12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜 - 2. ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

12.中東の神の波乱の運命 〜イスラームへの道〜
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INDEX
1. 中東の神「バール」とユダヤ教の神「ヤハウェ」
2. ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係
3. イエスの語る神の特色は
4. 西洋に連れて行かれて西洋化したイエスの神
5. 故郷中東に帰ってきてイスラームの神となる
6. イスラームの発展
7. イスラーム、「シーア派」とは

2.

ユダヤ教とペルシャ「ゾロアスター教」との関係


はじめに
 
キリスト教、さらにイスラームの母体となるとされる「ユダヤ教」ですが、その宗教の核となっているのが「神から約束された豊穣の地(カナンの地、現在のパレスチナ地方)」を我が手にするということでした。そのためにユダヤ教では「神の言いつけ、つまり律法を守る」という形の厳しい戒律主義宗教となったのでした。
 ところが私達に紹介されるイエスの教えというのは
「魂の救済」が目的なのだ、などと言われます。さらにイスラームでは「最後の審判」というものがとりわけ強調されます。この「魂の救済」とか「最後の審判」などという考え方は本来のユダヤ教には全くない考え方です。それなのにどうしてこんな考え方がイエス並びにキリスト教、そしてイスラームの教義の中心になり得たのでしょうか。

 それは結論的に言うと、矢張り中東の「イラン地方」に生じたペルシャのゾロアスター教がユダヤ教に強く影響して
「ゾロアスター的ユダヤ教」を生み出していたからでした。この「ゾロアスター的ユダヤ教」というのが「パリサイ派」と呼ばれるもので、ここでは本来のユダヤ教にはない「魂の不滅」であるとか「復活」「天使」といった概念をもっていたことがパリサイ派に属していたイエスの伝道師パウロの証言によっても立証されます(「使徒言行録」23.6以下)。これらの概念は本来ペルシャのゾロアスター教の特色としてあげられるものなのでした。
 こうしてセム族の神であった「ヤハウェ」はここで
「ペルシャ的な装い」をもつことになりました。すなわち、「豊かな土地の約束」をする神であった「ヤハウェ」は、「魂の不滅」とか「復活」とかを約束する神、「最後の審判」において人類を類別・救済する神へと変貌していったのです。
 この事情が後に、ゾロアスター教を国教にしていたペルシャ・イラン人(ペルシャもイランも同じ民族の呼称の違い)が「イスラーム」へと転向し得た理由であったと考えられます。つまり、ペルシャ・イラン人にとってイスラームは「なじみの考え方」を持った宗教で、しかも宗教的に強い宗教であったということだったのでしょう。イスラームはユダヤ・キリスト教を母体にしているのですが、その思想の中でもとりわけペルシャ・ゾロアスター的である「最後の審判」をとりわけ重要視している宗教だからです。ようするに、ユダヤ教の段階での
「ゾロアスター的装いを持った中東の神」はキリスト教に流れ込み、さらに再び中東に連れ戻された時に「イスラームの神」となって、ここでゾロアスター教の核の教義であったと言える「最後の審判」が強く押し出されてきて、イスラームの主要教義となっていったと考えられるのです。この章はそのゾロアスター教のあり方を見ていきます。

