14.神話から哲学へ 〜古代ギリシャでの哲学の誕生〜 - 3. 神話と音楽と数学のとりあわせ、ピュタゴラス | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

14.神話から哲学へ 〜古代ギリシャでの哲学の誕生〜
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INDEX
1.神話から自然哲学の発生
2. 最初の自然哲学者「タレス」と「ミレトス学派」
3. 魂と音楽と数学のとりあわせ「ピュタゴラス」
4. 「論理」だけの世界「パルメニデスとゼノン」及び「多の原理」をいう自然哲学者たち
5. 最初の個別科学者「医学のヒッポクラテス」
6. ソクラテスにおける「自然学から生の哲学」への転換
7. ソクラテスの「人間探求」

3.

神話と音楽と数学のとりあわせ、ピュタゴラス


はじめに
 タレスから始まる自然学の継承は、後にその地方の名をとってイオニア学派と呼ばれたわけですが、これは、同時に自然学者たちにもう一つ別の系統がある、という理解からです。そのもう一つの系統のことを
「イタリア学派」といいますが、もちろんその活動の舞台がイタリア地方のギリシャ都市にあったからという理由からです。この別はすでにローマ時代の、「哲学者の伝記」を書き残していることで有名な「ラエルティオス・ディオゲネス」という人がはっきりと述べているのですが、ただし、それはかならずしも系統だっているとは言えません。しかし、ともかくイタリア学派という類別があったのです。

 その始めの人とされるのが
「ピュタゴラス」で、彼は実際タレスたちとはかなり変わっていました。第一「ピュタゴラス」などと全部分かった人のような名前で言っていますが、この人は確かに実在はしたようなのですが、一つの「神秘宗教集団の教祖」なのでした。教祖というのが一体にそうであるように彼も秘密のベールにつつまれることが多く、また、その集団の思想はすべて教祖一人のものとされてしまう傾向があり、ピュタゴラス個人の思想として何が言えるのかかなり疑問のところがあるのです。
 しかもこのピュタゴラスの教団は、興亡はあったもののかなり長い歴史をもつことになり、ローマ時代にも興隆したりするので、後世の思想までピュタゴラスのものとされてしまっている可能性すらあるのです。しかし、神秘宗教団体という性格からそれを整理するのはほとんど不可能で、結局ピュタゴラス一人の思想ということで紹介せざるをえないのが現状です。

