12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜 - 6. イスラームの発展史 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜
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INDEX
1. 中東の神「バール」とユダヤ教の神「ヤハウェ」
2. ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係
3. イエスの語る神の特色は
4. 西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神
5. 故郷中東に帰ってきてイスラームの神となる
6. イスラームの発展
7. イスラーム、「シーア派」とは

6.

イスラームの発展史


はじめに
 これまでの章で、中東生まれの神が如何にして西洋にわたり、再び中東に帰ってきたのかその次第をみてきたわけですが、帰ってきてからもその
「神」は穏やかに一定していたわけではありません。その神を奉ずる人々の動乱に基づいて、その神の装いもさまざまになってしまうのでした。現在イスラーム諸国といわれている国々において、その信仰のありようが異なっているのはそのためです。
 もっとも、イスラーム信者の大半をしめている「スンニ派」とされる人々にあっては、国情は違っても
「教義・信仰は大差ない」とは言われますが、理解や強調点での違いは否めず、また反勢力とされる「シーア派」では教義そのものにおいて大きな差が見られることがあります。同じ「アッラー」なのにどうしてなのか、という疑問もでてくるでしょうが、矢張り宗教は「人の心」の問題で、そうなると「人の心」がさまざまなのに応じて「神の理解もさまざま」となってしまうのもある意味で必然であるとも言えるでしょう。そうした「さまざま」となる経緯を社会的な側面で見ておきます。

イスラーム発展史
 イスラームの発展史は大きく分けて四期に区分するのが分かりやすいです。
 
一期目ムハンマド(紀元後570頃〜632年)からいわゆる「正統カリフ」と呼ばれる四代目のカリフ・アリー(生年不詳だが600頃かと推定〜661年)の時代までとなります。
 
二期目が四代目カリフのアリーと敵対した「ムアイーア」が起こしたいわゆる「ウマイア王朝(661〜750年)」とそれを倒した「アッバース家」による「アッバース朝(750〜1258年)」の時代です。ただしその途中にエジプトにあって「ファティーマ朝(909〜1171年)」「ブアイフ朝(932〜1055年)」が成立しています。さらにこの期の後半はトルコ人による支配時代で、「セルジュク朝(1038〜1157年)」が支配していました。しかしここは東から押し寄せてきた「フラグのモンゴル」に滅ぼされてしまい長年続いたイスラーム帝国は終止符をうったのでした。
 
三期目は混乱と無秩序の群雄割拠の時代から台頭してきたエジプト地方の「アイユーブ朝」を始めとして、ついでそれを乗っ取ったトルコ人による「マムルーク朝」が大きく進出、そしてさらにイスラームの名を世界にとどろかせた「オスマン・トルコ(1299〜1922年)」の時代となります。
 
四期目はオスマン・トルコ滅亡後の近代イスラーム世界というわけです。

ムハンマドの死後の「カリフ」
 イスラーム世界の最高指導者としてしばしば
「カリフ」という名前が知られます。この「カリフ」というのは、原義は「代理人・後継者」という意味でムハンマドの衣鉢を次ぐものという意味です。ムハンマドには後継者などという発想法がなかったようで(これはイエスも同様でした)教団を指導する後継者を指名せず死んでいます(紀元後632年)そのため彼の死後教団の指導に混乱が生じてしまったようですが、結局ムハンマドに帰依したイスラームの信者としては最初とも言えた彼の親友「アブー・バクル」が指導者となり、その時「神の使徒(つまりムハンマド)の代理(カリーファ・ラスール・アッラー)」と名乗ったことから「カリーファ=カリフ」という名称がつかわれるようになったのです。ただ、アブー・バクルを次いだ二代目の「ウマル一世」も当初は「神の使徒の代理の代理」と称したのですが、これではどんどん長くなってしまうので「信徒の指導者(アミール・アルムーミニーン)」を用いましたが、一般には「カリフ」ということで定着しています。