「教祖ゾロアスター」
 ゾロアスターという人物ははっきりした年代は分かっていないのですが、一応伝承によって紀元前600年代から500年代、ペルシャが台頭してきた頃を同時に生きた人物であると考えられています。
 これは他方で、ヘブライ神話を元にした「ユダヤ教」の成立期と重なり、ユダヤ教の正統派である「サドカイ派」に対して新興勢力「パリサイ派」が形成されていく時期とも重なります。この時パリサイ派が伝統的正統派に対するものとして、解放の恩人であったペルシャが国教とする「ゾロアスター教」の思想を導入していったということは十分に考えられそうなことでした。そして、この時代は当然イエスの生まれる5〜600年前となります。
 通常ゾロアスター教は
「善・悪」二元論として説明されます。「善神」であって最高神とされる「アフラ・マズダ」の他に独立的存在として「悪神アンラ・マンユ」がおり「対立関係」を形成しているからです。そしてそれぞれにその配下として多くの神がいるという構造をしています。
 もっとも「善・悪」二元とはいってももちろん中心になるのは「善神」の方で、人間はこちらにこそ従わねばならないとされるのは当然でした。つまりゾロアスター教での
「最高神」は「アフラ・マズダ」とされ、この神は(「悪の世界」をのぞけば)「全知全能」であり「宇宙の創造者」「善そのもの」であって完全であり欠けるところがなく、光明で世を満たす存在とされます。
 この神のありかたは一見当たり前のように見えますが実はそうではなく、この神のあり方を引き継いだキリスト教・イスラームの神が「全知全能」「宇宙の創造者」「善そのもの」を掲げ続けたので現代の私達には当たり前に見えているだけで、古代世界ではものすごく珍しいといえるのです。
 というのも古代の神というのは
「自然力の人格化」、つまり自然のあり方を「人間の姿」として表現したというものでしたから「人間の反映」という性格を強く持ち「強力」ではあるものの「人間的」で、したがって感情的で、過ちも犯し、恣意的だからです。これは、ヘブライ神話の「ヤハウェ」にしても同様です。
 ですから「全知全能の神」といった概念を生み出したゾロアスター教というのは非常に独創的で哲学的な宗教であったと言えるのです。
 こうして、イエスに至って、ペルシャの「アフラ・マズタ」の性格を引き継いだ
「善そのものの神」、しかもユダヤのヤハウェを引き継いで「唯一神」といった概念が形成されていったと考えられるわけです。もっとも、この「善そのものの神」という概念を「ユダヤ教」での「ヤハウェ」に読み取りたいとする人々もいるのですが(多くのキリスト教神学者はペルシャの影響など認めたくないのでこうした態度になってしまう)、しかしヘブライ神話を素直に読む限りそうした神の姿は全く現れてはきません。やればどうしたって「無理なこじつけ」になってしまいます。
 また、イエスはキリスト教の時代になって
「光の子」とされることになるのですが、そうした概念の起源もこのペルシャに求められます。それは、「アフラ・マズタ」か、ないし光明神とされる「ミトラ神」かどちらかでしょう。この「ミトラ神」はローマ帝国に伝えられて勢力を振るい、キリスト教の最大ライバルの一つでもありました。そしてどうも、キリスト教の勢力の拡大によってそこに「吸収合併」されていったようで、それが、本来のキリスト教にはあり得なかった「クリスマス=光の子たるイエスの地上への現れを祝う」となっていったと考えられます。というのも、このクリスマスの日(12月25日)というのは「光の神ミトラ神の祭典の日」だったのですから。

「天地創造」
 この「アフラ・マズダ」は宇宙の「創造主」であることは今指摘しましたが、この
創造神話もなかなか興味深いものがあります。それによると彼は365日かけて「六段階」で宇宙を創造していきます。ヘブライ神話が「七日」の創造になっているのに比べると一年というその創造神話にはある種の自然的事物の持つ季節的合理性が伺えるような気もします。ただし創造の順序については両者とも似ています。その創造の順序は次ぎのようです。
 第一段階は「天、および天体」、40日。第二段階は「水」、55日。第三段階は「地」、70日。第四段階は「植物」、25日。第五段階は「動物」、75日。第六段階は「人間」、70日。となります。

