これは「騎士個人」のレベルにあったことで、十字軍を派遣した「法王」には見られないのは殆ど確実でした。それは十字軍の有り様そのものが証明していることですので、以下ひどく簡単ですが紹介していきます。なお、この数え方は研究者によって異なり、7回とする場合と8回としている場合とがあります。5回と6回辺りの錯綜した状況が異なった判断をさせているわけですが、ここでは8回説に基づいて紹介します。

第一回十字軍
 1096年から1099年までの遠征となります。一般的な教科書によると、1000年代に入って東アジアを故郷とする
「セルジュク・トルコ」が西に進出してきてイスラーム帝国を支配するようになり、さらに「ビザンティン帝国」に侵略してきたことが発端とされます。「ビザンティン帝国」とは、ローマ帝国の西域がゲルマン民族に占拠された後、東に存続した「後期ローマ帝国」の別名で、「コンスタンティノポリス(現在のトルコ領の「イスタンブール」)が首都でした。
 ビザンティン帝国はうち続く内外の国難に疲弊しており、皇帝ロマヌス四世の時に西進してくるこのセルジュクの勢力に惨敗してしまいます。かろうじて後を引き継いだアレクシオス皇帝がセルジュクの西進を食い止めますが、彼はこのままでは再びセルジュクの攻撃があり今度は危機的になると判断し、分裂していたとはいえ
「同じキリスト教」であり強大な力を蓄えていた「西欧のローマ教会」に援助を申し込んだのでした。
 そこで教科書では、「そのビザンティンの要請に応えて」時の法王が十字軍を結成した、となりますが、しかし、当時のローマ教会は決して「他人のため」に動くような勢力ではありません。ましてローマ教会はビザンティン教会とは「ケンカ別れ」したものでその後も険悪のままでしたから「身銭を切って助ける」などと思う方がどうかしていたのですが(事実、第四回十字軍はビザンティン帝国を裏切ってここを侵略してしまうのですがそれは後の出来事でした)、当時の「皇帝アレクシオス」は頭の切れる皇帝で、
「ローマ教会は動く」と踏んでいたようでした。
 それは、ローマ教会の内部事情が問題で、長年にわたっている
「法王とゲルマン皇帝との間の権力闘争」があり、法王グレゴリウス七世は自分の組織確立のための軍隊「聖ペテロ軍」まで設立して「聖戦」の概念を高めようとしていたのでした。一方、イベリア半島ではクリュニー修道院が主導してイスラーム領となっていたイベリア半島を奪回しようした運動「レコンキスタ軍」が形成されていました。いずれにせよここで法王は「力」を示さなければならず、「レコンキスタ」で鼓舞された「宗教的情熱」による「イスラームからの国土奪回運動」はイエルサレムなどパレスチナ地方にも適用されるだろう、とビザンティン皇帝アレクシオスは考えたようです。
 さらに聖地イエルサレムには西欧からもたくさんの巡礼者が訪れていました。イスラームはもともとキリスト教を母体にしていて
「ユダヤ・キリスト者も同じ経典の民」と見なしていたので、この巡礼者に手を出すことはありませんでした。実際、歴史的事実としてアラブ人ではない「セルジュク・トルコ」でさえ、この巡礼者に手をだしたということは何一つ確証されていません。それなのに、「セルジュクによる迫害」ということが十字軍結成の一つの要因とされてきたのです。これは「ローマ教会を動かす口実」でしかなかったと言えますが、これは見事に「功を奏した」のでした。
 レコンキスタを主導するクリュニュー修道院出身の時の法王
「ウルバヌス二世」は皇帝ハインリッヒ四世が北イタリア戦役で苦境に陥っている時、「教会の優位を確立するチャンス」と見て1095年に「十字軍の結成」を呼びかけたのでした。法王が、皇帝を超えた「軍の形成・支配者」となるチャンスとみたからだとされています。
 ウルバヌス二世はこの十字軍の参加者には
「罪の許し」を与え、「留守中の財産は法王権をもって保護する」としたので、多くの参加者を得ました。もちろん「宗教的熱情」に燃える人々もたくさんおり、そうした宗教的一団は1096年8月に出発と決められた日時以前に勝手に進軍を開始してしまい、攻めて行ったはいいけれど正規の軍隊ではなかったので、セルジュクに惨敗を喫してしまいます。
 8月に出発する正規軍の方は騎士たちが主体でしたが、もちろん「騎士としての名誉心」を持って参加した者も居たでしょうけれど、全体としては彼らの目的は
「領地の奪取・確保」が主体だったことが判明しています。それゆえ行軍の途上いたるところで「略奪」が繰り返され、ビザンティン帝国との間に確執が生じています。
 しかしビザンティン帝国にしても独力ではセルジュクを押し返せない弱みもあって妥協していかざるをえませんでした。こんな軍隊なので騎士たちの間の勢力争い・内部分裂もしょっちゅうでした。たとえば「南イタリアのボヘンムンド」などは
「アンティオケア地方」を奪取するとそこの「領主」として収まってしまい、「イエルサレム進軍を拒否」しています。「土地の野望」をはっきり示している事実で、また「アルメニア地方」を巡っても騎士たちの間に醜い争いがありました。
 しかしとにかく1099年には残った騎士たちでイエルサレムの進軍は進められ、イエルサレムを奪取します。これについて歴史家は、当時のイスラームは
「アラブとセルジュクの間の抗争」があり、まとまっていなかったことが大きな原因と見ていますが、どうもこの十字軍たるものが「良く分かっていなかった」とも考えられています。つまり、まさか「自分たちイエルサレムのイスラーム住民を敵として攻めてきた」とは思いもしていなかったらしいということです。何故なら、これまでもキリスト教徒はたくさんきていたし、それに対して何も悪いことはしていなかったからです。しかし、結果としてこの時、「女・子ども」を含め、「アラブ人と見るとキリスト教徒であっても見境なく虐殺」されていったのであり、その「大量虐殺」は現代にまで大きな禍根を生むことになってしまったのでした。現在アラブ・イスラームの人々が「十字軍」と聞くと、この時の「大虐殺」が思い出され、「キリスト教徒は我々イスラームを虐殺しにくる」という観念にむすびついてしまうとされます。
 結果として十字軍はここを奪取して「イエルサレム王国」その他三つの王国が建設され、またこの時「テンプル騎士団」「ヨハネ騎士団」が結成されたのでした。この段階で、従来は巡礼者の保護を目的としていた「医療団体」であった「ヨハネ騎士団」は
「対イスラームのための軍隊」に変貌していったのでした。