アブー・バクル(在位632〜634年)
 メッカ時代からのムハンマドの友人でムハンマドが啓示を受けた直後からのもっとも古い信徒でした。彼は573年の生まれとされますので570年頃の誕生と推定されているムハンマドとほぼ同年と言えます。ムハンマドがメッカ時代に得た信徒の多くはこのアブー・バクルの影響によると伝えられます。こうしてある程度の勢力となったところで旧来の信仰を持つ人々と対立し迫害されてムハンマドたちはメッカの北方にあった「メディナ」へと移住していったのでした。この移住を「ヒジュラ」とよびますが、これには一つの意味があり、これは単なる「住居を変える」意味での移住ではなく、故郷のすべてやイスラームに帰依しないすべての人々との関係を完全に絶って「新たなもの」として「神の道」を行く者との決意による移住を意味します。つまり一つの宗教概念となっています。
 ともあれこうしてバクルも故郷を捨ててムハンマドについていったわけですが、その後もムハンマドの片腕として補佐を務め、やがて巡礼の行が行われるようになるとその指揮をとるなどすでにムハンマドの代行者とも言うべき働きをしていきます。そしてムハンマドが昇天したときに信徒達から推挙されて
「ムハンマドの代行者」として選ばれたのでした。彼は勢いを増すイスラームに対して反抗勢力として蜂起した各地の部族への制圧部隊を組織してこれらの敵対勢力をうち破り、さらには北方のビザンティン帝国の領域である現在のイラクやシリア地方の進出に着手していきました。

ウマル一世(在位634〜644年)
 アブー・バクルが死んでからは、このアブー・バクルの「カリフ」選出に力を発揮していた「ウマル一世」が第二代目のカリフに選出されました。実のところイスラームの興隆はこのウマル一世に負うところが大きいとされ、しばしば
「イスラーム帝国の建設者」とまで言われます。
 彼は、もともとはムハンマドの敵対者だったのですが、後に回心して忠実な信徒となりムハンマドを支える一人となっていったのでした。そして彼によってムハンマドの教えは驚異的に拡大されていきますのでしばしばキリスト教における「パウロ」と比べられたりします。パウロも始めはキリスト教の敵対者だったのですが後に天からイエスの声をきいて回心し、伝道者となってギリシャ・ローマ世界にキリスト教を広めたわけでそのあり方がウマル一世と似ているというわけでした。
 二代目カリフに任じられてから彼は、アブー・バクルの企図を受け継いでイラク・シリア地方への進出を遂行しさらにエジプトを征服していきます。そして
「軍営都市」を築いたり、部族集団の集まりであったアラブ世界を一つの国家形態へと組織しさまざまの制度を確立していきました。西暦622年七月に相当するメディナへのヒジュラをもって「イスラーム紀元」とすると制定したのも彼でした。ただ、彼はなかなかイスラームに改宗してこない「経典の民」であるユダヤ教徒をアラビア半島から追放してしまう(ただしユダヤ教もキリスト教も「経典の民」として同胞扱いですから「殺害」はできませんでした)などの荒療治もしています。そうした激しい性格のためか、怨みをかって暗殺されてしまいました。

ウスマーン(在位644〜656年)
 三代目カリフとなったのはウスマーンで、彼も古くからの信徒でムハンマドより少し若い程度の人であったらしいです。彼は二代目のウマル一世の遺言で形成された六人からなる長老会議の互選で選出されて第三代のカリフとなりました。前半は問題なかったようですが、彼は後に問題を起こすことになる
「ウマイア家」の出身で、だんだん一族・縁者への身びいきがひどくなって、そうした身内びいきの人事のために各地にあった駐屯部隊の戦士たちの反感が強まり、ついに反乱をおこされ殺されてしまいます。

