13.キリスト教の祭りと行事 - 5. 典礼・奉神礼・礼拝 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

13.キリスト教の祭りと行事
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INDEX
1.クリスマス
2. 復活祭
3. バレンタインその他の祭
4. 12大祭
5. 典礼・奉神礼・礼拝
6. 「ミサ」と「聖体礼儀」
7. 秘蹟・機密

5.

典礼・奉神礼・礼拝


はじめに
 日本では、教会での儀礼のことを何でも
「ミサ」と総称してしまう傾向があります。しかし、それは違っており、本来の「ミサ」というのは「カトリックだけの用語」で、内容も「パンとブドウ酒という聖体に与る儀式」を意味します。
 それではキリスト教での「公的な礼拝およびその様式一般」のことを何というのが正しいのかというと、日本語の場合、カトリック世界では
「典礼」と総称し、伝統的キリスト教である正教では「奉神礼」といいます。そしてプロテスタントでは単に「礼拝」とします。もっとも、各派でそういう取り決めをしたわけではなく呼び方の慣行といえるので、カトリックや正教にあっても、一般の人々に分かりやすく「礼拝」と総称することもあるようです。
 
「ミサ」(これに相当する伝統的な用語は正教での「聖体礼儀」となります)はこの中の一つであったわけですが、しかしこれがもっとも代表的な典礼であるので、そのためこれが典礼一般を指す言葉とされてしまったのもやむを得ないところがあります。
 しかし実際は、他に各種の秘蹟(機密)を伴う儀礼、たとえば洗礼、結婚も典礼なのであり、あるいは秘蹟ではありませんが頻繁に見る葬式なども典礼なのです。そして、その典礼の中には聖務日課や時祷のように時間帯が決められているものもあります。
なお、ここで用いる教会用語は、原則的に日本で一般的な「カトリックの用語」で示しますが、「ないし」とやったり、併記したり、あるいは( )内にしめしているのは伝統的キリスト教である正教での用語となります。

典礼(奉神礼)の意味
 「典礼」ないし「奉神礼」の原語は当然ギリシャ語ですが、古典読みでは「レイトゥルギア」近現代読みでは「リトゥルギア」といい、これはそのままラテン語に移され、さらに今日の英語に残されてLiturgy(リタージ)となっています。
 その意味は、「ラオス(人々)」という言葉と「エルゴン(仕事)」という言葉の合成語ですが、古代ギリシャにおいて
「公共奉仕」という普通のギリシャ語となっていました。それをキリスト教世界で「教会会衆の奉仕」として用いたものです。
 意味ですが、正教関係者は
「神に対する会衆による奉仕」と説明します。ですから「奉・神・礼」と訳したのでした。そして、この言葉はすでにユダヤ教聖典の70人訳聖書において「礼拝」の意味に使われています。
 こうして、「公共的な奉仕」となるので、個人的な礼拝はたとえ儀式的なものであっても、「典礼」とは呼ばれないことになりました。個人的なもので儀式的なものの代表的なものにカトリック世界での
「ロザリオの祈り(ロザリオの15玄義)」などがあり、これはアヴェ・マリアを唱えながらロザリオを手繰り、マリアとイエスにかかわったその生涯の出来事(合計15の出来事)を順に瞑想していく儀礼です。これは儀礼の様式として定まっていて、しかもカトリック世界に広く伝播している儀式ではあるのですが「典礼」とは呼ばれないのです。
 他方、
「洗礼」の儀礼などは一見個人的とも見えますが、これは司式者と会衆とが共に祈祷し、教会共同体の働きが実現される場ですから「個人的」とは言えないわけで「公的なもの」と見なされますので、ここでの祈祷・儀礼は「典礼」となります。
 つまり、「リトゥルギア」というのは
「共同体(教会)の共同による儀礼行為」なのであり、従って、これに参加することが共同体の一員としての義務ともみなされるわけで、教会によっては一定回数以上の典礼儀式への参加を規定として義務づけているところもあるくらいです。もっとも義務づけられていなくてもこれに参加することが「信仰生活」なのですから信仰者は参加することを当然としています。