ピュタゴラスの伝承
 ともあれ彼は、多分紀元前570年頃、タレスたちの故郷ミレトスに近いサモス島に生まれたのですが530年頃故郷を去って南イタリアのクロトンというギリシャ都市に移り住んだと言われます。ですから、たしかに活動はイタリア地方ではあってもイオニア地方の血はひいていたわけです。
 もっとも、クロトン行きまでずっとサモスにいたわけではなく、伝承によると、
「エジプト」に行ってそこで祭儀にかかわる事柄などを学んだと言われます。ヘロドトスなどは、ピュタゴラスと名指しこそしていませんが、暗に彼を指し、その「魂に関する」教説は独創的なものではなくエジプトのものだ、とまで言っています。これは確かに両者に類似性があるのであり得る見解です。当時のイオニア地方はエジプトとの交流が盛んであったようで、タレスもエジプトに行っているようですから、ピュタゴラスが行っていても何等不思議ではなく、むしろ可能性は非常に高いでしょう。
 そして、一度はサモスに戻ってきたのですが、その故郷が独裁政治になっているのを見てクロトンへと出ていった、と言われています。そしてその地で自分の教団を結成したようなのですが、どうも一般に言われるような、ただの「宗教教団」であったわけではないようで、ピュタゴラスはこのクロトン市のために法律を制定し、300人ばかりの弟子たちと共にその地をよく治めて名声を得、そのためこの地の国政は
「優れた人々の統治」と言われたとの伝承があります。(ちなみに「優れた人々の統治」は「優れた人々」という意味の「アリストス」という言葉と「統治」を意味する「クラティア」という言葉でできている言葉で「アリストクラティア」といいますが、これが日本語では「貴族制」などと訳されて、この誤訳とも言えるまずい訳語のせいでギリシャ社会史はずいぶんと多くの誤解を生んでいます。つまり、この訳語を使うと「そのため(ピュタゴラスとその弟子たちによって、非常によい政治がおこなわれたので)、この地は“貴族制”と呼ばれた」といったような訳になってしまうからです)。
 それはともかくとして、ピユタゴラスはこのクロトンで平和にいられたわけでもないようで、20年くらいここにあった後、メタポンティオンに引き移りそこで死んだといわれます。この死についてもいろいろ伝承がありますが、たとえば、弟子入りを断られた男の恨みをかって襲われた、とか、あるいは彼の評判が高すぎてそのため独裁的になるのを恐れてクロトンの人々が襲ったとか(この伝承では、そこでピュタゴラスは逃げ出したがソラ豆の畑に行く手を阻まれ、畑を台無しにしてはならないと逃げるのをやめ、そこで殺されたという)、あるいは、文芸の女神であるミューズの女神の神殿に逃げ込み、そこで40日間の絶食のため死んだとか、クロトンの人々に絶望して引退してメタポンティオンに行きその地で失望のあまり絶食して死んだ、とかいろいろで、一方では彼の死後もその賛美はやまず、ついに彼の家が神殿にされた、とも言われています。
 あるいはまたピュタゴラスが留守の時、かつてピュタゴラスに弟子入りを断られた金持ちで暴力的・独裁的で品性の卑しいキュロンという男が教団に敵意をもち、徒党をくんで教団を焼き討ちしたという事件も伝えられています。そしてこんなこともあってピュタゴラスはメタポンティオンにひっこんでしまった、と言われているのです。ともあれ、ピュタゴラスのいたクロトンや南イタリアはその当時、さまざまな社会的動乱もあったようでした。

最初の哲学者としてのピュタゴラス
 以上のような伝承は「教団」の経緯を探り、その社会・文化史的意味を考察する上では大事ですが、ここでは以上の指摘にとどめ「学問の意味」という本題にもどることにしましょう。ところで、それに関係して重要な逸話が一つあります。それは、彼が始めて
「フィロソフィア」という言葉を使ったという伝承で、もしこれが本当ならピュタゴラスこそソクラテスに先だって自分を「フィロソポス(愛知者・哲学者)」と名乗った「最初の人」ということになります。しかし、ピュタゴラスの伝承ははっきりしないので、したがってこれを「事実」として彼こそが名称の上でも「最初の哲学者」だとする研究者はあまりおりません。 
 ただ、この伝承に含まれている意味は大事であり、この伝承が後世の創作だとしても、少なくとも後世の人から見ればピュタゴラスの為していたことは「フィロソフィア」が確立した後のギリシャで理解されていた「フィロソフィア」そのものに他ならないと評価されているということがあるからです。
 そしてこの「フィロソフィア」ということで当時一般に理解されていたのは
「魂に関する事柄の考察」「世界の原理についての考察」です。プラトンより10歳くらい年長の弁論家イソクラテスも、先のヘロドトスの言葉と同様のことをはっきりと述べて、ピュタゴラスはエジプトに行って始めて彼等の「フィロソフィア」をギリシャにもたらしたがその内容は「祭儀」にかかわることだと言っています。エジプトでの祭儀とは「魂に関すること」になります。実際、ギリシャ・ローマの一般の人々の印象としてはそうした内容がイメージされていたようで、そのため「ペルシャやバビロニア、インドやエジプトにもフィロソフィアがあったし、むしろその方が先だ」と主張する人々がいることを、先に言及した紀元後2世紀の終わりか3世紀の始めころのディオゲネスも伝えています。

