12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜 - 7. アリーとシーア派 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜
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INDEX
1. 中東の神「バール」とユダヤ教の神「ヤハウェ」
2. ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係
3. イエスの語る神の特色は
4. 西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神
5. 故郷中東に帰ってきてイスラームの神となる
6. イスラームの発展
7. イスラーム、「シーア派」とは

7.

アリーとシーア派


はじめに
 現在
「シーア派」という名は、「イランのイスラーム宗派」として知られるほか、イラクでの内乱において、スンナ派との闘争で数々の悲惨な事件と共に人々に知られています。同じイスラームなのにどうしてこうした悲惨な事件が起きてしまうのか、そもそもシーア派とはいかなるものなのか、これはイスラーム世界を知っておくために必ず必要なことなので、それを見ておきます。

アリー
 前章ですでに紹介しましたように、シーア派というのは第四代正統カリフのアリーの血統の者だけを指導者として認めるという派を意味します。その理由にはおそらく三つの理由があると判断されます。
 一つはアリーが
「預言者ムハンマドの従兄弟」でありしかも「ムハンマドの娘ファティーマを妻」としていて、その血統の者はもっともムハンマドの血に近いということがあります。ムハンマドにも男の子はいたのですが皆早世してしまいその直系子孫は途絶えていたからです。
 もちろん、「ムハンマドの代理者」という意味を持つ「カリフ」は直系の子孫と定められていたわけではなく、実際初代カリフはムハンマドの親友のアブー・バクルであったし、二代、三代とも長老の中で人々の支持を得て選ばれた者がカリフとなったのでした。そうではあったのですが、かといって、カリフはそうした信者の総意で選ばれるとの規約があったわけでもありません。要するにムハンマドは自分の死後のことは考えていなかったために何も言い残していなかったのでした。ですからカリフにどういう資格を求めるかは、残された信者が改めて決めなければならないような形になっていたわけです。ですから、まだムハンマドの娘や直接の親族が生きていた初期段階に属する時代にあって、「血統」を言い出してもそれほど不思議とは言えないわけです。

 二つ目の理由は、カリフであるアリーが
「不当な形で暗殺された」という思いがあると考えられます。そのいきさつは、第三代目のカリフあったウスマーンが自分の部族であるウマイア家による独裁へと入っていったのに対して他の部族の人々が怒り、結局ウスマーンを殺害して新しくアリーをカリフとして担ぎ出したということがありました。しかしウマイア家の方はそれに対抗してアリーと敵対し、アリーはその調停の最中に自分の陣営にいた急進派のハワーリジュ派によって「アリーのやり方は手ぬるい、妥協的である」として暗殺されてしまったのでした。棚からぼた餅とはこのことで、アリー陣営の内紛とアリーの死によってウマイア家は権力を再び手中にして「ウマイア王朝」を樹立していったのでした。本当に「馬鹿なことをした」アリーの陣営はどうもこれをトラウマとしてしまったようで、ここに「アリーの党派」を形成されていったと言えます。

 三つ目の理由は
「アリーの人柄」にあったと推察されます。アリーはイスラームに帰依したのもアブー・バクルに並びもっとも初期の信徒と言われ、ムハンマドに忠実な人であったと言われます(だからムハンマドの娘ファティーマを妻とすることができた)。ですからカリフとなってから彼が目指したものはムハンマドに忠実なイスラームという「理想主義者」であったと言われます。しかし他方で、ムハンマドの未亡人であり初代カリフ「アブー・バクル」の娘であったアーイシャは、ファティーマに対する激しい対抗意識からアリーに敵対し、さらにアリーの属する部族クライシュ族の長も自分の権力がアリーに奪われるのを怖れ、同じくアリーに敵対して二人は連合してきます。アリーはそうした敵対勢力を破り(ラクダの戦役)、クーファを首都として勢力をまとめ、そうして大敵であるウマイア家のムアーィヤとの決戦に挑んだのですが勝負が付かず、そこで調停という手段にでたのです。しかしこれが裏目となって急進派によって暗殺されてしまったわけです。
 こうしたアリーのあり方を結果論的に政治力が無かったなどと言う研究者もいたり、いろいろアリーの欠陥をあげつらう研究者もいるのですが、これは歴史家にありがちな結果論的評価以外の何ものでもなく、イスラームの人々にとっては
「理想に基づいて戦ったカリフ」としてイスラームの理想とされる面を持っていたと言えます。