第二回十字軍
 1147年から1149年の遠征となります。これは
「セルジュク側の反撃」が起きてきたことが原因です。しかし結果的に十字軍の敗北で、ほとんど何の成果も上げることができませんでした。
 すなわち、第一回十字軍の成功によりイエルサレムを奪取してそこに
「十字軍によるイエルサレム王国」を築き(ロレーヌ出身の騎士ゴドフロワが王として君臨)、この地方一帯をさらに拡大占領していくなどの勢いを示していました。しかしビザンティン帝国からしてみると、こうした十字軍の動きは結局のところ「裏切り」「領地の占領」でしかなく、「反十字軍の機運」が高まってしまうわけです。要するに、ビザンティン帝国のアレクシオス皇帝の依頼は「聖地の奪回」だけであり、そこに「十字軍が居座る」などとは全く予測もしていなかったと考えられます。ですから「十字軍に居座られて王国まで建設され、さらにそれが拡大」などとは「ビザンティン帝国領への侵略以外の何者でもない」となるわけでした。
 こうして1195年、そのビザンティン帝国の反十字軍の機運に乗じたセルジュクによって「アンティオケア」が攻撃され、1144年には「エデッサ」が陥落してしまうのでした。そこでイエルサレム王国は法王に
「援軍としての十字軍の派遣」を要請したというわけです。「ドイツ王コンラート三世」と「フランス王ルイ七世」とが赴きますが連戦連敗となってしまいます。
 他方で、シリア地方にあった
「セルジュクの一派ザンギー朝の二代目ヌール・ウッディーン」はイスラームの統一のために「十字軍に対するジハード(本来の意味はイスラームのために「努力する」という言葉で「攻撃に対する防御」や「伝道」に力を尽くすことをいう)」を宣言し、この第二回十字軍の撤退の翌年「ダマスカス」をも奪回し、こうして「法王の十字軍」とイスラームの全面戦争となって、第三次から八次まで繰り返されてくることになってしまったのでした。
 なお先にも指摘しておきましたが、当時の文書によるとイスラーム側は「十字軍」の何たるかを知らず、訳がわからないままにただ
「フランク騎士団の来襲」とのみ思っていたことが判明しています。それはイスラームにしてみるとキリスト教徒は「同じ経典の民」であり「キリスト教徒としてイスラームに敵対」してくるなど考えられないことだったからです。実際「キリスト教徒の巡礼」はこれまでもたくさんやってきていたし、それに対して危害を加えたという事実もありませんでした。
 イスラーム側から見ると、この十字軍は結局自分たち
「アラブ人の大量虐殺」「フランク騎士団の占領」でしかなかったのでイスラームから「ジハード」が宣言されていったというわけです。そしてこの「十字軍」が現在どれほどの禍根を生んだかも理解されてきます。

第三回十字軍
 
1187年、ついにイエルサレムはイスラームの手に奪回されます。それを成し遂げたのはセルジュクに代わって、エジプトから出た「アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーン(ちなみに、このサラーフ・アッディーンは高潔で騎士道精神にあふれた人物でつねに正々堂々と十字軍に対峙しており、敵方の十字軍騎士たちを感嘆させ、後年その死に際しては敵の皇帝から大理石の棺を贈呈されたほどの人物でした)」でした。こうして再びイエルサレムの奪回のために組織されたのが「第三回十字軍」で1189年から1192年の遠征をいいます。

