10.キリスト教の光と影 - 9. 修道院とは | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

10.キリスト教の光と影
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INDEX
1. 初期キリスト教の異端
2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」
3. 偶像崇拝の禁止
4. 「イコン・聖画」の問題
5. キリスト教のシンボルと教会堂
6.「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語
7. マリア崇拝とは
8. 中世カトリック世界の異端騒動
9. 修道院とは
10. キリスト教の軍隊、「十字軍」とは
11. 異端審問と魔女狩り

9.

修道院とは


はじめに
 
正統キリスト教「バチカン」から「異端」とされて迫害された集団の多くは、初期キリスト教にあった「神のみを思い、禁欲と清貧のうちに生活し、私有財産など持たず、皆兄弟として、祈りに明け暮れる」という性格をもっていました。これを「原始共産主義」と名付けて、現代西欧人の「共産主義嫌い」を背景に否定的印象を与えようとしているようですが、こうしたあり方を正統キリスト教は一切廃棄していたのかというと、そうでもありません。
 それは、いわゆる
「修道院」と名付けられているところにおいて行われていました。ただし、東方の「正教」の修道院はとにかく一般の人が来ることのできないところを求めて修行の場所としていたためにこの精神を保持できましたけれど、西欧カトリックの場合は「教皇」と強く結んでいたために結局権力構造の一環となってしまいます。そうした次第を解説します。

修道の発祥
 「禁欲と清貧」というのは洗礼者ヨハネやイエスの生活態度のあり方といえます。とりわけ、「洗礼者ヨハネ」は砂漠にあってぼろ切れをまとったような姿で「イナゴ」を食して
 ひたすら「神の道」を説いていたとされる男ですから、あり方として修道の精神そのものであったといえます。しかも当時の文書ではユダヤ教にそうした「野人」のような預言者がたくさんいたことが知られています。
 さらにまた、死海文書で知られるようになった「クムラン教団」はそのまま後世の「修道院生活」そのものであったとすら言えます。
また、イエスの場面ですが、イエスは伝道に入る前に「荒野での修行」をしていたことが知られ、そこで有名な「悪魔の誘惑」という事態に接し、それを拒絶したところから「神の道」を説くものとして出発していったのでした。
 ですから、それに倣い「神に近づこう」と考える人たちが出てきて当然であったわけですが、その修道の始まりは、
200年代後半から300年代前半になるエジプトのアントニオスによる「砂漠の修道」がはじまりとされます。
 彼は、人の住まないナイル河畔の荒涼たる地にあって孤独と静寂の中に、生命を維持するに最小限の粗末な食料と水だけを頼りに肉体的欲望を離れ、神を思う観想と祈りの中に生を送った人でした。こうした生活が人づてに知られて彼を慕う人たちが集まり、やがて修道生活者の一団が形成されていきました。これが
「修道院」の始まりというわけです。ただしアント二ウスの場合は、後の修道院のような建物はなく、岩穴や個人的な庵などに住んでいて、集まってはアントニオスの説法を聴くといったタイプで、これを弧住型修道といいます。
 今日的な修道院という意味では、同じくエジプトのテーベにあった同時期の
パコミオス(290〜346年)の方がはっきりしていると言えます。彼は「孤立」は「独りよがり」に陥りかねないとして「共同生活による修道」を志した人でした。そして、集団生活のための建物を建て、30人内外の修道士とそれを指導する長老とが共同生活をし、聖堂や食堂などが付設されるなど後の修道院の原型をつくっていました。これを共住型修道と呼んでいます。
 このパコミオスのあり方を踏襲したのが
カッパドキアのバシレイオス(370頃〜379年)であり、彼は会則を定めて規律ある修道生活のあり方を定め、ここに修道は本格的となりました。この会則は今日まで東方の修道制の基本となっています。東方の修道で有名なのがギリシャにある「アトス山」で、今日も修道の中核地となっています(ここでは弧住、共住の両方が行われています)。