アリー(在位656〜661年)
 四代目に選ばれたのは
始祖ムハンマドの従兄弟に当たる「アリー」でした。彼は推定600年頃の生まれとされますので、570年頃の生まれと推定されているムハンマドより30歳ほど若いことになります。彼はムハンマドの娘である「ファティーマ」を妻にしていましたので「血統」から言えば断然他に抜きんでた存在であり、またムハンマドに帰依したのもアブー・バルクと前後して一二位を争っているほどの人物となります。ですからカリフになるのは当然とも言えました。ただこの血統の濃さが後に大きな問題となっていきます(次の章「シーア派」が全面的にここを扱いますので、ここは要点だけとなります)。
 それはともあれ、彼はウスマーンを倒したイスラーム戦士たちの推挙によってカリフの地位に就きます。彼は非常に理想が高い人物であったとされますが、乱れたイスラーム国家の部族間抗争を処理仕切れず悲運の人生をおくることになってしまいます。
 まずはムハンマドの未亡人の一人であるアーイシャがクライシュ族の有力者と手を組んで離反してきたのを制圧しなければならず、さらに殺された先代のカリフ、ウスマーンが属していた「ウマイア家」も黙っているわけはなく報復戦ということで、シリア地方の総督であった「ムアーウィア」が反乱を起こしてきます。アリーは制圧のため出向きますが決着が付かず結局調停の話し合いに入ったところでアリーは暗殺されてしまうのでした。こうしてイスラーム世界は「ムアーウィア」の属する「ウマイア家」に支配されることとなりいわゆる「ウマイア朝」の時代となるわけでした。
 一方、アリーを支持する一派は
「シーア(党)・アリー」とよばれるようになりますが、後に省略されて「シーア派」とよばれるようになるのでした。ただアリーはイスラーム世界にあっては「シーア派」だけではなくその血統や正統カリフの一人であったこと、理想肌で悲劇的人物であったことなどからムハンマドに次ぐ人気になっています。
 近代エジプト建国の英雄
「ムハメド・アリー」、またプロボクシングの「ムハメド・アリー」などはこの「ムハンマド」と「アリー」との二大英雄の名前を用いているというわけでした。またちなみにイスラーム国に多い「ハサン」とか「フセイン」という名前はこの「アリー」と「ファティーマ」との間にできた子どもの名前なのでした。
 さて、「アリー」を支持する勢力はウマイア家に対する反抗を止めることはなく、先ずアリーの子であったフセインをかついできます。そして、ウマイア家への反抗にでていくのですがフセインは武運つたなく破れて戦死してしまいました。その後もアリーの支持者は絶えず、その
「血統」のものだけを「カリフ」と認めるという教義を確立してイスラーム世界にあってさまざまの内紛の鍵となっていきますがここまでのいきさつをみるとそれは当然あり得ることと了解されるのでした。

イスラーム拡大史の概略
 以上にみたように、イスラームは指導体制が確立されて早くも「初代カリフ、アブー・バクル」の時代から大規模な遠征を始めたわけで、東方ではメソポタミア地方の「ササン朝ペルシャ」を滅ぼし、北方ではビザンティン帝国に侵略して「シリア地方とエジプト」を奪っていきます。ところがこんな短期間に急激に大きくなってしまうと内部はさまざまのひずみが出てきてしまうわけで、上に見たように以前から生じていたアラブ世界の内部分裂から四代目カリフであったアリーは暗殺されてしまったわけです。以上の「正統カリフの時代」を一期としておきましょう。
 二期目は、アリーの敵対者であったシリア地方の提督
「ムアーウィア」の台頭からとします。彼は661年自分の王朝をひらき、これを「ウマイア王朝(661〜750年)」と呼んでいるわけです。「ウマイア朝」はさらに拡大を続け、西には現在のスペインにまで進出していきました(711年)。さらに北の「フランク王国」までの侵略を試みましたが西洋史上有名な「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」に破れてついに西欧には入れずじまいとなったのでした。ところがこの「ウマイア朝」は征服した異民族にたいして過酷な政策を押しつけたばかりか、『クルアーン』で保証される信者間の平等をはじめとして『クルアーン』の教えを守らないことが多かったためにイスラーム信者の反感と反抗までを呼び、ついにムハンマドの叔父の子孫である「アッバース家」の革命となって、750年「アッバース朝(750〜1258年)」が開かれることになったのでした。この首都が現在のイラクにある「バクダット」というわけでした。こうしてアッバース朝はウマイア朝の領土をそのまま受け継ぎ新たなイスラーム帝国となっていったわけですが、ここでウマイア朝が征服していた異民族もイスラームに改宗していたわけで、そうした異民族でありつつ「同じイスラーム」となっている多様なイスラーム信者を統括する指導者「カリフ」の新たな位置づけが確認されなければなりませんでした。
 こうしてここに多様なイスラーム教徒をうけいれる立場としての「正統派」が確立され、カリフの役割とはこうしたイスラームを受け入れ擁護しイスラーム法を施行する者とされていったのでした。この「正統派」のことを
「スンナ(スンニ)派」と呼んで、現在イスラームの九割がこれに属します。「スンナ」というのはムハンマド以来の慣行を意味しており、この派は「シーア派」のように血統にはこだわらず、信者総意の指導者が「カリフ」とされた歴史的カリフ(正統カリフは実際こうした「総意に基づいて選出されたカリフ」だったわけです)を認めている立場となります。
 一方、アッバース家に追われたウマイア家は現在のスペインの地にあった領土に逃げ込み、ここに「後ウマイア王朝(756〜1031年)」という形で生き残っていきます。