シーア派
 こうしてアリーを担ぐ人々が
「シーア・アリー(シーアとは党派の意味)」と呼ばれたのですが、後にこのアリーが省略されて「シーア派」と呼ばれることになったのでした。このシーア派はアリーが首都とさだめた「クーファ」が中心となったのは自然なことで、彼らは「アリーの子フセイン」を立ててウマイア家に抵抗していこうとしてフセインにクーファに来てくれるように要請します。ただし、これは諸般の事情からいって無謀なことでした。
 しかしフセインはその要望に応えようと、わずか200人ほどでクーファに向かっていきました。案の定カルバラーという地で待ちかまえたウマイア家の包囲にあってしまい、全面降伏を要求されたのですが毅然としてこれを拒絶してウマイアの軍勢の中に突撃していって全滅していったのでした。こうしてフセインはシーア派にとって「英雄」となっていきます。
 その後、ムスタールはファティーマとの間にできた子どもではないアリーの子ムハンマド・イヴン・ハナフィーアを立て、彼を
「イマームおよびマフディー」として立てて反乱を起こしていきます。この派は「カイサーン派」と呼ばれますが、重要なのはここで初めて個人がイマームとされてきたことでした。

イマームとマフディー
 ムスタールが唱えたイマームとマフディーですが、イマームというのは、元来の意味は
「規範」とかその規範を守り適用する「指導者」という意味で、従って集団の指導者であれば皆イマームと呼びうる言葉でした。ここから転じてスンナ派ではカリフがイマームということになります。あるいは一般用法として優れた学者などもイマームと呼ばれ得ました。
 これに対してシーア派ではアリーの血統の者で最高指導者がイマームとされることになったのでした。ここではこのイマームは教義の決定権と立法権を持ち不可謬性を持つとまで主張されるようになります。要するに、神の直接的な言葉の預言者であったムハンマドと、ムハンマドが預言をもたらしたという点を除いては、同等の位置づけにされていると言えます。
 さて、ムスタールの「カイサーン派」ですが、700年にハナフィーアが没した後、彼らは死んだと思われているハナフィーアは
「ガイバ(隠れ状態で、死んではいないのだが現在直接交渉が不可能な状態)」にあり最期の審判の日に再臨して正義の地を顕在化させるという信仰を持つようになります。この「ガイバ」の思想は後にシーア派の各派に引き継がれていくシーア派に独特の思想となります。
 ちなみに「イマーム」という言葉はシーア派での主流となっている
「十二イマーム派」で有名ですが、ここでは初代イマームは言うまでもなく「アリー」とされ、二代目がファティーマとの間にできた息子の「ハサン」、三代目が同じくファティーマとの間の子「フセイン」となり、四代目以降はそのフセインの血統に引き継がれていきます。
 初期シーア派はさらにフセインの孫のザイドを立てるなど(ザイド派)、内部分裂を起こしてさまざまの派が生じていくことになりました。これらは要するにだれをイマームとするかというところでの争いと言えました。
ともあれ、シーア派の特徴としては、アリーとその子孫にイマーム性をみとめ、ムハンマドの持っていた秘儀性がアリーから代々の血統のイマームに引き継がれていくとしています。ここから、神がイマームに顕現するという立場、イマームのマフディー性(終末の時に現れ眞のイスラーム社会を築くとされた救世主を意味し、ユダヤ教での「メシア」、キリスト教での「キリスト」と同じようなもの)を主張する立場などが生じました。