 他方で、1〜2世紀頃の学説史家「アエティオス」はピュタゴラスが「フィロソフィアという名称を使った最初の人」として
「数及び数の比例が原理だ」とした人と紹介しています。ここでは「原理の学」がフィロソフィアの内容と理解されています。
 アリストテレスはタレスをはじめとしていましたが、イソクラテスやアエティオスの評価もやはり気になるところで、ここに「当時の人々の理解するフィロソフィア」があったのは確かでしょう。そういうわけで、このピュタゴラスにはタレスたちにはない、何か新しいものがあったと理解できるわけで、またこのことが、タレスの伝統にあるイオニア学派とは異なった「イタリア学派」と呼ばれる所以になっているのではなかろうかとも理解できるわけです。そしてまた、「フィロソフィア」というのはソクラテスによって生み出され、プラトンによって確立したものだとするなら、このピュタゴラスが「最初のフィロソポス」と評価されたということは、内容的にピュタゴラスはソクラテス・プラトンの先駆となっていたのではないか、とも理解されるわけで、それは実際その通りなのでした。
 さて、ピュタゴラスはこういった位置にいるのだとすると、結論的に、その思想はソクラテス・プラトンの哲学の中心であった「魂」の論と「イデア」の論に関係してくるのではないか、少なくともそうした方向が示されているだろう、と推測されます。そしてこれもその通りなのです。ということは、ソクラテス的な
「生きること」「人間の本体としての魂」ということが問題となり、一方プラトン的なのだとすると、その思想は「数」そして「イデア」への方向を示す筈だと考えられます。事実そうなります。
 ともかく、ピュタゴラスの関心はタレスたちとは異なっていました。タレスはエジプトで「土地の測量」にかかわる規則を学び、そこから「数そのものの一般法則」といった探求の仕方をしたようでした。こうして、どの参考書にもある、「実際的目的」に縛られない「理性そのものの発露」としての「学問」が生じた、という評価がなされることになりました。それがタレスたちの仕事だったとすると、一般の教科書に紹介されている在り方、つまり、タレスたちは「純粋に知的好奇心」をもつことのできたはじめての人達で、彼等の歴史的意味は、その「知的好奇心」の史上初の具体的発露にあった、という評価も大筋において正しいということになります。
 ところがピュタゴラスはそうした特徴はもっていないのです。彼にあるのはエジプトの神職者から学んだことを
「人生として生きる」という場面の思想に仕立てあげることでした。ここに、「生きる意味を追及する」という意識的・自覚的な営みが始められることになったのです。ソクラテス的哲学の先駆です。一方、「数」の方も、いわゆる「体系的数学」というよりむしろその「原理性」がクローズ・アップされるのであり、これはまたプラトンでも同様で、プラトンでの「数学の重視」というのは「数学体系」の研究を意味するのではなく、「数」というものの持つ性格そのものが重要だったのです。
 ここに、「学問はいかにして生じたのか」という問題に二つ目の局面があったことになります。すなわち、
「生きることの意味を問い、その場面で世界の原理を問う」というピユタゴラスからソクラテス・プラトンへと引き継がれる哲学の局面です。ここでは、「生きる」ということを「神のせい」のままにしてしまう、という態度はありません。これが大事なのです。エジプトの祭儀がピュタゴラスに深刻な影響を与えたことは分かっているのに、現代の哲学史家が「エジプトに哲学があった」と評価していない理由はここにあるのです。「祭儀」はあくまでも「祭儀」でしかなく、その限り「それに従っている」というだけのことです。ギリシャ人が変わっていた点はタレスのところでも指摘しておきましたが、その段階にとどまることをせず「理性で納得しよう、知として理解しよう」という態度を持ったことで、ここでもその姿勢が示されてくるのです。