「聖山アトス」
 ギリシャの北方地方、海につきだした三本の半島の一つで、容易に人がくることのできない険しい山と自然環境の半島です。現在でもここは
「一般人に閉ざされた自治区」となっています。ですから一般人の立ち入りはできないわけで、入れるのは山や建物の維持管理に必要な人間以外は「正教の巡礼者」および「研究者」のみ、それも「三泊四日」が原則ということになっています。それもきちんとした入国のための事前の手続きをしなければなりません。また「女性」と「子ども」は全面禁止です。
 そんなわけでここには
「修道院」や「修行小屋」しかありません。もし仮にここを訪れることがあったとしても、宿としてはその修道院に泊めてもらうしかありません。訪問者は「巡礼者のみ」というのが建前ですからそれで一向に問題がないわけで、風呂もシャワーもなく、食事も修道僧と同じで粗末な野菜中心のもので肉などなく、時間も「中世がそのまま生きて」いて、俗界の時間とは異なっています。簡単に言えば夜中の12時を過ぎたら「朝」であり、したがって「朝のおつとめ」は俗界の夜中の「2時半」頃からになってしまい6時半頃までつづきます。途中ちょっと休憩があって8時半から主要儀礼「リトルギア(奉神礼)」がはじまり10時半まで続き、合計すると延々と8時間も祈りが続き、ここで軽い食事があるものの、それも週三日は抜きとなります。そして10時半から夕方5時半までは「仕事」をしてそれから一時間ほど「お祈り」をして6時半にやっと待望の「食事」となります。もっとも、食事は「肉食禁止」ですから、時たま日曜に魚が出るくらいで「大雑把な野菜」とパンというようなものです。そして「食後のお祈り」があって日没とともに寝る、ということになります。
 ですからどうやったところで
睡眠時間は五時間にも満たない計算になってしまいます。おまけに大事な祝祭などがありますと「徹夜の祈り」になってしまいます。こんな時訪れてそれに全部付き合っていたとしたらフラフラになって帰ってくることになります。とくに巡礼者は修道院を次々に尋ねるということになりますが、細い獣道のような山道を延々と歩いていくわけですからよほどの体力がないとつとまりません。しかも日没に間に合わなかったら修道院は閉まっていますし食事時間に遅れてもアウトです。修行・巡礼とはこれくらい厳しくて当たり前なので当たり前にやっているわけでした。
 こうした「修道院」の他に、もっとこじんまりした数人単位の修道所が作られたり(これを
「スキーテ」といいます。アトスの地図には修道院の他にこのスキーテものっています)、あるいはさらに厳しい生活を望んで「山間や崖の上などに庵」を作ってそこで「たった一人」で「神に向かい合う」生活をしている修行者もいます。こうしたタイプを「モナコス」と呼んでいます。彼等となると「雨水」を水とし、木の実や草が食事となってきます。ただし、時には自分が所属していた修道院に戻り、「独りよがり」にならないようにしています。

アトスの起源
 このアトスの起源は
紀元963年に聖アタナシオスがビザンティンの皇帝の支援のもとに創設した「大ラヴラ修道院」になるとされますが、これは修道士たちの共同体組織の公の始まりということであって、その先行形態としての個人的な修道の場としての岩の割れ目のごとき修行場で、800年代から修行が行われていたとされます。
 それ以降修道院が増え続け、ビザンティン帝国がオスマン・トルコによって滅亡させられた後の16世紀ですら30近い修道院に3万もの修道者がいたと報告されていますが、それ以前のビザンティン帝国崩壊前にはその倍はいたのではないかと推定されます。その後、第一次大戦の前には9000人ほどに減っており、1980年には約20の修道院に1470人ほどの修道士がいたとされています。段々減ってきているわけですがこれも世の流れの常でしょう。しかし現在もその20の修道院は健在で、またスキーテも10幾つを数え、単独者の庵となるともっとたくさんあることでしょう。
 現在見る修道院は海賊の襲撃から身を守るため高い塀に囲まれて外から中が見えませんが中には色とりどりの美しい建物があることは一般の人も写真などで見ることができます。