十二イマーム派とイスマイール派
 現在シーア派の中の最大勢力は十二イマーム派とされています。その名前はアリーからフセインの血統の者十二人をイマームとしているところからきています。この派の分派として
「イスマイール派」がありますが、それは七代目のイマームを誰とするかで別れたもので、十二イマーム派と呼ばれることになる派はムーサー・カーディムを立てたのに対し、イスマイール派と呼ばれることになる派はイスマイールを立てたことに由来します。もちろん二人は兄弟です。イスマイール派からは後にエジプトにファティーマ朝がでてきますので歴史的に重要な派となっています。
 十二イマーム派は12代目のイマームであるムハンマド・ムンタザルが874年から「ガイバ」に入り、将来マフディー(救世主)となって再臨して義の世界を成就するとしています。再臨までの間、信者は行動の指針として『クルアーン』以外には12イマームの伝承を規範とするということになるわけですが、その解釈は自分勝手では困るわけで、神学者による解釈によるということになりました。従ってここで神学者の権威が非常に高くなるという現象が見られます。しかし現実的にはイスラーム法の基本的実践にかかわってはスンニ派と大差はないとされています。
 他方、イスマイール派で知られているのはその教義に人類史を七つに区分する歴史観を持つことで、その各周期に七人のイマームがいることになるとします。そして人類史第六周期の第七イマームはイスマイールの子ムハンマド・イヴン・イスマイールであって、その再臨において全ての真実が明らかとされ従来のシャリーアが廃棄されるとしました。
 しかし899年に指導者であったアブドゥッラ・マフディーは自分こそイマームであると主張するようになり、エジプトにファティーマ朝を樹立していったのでした。結局その一派は宗教的派であることを超えて政治勢力・国家組織となっていったのでした。

シーア派の政治性
 こうしていきさつをみていくと、シーア派というのは、もちろん宗教指導者の問題ですから宗教性はあり、さらに「イマームの再臨」という思想においてスンニ派との宗教的独自性を見せているわけですが、他方で時の権力であった「ウマイア家」に対する
「政治的対抗勢力」であったとも言えるわけです。ですから、政治・社会的に落ち着いている時にはその宗教性において自分たちの立場を守り維持していれば良かったわけですが、ひとたび政治的対立要因が入ってくるとスンニ派に対する敵対勢力と化すという面も持っていたわけです。
 これが顕著に表れているのがアッバース朝ないしセルジュク・トルコが支配者となっていた時のエジプトでおきた
「ファティーマ朝」の台頭であり、オスマン支配の時の「イランの独立闘争・「サファヴィー朝」の樹立であったわけで、この時イランはシーア派を旗印としていました。

祭儀・儀礼
 儀礼については、イランで大多数を占める十二イマーム派の場合スンニ派と大差はありませんが、スンニ派が日に
五回の礼拝をきちんと区分するのに対して、イランでは昼と午後の礼拝を合体させ、夕べと夜も合体されますので日に三回となります。金曜の礼拝はスンニ派では重要な集団的礼拝となりますが、イランでは特別礼拝がある時以外は特別視されていません。メッカ巡礼も両者とも同様に大事としますが、シーア派はこれに加えて霊廟への巡礼も重視されていて、メディナのムハンマドの霊廟の他、ナジャフのアリーの霊廟、カルバラのフセインの霊廟などが巡礼につぐ行事として重要視されます。
 祭儀としては
「服喪」になりますが、「アーシューラー」が重要でまた良く知られています。これはクーファに赴く途中カルバラーで戦死したフセインを悼んで行われるもので、劇や詩や語りでカルバラーの悲劇を再現し、鞭で身体を叩いたり、自分の身体を傷つけたり、泣き声を上げて追悼の意を表します。これは高まって日頃のウップンをはらしたり政治的集会・デモと化したりしました。イラン革命もこのデモが大きな力をしめしたのは有名です。つまりイラン革命のスローガンは「全ての日はアーシューラー、すべての地はカルバラー」というもので、内容は「フセインのように殉教を怖れず圧制者には命を賭して戦え」というものになります。
 他に服喪となるものとしてはアリーが重傷を負って死ぬまでの期間、ムハンマドの死と同日になる息子ハサン(第二代イマーム)の命日、ファティーマの命日などがあります。
 その他の祝祭日は、ムハンマドが最期のメッカ巡礼の日アリーをカリフに指名したという伝承の日。アリーの誕生日、フセインの誕生日、第八代イマーム、アリーの誕生日、第十二代目イマームの誕生日となります。