ピュタゴラスの「生の哲学」
 ピュタゴラスは、伝承による限りエジプトの魂に関する考え方を勉強し、それを今度は、自分の「人間に対する教説」に仕立てあげ、いわゆる「ピュタゴラス的生活法」というものを打ち立てて行くことになります。その教説は一言で言うと
「輪廻」の思想でした。
 古代ギリシャ人の死後に関する一般的な考えは、ホメロスにあるような、「幽体」が地下の国に行く、といったようなものだったでしょう。死んだ後、本体としての「魂」が別の生物の中に入り別の生を送り、これが繰り返されるといった輪廻の考えはギリシャの「オルペウス教」にもあったとされていますが、この「オルペウス教団」については詳しいことが分からず、また、けっして一般的であったとも思えません。ですからヘロドトスが、これはエジプトの考え方の借用だ、と言ってくるのでしょう。ただし、本当にエジプトの思想かどうかは分かりません。ミイラの習慣から、魂が不死だ、とされていたことは確かでしょうが、輪廻となるとミイラの考え方とは合いません。ですから、学んだのは「魂は不死であり、再びこの地上に帰ってくる」ということだけであったのかも知れません。だとすると、輪廻はピュタゴラスに独創のこととなるか、オルペウス教団との関係が問題になりますが、しかしいずれにしても、ピュタゴラスに相当独創的なものであったことは認めてよいと思います。
 問題はここからで、こういうことになると、「生命」とはどういうものになるのかというと、ここでのピュタゴラスの立場は全くギリシャ人的なままでイオニア学派の人々と同様です。つまり「宇宙は一つの生命体」だという例の考え方です。ただしイオニア学派の人々のように宇宙の生成論からする合理的説明はなく、ピュタゴラス的な言い方をしてみると次のようになるでしょう。
 すなわち、宇宙は神の生命に満ちている。しかしそれは展開し様々の事物として生成する。生命そのものは
「魂」として展開しているが、そこに神のものと地上にあるものとが生ずる。我々の魂は「かつて神的なもの」であったが、今は天より落ちこの「地上の汚れ」の中をさまよっている「没落したもの」である。しかし、その神性は「魂」のうちに保たれていて、したがってそれは不滅であるが、肉体から離れたからといってすぐ天なる神のもとに帰れるわけではない。地上の汚れに染まっているからである。したがって、我々の魂は「浄化」されない限り、地上の肉体の汚れの中を何時までもグルグルとさまよっていなければならない。しかし、もし浄化されたならば、我々の魂はこの地上を去って、故郷なる天の神の元に帰ることができるであろう、といったような具合になります。
 こうしてピュタゴラスは哲学の教科書などでは
「神秘主義」などというレッテルがはられることになります。それはともかく、ここに「人生の目的」がはっきり打ち出されています。そして彼の独創的であったことは、これを単に宗教的信念などに終わらせず、また、宗教的呪術や儀礼による浄化という方法をとらなかったことでした。
 まずは
「生活そのもの」の規定からで、ピュタゴラスの徒と呼ばれた人々は、私有財産をもたず、集団での共同生活をしました。一方、そこまで行かない人々にも共に勉強することは許したようで、この人々は普通の生活をしていたので「ピュタゴラスの徒」とはよばれず、ピュタゴラス主義の人というような呼ばれ方で区分が為されたようです。こうした生活を通して、たとえば当たり前ですが、肉食の禁止などによって「身を清めよう」としたのです。
 したがって、ここでは
「医術」が重視されました。身体をバランスよく、健康的にして、身体的節制をこころざしたからです。ですから医術というよりむしろ「養生法」といったほうがよく、事実、彼等は「薬」といったものはあまり認めませんでした。実際、医術のうちでも「養生」に関する部門が一番であり、食事と休息、また料理の在り方などが研究された、とあります。ピュタゴラスにとっては「節制・節度、調和・秩序、温和」を保ち、肉体的欲望・快楽、苦痛などによってかき乱されないことが大切とされていたようです。