正教での修行と「ヘシュカスム」
 正教では、キリスト教初期の修行のあり方に習おうとすることから
「人里離れた山」での修行が志向され、そのため殆どの修道院は人里離れた山中にあります。
 その修行の中でもっとも特徴的なのが
「ヘシュカスム」と呼ばれている神秘主義的祈りのあり方に見られます。「ヘシュカスム」はギリシャ語の「ヘシュキア(静寂・平安)」からきているとされてしたがって日本では「静寂主義」と訳されています。これは岩山の割れ目とかあるいは小さな部屋でも行われていますが、本来は岩山の洞窟ようなところで行われたようです。
 たった一人になって精神を統一して自己の中に引きこもり、呼吸を整え
「イエスの御名の祈り」と言われる祈りを延々と繰り返し、「忘我のうちに神の光と一体」になっていくというものです。「イエスの御名の祈り」というのは当然ギリシャ語ですが日本訳すれば「主イエス・キリスト、神の子、罪人なる我を憐れみたまえ」という簡単なものです。これを省略して「主よ、憐れみたまえ」としても良く、これは聖歌でしょっちゅうでてくる「キリエ・エレイソン」という言葉です。姿勢は上半身の力を抜いて顔を垂れ、丁度腹を凝視する格好となります。そのためこの修行法を批判する者は「臍に魂があるかのごとく見なしている」と言って批判したのでした。
 これに似た神秘主義的修行法は世界的に普遍的なものですが、
「理性主義のカトリック」にはありません。むしろ異端とされるでしょう。実際この修行法を批判した正教の主教は、論争の結果破れて正教の信仰を捨ててカトリックに改宗していったのでした。
 一方この「聖山アトス」ではたった一人で岩山に住む修行者はむしろ特別な経験豊かな修行者に限られ、大半は修道院に属しています。というのもたった一人の修行では「独断」に陥る危険性があるからで、師匠について厳格な統一された思想と儀礼とに則った修行が大事とされるからです。ですから、そのため修道院では一年、一月、一日の運びが厳格に定められているのでした。ただし自由時間が全くないわけではなく、畑仕事をしたりする時間の他にも読書の時間などもあります。しかしいずれにせよ
「人生すべてこれ修行」という精神をもっています。

メテオラ
 ギリシャ・アテネからテッサロニケに向かうその途上にある
「奇岩とその上に立てられた修道院」で最近有名になったメテオラは、正教の修道院のすさまじさを見せつけてきます。ここは巨大な岩が林のようにそそり立ち、その上にどうやって建てたのか修道院が建てられていました。
 その奇岩の数はおよそ60本ほどにもなり高さは平野部から300メートルもあるとされます。そして、できた巨岩の林は当然人を寄せ付けず、ここに
「人を避けて修行」しようとする修行者が住み着くようになり、それも段々人が近寄れない所ということで上に上にと登って結局その岩の頂上「庵」を建てるようになったというわけでした。「メテオラ」とは「空に浮いた」とか訳されますが、ようするに「天に近い」という感じがあったからでしょう。
 そのきっかけとしてもいろいろ言われており、一般には、というよりむしろ俗説というべきですが、オスマン・トルコの迫害を逃れてとか、北方に侵入したセルビア人の暴行を逃れて
「アトス(北方にある正教の聖地)」から来た等と言われています。「アトス」から来たというのはいいですが、その理由は「正教」の何たるかを理解していない一般人の俗説で、多分これは建物としての修道院が形成され出したのが14世紀とされるところからの推測なのでしょう。
 しかしこの奇岩の上に修行の場を求めた本当のところは上に説明しておいた
「ヘシカスム(静寂主義)」と呼ばれる正教の思想に基づくものだと言えます。この「ヘシカスム」というのは「静寂主義」などと訳されるように俗人との交わりを避け自己の内面に精神を集中し、目は一心に腹部のみを見つめて回りを見ず、ただ一筋に神への思いと祈りのうちに神との交流を求める修行なので、具体的にも「俗世を離れる」ものであるわけでした。これは「聖山アトス」も同様でここは峻厳な山地であり、その山中や海に面した崖の上など容易に人が訪れることができないところだったのです。正教には「俗界」にあって俗界を俗界とはせずに聖なる地へとつながったものとしてみていきそこで人を導く思想もあった反面で、こうした「人跡未踏の地での修行」という精神もあったのです。それには人が容易に登ってこれない岩の上など打ってつけであったわけです。そしてここに修行者がやってきて岩の割れ目などに住みつきだしたのは修道院などが作られるずっと以前1000年代に始まっているとされます。その伝統のうちにここが一つの「聖地」とみなされるようになってきて、そしてやがて修行者の共同体のようなものが形成され、そしてその流れの上に修道院が作られ出したというのが真相です。

