12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜 - 4. 西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜
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INDEX
1. 中東の神「バール」とユダヤ教の神「ヤハウェ」
2. ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係
3. イエスの語る神の特色は
4. 西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神
5. 故郷中東に帰ってきてイスラームの神となる
6. イスラームの発展
7. イスラーム、「シーア派」とは

4.

西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神


「キリスト教の誕生」
 イエスは全く「ユダヤ教の世界」で「ユダヤ人だけ」を相手に活動していました。ですからイエス自身には「異教徒伝道」どころか、独自の「教会組織」を作って教えを歴史的に伝えていくなどという考えもまるでなかったことは確実です。なぜなら「終末は今まさに来たらん」としているという意識の下に
「今悔い改める」ことが問われたからで、そしてそれを要求したのは自分の回りにいる「ユダヤ人」に対してだったのです。この限りではイエスはこれまでのユダヤ教の「預言者」と全く変わりがないのであり、ましてや「一つの宗教の創始者」とか「教祖」だとかにされるとは予想もしていなかったでしょう。
 それが「拡大解釈」されて一つの教団が作られたのはイエス昇天後の
「弟子達」によってとなります。
 そして、それが小アジアのギリシャ人に伝えられたところで
「彼らはキリスト者と呼ばれた(「キリスト」というのは、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳)」という記述になっているのです。つまりキリスト教というのはギリシャ人に伝えられて彼らがイエスに従ったところで出てきた命名なのであり、ですから「キリスト者」というのは当時にあっては、明確な言い方をしてみると「(ギリシャ伝来のオリュンポス信仰を捨てて)イエスに従ったギリシャ人」に対するものだったとすらいってもかまわないような状況だと言えます(「使徒言行録」11.26)。だとすると、はじめからキリスト教というのは「ギリシャ人」のところにおいて形成されていったものだったと言えます。このことはキリスト教理解の上で大事なポイントになります。

 何故なら、ここで
「中東生まれの神が異郷の西洋へとわたっていった」からです。こうなれば当然、その神は「西洋化」せざるをえません。厳密な言い方をすれば「ギリシャ化」です。ですから、キリスト教文書というのは『聖書』を始めとして、殆どがギリシャ語でかかれていくことになったのでした。従って、これまでは故郷中東の言語で語られていたに違いないイエスの言葉はすべて「ギリシャ語に翻訳」されて伝わることになったのでした。私達の知っている『聖書』でのイエスの言葉も実はイエスの使っていた言語ではなく「ギリシャ語の翻訳」なのです。
 そうした方向を作っていったのが
「伝道者パウロ」だったのですが、そのパウロによる異教徒たるギリシャ人への伝道というのは簡単なものではなかったのであり、ユダヤ人キリスト者に大反対されていたことが「使徒言行録」などに読み取れます(使徒言行録の15章全体他)。すなわち、イエスの教えは「ユダヤ人、アブラハムの子孫」に対してのものだと信じられ、それは「割礼」によって証しされるとされていました。異教徒であるギリシャ人がそんな割礼などしているわけはありませんから彼らは対象にならないと主張されたのです。この壁を打ち破るのに大変な努力をしなければならなかったことはパウロの「ガラテア書簡」などにも読めます。ギリシャ人伝道というのはそうまでして行われたのであり、パウロはそれがキリスト教の生き残る道であると信じたからでしょう。そしてそれは正しかったことを歴史は証したのでした。
 そうして後「イエス」はユダヤ人だけではなく
「人類の救世主(キリスト)」と理解されていったのです。この場面で「福音書」を含め、後に『聖書』とされる文書はすべてイエスを「神の子、人類の(ユダヤ人、ではなく)救い主キリスト」とする教義を根底に置いて、その上で「教え」や「教会組織」についての教義が語られていくということになったのでした。
 ここで興味深いことに、イエスが語っていた「本体」である筈の「神」は姿を遠くに隠されて、
「神の子とされたイエス」だけが突出して人々の前に姿を現すということになりました。そういう意味で福音書やキリスト教文書というのは弟子たち及びその後継者によって書かれた「(神そのものではなく)イエス・キリストとキリスト教会の意味づけ」のための文書という性格を持つことになったのでした。こうしたものとしてキリスト教は「異教徒」つまり当時の支配勢力であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。
  
「キリスト教の拡大」
 キリスト教の拡大は、今指摘したように
第一段階目としてパウロによってギリシャ人対象とされたところからはじまります。これによってキリスト教は「ユダヤ人だけのもの」という限界を超えて「人類すべてのもの」として確立し拡大していく基盤が得られました。

 
第二段階はキリスト教がローマ帝国で拡大し、やがて紀元後392年に国教とされたことでした。これはとても重要なことであり、本来イエスにおける「虐げられた者、下層階級の者」に対する救いの教えが「皇帝・貴族・上流市民」のものにされてしまったのですから大変な変質があったということになるからです。
 これ以降教会は皇帝と肩を並べる権威的存在になってしまい、指導者も初期の時代の下層の人々から上流階級の男性・インテリに奪われていきました。もっとも、下層階級の虐げられた人々は依然としてこのキリスト教に「イエスを求めて」、また一般市民の中でもイエスの教えを大事に引き継ぎ「愛と平和」へと向かうキリスト者もたくさんおりましたし、初期段階では教会自身も
「人が神に生かされていることへの感謝」「悔い改め」をいいましたので、その限りではイエスの精神も保たれてはいました。