 しかし800年代になってこのアラブ・イスラーム帝国にも内部分裂が生じてきて、ついに909年に至ってエジプト地方に
「ファティーマ朝(909〜1171年)」が建設されアッバース朝に対立していきました。この「ファティーマ朝」は「シーア派」の立場に立ち、彼等は、自分たちは「アリーの妻でありムハンマドの娘であるファティーマの子孫である」と自称し、こうして自分こそが「正しいカリフ」であると主張してきたのでした。こうした内部分裂に当然のように後ウマイア王朝も一枚噛んできて自分も「カリフ」だと主張してきて、かくして「三人のカリフ」が並びたってイスラーム世界は完全に混乱してしまったわけです。
 こうした混乱に乗ずるように946年、東方イランから起こった
「ブワイフ朝(932〜1055年)」がバクダットにまで進軍してきてここを乗っ取って行きます。ただし彼等はアッバース朝を滅ぼしてしまったわけではなく実権を奪取したにとどまり、しかも彼等は戦士集団であったので「カリフ」制度もそのまま残し、自分たちに都合のいいように廃止したり擁立したりという形で政治を行ったのでした。
 二期目も後半となりここでトルコ人が台頭してきます。つまりこの「ブワイフ朝」は1055年中央アジアから起こったトルコ人による
「セルジュク朝(1038〜1157年)」によって滅ぼされてしまうのです。こうしてバクダットに入ったセルジュク朝の指導者はアッバース朝から「スルタン(支配者)」の称号をもらって帝国を支配することになったのでした。「スルタン」というのは『クルアーン』にある言葉で「精神的な権威者」に用いられていましたが後に政治的な権威者にも用いられるようになったため「カリフ」にしかその称号の付与はできなかったからです。この間のあり方は丁度日本の徳川政治と似ているようです。つまり「天皇制」は存続しているのですがここが支配者ではなく、そこによって認証を受けた「将軍」が実質支配している体制で、「アッバース朝」は存続しているけれど実質支配権はなく、むしろ「スルタン」の称号をだして「権威付け」をおこなうだけで、もらった方が実質支配するというわけでした。
 セルジュク朝はイスラーム正統派に属しておりアッバース朝内のイスラーム文化の興隆に力をいれる反面、北方に健在している
「ビザンティン帝国」への侵攻も繰り返し、これに手を焼いたビザンティン帝国は、分離していた西方のローマ・カトリックに頭を下げて討伐軍を結成してもらい「聖地イエルサレムの奪回」を敢行してもらったのでした。これが「十字軍」というわけでした。1096〜99年にかけてのことでこれが第一回となります。
 一方トルコ人は別途
「カラ=ハン朝」(900年代半ばから1100年代半ば)を建設しており東・西トルキスタン地方を占拠し、また現在のアフガニスタン地方には同じくトルコ人の「ガズナ朝(962〜1186年)」があり、さらには「ゴール朝(1146〜1215年)」は北インドまで侵入していました。こんな具合にこの時期は「トルコ人」の活動が目立っています。
 他方、その後東にあった
「モンゴル」の勢力が増大してきて「フラグ」の率いるモンゴル軍は西アジアに進出、1258年ついに「バクダッド」が落とされ、ここに「アッバース朝」は滅亡、「カリフ」制度も消滅ということになったのでした。「カリフ」は正統派イスラームの象徴的存在としていわば「イスラーム帝国」そのものの象徴でしたから、エジプトにファティーマ朝が残っているとはいうものの、ここに「イスラーム帝国」も消滅したと言えるのでした。これをもってイスラーム世界の二期目の終わりとします。