「善神アフラ・マズダと悪神アンラ・マンユ」
 この二神は宇宙の創造以前、一方は「光明」に他方は「暗黒」にいたとされます。光明にいた善神アフラ・マズダはそのことを知っていたけれど
「悪神アンラ・マンユ(アハリマン)」は当初そのことを知らなかったといいます。そこで「善神アフラ・マズダ」は「悪神アンラ・マンユ」に知られないようにこの宇宙を創造したといいます。この第一期の時代が三千年続き、第二期となってこの宇宙は目に見えるようになり、そこで「悪神アンラ・マンユ」は「配下の悪魔デーヴァ」を遣わしこの宇宙に侵入してきたけれど「アフラ・マズダ」に撃退されて退き地上は平和であったといいます。こうして三千年立って第三期となり、再び満を持した「悪神」は地上へと侵入して「善神」との間にすさまじい戦いとなったといいます。ここにおいて前期にはなかった「悪徳」がこの地上に充満したといいます。こうして「虚偽」「不正」「災厄」がはびこっていくわけで、つまり「悪神アンラ・マンユ」の優勢の時代というわけでした。
 そして「ゾロアスター」の登場とともに第四期に入り、この期の終わりをもって
「最後の審判」という終局を迎えることになるのでした。この期間は「善」と「悪」とが入り乱れ一進一退の時期とされ、人類は「悪」と戦わなければならず、そうすることで「最後の審判」で死後「天国」に行くことができ、そうせずに「悪を選択」したものは永遠の地獄に堕ちるとされるのでした。こうした「善」のために戦う人々のために、三千年の千年ごとにゾロアスターを継ぐ者が現れ人類を指導するとされています。
 また、ここに史上はじめて「天国」という概念が提示されてきたのも重要です。何故ならこれが後のキリスト教・イスラームにおける「天国」の思想の源となってくるからです。
 
 さて、こうした考えかたをここに見ると、キリスト教神学の骨幹の問題の源泉をここに見ずにはいられません。というのも、これは『聖書』にある
「ヨハネの黙示録」と全く同じ構造だからです。黙示録の著者ヨハネがこのゾロアスター教の考えを知っていたかどうかについての確証はありませんが、他方、本来の「ユダヤ教」にはこの黙示録的な考え方は全く存在しません。ですから、ヨハネは全く独自にこうした発想を得たのか(キリスト教的には「天啓」としますから、当然「天使に教えられた」となります)、あるいは思想史的にゾロアスター教から得たのかどちらかとなるでしょう。前者はキリスト教信仰の立場、後者は歴史・思想史的立場となります。
 さらにこの問題は、初期のキリスト
教神学者アウグスティヌスの主要問題となっており、このゾロアスターの問題と同じく「善と悪の抗争」が大きなテーマとなっていました、アウグスティヌスの主著『神の国』のテーマがこれになります。
 さらに、こうした考え方のところに「最後の審判」といった思想が生じてくるのではないかと考えられるのでした。この
「最後の審判」と「天国と地獄」という思想は、これらは一般にキリスト教の思想として有名です。しかし、繰り返しますが、そのキリスト教の母胎であるユダヤ・ヘブライ神話にはこうした考えは全くありません。ですから、歴史・思想史的に見る限りこのキリスト教の教えは遠くこのゾロアスター教の影響下にあるとしか考えようがないのです。
 といっても、もちろんその経緯はユダヤ教の一派を通して、となります。つまりユダヤ人はペルシャの支配下にあった時にこのペルシャの国教であったゾロアスター教の影響を強く受けたと言えます。何せ、ペルシャはバビロン補囚からユダヤ人を解放してくれた恩人であるし、同時に政治・社会的支配者だったのですから。イエス時代のユダヤ教の「パリサイ派」にはこうしたペルシャ思想が強く見られる一方、元来のヘブライ神話にこだわる保守的なサドカイ派にはそうした思想は全く無いのです。ですから、ユダヤ人がバビロン補囚の後ペルシャの支配下にあった時代に、後にパリサイ派を形成する学者たちがこのゾロアスター教の影響を受けた可能性が非常に強いということです。