儀式の様式
 「公的」とみなされるものですからここには一定の様式がなくてはならず、先ず「典礼」を執り行う司式者が居なくてはなりません。これは誰でもなれるわけではなく、プロテスタント以前の伝統教会では原則的に
「司祭」以上の位に在る聖職者でなければなりません。
 あるいは、その司祭では足らず、上位の
司教(主教)によって司式されることを原則とするという典礼も存在します。ただし正教では「代式祈祷」のような、司祭が居ないことを前提として簡略化した典礼も存在します。
 プロテスタントの場合は、もちろん原則的には
「牧師」によって司式が執り行われますが、時には信者によって儀礼が執り行われる場合もあり、牧会の儀式での詩編朗読、聖書朗読その他の儀礼にかかわることが信者によって担われることが普通に行われます。

聖職者組織
司教(主教)

 ギリシャ語原語で「エピスコポス」の訳語で、カトリックでは
「司教」、正教とイギリス聖公会では「主教」と訳しています。理念的には使徒達の後継者とされます。役割としてはその使徒の権能を継承するとされますが、要するに地区共同体の総元締めといった役割で、自分の管轄下の教会を統括し他教区との統一を保つ役割を持ちます。
 歴史的な経緯の中でこの司教の中に地位的な差が見られてきてカトリック世界では
「大司教」などの位階が作られていき、とどのつまりは「教皇」などが生まれていきました。従ってここではピラミッド型の位階組織となりました。ちなみに教皇の補佐となる「枢機卿」というのはこの司教の中から選ばれる、となっています。
 伝統的な正教世界では唯一絶対的存在である教皇のようなものは存在しません。ただし、ここでも教区の大きさなどに応じて
「大主教」「府主教」などが生まれ、もっとも大きな教区の統括者として「総主教」がいますが、これは原則的にローマ時代の「五大総主教区(ローマ、コンスタンティノポリス、アンティオケア、イエルサレム、アレクサンドリア)の主教」を意味します。しかし後世になって、ロシア、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、グルジアなどの教区の主教も総主教と名乗るようになりました。
 しかしながら、ここでは横の繋がりという全体組織なので主教は主教として同等であり、カトリックのようなピラミッド型の位階組織とはなっていません。

司祭
 司教の下にありその職能を分有して宣教と礼拝儀式を執行する者で、分かり易くはそれぞれの教会の責任者と理解しておけばいいです。カトリック世界で
「神父」と呼ばれている人がこれに相当します。

助祭(補祭)
 司祭や会衆と呼応して典礼文を朗誦したり、炉儀などを行い、司祭を補佐する者。

以下は厳密な意味での聖職者とは呼んでいません。
朗読者(誦経者)
 詩編や使徒書簡など福音書以外の聖書文を朗読する者(信者の代表)。ついでながら、
 福音書を読むのはカトリックでは司祭、正教では補祭となります。
侍祭(堂役)
 聖具を運んだり、その他補助的な役割を担う信者。
聖歌の指揮者
 聖歌隊を指揮する。指揮だけではなく、司祭とともにその日に歌われる聖歌の具体的な選択に参与することも多い。
聖歌隊
 必ず存在するわけではなく、信者全員が歌う場合もあります。特に正教では聖歌隊(詠隊)もいるのですが、聖職者は全員そのまま素晴らしい歌手であり、会衆(参祷者)もそのまま聖歌隊のようなもので、祈祷文はほとんど歌われ、つまり聞きようによっては奉神礼は「聖なるオペラ」といった風情になり、ものすごく長い式も音楽好きの人には至福の時といった感じになります。

典礼・奉神礼の様式
 これには大きく分けて東方様式と西方様式とに分けられ、東方の正教の教会では
「ビザンティン典礼」が、西方の教会では「ローマ典礼」と呼ばれているものが基本となっています。
 歴史的に西方教会では地方ごとにさまざまの典礼が作られていましたが、1500年代のトリエント公会議で大きな改革が行われて、従来のものは「ミラノ典礼」や「モサラベ典礼」などいくつかが例外的に認められただけで原則的に地方的な典礼は禁止され一本化されたのでした。さらに20世紀に入って第二バチカン公会議において新たな改革が行われました。この時に使用言語がラテン語に限定されないということが決められたのでした。
 それ以前のローマ典礼は一部の例外を除いて
「ラテン語」で典礼が行われていたわけで、それを改革したわけです。しかしこの改革に反対して今でもラテン語による典礼に固執する教会や信者もおります。
 他方、東方の正教は伝統を重視しつつも、初期の時代から地域の独自性を尊重し言語に対しては寛容で、
「聖書の原文はギリシャ語」であったけれど、初期の頃からシリア語とかエジプトのコプト語、スラヴ語など多様な言語が用いられていました。ただし現在はそれらの言語自体が古語になってしまったり、他の言語の流入による言語様式の変化などさまざまの問題が出てきて問題になっています。