 
第三段階目は紀元後476年にローマ帝国の西域がゲルマン人によって占拠されて滅亡し、その中にあったローマ教会が西欧ゲルマン人勢力と結合して「カトリック」を形成したことです。実質的に800年には完全な分派・独立の動きがあり、正式には1054年に独立となります。このカトリックはゲルマン諸侯と手を結んだところから興隆して西欧を完全に支配する勢力となりました。ここに「キリスト教の権力化」が完璧に実現していきました。
 しかしそれに伴い、歴史的に有名な「異端裁判・魔女狩り・免罪符」事件といった人類史上でもまれな
「神の名による大犯罪」が生じて、イエスの精神はほとんど殺されました。

 
第四段階として、カトリック世界に「プロテスタント」が生じて、またそれに呼応してカトリックも反省してキリスト教の再生が図られ近代キリスト教となります。しかし、「資本主義」の勃興に伴い西欧は「お金」に身を売ることになってこの再生もはかばかしくはありません。

 こういう歴史になる次第を理解するため、ここではまず
「キリスト教のギリシャ化」の問題から見ていきたいと思います。大まかな道筋を見ますと、パレスチナ地方の田舎の宗教活動であった「イエスの教え」は先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで小アジア(現在のトルコ)のギリシャ・ローマ都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されてそこで相応の大きさを持った教会組織が形成されていったことがパウロの手紙によって確認できます。実際このギリシャ本土への伝道の成否がキリスト教の拡大のための決定力だったのであり、ここで受け入れられることでキリスト教は「命を得た」のでした。
 ところでこのキリスト教の始祖であるイエスは、ユダヤにあって「差別されていた人々」の人たちに歓呼の叫びで迎えられていたのに、しかしついにパレスチナ地方にあるユダヤ人、つまりユダヤ人の中核となり代表する「都市の中流市民以上のユダヤ人」に受け入れられることはなかったということは重要な事実でした。
 それどころかこの
都市のユダヤ人は激しい迫害をもってイエス及びその使徒たちに対していたのでした。ですからもしキリスト教がその発生の初期段階のようにユダヤ人だけにこだわっていたらその布教は成功しなかったでしょう。そして今日のキリスト教は存在せず多分イエスも歴史の中に消えていたでしょう。それがパウロを中心に「ギリシャ世界」を相手とするようになって、ここで布教に成功して始めて「命が長らえ」後の「キリスト教」が生まれる素地ができたのです。

「キリスト教を受け入れた条件」
 ところでギリシャにおいてキリスト教が受け入れられた第一条件ですがそれは
「言語」の問題です。つまりどんな「有り難い教え」であっても「言葉がわからない」では受け入れられ広まるわけもありません。すべての人に「分かる言葉」で語られ、また手紙その他の文書が書かれているのでなければなりません。これをクリアーしたのがギリシャ語でした。つまりパウロ以下、布教はすべてギリシャ語によって行われていったのでした。
 第二にその語られた内容が
「誰にも分かる平易な内容」「魅力的」でなければなりません。大きな勢力となる宗教というものは常にその主体は「学問・知識などとは無関係の平民」にあるものです。キリスト教でも当初は「下層民」に支持されていったのです。ですからこの教えというのは簡単明瞭で教育のない下層民にも良く分かりしかも魅力的なものであったはずなのです。
 それを後に難しい「神学」などに仕立て上げたのは全く「学者・宗教者」だけの仕業であり、一般庶民にとってはどうでもいいことだったでしょう。ただしこの「神学」による深化は指導層においては必要なことですからこれはこれで大切なのですが、「庶民」にとっては無関係なことであり彼等に要求されるのは「分かり易い教え」だけだということです。
 そしてまた「難行苦行」があっても受け入れ拡大は難しく、特別条件がついていても難しいということでようするに
「平易」そのもの、ないしそれらを「苦」とさせない魅力があるかどちらかである必要があるのでした。
 第三にキリスト教を受け入れた当時のローマ帝国の社会状況が問題となり、もしここがキリスト教を受け入れるような精神状況になかったのだとしたら、仮に「有り難い」話しをしても人々がそれに耳を傾ける筈もありません。ということはローマ帝国の一般民衆、やがて知識層もですが、
「精神的に飢えていた」という状況がなければならないことになってきます。実際、ローマ帝国というのは表面上での豪壮・華麗さとは裏腹に、一時期をのぞいて、総体として社会は欺瞞と裏切りと不誠実と血に飢えた精神的に貧しい状態だったのであり、それ故に「心を強くするための哲学」として「ストア学派」を興隆させ、また俗世を遠く離れて晴耕雨読の精神のうちに快楽を求める「エピクロス哲学」などがはやっていたのでした。
 そういう中で伝えられてきた「教え」が、これまでの自分たちの考え方からして「理解を超える」ものであっては「全然分からない」ことになりますから、
「ギリシャ思想の範囲内で分かる」ものとなって伝えられたであろうということが指摘されねばなりません。
 第四に
「宣教した人」の問題があります。つまりその教えを具体的に伝える人間の問題があるわけです。そしてその上でその伝えた人が多くの人々に受け入れられるということが必要になります。たとえ「教え」は立派でも「うさん臭い人間」と見られたらもう受け入れてはもらえないからです。 上の四つが一般に宗教・思想の「伝播」においてもっとも重要な用件で、これは現代にも言えることです。