 その修行者の「庵」の時期から「修道院」へと「昇格?」されたのは
聖アタナシウス1356年アトスからここに来て、伝えられるところでは九人の修道士と共にメガロ・メトオロン(メタモルフォシス修道院)を建設した時ということになります。当然始めは修道士がロック・クライミングの要領で素手で登り、登ってからはロープなどで資材を引き上げたとされますが、ほぼ垂直の絶壁の岩ですのですさまじい難行・難工事であったことは想像に難くありません。
 こうしてやがてメテオラの
「修道院共同体」が作られて15〜16世紀に絶頂期を迎え、修道院の数は大小合わせて24にまでなりました。しかし大きくなればなったで内部の統一は崩れて考え方の相違も生まれ、また外部的には国であったビザンティン帝国がオスマン・トルコによって滅亡させられてしまい異教の外敵にさらされてしまったなどが原因で衰退していきます。
 そして現在は岩上に修道院の形態を保っているのは6つしか残っていません。しかも観光客が訪れるようになったために修道士はどんどん逃げだしていますが、現在もわずかに残った修道士(尼)たちはそうなったら伝統ある「聖地メテオラ」は死んでしまうし、それはこれまでの先達の意志を無にすることになってしまうと必死でここを護り続ける覚悟を堅め、観光客としてきた人たちにむしろ正教の真実の姿を伝える絶好の機会にしようとしています。
 ここは実際、昔はとにかく俗界を離れるということが要請されていたので人間として生きる上での必要な俗界との関わりは最低限のこととして例えば
「つり籠」で上げ下げしてもらうか「縄ばしご」を降ろすかしていたのですが、現在は立派な道ができ恒久的な橋でわたれるため「秘境」ではなくなってしまいました。にもかかわらず「修道の精神」を少しでも伝えることは可能だと思います。
 正教の精神はその「イコン」にもっともよく現れていますが、ここでの教会堂の壁に描かれたイコンの特徴は、修道院に共通しているようなのですが、「殉教者」の痛ましい(というかむしろおぞましい残酷な)姿です。首が切られて転がっていたり、残酷な拷問にかけられている姿ですが、これはそのイコンが向けられている対象者が一般キリスト者ではなく「修行者」であって「神の国への誘い」という役割よりむしろ、神に従うことの
「覚悟」を迫っているからなのかもしれません。殉教者は修行者の「先達」だからです。

西欧カトリックにおける修道院
 西方にも東方から伝わった修道院制度が形成されていきますが、こちらはカトリック自体が伝統教会である東方のものから大きく離れてしまったため修道院のあり方も変わってしまい、東方に保持された伝統的な修道のあり方はほとんど見られなくなります。
 その西方の修道院のはじまりは
「ベネディクトゥスの修道院」とすることができるでしょう。場所はイタリアのモンテ・カッシーノで、時期は529年となります。ベルディクトゥスは独自に会則を定め(ベネディクトゥス会則)を定め、これが西方の修道院の会則の原型となっていきます。
 ベネディクトゥスの場面では東方カッパドキアのバシレイオスのものとそんなに離れてはおらず、「清貧、純潔、従順」を誓い、「定住」して「労働」を義務づけていました。また極端な禁欲を禁じたのも特徴的です。さらに東方では「地域の信仰と文化の担い手」となる場合も生じましたが基本的には初期の「人里を遠く離れるタイプ」が継続していくのに対して、西方では「人里離れる」という原初形態はなっていきます。
 その反面で
宣教活動や司牧(プロテスタントでは牧会といい、信者を信仰の場面で導くことの総称)の活動が多くなっていきました。さらに、地域の指導者になるというところから派生して教会での指導者となるためには修道院に居たことが必須の要件のようになり、「修道院出身者で教皇はじめカトリック組織の指導層が占められていく」という「出世のための要件」のようになってしまいます。