ピュタゴラスにおける「魂の哲学―音楽と数の神秘―」
 医術についで、さらに独特なのが
「音楽」なのでした。これは「魂の浄め」のためです。しかし、これだけなら「生活法」の一つということでの了解となり、彼の学園は美しい音楽が流れ、バランスのとれた野菜の料理が出、節度ある人々が行き交うという、なかなか素敵な学園が頭に思い浮かべられて終わりになってしまうのですが、問題はここからでした。つまり、音楽はただ「奏でられる」だけのもので終わっていなかったのです。
 すなわち、音楽とは
「ハルモニア(ハーモニー)」ですが、これは「数の比」にほかならないことを発見したことがその始まりです。つまり、音楽の基本であるオクターブ(下のドから上のド)は2:1の比になっていること(分かりやすくいえば弦の長さが2:1ということ)、5度音程(ドからソ)は3:2の比、4度音程(ドからファ)は4:3の比となっています。つまり、完全和音の音程は1、2、3、4という4つの数の比になっていることを発見したのです。なんと、魂を浄化するものの正体とは「数及びその比」であった、というわけです。
 こうして、
「1、2、3、4」という数は「基本の数」ということになり、しかも、この足した数は10になります。こうして、「10は完全数」ということになり、これはテトラテュクス(「4つ組数」とでも訳すしかない)と呼ばれ、ピュタゴラス教団のシンボルとなります。そしてこれは一つの点を一番上におき、その下に二つの点、その下に三つの点、その下に四つの点をおいてみますと、「正三角形」の形になりますので、シンボルとして「形化」することもできました。
 ようするに、音楽はその内部に一つの秩序を持っていたわけで、それは「数的な秩序」であったわけです。音楽が数的秩序であったということになりますと、これは
「宇宙そのものの本性」ではなかろうか、ということになっていきます。つまり、宇宙は「数的な秩序」のもとにあるコスモスです。コスモスというのはギリシャ語で「天空・宇宙」ということですが、同時に「調和・秩序」およびそこにみられる「美そのもの」です。宇宙は秩序づけられた全体であり、我々は「小さな宇宙」です。ですから身体も「調和」していなければならないのです。
 そこで、有名な話なのですが、ピュタゴラスにあっては
「天は音楽を奏でている」ということになります。後でピュタゴラスの天体論を紹介しますが、星々がはりついている天球が10個あり、それが重なって天の中心の火を巡って動き、その動きは音を生み、それは連なって一つの音楽となっているのです。宇宙はコスモスとして「調和」していますから、その音楽は素晴らしいものの筈なのですが、私たちは肉の汚れ、日常の慣れによってきくことができません。しかし、「魂」を浄化したなら聴けるだろうということになります。
 そうはいっても、この音楽の「数の比」からいきなり
「宇宙の原理」は飛躍しすぎているのではないかと思うかも知れません。しかし、音楽は「魂を浄化」するものでした。これは多分、始めは経験的なものだったでしょう。ここからやがて、その音楽に「秘密」を発見したのだと思います。それが「数の比」でした。「魂を浄化」するのは実は「数の比」だった、というわけです。ということは、魂の故郷である神の世界、ないし生命そのものである宇宙も「数」だということになってもそう飛躍ということはありません。「宇宙は一つの生命体」でこの存在世界はその宇宙の展開だとするギリシャ的世界観を知っていれば容易に理解できることです。そして、こうした世界観はタレスたちにもあったことはすでに述べておきました。これは実にギリシャ的なのであって、「魂」と「肉体」を分けて「二つの世界」としたなどと紹介されるプラトンも、またアリストテレスにあっても同様で彼にあっては「一寸の虫にも全宇宙が宿っている」ということになるのです。存在世界に次元の違いがある、なんて考えはキリスト教が一般的になってからの話で、近代もこのキリスト教的世界観の系譜にありますのでギリシャ的世界観になじみがないだけです。
 しかし、それにしても「数」なんて「抽象的なもの」で、そんなものが宇宙を形成するわけはないと思えます。このあたりは現代人には分かりにくいかもしれませんが、有名なギリシャ哲学研究者であるコンフォードやガスリーが強調しているように、人類が「抽象概念」なんてものを「具体物」から離して考えることができるようになるのは、事物を意識的・自覚的に考えるようになってかなり経ってからのことで、初期段階ではまだ「形式」を別個に考えるということは不得意なのです。つまり、「数」という抽象概念と「数えられるもの」の区別というのは殆どないのです。哲学的思考の初期段階にいるピュタゴラスが、数と宇宙そのものを離して考えらなかったといっても責められることはありません。
 こうして、先にアエティオスの記録を紹介しておきましたが、「数及びその比が原理」だということになったのでした。くり返しますが、この数を「抽象的な数」と理解しないで下さい。これはあたかもタレスの「水」、アナクシメネスの「アエール」のごとくに宇宙を形成する
「もとのもの」なのです。

