10.キリスト教の光と影 - 10. キリスト教の軍隊、十字軍とは | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

10.キリスト教の光と影
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INDEX
1. 初期キリスト教の異端
2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」
3. 偶像崇拝の禁止
4. 「イコン・聖画」の問題
5. キリスト教のシンボルと教会堂
6.「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語
7. マリア崇拝とは
8. 中世カトリック世界の異端騒動
9. 修道院とは
10. キリスト教の軍隊、「十字軍」とは
11. 異端審問と魔女狩り

10.

キリスト教の軍隊、十字軍とは


はじめに
 
「十字軍」というと「聖地の奪回のための勇ましい軍隊」というのが通り相場です。この見方は今でも欧米の人々の一般的見解で、日本でもそのようにイメージしている人が大半でしょう。
 しかし、これは「西欧中心の歴史観」に基づくものであるとの反省が20世紀後半になって起きてきて、この十字軍だけではなくすべてにわたって、従来の「欧米からの視点の歴史」を反省するようになりました。その結果多くの事象に新しい解釈が生まれてきているのですが、この十字軍については従来の解釈がまるきりひっくり返ってしまいました。つまり「聖なる軍隊」どころか「教皇と皇帝の権力と土地・財産目当て」「アラブ人の虐殺」が目的であったということが明らかになってきてしまったのです。その事情を解説しておきます。
 これは、
現在の中東紛争の底流にある「中東の西洋観」「西洋の中東観」をつくってしまった悲惨な戦争であり、この問題は現在にまで尾を引いているのでした。

十字軍
 これには副次的・派生的なものもあって、それらは社会史的に大きな問題を孕んでいるのですが、ここでは「本来の十字軍」を扱います。それは、
紀元後1000年代の終わりから1200年代半ばまで、西欧のローマ・カトリックが西欧諸侯を動員して中東、特にイエルサレムやエジプトにあったイスラーム勢力を攻撃した軍を言います。学説によって数え方に違いがあり、七回とするものと八回とするものがあります。ここではとりあえず八回で紹介しておきます。
 他方、この「十字軍」の評価に関しては非常に難しいものがあります。つまり、攻めたのはローマ・カトリックというキリスト教勢力で「西欧人」ですから現在の欧米キリスト教徒にとっても、これは
「聖地の奪回戦」であり「祖先の武勲」となります。
 一方、攻められた方のイスラームとすれば
「西欧人に攻められ多くの同胞が虐殺された事件」となります。
 世界史という学問は近代になって西欧人によって
「西欧中心」につくられましたからこれまでの十字軍についても「聖地奪回のための聖戦」という評価で語られてきました。しかし20世紀も後半になって冷静な科学的歴史ということが問題にされるようになって「西欧中心史観」というものが反省されるようになり、十字軍についても冷静に見られるようになると、そこにはいろいろと「醜い思惑」が隠されていたことがあからさまになってきました。ですから今時、十字軍を「聖地奪回のための聖戦軍であった」などと賛美する歴史家など一人もいなくなりましたが、では何が真実であったかというとまだまだ評価は定まっていないといったところでしょう。ここでは簡略にその経緯を追ってみます。

第一回十字軍
 
1096年から1099年までの遠征です。一般的な教科書によると、1000年代に入って東アジアを故郷とする「セルジュク・トルコ」が西に進出してきてイスラーム帝国を支配するようになり、さらにビザンティン帝国に侵略してきたことが発端、とされます。
 一方、ビザンティン帝国はうち続く国難に疲弊しており、ロマヌス四世の時にこのセルジュクの勢力に惨敗してしまいます。かろうじて後を引き継いだアレクシオス皇帝がセルジュクの西進を食い止めますが、しかしアレクシオス一世は、このままでは再びセルジュクの攻撃があり今度は危機的になると推測して、分裂していたとはいえ同じキリスト教であり強大な力を蓄えていた
西欧のローマ教会に援助を申し込んだ、となります。そこで教科書では、「そのビザンティンの要請に応えて」時の教皇が十字軍を結成した、となります。
 しかし、当時のローマ教会は決して「他人のため」に動くような勢力ではありません。ましてローマ教会はビザンティン教会とは「ケンカ別れ」したものですし、その後も悪いままですから「身銭を切って助ける」などと思う方がどうかしています。事実、第四回十字軍はビザンティン帝国を裏切ってここを侵略してしまうのですから。
 おそらくアレクシオス一世は
「動くかもしれない」というローマ教会の内部事情を察知していたのではと考えられています。それは長年にわたっている「教皇とゲルマン皇帝との間の権力闘争」であり、教皇グレゴリウス七世は教権組織確立のための軍隊「聖ペテロ軍」まで設立して「聖戦」の概念を高めようとしていました。
 一方、イベリア半島では
「クリュニー修道院」が主導してイスラーム領となっていたイベリア半島を奪取しようした運動「レコンキスタ軍」が形成されていました。いずれにせよここで教皇は「力」を示さなければならず、「レコンキスタ」で鼓舞された「宗教的情熱」による「イスラームからの国土奪取運動」はイエルサレムなどパレスチナ地方にも適用されてこそ筋が通るというものです。