 そうした傾向がはっきりするのは
「クリュニー修道会」からとすることができます。すなわち、ベネディクトゥスの修道院以来、各地に修道院が作られていきますが、そのあり方が初期の「清貧・禁欲・瞑想や労働」といったものから「教育や文化」の拠点といったものになって、そしてさらに世俗化は激しく、修道規則も満足に読めない俗人が院長になってしまったり、女を囲っている聖職者が続出したり、とても初期の修道の精神など見られなくなっていきました。
 そうした中でベネディクトゥスに立ち返ろうという運動が生じ、そして910年に設立されたのがフランスのブルゴーニュ地方の「クリュニー修道院」でした。そして崩れていた聖職者の生活態度の改善に取り組み、縁故者を役職にすえる習慣ができてしまっていたのを禁止したり、聖職の資格を金で売ったり聖職者の結婚と世俗化を禁じたりする一方で、教育の機能を充実させるための学校の設立などに尽力していきます。
 この場面での「クリュニー修道院」の活動は理にかなったものと言えますが、しかしそれにしてもこの時期に至までの西方の修道院の堕落振りが良く見える活動でした。
 初代院長のベルノや初期の指導者はこの仕事を誠実にしていき、ここは修道院改革の拠点となっていきます。そしてその働きが認められてここは
「教皇直属」の修道院とされていきます。そしてフランス地方ばかりではなくイタリア地方の多くの修道院がその傘下に置かれるようになっていきます。
 しかしその結果、クリュニー修道院の院長が各地の修道院の院長を任命する権利を持つようになって、結局クリュニー修道院を頂点とする縦型の修道会組織となり、ここは
「権力の頂点」に立つことになっていったのでした。
 つまり、東方で発達した修道院というのは「個々に独立」したものだったのですが、西方にあってはこのクリュニー修道院出身者が権力の頂点に立つ
「修道会組織」という構造になってしまったということです。
 西方の修道院はこうして「修道会」という「組織の一機構」になってしまったわけですが、11世紀になるとイタリアに
「カマルドリ会」、11世紀末になるとフランスに「シトー会」が、旧来のベネディクト会から独立するような格好で形成されていきました。この「シトー会」はベネディクト会則を継承していないと言ってクリュニー会を批判しています。同時期に「カルトゥジア会」も創設されるなど、11世紀は西方修道会の転機となっています。

「騎士団」
 さらに12世紀に入ると、有名な
「ヨハネ騎士団」などの「修道会組織の騎士団」が創設されています。「ヨハネ騎士団」と「ドイツ騎士団」は病院組織を母体とした「騎士修道会」で、「テンプル騎士団」は当初は巡礼者の道行きを保護することを目的としたものでしたが、これらは結局十字軍の主力として「対イスラームの軍隊」という性格を持つことになっていきます。これらは「修道会」として認知されているものですが、「瞑想と祈り」を本義として俗世を離れて修行するという「修道」というものの本来からすると、とても「修道」と呼べるようなものではなく、西方カトリックにおける修道の概念の逸脱がよく見られます。
 特に
「テンプル騎士団」の位置が複雑で、この騎士団は初期の時代にイベリア半島のレコンキスタ(ローマ時代の400年代ゲルマン人の移動にともないこの地方に入ってきたゴート族が、ほどなくこの地方に進出してきたイスラーム勢力にここを占拠され、500年経って再び国土を奪回しようとして起こした運動)に参加した以外は、イエルサレムの「ソロモンの神殿(そのためこの騎士団は「神殿=テンプル騎士団と呼ばれる」」を根拠にしてイエルサレムでの対イスラーム戦に勢力を注いだ騎士団であり、第二回十字軍の時に主力となり、その後も十字軍の主力として戦っていました。
 1291年十字軍の「イエルサレム王国」が陥落して撤退しましたが、各地に所領を持ち莫大な富を蓄えていたとされ、これがフランス王フィリップ四世の目にとまり、その財産目的にテンプル騎士団の騎士達を逮捕して財産を没収し、その根拠として「異端」を告発し、一方で矢張り財産を狙う教皇との間で軋轢を起こし、結局「異端」とされて絶滅させられたとされます。
 ただこのいきさつには分からないところが多く、この騎士団の趨勢は謎と言えます。ただ言えるのはこの騎士団の騎士達は莫大な財産を持っていたとされる点が問題で、もし本当ならそれは何によってなのかが問題になるし、他方それが嘘・言いがかりであったなら何故そんな言いがかりを付けられて絶滅させられたのかが問題になるということは言えそうです。