主要別派
 以上にられたように、イスラームといっても歴史的に一枚岩であるわけもなくさまざまの分派を生みだしていますが、シーア派もさまざまの分派を生みだし、こちらは政治的に重要な活動をしてきたことで知られます。その分派の中で特に知られているものを紹介しておきます。

「アラゥイー派」
 
シリアを中心に「アラゥイー派」「ドゥルーズ派」といった特殊なシーア派イスラームがあります。「アラウィー派」というのはシリアのラタキア地方の山岳地方に拠点を持ちます。シリア全体でおよそ12%程度とされますが、アサド大統領(1971〜2000年の在位)の出身で知られ、バアス党(シリアで形成されたアラブ民族主義政党)との繋がりが強く、現在でもその政治的勢力は強いとされます。
 教義としては、シーア派の12イマーム派の11代イマームの側近であったヌサイルに由来するとされ、従ってこの派は一名「ヌサイリー派」とも呼ばれます。内容的にイスマイール派に近いとされますが、シリアの土着宗教やキリスト教の要素も混在しているとされます。最大特徴は、シーア派全体に
「始祖を神格化する傾向」があるのですが、この派も明確に第四代正統カリフでシーア派の根拠となっている「アリー」を神格化しています。
 その他この派は、
霊魂の転生(善人の魂は死後他の人間に引き継がれるが悪人の魂は獣となるといった思想)やキリスト教の三位一体説と似た思想を持つことも特徴とされ、そのためかこの派ではイスラームの祝日の他に聖霊降臨祭のごときキリスト教の祭日まで祝日とされています。

「ドゥルーズ派」
 ドゥルーズ派というのは同じくシーア派のイスマイール派を母体としていますが、ファティーマ朝の第六代カリフ
「ハーキム」の時代にそのハーキムを神格化して独立した派です。ハーキムという人物は奇人であったとも伝えられ、熱情的であった側面と冷酷な面を併せ持っていたとされます。この派の教義としての最大特徴はその「ハーキム」を神格化していることが第一で、復活の日に救世主として再臨するというキリスト教的な教義を持ちます。さらにアラゥイー派と同じように輪廻転生を認めたり、メッカの方角への礼拝を行わず、また従ってメッカ巡礼も行いません。そのためか『クルアーン』以外に独自の聖典『ヒクマ・シャリーファ』を持っています。さらにその集団は外部世界と一線を画しているなど「異端」的な要素を多く持っているため迫害されることも多かったですが、対フランスへの抵抗闘争の端緒となった「ドゥルーズ派の反乱」など社会的な意味を持つことになって勢力を拡大しました。レバノンやシリアなど合わせて100万ほどの信者がいるとされます。

 以上、全体として私達は「イスラームの神アッラー」のルーツから始めて「シーア派」の神の装いまでをおってきました。この章は「アリーとシーア派」を見てきたわけですが、ここでの「アッラーの装い」も複雑でした。それは主に
「政治・社会的要因」にあったと言えます。
 イエスの場合の「神の変容」は
「人間のとらえ」という思想的要因であったと言えたわけですが、イエス以前の「中東の普遍神」からユダヤ人の神「ヤハウェ」への変容は「ユダヤ部族の独自性の主張」という社会的要因が強くありました。
 さらにイエスから「西洋キリスト教の神」への変容も、はじめの「ギリシャ人への伝道」は「心の問題」という要素が強かったものの、結局
「ローマ帝国での統治機構」に繰り込まれるという社会的要因によってのものだったと言えます。
 またここからの「イスラームのアッラー」も、ムハンマドには「人間の捕らえ」の問題もあったものの、結局は
中東世界の統一という「社会的要因」が強くあったと理解できるわけでした。
 このように「神の変容」というのも「人間の心」の問題が強く作用した場面と「社会的要因」とが強く作用した場面とがあるということを理解しておく必要があるといえるでしょう。

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