 さらに聖地イエルサレムには西欧からもたくさんの巡礼者が引きも切らず訪れていました。イスラームはもともとキリスト教を母体にしていて「ユダヤ・キリスト者も同じ経典の民」と見なしていますからこの巡礼者に手を出すことはありえなかったのですが、おそらくビザンティン皇帝アレクシオスは、セルジュクは東方からの異民族だから危ないとか何とかそそのかしたのではないかと推測されます。なぜなら、歴史的事実としてセルジュクがこの巡礼者に手をだしたということは何一つ確証されていないのに、
「セルジュクによる迫害」ということが十字軍結成の一つの要因とされているからです。教科書もこれを原因してあげてきます。「そそのかし」であれ、こう言われますと西欧を管轄するローマ教会としては放ってはおけません。
 はたして、レコンキスタを主導するクリュニュー修道院出身の時の教皇
「ウルバヌス二世」は皇帝ハインリッヒ四世が北イタリア戦役で苦境に陥っている時、教会の優位を確立するチャンスと見て1095年に「十字軍の結成」を呼びかけたのでした。教皇が、皇帝を超えた「軍の形成・支配者」となるチャンスだったからでしょう。
 ウルバヌス二世はこの参加者には「罪の許し」を与え留守中の財産は法王権をもって保護するとしましたから多くの参加者を得ていきます。もちろん「宗教的熱情」に燃える人々もおり、そうした宗教的一団は「1096年8月」出発と決められた日時以前に勝手に進軍を開始してしまい、攻めて行ったはいいけれど正規の軍隊ではありませんから、セルジュクに惨敗を喫してしまいます。

 8月に出発する正規軍の方は騎士たちが主体でしたが、彼らは実は
「土地の野望」が主体だったのです。ですから、行軍の途上いたるところで「略奪」も繰り返され、ビザンティン皇帝との間に確執が生じます。しかしビザンティンにしても独力ではセルジュクを押し返せない弱みもあって妥協していきます。こんな軍隊ですから騎士たちの間の勢力争い・内部分裂もしょっちゅうでした。たとえば南イタリアのボヘンムンドなどはアンティオケア地方を奪回するとそこの領主として収まってしまい、イエルサレム進軍を拒否してきます。「土地の野望」をはっきり示している事実です。またアルメニア地方を巡っても騎士たちの間に醜い争いがありました。
 しかしとにかく1099年には残った騎士たちでイエルサレムの進軍は進められ、イエルサレムの奪取に成功したのでした。しかしこの時、「女・子ども」を含め、アラブ人と見るとキリスト教徒であっても見境なく虐殺されていったのであり、その
「大量虐殺」は後に大きな禍根を生むことになってしまったのでした。これは今回だけのことではなく、教皇は常にそれを命じていたということが後に判明してきます。教皇の目的の一つが「アラブ人の撲滅」であったというわけですが、こうした傾向を持つキリスト教徒は現在でも多くいることは注意されねばなりません。
 ともかく、結果として
「イエルサレム王国、その他三つの王国」が建設され、またこの時「テンプル騎士団」「ヨハネ騎士団」が結成されています。