「天国と地獄の考え、終末論」
 そのゾロアスターにおける
「最後の審判」「天国と地獄」ですが、人が死ぬと魂は三日三晩さまって自分の生前の言葉や思考・行為などを思いめぐらして裁判の場所に向かうとされます。そこには三人の裁判官がおり、死者のすべての言葉・思考・行為が記録されている台帳があってそれによって善人と悪人とが判別されるとされます。そして善人の魂は美しい女性に導かれ、悪人は醜い老婆に導かれて「チンワントの橋」に向かうことになり、善人はこの橋を何なく渡れるのに対し悪人にはこの橋は剣となってしまい、悪人の魂は切り裂かれ悲鳴と共に地獄に堕ちることになると言われます。善人の魂は天国に迎えられ、星の世界、また月の世界で、さらに太陽の世界で温かくもてなしをうけた上で「最高神アフラ・マズダ」の下に行き永遠の平安の人生が約束されるとなります。悪人の魂は天国のはじめの「星・月・太陽」の三つの世界に対応する小地獄の世界があってその三つの世界でさんざんに責め苦をうけたあげく最後の地獄に堕ちて、文字通り「地獄の釜ゆで」など悲惨この上ない拷問・責め苦を永遠に受けることになるとされます。この地獄は「終わり」というものがありません。ですから生前での本当に短い人生の間の選択が「天国での永遠の平安」「地獄での永遠の苦しみ」かを決めてしまうとされるわけでした。
 一方、この「個々人の裁判」に加えて
「人類そのものの最後の審判」というものがあって、ここで死者はすべて復活してきます。ところがそこに天より巨大な彗星が落ちてきてすべてをその業火で焼き尽くしていくとされます。しかし善人はその火を何とも思わず暖かな牛乳のように思うのに対して悪人には灼熱の火となって全身を焼き尽くすとされます。そして善人は三日三晩もてなしをうけて天国に戻っていくのにたいして悪人は三日三晩溶鉱炉で焼かれて再び地獄に堕ちていくとされます。一方ここで「善神」と「悪神」の最後の決戦が行われ、「悪」は滅び去って世界は再び「悪神」の侵入しなかった状態へと戻る、とされるのでした。
 この
「人類の復活」と「世界の終末」の思想も興味深いもので、これまたヘブライ神話には全くありません。しかも実はこれらは「イエス」にもない考え方です。むしろイエスの「復活」の後に、使徒たちの時代から初期キリスト教の時代に神学的に形成されていった思想でしょう。そしてこれがキリスト教の中心思想となっていくわけですが、その形成にあたっての思想的源泉としては、やはりこのゾロアスター教しか考えられないわけでした。

「アフラ・マズダの従神たちとヤザタ」
 一方この「善神アフラ・マズダ」の世界ですが、その下に七人の
「不死にして聖なる存在」とされる「アムシャ・スプンタ」と呼ばれる「従神」たちがおり、この従神たちがさまざまのことを統括するとされます。つまり「アフラ・マズダ」は自分でことを行うのではなくこの従神たちを使ってことをなしていくというわけでした。この七人とはすべて「女神」ですが、以上の女神達はいってみれば「アフラ・マズダ」の変容した姿とも言え、第一の「スプンタ・マンユ」などは時にアフラ・マズダと同一視される位の近さを持つとされます。
 彼女たちは「聖なる存在」といわれて「アフラ・マズタの働き」を意味するとなると、これはキリスト教的に言えば
「聖霊」となり「神の働き」を意味します。つまり両者は「同じような存在」となるわけで、しかも「ユダヤ教」には全くない考え方だとなると、キリスト教は「聖霊」という存在を、ゾロアスター的ユダヤ教たるパリサイ派を通して、ゾロアスター教からひきついでいるのではないかという可能性が考えられるというわけです。
実際キリスト教ではこの二者と「イエス・キリスト」を加えこの三者を「同一」とするわけで、それを一般の言い方では「三位一体」などと呼んでいるわけです。こんな思考がキリスト教などに遙かに先立ってこのゾロアスター教に存在していたのでした。
 
 以上私たちはゾロアスター教のあり方をみてきたわけですが、私たちのテーマから言うとゾロアスター教の
「善神アフラ・マズタ」の性格、「善と悪の抗争」「魂の不滅」「最期の審判」「復活」「天国と地獄」といったキリスト教に特色とされる思想のことごとくがゾロアスター教に存在していたという事実と、このペルシャ思想がユダヤ教に影響して「パリサイ派」という派を形成させていたという可能性、そして「イエス」はそのパリサイ派の思想の下にあったということ、そしてやがてキリスト教に流れ込んだのではないかという可能性を見たわけでした。

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