15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

6.

またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」


 現在「アメリカ」によるアフガニスタンの軍事行動により、ここは「アメリカとアルカイダ、あるいはタリバーンとの戦争」と思いこんでいる人々が多いですが、実はその根に「パレスチナ」と同様に「イギリスの侵略」という問題があり、またもう一つ「ソ連の侵略」というものがあります。ソ連の侵略については「アメリカの主導した西欧各国のモスクワ・オリンピックのボイコット」事件で知られているかもしれません。このいきさつを簡略に見ておきます。

第一次アフガン戦争
 1839年に遡りますが、
「インドを英領インドとして支配下においたイギリス」は、さらに植民地支配の強化を図るべくその北に位置していた「アフガニスタン」に目を付けました。それはおそらく、その北にあるロシアの南下を妨げるためでもあったと考えられます。そこでイギリスは、首都カーブルにあった「指導者ドースト・ムハンマド」への接近を計りましたが、懐柔に失敗して拒絶されたために軍事力を持って侵略に及んだのでした。軍備に勝るイギリスは1942年にムハンマドを破って侵略し、「西北インド全域」を併合していったのでした。これを「第一次アフガン戦争」と呼んでいます。

第二次アフガン戦争
 ところが、カーブルに駐在していたイギリスの駐在官が「アフガニスタンの独立」を志していた
「反イギリス勢力によって殺害」されるという事件が起こり、アフガニスタン独立勢力の力が強化されることを怖れたイギリスは再び軍をアフガンに送り込みます。1878年のことでした。そして独立軍を掃討して、アフガン政府としての王政は認めたものの、「アフガンの自治性を完全に奪って」いきました。これを「第二次アフガン戦争」といいます。

第三次「アフガン戦争」
 しかしその中にあってアフガニスタンの独立を志す
「国王アマスラー」は力を蓄えていき、1919年にイギリスに対して「独立戦争」を起こしていきます。イギリスは第一次世界大戦で軍を使い切っていたためアフガニスタンを制圧できず、やむなく「和睦してアフガニスタンの独立を認めた」のでした。これを「第三次アフガン戦争」と呼んでいます。

ソ連のアフガン侵攻
 イギリスとの戦いで混乱したアフガニスタンは、イギリスから独立して後も安定せず、1978年に革命が勃発し、「人民民主党」を中心に
「共産主義的共和制アフガニスタン」が生まれました。
 しかし、共産主義は「神の存在・宗教」を認めないのが本来でしたから
「イスラーム信徒は何より共産主義嫌い」なのでした。こうして「伝統的なイスラーム勢力を中心とする反政府勢力」が結成されて強力に政権に反攻し紛争が続くこととなります。そしてその反政府勢力は「パキスタン」を根拠に「新政府」を名乗りゲリラ活動を強化していきました。
 他方、人民党内部も権力争いが激しく、1997年に
「人民民主党書記長が殺害」され、後任に「親米派のアミン」が後任に就くことになります。
 これを
「アメリカの介入」と見たソ連は、アフガニスタンとの「友好善隣協力条約」を根拠にアフガニスタへ介入してきて、親米派のアミンに対立していた「カルマル」を擁護していきます。その結果アミンは捕らえられ「処刑」されてしまいました。
 これに怒ったのがアメリカで、反政府勢力であったイスラーム勢力が
「ソ連に対するジハード」を発令したのに乗じてイスラーム勢力に財政的・軍備的援助ばかりか「CIA」まで送り込んで軍事訓練を施しソ連に抵抗させていったのでした。
 そのためソ連軍はアメリカ軍の優れた兵器とイスラームの死も怖れないジハード軍の反撃に散々な目にあっていくことになります。そうした中、新しくソ連の書記長に就任した
「ゴルバチョフ」は新たな外交方針に基づいて完全撤退していったのでした。

ソ連撤退後のアフガニスタンと「タリバーン」
 しかし、アメリカも
「ソ連さえ撤退すればそれで良し」としてさっさと手を引き、後は相変わらずの「内紛のアフガニスタン」だけが取り残されました。ましてや長年のイギリスやソ連との戦いで国土は荒廃しきっていましたので、結局「麻薬と強盗と殺戮の国」となってしまったのでした。
 これを
「伝統的イスラームの若手神学者」が立て直そうとして形成したのが「タリバーン」であり「麻薬と強盗・殺戮」への厳格すぎる取り締まりをしていきました。この取り締まりは「厳格なイスラーム法」に基づくものであったのですが、現象的に欧米先進国ではあり得ないひどく厳しいものとなっていました。そのため、事態が良く理解できない平和ぼけの「欧米・日本などのひんしゅく」を勝ってしまったのでした。
 確かに、
「バーミヤーンの世界遺産クラスの大仏」まで破壊されたということで世界中の非難の嵐になったわけですが、もちろんこれはあってはならないことです。しかし反面で、現地を知るジャーナリストたちが「大仏は自らを恥じて自らを破壊したのだ」といった言葉の意味を考え直してみる必要もあるでしょう。つまりここは「世界中から見捨てられ」、誰も援助の手もさしのべず荒れるに任せておいて、その中でたまたま自分たちに価値あるものが壊されたといって騒いでいる「世界の自分勝手な人々」に対する「現地に立っていた大仏の悲しみ」を思えというわけです。そして実際、これ以降日本からも心ある人たちのアフガニスタン復興のための活動(先ずは実態を知り、知らせることから)も始められるようになったのでした。

9.11事件と「ビン・ラディン」
 他方そうこうするうち、先にも指摘したように
「アメリカでの9.11、貿易ビル」への自爆攻撃が起き、これを「アルカイダの仕業」と見たアメリカは、ソ連へのジハードに応じて参戦してきてそのままアフガニスタンにとどまって「イスラーム精神の復活」運動に従事していた「ビン・ラディン」「犯人」として引き渡しを要求、聞き入れられなかったということで「アフガニスタン全土への爆撃」をして「タリバーン政権」をつぶしてしまったのでした。
 「ビン・ラディン」は当初は
「アメリカの軍隊に教えられた優秀な兵士」であったわけですが、やがてアメリカの欺瞞に「反米活動を強くしていった人物」であったからだとされます。
 このアメリカ政府によって発表された「9.11事件」は
「あまりにも謎が多すぎる」として当時から問題にされて多くの本が書かれ、今日では「アメリカ政府の情報は欺瞞」だらけで「事件は謎のまま」とされています。
 他方、アフガニスタンの民衆にとっては
「わけが分からない殺戮」でしかありませんでした。一方のアメリカにとっても皮肉なことに「ビン・ラディン」を捕らえることはできずに、長年生きているのか死んでいるのかわからないままで、つい最近にやっと居所を見つけたということで「急襲」し「殺害」してしまったのでした。これにも世界のジャーナリストは「捕らえて真相を明らかにする」ことが何より重要だったのに「ただ殺すための単なる殺人」で「事件を闇に葬るためのもの」と批判されましたが、もはや文字通り「闇に葬られて」しまったわけでした。
 
他方でこの事件は世界中に「アルカイダ」を増殖させるきっかけとなったにすぎませんでしたが、これははじめから分かっていたことでした。

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