第二回十字軍
 1147年から1149年の遠征を言いますが、これはセルジュク側の反撃が起きてきたことが原因でした。しかし結果的に十字軍の敗北で、ほとんど何の成果も上げることができませんでした。
 すなわち、第一回十字軍の成功によりイエルサレムを奪取してそこに十字軍による王国を築いていたわけですが(ロレーヌ出身の騎士
ゴドフロワが王として君臨)、ビザンティンからは完全に独立して介在を許さず、逆にこの地方一帯を占領していくなどの勢いを示していました。しかしビザンティンからしてみるとこうした十字軍の動きは結局のところ「裏切り」「ビザンティン領地の占領」でしかなく、ビザンティン帝国内に「反十字軍の機運」が高まってしまいます。
 こうして1195年には、そのビザンティンの反十字軍の機運に乗じたセルジュクによって「アンティオケア」が攻撃されていきます。そして1144年には「エデッサ」が陥落してしまいます。
 この
「エデッサ陥落」はイエルサレム王国にとっては重大事件でしたので、そこでイエルサレム王国は教皇に十字軍の派遣を要請していったのです。この教皇の呼びかけによって「ドイツ王コンラート三世」と「フランス王ルイ七世」とが赴きますが、結果ははかばかしく行かず連戦連敗となって目的とした「エデッサの奪回」もなりませんでした。
 他方でシリア地方にあったセルジュクの一派ザンギー朝の二代目ヌール・ウッディーンはイスラームの統一のために十字軍に対する「
ジハード(本来の意味はイスラームのために「努力する」という言葉で「攻撃に対する防御」や「伝道」に力を尽くすことをいいます)を宣言し、この第二回十字軍の撤退の翌年「ダマスカス」を奪取して行きます。
 なお、当時の文書によるとイスラーム側は「十字軍」の何たるかを知らず、訳がわからないままにただ
「フランク騎士団の来襲」とのみ思っていました。それはイスラームにしてみるとキリスト教徒は「同じ経典の民」であり、キリスト教徒がイスラームに敵対してくるなど考えられないことだったからです。実際「キリスト教徒の巡礼」はこれまでもたくさんやってきていたし、それに対して危害を加えたという事実もなかったからです。
 その結果も、イスラーム側から見ると、
「アラブ人の大量虐殺」「フランク騎士団の占領」と自分たちの「聖地からの締め出し」でしかありませんでしたから、イスラームから「ジハード」が宣言されてもおかしくはありませんでした。

第三回十字軍
 1187年ついにイエルサレムがイスラームの手に奪回されてしまいます。それを成し遂げたのはセルジュクに代わってエジプトから出た
「アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーン」でした。こうして再びイエルサレムの奪回のために組織されたのが第三回十字軍で1189年から1192年の遠征をいいます。
 第二回の失敗の後、イスラーム側から「ジハード」の宣言が出され、アラブ・イスラームによって「ダマスコス」が落とされ、そしてついに
「イエルサレム」まで奪回されてしまったのですから三度十字軍が結成されても行きがかり上当然のことでもありました。
 他方サラーフ・アッディーンは先に言及したヌール・ウッディーンに仕えていた人物で、ヌール・ウッディーンはシーア派であったエジプトのファティーマ朝に介入していたのですが、そのエジプトの遠征軍を指揮していたのがサラーフ・アッディーンであり、ファティーマ朝の衰微に乗じて1169年エジプトを占拠します。そしてヌール・ウッディーンの死後その後を継いでシリアからアラビア半島へと版図を広げ十字軍に対する包囲網を作り上げました。そして1187年3月にはヒッティーンの戦いで十字軍を破り、その勢いで10月イエルサレムを占拠したのでした。
 これに対して起こされた十字軍は、皇帝フリードリッヒ以下、イギリス王リチャードやフランス王フィリップ二世が赴きます。
「アッカ(アッコン)」を巡っての攻防戦が続きますが92年に休戦協定を結びアラブ側は「アッカ」を手放しますが「イエルサレム」を含むパレスチナ地方の領有権を確保しました。つまりこの十字軍は「アッカ(アッコン)」などの小さな都市の奪回のみの成果しか上げられなかったのでした。