 第三期目ですが、ここからはまた群雄割拠で、西方のアフリカ地方で大きな動きが見られます。その始めはすでに1000年代に生じており、北アフリカの原住民の間に大きな宗教運動が生じて
「ベルベル人」を中心にイスラームが浸透していきました。そしてモロッコ地方に「ムラービト朝(1066〜1147年)」さらに「ムワッヒド朝(1169〜1250年)」が建設され、さらにスーダンの「ガーナ」などが征服されるなどしてアフリカ北方にイスラームが拡大していきました。今日北アフリカ諸国がほとんどイスラームなのはこの時代に始まっていたわけです。
 一方、エジプトでは
「サラディン(サラーフ・アッディーン)」に率いられた「アイユーブ朝(1169〜1250年)」が興隆し、それによってエジプト地方にあった「ファティーマ朝」がほろんで、再び「正統派」のイスラーム信仰が回復されています。サラディンは十字軍を撃退してパレスチナ地方を再びイスラームのものにしたことで「アラブの英雄」として知られ、その高潔な人物像は敵である筈の西欧においても有名となっています。
 ところがこのサラディンはトルコ人を大量に集めて「マムルーク軍団」なるものを組織していたのですがこれが裏目に出て、段々勢力を高めていった軍団にやがて反乱を起こされ「アイユーブ朝」は倒され
「マムルーク朝(1250〜1517年)」を建設されてしまうのでした。この「マムルーク朝」は領域としては「ファティーマ朝」以来のエジプト地域とさらにシリア地域となっており、先にバクダットを落としてイスラーム帝国を滅亡させていたフラグが建設していた「イル・ハン国」と戦いこれを撃破して勢力を伸ばしていきます。「マムルーク朝」の首都は「ファティーマ朝」以来の「カイロ」であり、ここに多くのモスクなどを建設してイスラーム文明の興隆に尽くしたためカイロはイスラーム文明の中心地となっていきました。
 一方、スペインにあった勢力は最後の王朝となってしまう
「ナスル朝」が細々と「グラナダ」で王朝を保っていました。しかし1492年ついにレコンキスタ軍によってこのグラナダもおとされ、ここについにスペイン地方のイスラームは終わったのですが、今日観光で有名な「アルハンブラ宮殿」はこの「ナスル朝」の城なのでした。