第四回十字軍
 1202年から1204年のこの十字軍は
「十字軍の隠れた性格」を明確に示したことで良く知られています。彼らは「聖地イエルサレムの奪回」どころか、同じキリスト教国として後方援助の役目を担っていた「ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスを略奪」「ラテン帝国」などを建設してしまい「膨大な富と文化遺産」とを西欧に奪っていったのでした。ベネツィアの「マルコ大聖堂」の正面に据えられている「古代ギリシャの四頭の馬のブロンズ像」はその時に略奪されたものの一部であることは有名になっています。これは、ビザンティン帝国のキリスト教をひきついでいる正教キリスト教が今以てカトリックを許せないでいる「犯罪的裏切り」でした。

第五回十字軍
 1217年から1221年までの遠征軍とします。法王に対する反対勢力があると見た「法王イノケンティウス三世」は、そうした反法王勢力勢力への処置として
「新たな十字軍の形成」を企図して1197年に結成との宣言をしたものです。

第六回十字軍
 1228から1229年の
「フリードリッヒ二世」の遠征とします。ここで彼は「戦闘手段に訴えずに、巧みな外交手段」に出て、「政治的な安定」を求めていたエジプトに譲歩させて「十字軍によるイエルサレムの奪回」に成功したのでした。
 ところが法王は、フリードリッヒ二世が「イスラームを撲滅」してこなかったことに激怒しどなりつけ、フリードリッヒ二世とのとの仲はますます悪くなっていったのでした。ここでの法王の態度は十字軍の目的の一つを明確にしています。もちろんそれは
「アラブ・イスラームの撲滅」でした。こんなのが十字軍の目的だったわけで、「皇帝フリードリッヒ二世はそれを拒絶」したわけですが(ちなみにこのフリードリッヒ二世は「国王とは国家第一の下僕」として、信仰の自由を重視し農民保護や重商主義政策で国を富ませた、この時代の西欧最大の名君として讃えられている皇帝です)。以上のような状況では折角のフリードリッヒ二世の努力も水の泡で、ほどなく再びエジプトに奪回されてしまいます。

第七回十字軍
 
1248年から54年までのエジプト遠征。「大敗北」を喫して終わっています。

第八回十字軍
 
1270年の遠征。ルイ九世はイスラームに対する十字軍の指揮をとりエジプトへと出発しますが、チュニジアのカルタゴについたところで病死してしまい、結局こうしてこの十字軍も失敗に終わる。
 
その後1291年には「アッカ」もイスラームに奪回されて十字軍は「足がかり」も失い、これをもって「十字軍」は消滅したと言えます。

十字軍の意義
 この十字軍の意義についてはマイナスだらけで、西欧側にとっては
「法王と皇帝とのさらなる確執の要因」「社会的混乱」「法王の権威の失墜」、さらに「ベネツィア商人の侵略と略奪による商人階級の台頭」とか、結局やがて来たる「封建体制を崩壊させる要因」を用意しただけとも言えます。
 また「ビザンティン帝国」にとっては、確かに最初の思惑通り「セルジュクの侵略」は止めることができたけれど、こともあろうに
「十字軍に侵略」されて「帝国の崩壊の遠因」となろうとは思いもしなかったでしょう。

 最大の問題は
「西欧とイスラームとの間の抜きがたい敵愾心」、西欧人の「イスラーム恐るべしの感覚」、イスラーム側の「キリスト教徒は経典の民・同胞ではないとの認識」などを作り上げてしまったことが現在の西洋と中東との関係の悪さの大きな要因になっていると言えます。

 また、ここに
「カトリックの腐敗と堕落」を見ることができて、これ以降活発化してくる「異端裁判」「魔女狩り」そして極めつけの「免罪符」などの「カトリック教会の腐敗」の下地をここに見ることができるともされます。
 確かに歴代の法王の中には「正当な防衛」は認めるけれど
「攻撃は禁止」という理念を持っていた法王もおり、また皇帝の中にも第六回のフリードリッヒ二世のように、皇帝でありながら「武力に訴えず」外交手段でことを解決しようという皇帝もいました。そうした法王や皇帝ばかりであったならこうした問題はおきなかったでしょうが、残念ながら歴史は逆に動いたわけでした。

イスラーム側の認識
 イスラームの側も、
「キリスト教に対する不信と敵意」が醸成されてしまい、これ以降、イスラーム圏内のユダヤ教徒やキリスト教徒に対する「締め付けが厳しく」なり、そのためエジプトでは多くのコプト・キリスト教徒が「イスラームに改宗せざるを得ない」状況に追い込まれました。こうした歴史が現代に至って相互不信を生んでいて、この十字軍というのは本当に取り返しの付かない禍根を生んでいたと言えます。それにもかかわらず今もって元アメリカ大統領ブッシュは「自分の為していることは十字軍」などと口走っていたわけで、その認識の愚かさもさることなら危険きわまりないと言えるのでした。


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