第四回十字軍
 1202年から1204年のこの十字軍は
「十字軍の隠れた性格」を象徴すると言えますが、彼らは聖地イエルサレムの奪回どころか同じキリスト教国として後方援助の役目を担っていたビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスを略奪し「ラテン帝国」などを建設してしまい「膨大な富と文化遺産」とを西欧に奪っていったのでした。これは「重大な裏切り」でした。そのため、今以てビザンティンの流れにある「正教」は「カトリックを許さない」大きな原因になってしまいました(20世紀も終わりになって、ローマ教皇はこれに謝罪しましたけれど)。
 これは裏にビザンティン帝国内部の皇帝位を巡っての権力争いがあったのですが、それを利用した
「ベネチア商人」が介在していたがすべての原因でした。彼らはコンスタンティノポリスの持つ富と貿易の利をねらっていたのです。騎士たちも要するに「土地と金」とが目的でしたのでうまうまとこのベネチア商人の口車に乗ったわけでした。
 もちろん十字軍は教皇が招集したものです。たとえベネチア商人が軍を作ってもそれは「十字軍」とは呼ばれません。実際この十字軍は教皇インノケンティウス三世によって結成されたものです。この軍の結成に特に差し迫った事態があったわけではなかったのですが、教皇権が最高潮に達していた時期であり、教皇は
「純粋に教皇の権威で十字軍を結成できる」ということを内外に示すためのものであったと推測されています。こんな軍であったことがベネチア商人の介在を許してしまったのでしょう。
 しかし、それにしても「十字軍」というものの性格が「聖地奪回」にあるのだとしたら、四回目になるものとはいえ絶対起きる筈のない事件でした。また騎士たちが少しでもそれを意識していたら「同じキリスト教徒」を攻めて虐殺しその都を略奪するなどありえません。もちろん教皇は「異教徒を攻めて聖地を奪回しろ」と命令した筈です。ですから「十字軍」と言えるのです。しかし騎士たちにとってはそんなことは全然問題ではなくはじめから「土地と金」が問題であったからこそ起きたのでしょう。それはすでに第一回から起きていたことは見ておきました。こんなものが十字軍の実態だったのですから、これからも何回か起こされるのですがいずれも成功しなかったわけでした。

第五回十字軍
 1217年から1221年までの遠征軍ですが、教皇に対する反対勢力があると見た
教皇イノケンティウス三世は、そうした勢力への処置として新たな十字軍の形成を企図して1197年に結成との宣言をしました。
 しかしほどなくイノケンティウスは死んでしまい、その後をホノリウスが継ぎます。しかしこの段階で
「皇帝との権力争い」に直面してしまいました。それにも関わらずホノリウスは先の教皇の意志をついで1217年にハンガリア王アンドレアス二世たちを派遣していきます。彼らは「アッカ(アッコン)」に根拠をおいてイスラーム勢力の中心となっていたエジプトを攻めることになります。こうして「ダミエッタ」を落とすことに成功して有利に戦いを進めたのですが、矢張り援軍が必要ということでの要請がありました。ここで教皇は皇帝フリードリッヒに援軍を命じたのですが、フリッドリッヒは内政問題に没頭していたため、援軍は送ったものの自分は自国にとどまってしまいました。そのせいかどうか分かりませんが、戦地では形成が逆転してしまいこの十字軍も敗北していったのでした。

第六回十字軍
 1228から1229年の
フリードリッヒの遠征を六回目とします。先の第五回のエジプト攻めではフリードリッヒは援軍こそ送ったものの自分はいきませんでした。これを教皇は「誓約違反」として非難し、やむなくフリードリッヒは十字軍を結成します。そして1227年に出発となったのですが、ところがここで彼は病気になってしまったのです。やむなく自国にとどまりますが、これに対して教皇は「破門」と同時に彼に対する討伐群の結成を企図してきたため、やむなくフリードリッヒは1228年に出発してイエルサレムに到着します。ここで彼は戦闘手段に訴えずに巧みな「外交手段」に出て行きます。こうして政治的な安定を求めていたエジプトに譲歩させてイエルサレムの奪回に成功したのでした。ところが教皇はフリードリッヒがイスラームを撲滅してこなかったことを怒り、フリードリッヒとの仲はますます悪くなっていったのでした。
 さて、皇帝フリードリッヒは「敵も味方も一兵も損じることのない道」を選んだのに対して、教皇は
「アラブ人の虐殺・撲滅」を命じて、それをしなかったフリードリッヒを非難しおとしめてきたのでした。皇帝と教皇の目指すところはまるで逆転しているわけでした。こんなのが「教皇」の正体だったのです。