「ドミニコ会」と「フランシスコ会」
 13世紀になると
「ドミニコ会」「フランシスコ会」などが創設されています。彼らの場合は、従来の修道院の形態を拒絶して「定住」を止め、清貧を守り、「托鉢」して回りながらイエスの福音を説いて回るという、初期の使徒達のあり方を復活させたような運動でした。これらを日本では「托鉢修道会」などとも呼んでいます。
 「ドミニコ会」というのはスペインの
「ドミニクス(1170頃〜1221年)」を創設者としますが、彼は「カタリ派(「中世カトリック世界の異端騒動」のページを参照)」に出会って、どうも一部共鳴しつつも根本の考え方の違いにそれを正そうと決意したようです。一部共鳴したらしいと思えるのは生活態度の面で、カトリック世界全体に禁欲や清貧が失われていた時代だったこともあり、彼はカタリ派と同様に厳しい禁欲の生活態度をとっていきました。こうして一切の所有物を捨てて粗衣粗食のままに「托鉢者」として説法して回ることになります。
 ただしこれだけではとてもカタリ派の異端を正統教会の教えに戻すことはできないと考えたようで、1215年に
「説教者兄弟会」という団体を創設しています。これが教皇によって「修道会」として認可され、ここから「ドミニコ会」という修道会が始まります。こうして「修道会」としての形態をとりますが、「托鉢修道会」としてのありかたは捨てない一方、「労働と祈り」の時間は少なくされ、本来の目的が「異端の教化」にあったため「布教と司牧」に重点がかけられ、さらに「神学研究」に最大の特徴を示すようになります。そのためこの会派からは「トマス・アクィナス」「エックハルト」など中世を代表する神学者を輩出することになりました。
 もう一つの重要会派は
「フランシスコ会」となりますが、これはイタリアのアッシシ生まれのフランチェスコ(1181〜1226年)を始祖とします。伝承によると、サンダミアーノ聖堂の十字架のイエスから「崩れている我が家を立て直せ」という啓示を受けたとされて回心し、家を捨てて聖堂の修復に当たったと言われます。彼は福音書に帰り、イエスや使徒達の生活態度に倣い、清貧と禁欲に努め、粗末な衣を縄で絞めている以外、家も所有物も一切もたず「托鉢」で食を得て「福音」を説いて回ったといいます。
 こうして彼を慕う弟子たちが集まってきた段階で、フランチェスコは教皇に願い出て「修道会」の設立を許可されたといいます。1219年には十字軍に帯同してイエルサレムに赴きますが、イスラームの改宗にも失敗し十字軍のあり方にも失望して帰って行ったと言われます。その後の事は「伝承」に属してしまいますが、アルベルナ山で十字架のイエスの聖痕(スティグマといいますが、イエスが十字架で受けた両手、両足、脇腹などの傷跡をいいます)を受けたとされ、その苦しみの病床で盲目となって、自然を兄弟・姉妹と呼ぶ『太陽の讃歌』を書いたと伝えられます。その自然を愛する姿勢は、鳥獣までも彼にすり寄って彼の話を聞いた、とまで伝説となりました。中世の聖人の中で突出して有名ですが、矢張りイエスのあり方を思う人たちに、その
「イエスの面影」を見せたということだと思います。
 この彼の「修道会」ですが、名称はフランチェスコが自らを「小さき者」と呼び、その共同体はイエス・キリストの前に皆兄弟である、ということを重視したことから
「小さき兄弟会」と呼ばれます。趣旨とするところは「福音主義、金銭・所有物の禁止、説教、労働、托鉢、聖職者への畏敬」といったところになります。現在まで存続し、平和運動やハンセン氏病患者の救済などの社会奉仕に十字する一方、イスラームへの改宗運動や異教徒伝道などにたずさわっています。この会に三つがあって「男子修道僧による第一会」と女子修道僧による「第二会」と一般信徒からなる「第三会」とがあります。女子による「第二会」はフランチェスコの最初の女性の弟子であるアッシシのクララを創始者とし、1215年フランチェスコの指導の下にサン・ダミアーノに「女子修道院・クララ会」を創設したのが始まりとなります。
 フランチェスコ会でも学問研究が重視されるようになり、
「ボナヴェントラ」「ロジャー・ベーコン」「ドゥント・スコトゥス」「ウィリアム・オッカム」など中世哲学史を飾る学者たちがきら星のように輩出されています。


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