 他方、「マムルーク」とは別途小アジアの北西に進出して辺境にあって「異教徒」への襲撃を事としていた「ガージー」とよばれる「武装集団」であったトルコ人で
「オスマン」とよばれる集団が勢力をのばし、やがて1299年「国家体制」を樹立してビザンティン帝国の領域を次々と侵略・占拠していきます。その攻撃は止むことを知らず、まず現在の東欧バルカン諸国に向かい、またビザンティン帝国の都「コンスタンティノポリス」を七年間包囲しつつバルカン諸国や西欧への進出を怖れたドイツ・フランス連合軍と戦い撃破して西欧にあと少しのところまで攻め入っていきます。しかし中央アジアから進出してきたトルコ系蒙古人であった「ティムール朝(1370〜1500)」と衝突して「アンカラ」で大敗してしまいますがほどなく国力を回復しついに1453年「コンスタンティノポリス」を陥落させてしまいます。そしてここをイスタンブールとあらためて「都」としてしまいました。
 その後もオスマンは攻撃の手をゆるめず「クリミア半島」を占拠、バルカン半島に入ってセルビア・ボスニア・ヘルツェゴビナと侵略していきました。さらにここから反転、今度は南方に進路を変えて「シリア」へと進み1517年には「マムルーク王朝」を滅亡させてしまいます。こうしてオスマンは北アフリカからバルカン半島までの大帝国を築き上げたのでした。イスラームの聖地「メッカ」や「メディナ」も当然オスマンの保護下に入り、以降オスマンのスルタンは「カリフ」の後継者(スルタン・カリフ制)と名乗っていくのでした。こうしてオスマンはさらに領土拡大のために戦いつづけ
「スレイマン一世(在位1520〜66年)」の時に最大興隆期を迎えるのでした。すなわち彼は南イラクから北アフリカと領土を広げバルカン半島ではハンガリーを制圧して1529年にはウィーンにまで侵攻しここを包囲したのでした。そして西にあってはスペイン・ヴェネツィアの連合軍を敗り地中海を制圧していきました。この状況は17世紀末まで存続します。ヨーロッパの人々の「怖いイスラーム」というイスラーム観はこの当時に形成されていったものと思われます
 他方、ティムール朝は中央アジアから小アジアにまで領土を拡大していたわけですが、拡大にともないその文化は民族の伝統であるトルコ・モンゴル系文化とイスラームの混合となり徐々にイスラームが勝っていったとされます。文化というのはかつてのギリシャ文化がそうであったように、高度であれば侵入したその地方を文化的に制圧してしまうのは当然として、逆に侵略された場合もその文化が侵略者より高い場合には侵略者をその文化に同化させてしまいます。同じことがここでも起きて、ティムール帝国はイスラーム文化に同化されていったと言われます。そのティムール帝国が崩壊して後はその直系の子孫が現在のアフガニスタンのカーブルに拠を移してそこから南に転進してインドに入り、そこに
「ムガル帝国(1526〜1858)」を建国していったのでした。そしてその孫の「アクバル(在位1556〜1605)」の時に興隆し領土が拡大して現在のアフガニスタン・パキスタンからインドの半分(北部)までの広大な地を領有していきます。さらに17世紀半ばにはアウラングゼーブ(在位1658〜1707)は南部インドも征服していきました。ただしこの地方に入ったイスラーム勢力は昔からイスラームを強要することはなくインドでも在来のヒンズー教を許容するという柔軟な姿勢であったためむしろ「混合文化」とでも言うべき文化が花開いていました。ムガル帝国の場合も同様で「インド・イスラーム文化」といった様相のものが出来上がりその代表的なものとして「タージ・マハル」などが建設されたのですが、この事はイスラームの影響範囲の広さとイスラーム文化の形成の過程を伺わせると同時に、イスラーム文化の相手文化の許容性の一つの特質も見えると言えるでしょう。

 他方、その西にあったイラン地方は「ティムール朝」の滅亡後、イラン人による「イスラーム神秘主義集団」としての
「サファヴィー朝(1501〜1736)」が建国されていきます。現在にまで続く「イラン人の国家」はここに基盤が据えられました。この時この王朝は当然のように「オスマン」と対抗しなければならず、そのためオスマンがとっている立場としての「スンナ派」に対抗する「シーア派」をみずからの国教に定めていきました。そして君主の称号も「シャー」という伝統的な呼び名を復活させて民族としての団結を計っていきました。アッバース一世(在位1588〜1629)の時代に最盛期となり彼はオスマンからアゼルバイジャンとイラクの一部を奪回しました。さらにホルムズ島からポルトガル人を追い払い首都をイスファハンに構えて文化的にも興隆していったのでした。
しかしこれらのイスラーム諸国も近代になってイギリスを中心とした西欧の植民地政策によって侵略されていきます。こうしてイスラーム諸国は政治・経済的に衰退していきますがイスラーム信仰だけは強固に保ち続けるのでした。しかしこのイギリス支配が現在のパレスチナやアフガニスタンを始めとする中東の混乱の元凶となるのでした。
 他方、興隆期のイスラームは東方貿易を盛んに行いアラブ人が東南アジアに進出し、それにともなってイスラームが東南アジアに根を下ろしていきます。現在の
マレーシア、インドネシア地方が典型的な例となります。時代は1400年代と言えます。しかしここも近代イギリスやポルトガルの植民地政策の侵略にあって政治的に支配されてしまい、また民族闘争の勃発は共産主義を台頭させていきますけれど、やはりイスラーム信仰を失うことなく20世紀に独立を勝ち得た時再びイスラーム国家として再出発したのでした。

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