「キリスト教の平易さ」
 上に上げた条件の中でも重要なのが、第二の「キリスト教の平易さ」ないし「魅力」でしょう。宗教というのは何であれ初めから「思想」の問題として受け入れられるわけではありません。思想界にキリスト教が大きく顔をだしてくるのは紀元後200年代になってからです。一方キリスト教がローマ世界に伝道されだし受容されていったのは紀元50〜60年頃からで、つまりキリスト教の初期の受け入れはごく初期の時代から
「一般庶民」においてなされていたのです。
 これについては受け入れられた当初のキリスト教が
「女性、下層民、奴隷」にあったと考えられることと裏腹です。つまり初期のキリスト教は女性(当時女性は「劣った存在」として差別されていた)や奴隷など社会の「下層民」に受け入れられていったということです。なぜそうした「差別されていた人々」に受け入れられたかというと、もちろんこれまでに見ておいたようにイエスが「差別されていた人々」を対象とし、彼等の救済をその目的としていたということが第一でしょう。その教える「神」というのは「愛の神」であり貧しく虐げられた人々こそ第一に天国に救い取ろうとしている、と教えられました。これは当時の虐げられていた人々にとって何よりの「幸いの知らせ(福音)」であったでしょう。
 そして実際上のこととして初期のキリスト教共同体(教会)においては女性や奴隷も「信仰上」差別はされなかったのです。身分差別は古代社会にあってはどこでもあったし、ローマでも同様でした。この時、何の形であれ
「差別をしない」ということは「差別されている者」にとっては何より救いであったと思われます。これがキリスト教にあったのでした。そして教会の中に入れば彼等は社会的身分にかかわらず「兄弟・姉妹」と呼び合い、教会内での役職に奴隷が選ばれることもあり得ました。勿論女性も差別されませんでした。これが恐らく彼等に受け入れられた最大原因であったと考えられるのです。教会内に居さえすれば「人間」として認めてもらえるというわけで、これほど当時の差別されていた下層民の女性や奴隷にとって魅力的なものはなかったと考えられるのです。
 こんな具合に下層の奴隷や女性に受け入れられたのは、イエスの教えというのが「難しい」ものではなかったからです。今日のキリスト教はひどく難解な神学などがあり、教会での説教もけっこう難しかったりしますが、これでは当時の教育を受けていない下層の人々に受け入れてはもらえないでしょう。多分イエスは
「神の愛」「悔い改め」「救済」くらいしか語らなかったと想像されます。
 さらにキリスト教の母体であるユダヤ教は「戒律主義」であって、文字通り「戒律を守る」ことが義務づけられていました。これは財産や暇や権力のある「金持ち」や「権力者」には可能ではあっても「貧乏人」には不可能でした。そして女は「不浄」なものとしてはじめから「救い」などはぎ取られていたのです。イエスはこの「戒律主義」を退けていましたからキリスト者はとにかく日常的に「祈り」と「感謝」と「慎み」だけでよかったと思われこれも受け入れを容易にしていたでしょう。
 しかもイエスの教えは「罪あるもの」「病人」と比喩されるような者を対象とし、「金持ちは救いに遠く、貧乏人が救われる」という「社会的弱者の救い」という性格をもっていましたから、「女・奴隷」にとっては
「自分達のための宗教」という感じがしたことでしょう。
 そして、彼等に迫害があってもそれにもめげず広まっていった要因としては
「死後の幸せ」という考え方もあずかっていたと考えられます。つまり、今はつらいけれど、このつらさを耐えれば「死後は神の国」に迎え入れてもらえるというわけですが、実はギリシャ・ローマの伝統にこの「死後の幸せ」という観念はほとんどなく、せいぜい英雄が死後に「安楽の島」での生活を送れる程度の神話して持ち合わせていませんでした。しかし死の恐怖はだれにでもあるわけです。これにたいする「すばらしい答え」がキリスト教に用意されていたのです。下層民にとっては確かに「今の現実」としても苦労のない「極楽」のほうがいいに決まっているとはいえ、現実としてそんな状態が望むべくもない人々にとっては「死後の幸い」は最大の慰めとなったであろうと考えられるのでした。
 こうして、「女・奴隷」を含む「下層階級」の人々に迎え入れられ広まっていった、と考えられるわけですが、こうして一定の勢力となったところで「中流階級」さらには「上層部」にまで波及していったわけです。ここから先のことについては、別のページ「キリスト教の形成史」で扱います。

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