第七回十字軍
 1248年から54年までの
エジプト遠征ですが、前回のフリードリッヒによる奪回の成功も教皇は喜んでいないわけですから、奪回が長続きするための手を打つ訳もなく、1244年にイスラームのアイユーブ朝に再び奪回されてしまいます。こうしてフランス王ルイ九世の元に十字軍が結成されエジプトへと進軍していきます。そして「ダミエッタ」を占拠するところまでは良かったのですが、翌年大敗北を喫してしまい捕虜になってしまいます。結局「ダミエッタ」の返還と多額の身代金とを支払って解放されやっと帰国できたのでした。

第八回十字軍
 1270年の遠征ですが、この間1261年にコンスタンティノポリスに第四回十字軍の建設した「ラテン帝国」は亡命していたビザンティン皇帝によって奪回され、他方、アンティオキア王国も1268年に滅亡して過去の十字軍の遺産は壊滅しています。
そこで再びルイ九世はイスラームに対する十字軍の指揮をとりエジプトへと出発するのですがチュニジアのカルタゴについたところで病死してしまいました。こうしてこの十字軍も失敗に終わります。
 その後1291年には「アッカ」もイスラームに奪回されて十字軍は「足がかり」さえも失いました。これをもって
「十字軍」は消滅したと言えます。
 もっとも、後の教皇は再びイエルサレム攻撃のための十字軍を企図することもあったのですが、政情はそれを許さずついに再び結成されることはなく、近代に至までイエルサレムはイスラームの支配下に置かれることになったのでした。

十字軍の意義
 この十字軍の意義についてもいろいろ言われますが、「積極的な意義」を指摘する研究者は今時一人もいないようで、せいぜい「西欧人とイスラームの交流の端緒」となっているくらいのことが指摘されているくらいです。
 むしろ西欧側にとっては
「教皇と皇帝とのさらなる確執の要因」「社会的混乱」「封建領主の欲望」「教皇の権威の失墜」、さらにベネチア商人の侵略と略奪による「商人階級の台頭」とか、結局やがて来たる「封建体制を崩壊させる要因」を用意したといったようなことが指摘されるようになっています。
 またビザンティン帝国にとっては確かに最初の思惑通り「セルジュクの侵略」は止めることができましたけれど、こともあろうに
「十字軍に侵略」されて「帝国の崩壊の遠因」となろうとは思いもしなかったでしょう。
 思想的に最大の問題は
「西欧とイスラームとの間の抜きがたい敵愾心」、西欧人の「イスラーム恐るべし」との感覚、イスラーム側の「キリスト教徒は経典の民、同胞ではない」との認識、などを作り上げてしまったことが現在の西洋と中東との関係の悪さの大きな要因になっていると言えるでしょう。
 あるいはここに
「キリスト教の堕落」を見ることができて、これ以降活発化してくる「異端裁判」「魔女狩り」そして極めつけの「免罪符」などの「カトリック教会の腐敗」の下地をここに見ることができるのでした。
 確かに歴代の教皇の中には「正当な防衛」は認めるけれど「攻撃は禁止」という理念を持っていた教皇もおり、また皇帝の中にも第六回のフリードリッヒのように、皇帝でありながら「武力に訴えず」外交手段でことを解決しようという皇帝もいたのです。そうした教皇や皇帝ばかりであったならこうした問題はおきなかっでしょうが事実は逆だったのでした。
 イスラームの側も、キリスト教に対する
「不信と敵意」が醸成されてしまい、イスラーム圏内のユダヤ教徒やキリスト教徒に対する締め付けが厳しくなり、そのためエジプトでは多くのコプト・キリスト教徒がイスラームに改宗せざるを得ない状況に追い込まれたりなどしたのです。こうした歴史が現代に至って相互不信を生んでいると言えます。


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