15.西洋と中東の宗教的葛藤 - 4. 中東戦争 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

15.西洋と中東の宗教的葛藤
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INDEX
1. 中東の現状と主要な紛争地
2. 西洋と中東を巡る宗教的紛争のキーワード
3. すべての元凶、パレスチナ問題
4. 中東戦争
5. 「イラン」「イラク」の問題
6. またもイギリスとアメリカの野望の餌食「アフガニスタン」
7. 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
8. 西洋と中東の摩擦の元凶、「十字軍」
9. オスマン・トルコ帝国と西洋との軋轢
10. イスラームとはどういうものか
11. イスラームの抗争の歴史
12. シーア派とはどういう派なのか
13. アメリカとイスラームの関係
14. 西欧世界の性格
15. 現代の宗教の欺瞞と迷走

4.

中東戦争


 パレスチナやエジプト、中東の現状を知る上で、いわゆる「中東戦争」というものの知識が必要となってきます。簡略に紹介しておきます。

第一次中東戦争(1948年から49年)
 最初の戦争ですが、いきさつは
「第二次大戦後の国連総会の決定」にありました。つまり、第二次大戦はイギリス側が勝利したわけですが、その戦争に際してイギリスはフランスには「パレスチナ地方の共同統治」という約束での同盟、アラブ側には「戦争後にはパレスチナ地方を返還するとの約束」で味方として参戦させ、イスラエルには「戦後にはパレスチナ地方にナショナル・ホームの建設という約束」で資金を供出させていました。この三つは全く相容れない約束であり、戦後困ったイギリスはこの始末を国連に持ち込みます。当時の国連は欧米だけのサロンでしたから、「欧米側だけの都合」でパレスチナを分割し「イスラエルの建国」を決定してきました。こうして1948年「イスラエル」は建国を宣言します。「約束を破られたアラブ側」はこれを拒否して戦闘状態になりましたが「イギリス・アメリカ」の支援で「イスラエルが勝利」ということになりました。

第二次中東戦争(1956年10月から1957年3月)
1956年のことになりますが、
「エジプトのナセル大統領」は「アスワン・ハイ・ダム」の建設を巡り、その建設支援を「イギリス・アメリカ」が拒否してきたため「スエズ運河の国有化」を宣言していきます。これに対して「イスラエルがエジプトに侵略」を開始し、「イギリス」は中東に勢力を築きたい「フランス」を巻き込んで「イスラエル支援軍」を出兵させます。これに対してここを欧米支配下に置かれては大変なことになるということで「ソ連」がエジプト支援を声明します。再び欧米を巻き込んだ世界大戦になってしまう様相に国連は即時停戦決議をだして事態の収拾に乗り出します。こうしてイスラエル・イギリス・フランスはやむなく撤退していきました。

第三次中東戦争(1967年六月)
 第二次中東戦争で勝利した格好のナセル大統領のエジプト(当時の名前は「アラブ連合共和国」)はアラブ世界の中で勢力を拡大していきました。このエジプトによる全アラブの支配を怖れた他のアラブ諸国は
「反エジプト」の動きを強めていきます。
 これを見た
「アメリカ」は勢力をここに伸ばす好機と見て介入を開始して先兵としての「イスラエル」を動かしてきます。そして1967年エジプトがアカバ湾を封鎖した時イスラエルは「アメリカの供給する大量の近代兵器を持って突然大攻撃」を仕掛けていきました。あわてた国連安保理事会はこれ以上の戦闘の危険性を察知して「停戦決議」をだしましたが「イスラエルはこれを無視」して攻撃を止めず、三日後には「パレスチナからエジプトのシナイ半島」までを勢力下においてしまいます。シナイ半島がエジプトに返還されるのは実に1982年になってからのことであり、この間にイスラエルは当初の「国連決議を大きく超えた領土を既成事実化」してしまいます。2005年になって「ガザの撤退」をはじめましたが、その見返りとしてこの既成事実化したパレスチナ地方の領地の認知をさせようとしていることが現在大きな問題となっています。
 ともあれ
「イスラエルの大勝利で停戦」となりました。これを「六日間戦争」とも呼び、教義にはこれが第三次中東戦争ということになります。
 他方、これは
「イスラエルの一方的な侵略・占領」であることから国連はすぐさま「シナイ半島からのイスラエル撤退」を決議しました。しかしイスラエルはこれも無視し、シナイ半島には「シャルムエル・シェイク」を始めとして「イスラエル都市を建設」し、「ヨルダン領であったイエルサレム旧市街」、さらに「パレスチナ」のものであった「ヨルダン川西岸の侵略・占拠」を続けていきます。またスエズ運河は使用停止となってしまいます。
 こういう中で多くの
「パレスチナ難民」が生まれてしまい、「アラファト」に率いられたパレスチナ解放戦線が生まれていき、これに対するイスラエルの執拗な攻撃は止まずパレスチナ地方を泥沼に落とし込んでいったのでした。

第四次中東戦争(1973年)
 エジプトのナセル大統領の死後を次いだ
「サダト大統領」は当初はナセル路線を踏襲するとして第三次中東戦争で痛めつけられた国内を整備していき、アメリカを警戒するソ連の援助によって軍備を整備していきます。そしてシナイ半島の奪回を名目に対イスラエル戦を開始していきます。当初はユダヤ教の祭日で油断していたイスラエルを叩いて有利に戦いを進めますが、すぐさまイスラエルも反撃に移ってきました。
 しかし事態の悪化を怖れた
「アメリカ・ソ連」両国とも武器の供給を控えることになり、大きな戦闘はなくなりました。
 こうしてアラブ側は「石油」の供給を停止するなどの作戦に切り替え、欧米側に
「石油ショック」を起こさせていきます。しかしかえって欧米を「イスラエル支援」に向けさせてしまい、「イスラエル優位」の中立地帯が設定されて国連軍が駐留することとなって停戦となりました。
 1974年には
「兵力引き離し」協定が成立し、こういう中でサダト大統領は1977年イスラエル訪問、1979年のキャンプデービット合意など妥協を繰り返して「親米・イスラエル派」へと鞍替えしてしまいます。こうして、アラブからは「裏切り者」と見なされて「アラブ連合」から除名されてしまうなど「アラブ世界の混乱」を招いてしまいます。この混乱が結局「イラン革命」「イラク・イラン戦争」「イラクのクゥエート侵攻」「湾岸戦争」「アメリカによるイラク侵攻」などといった中東情勢の泥沼の背景となっています。
 その後のエジプトは
「ムバラク大統領」の時代ですが、彼は「親米政権」として「湾岸戦争」でもアメリカを全面支援し、その援助によって国内の整備をしようと外国資本なども導入されましたが「貧富の格差」が著しく増大し失業者も救済されず、こうして国内での「下層階級の不満」を増大させ、ついに近年退任を余儀なくされていったのでした。こうした状況は他のイスラーム諸国にも見られ、アラブ・イスラームの安定は当分望めそうにない状態です。

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