 もう少し具体的に紹介してみましょう。1は
「点」となります。そして2は「線」となります。3は三角の「平面」です、4はこの三角の上のほうに4番目の点をもってきますと「三角錐」となりまして「立体」となります。このように事物は「数」で構成されていることになります。この説明には実はアリストテレスも文句をつけているのですが、ガスリーたちが注意しているように、ピュタゴラスにとっては、1や2(つまり現代的に言えば抽象概念)と「一つ、二つのもの(つまり数えられる具体物)」というのは区別がないのです。数とは「数えられるもの」そのものなのです。ですから、宇宙の事物そのものは「数」ということになって何の不思議もありません。なぜなら「数えられる」ものなのですから。そして、その存在の在り方は「数の比」になっている、と言ったわけなのでした。この数の比という考え方は事物がなぜ「量的に」異なっているのかの説明までしていますから(なぜなら「比」というのは要するに「混合の割合」とうことになります)、ただの「形」だけの原理だけではなく、「量」までを含めた存在事物の原理となっています。これはアリストテレスも十分承知しており、そうはっきりと紹介しています。ただしアリストテレスは、本来「重さ」を持たない数を「重さを持つ」事物の「材料」にしたのは具合が悪いとしてピュタゴラスを非難したのですが、これはすでにアリストテレスの時代には「数」を抽象的なものと考えられるようになっていたからなのです。
 そして一方でアリストテレスは、このピュタゴラスの主張は
「事物は形をめざして存在する」という主張なら分かるとして、事物が存在するために必要な原因のうち「形」という原因を言ってきた始めての人だと評価したのでした。ただしピュタゴラスにしてみれば、アリストテレスが「数とは形の原因」なのだろうという指摘に、「違う」とは言わなかったでしょうが、今も指摘したように、同時に「材料」でもあったんだけど、とつぶやいたことでしょう。
 しかし、「比」という以上、ここには、ただの「材料」だけではなく、宇宙を貫く
「摂理」のようなものが感じられ、アリストテレスが、これはもうタレスたちのような「材料としての原因」ではなく、「形の形成者」ともいうべきものだろう、と見て取ったのはさすがに炯眼であったと言うべきでしょう。この「原因」としての「形」(これをアリストテレスは「形相因」とよんでいます)という方向性は後にプラトンによって引き継がれ、「イデア論」の形成に重大な影響を与えることになるのです。