「典礼」の成立と経緯
 未公認の時代の初期のキリスト教においては、公的な教会堂など存在しないわけですから、祈りは個人的な家や迫害時には隠れ場などで私的に行われていたわけです。
 それが300年代の後半になって公認やがて国教とされるに及んで各地に
「教会堂」が建造されていきました。そして人々はその教会堂に集まって礼拝を執り行うようになっていったわけです。リーダーとなる聖職者組織はすでに使徒達の時代に形成されていたので、この段階で聖職者組織と礼拝形式の合体した「教会組織」形成が行われていきました。
 こうして、今日的に言えば司教や司祭による儀式の秩序形態が作られ、祭日や記念日、一日の祈祷のありかたなどが決められていき、聖書朗読や礼拝、説教、聖歌などの秩序付けが行われました。これは当初は各地の教会ごとにバラバラであったわけで、これでは「一つの信仰、一つの教会」とは言えないということで儀式の形態の整理が行われたわけです。それが「典礼」と呼ばれているものの成立の経緯と言えます。ですから典礼にも歴史的・地域的にいろいろなものがあったのでした。つまり、式の順序であるとか、祈りの言葉のありかた、聖歌など具体的な礼拝のあり方の違いです。

祈り
 この「典礼」で行われる礼拝の目的ですが、それはキリストの名のもとに一つに集まった人々が共同で捧げる
「賛美と感謝の祈り」であるとまとめることができるでしょう。
 ですから先に示した「ロザリオの祈り」で例を見ておいたように、典礼には個人的な祈りは含まれないとしているのです。
 その典拠としてあげられるのは、マタイ福音書18.20に見られるイエスの言葉
「二人または三人が私の名によって集まるところには私もその中にいる」という言葉でしょう。人々が共同体(教会)に参集してくるのはこの言葉を体験するために、なのであり、イエスとの交わりを体験するためなのです。これが共同体の形成の意味なのであり、共同礼拝はその「イエス体験」のために行われるものなのです。もしこれが無ければ共同体の意味はなくなり、神への礼拝は個人的に行われているだけでも良いとなります。
 ただし、もちろんこの「個人的な祈り」は基本として要請され、これが無ければ共同体に集まって共に礼拝することの意味もありません。ですから、礼拝ということを広く理解するなら、この「個人的な祈り」があってはじめて礼拝となり、それがあって初めて共同での「典礼儀式」の意味も出てくると言えるでしょう。
 そのため、正教では「祈り」なら公・私を問わず全て
「奉神礼」に含まれるとしているようです(少なくとも日本ハリストス正教会ではそのように理解している)。つまり一人でイコンの前で祈るものであってもよく、全ての祈祷儀式は「奉神礼」となるとします。これは「祈り」というものの性格からこう理解したのでしょう。
 その典拠となるのはマタイ福音書6.6にある「祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして・・・・・、あなたは自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい・・・」という言葉になるでしょう。人々を前にして行うのが礼拝ではないとしているからです。もちろん、そうかといって正教では一人で祈っていればそれで良い、とはしません。教会は神の国への通路だからです。教会にあって指導者の下にイエスと霊的にまみえ一体化の体験をしなければ、その祈りや修行は「独りよがり」「自己満足」となってしまうからです。
 正教では「単独者(モナコス)での修行」も認められはするのですが、一定の年数を経て、十分なる者と認められなければそれは許されません。それでもなお、属していた修道院や指導者との繋がりは保たれて、一定の時をおいてそこに帰って、自分の修行を内省して確認することが要請されます。
 ようするに、修行においても「独りよがり」となることを警戒しているわけで、典礼(奉神礼)というのもそうした「独りよがり」を警戒しての共同体的な祈りといったものなのでした。

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