ピュタゴラスの「数の哲学」
 一方ピュタゴラスは、この「数」の展開をやはり問題にしなければならなくなるわけで、それは
「数による限定」という形で説明されることになりました。この説明はピュタゴラスのさまざまの事柄に関する考え方が示されているとして、よく引用されますが、それは以下のような対になった表で表されています。
限、 奇、 一、 右、 男、 静、 直、 光、 善、 正方。
無限、 偶、 多、 左、 女、 動、 曲、 闇、 悪、 長方。
つまり、上の欄のものが
「限定」を与えていくものであり、これはしたがって「存在の原理」として、同時に「倫理的な原理」にされているのです。かなり素朴でイメージ的なものですが、ピュタゴラスの「気分」はなんとなく分かります。
 というのも、始めは
「限」でこれがなければ、混沌が「無限」に広がっているだけで存在なんて出てくるわけもありません。そして、その「限」が「数」のうちに現れたときそれは「奇数」、具体的には「1」となります。ここまでは理屈ですが、その次の「右」あたりから「気分」がでてきているようです。多くの右利きの人にとっては、左手は不器用ですから「混沌」につながるというわけでしょう。そして「男」ですが、男は「生ませる性」と考えられていたからでしょう。限定を与えるのは男だと信じられていたのです。そして動乱の混沌を「静め」るとなり、ついでグニャグニャを形あるものにする「直」、混沌の闇を照らし形を露にする「光」、混迷の悪にたいして「直」なる「善」、正しき形としての「正方」というわけなのでしょう。
 しかしこんな具合に考えたということは、全て「数」に還元されてしまうということにもなり、
「徳」までも数で表現されてしまい(たとえば正義は4=2×2と定義されたらしい)、これにはさすがに私たちもついていけません。ただ、こんな態度は当然のことながら「数学」の重視につながったわけで、ギリシャにおける数学の発展に多いに寄与することになったのでした。
 ちなみに
「ピュタゴラスの定理」と呼ばれているものを一般法則として確立したのもこうした態度からでしょう。つまり、「任意の直角三角形の斜辺の長さの2乗は他の二辺の2乗の和に等しい」という有名なものです。もっとも、「地形・図形」にかかわることに古代人は敏感でしたのでこの定理であらわされることになる「実際的事実」はピュタゴラス以前に知られていたようですが、この事実を「法則として確立」したというところがピタゴラスの立派な業績となったというわけです。
 最後にもう一つ付け加えておきますが、それは、このピュタゴラスにはタレスたちにあった自然科学的態度についてはどうだったのかということです。ピュタゴラスは、特に「天体」に関しては多大の関心を示しています。ただし、それは「自然科学的」というよりむしろ以上に見てきた
「理屈」の世界のこととしてでした。
 たとえば、ピュタゴラスは天体というものを、自分の発見した「完全数」である10の数に合わせるなどというやり方をしてきます。ピュタゴラスの天体論の正確なところは少々厄介なのですが、取りあえず紹介すると、先ず天体を重なり合った天球の組み合わせで考えているようです。つまり、宇宙の中心に「火」が燃えていて、それを天球群が巡るように想定されているようです。天球群ですが、その一つは「それ自体としては動かない星々(恒星)」の張り付いている天球となります。ところがそれ以外に「動いている星(惑星)」があります。観察される惑星は水・金・火・木・土星の5つであり、それらが張り付いている五つの天球があることになります。それに加えて地球と太陽と月があり、それぞれが張り付いている天球があるとします。ところがそれら全部を合わせても九つしかありません。観察される天球はこれでおしまいです。これでは「完全数」になりません。そこでピュタゴラスは目に見えない「地球の反対側にある星(対地星)」などを考え出すのです。
 この「反対の星」という存在ですが、実際には存在しないものであるし文献の読み方が難しく何に対してどう反対なのか良く分かりませんが「中心の火」を想定するのが普通でしょう。もちろん、すでに「日食」はしられていたわけですからこの当時「地球」が球体だということは知られていたので、星々ないし天球が「中心火」を巡るある種の地動説みたいなものと解釈できます。 この「星々の巡り」が天体音楽となるわけでした。                              
 ただし、これは「理屈」でこねあげた宇宙論であり、こんな具合に自然についても「理屈」で物事を律していく一つの態度がここに見られます。
「理性主義」というギリシャ思想の重要な側面の起源がここにあるとも言えます。実際、この「理性主義」というのはギリシャ思想の最大特徴ともいえるのであって、この系譜に、次の章で見ることになるパルメニデスが現れ、やがてプラトンやアリストテレスが生じてくることになるのです。

 以上いささかわかりにくいのでピュタゴラスついてもう一度まとめてみますと、
1、 「人間の生き方」が問題にされ、魂の在り方というものが課題にされた、ということがまず第一です。そして、その魂に関して「輪廻転生」という思想が提唱されました。
2、 ここで「集団」が形成され「ピュタゴラス的生活法」が作られます。この集団は共同生活で、私有財産ももたず、身体と魂の浄化が実践されました。身体については「医術・養生法」が、魂に関しては「音楽」が重視されました。
3、 その目的はいうまでもなく、身体も魂も「浄化」することで、そのために節制が要求されました。
4、 ところが、その音楽に関して、とんでもないことが発見されました。つまり、その正体が「数の比」であったという事実です。
5、 こうして、この宇宙そのものの「原理」としての「数及び数の比」というものが探求されることになって行きました。宇宙そのものが「比例的、調和」の世界だった、というわけです。
6、 したがって、その探求の態度は「経験的」であるよりも「理性的」なものとなり、天体論までそうした傾向のものになってしまいました。
7、 かくして、ここに「理性だけ」による「合理的な世界解釈」というものが史上始めて行われることになった、というわけです。

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