10.キリスト教の光と影 - 6. 「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

10.キリスト教の光と影
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INDEX
1. 初期キリスト教の異端
2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」
3. 偶像崇拝の禁止
4. 「イコン・聖画」の問題
5. キリスト教のシンボルと教会堂
6.「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語
7. マリア崇拝とは
8. 中世カトリック世界の異端騒動
9. 修道院とは
10. キリスト教の軍隊、「十字軍」とは
11. 異端審問と魔女狩り

6.

「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語


はじめに
 
キリスト教では、「天使」とか「悪魔」とかいった存在を強く主張すると考えられています。しかしこれらは、本来のユダヤ教には概念として薄く(つまり、全く存在しないわけではないのだが、ユダヤ教の教えに積極的な位置があるわけでもない存在)、ゾロアスター教に影響を受けた後期ユダヤ教・パリサイ派では積極的な存在になっていて、さらに、そのユダヤ教・パリサイ派に強い影響を与えたと考えられるゾロアスター教では重要な存在となるものでした。
 「天国」や「地獄」についても同様で、本来のユダヤ教には全くなく、またゾロアスター教ではとなると教義の核となる概念となっています。これらをキリスト教はどのように扱っているのかというと、実際のところは、「天使」も「悪魔」も「天国」も「地獄」も『聖書』の「ヨハネ黙示録」を中心に登場はしますけれど、イエスの教えとして中心的なものとは考えられず、むしろ後世の教会が「民衆の教化」のために用いた概念であろうと考えられます。この章はそれらを扱います。

天使
 キリスト教では「天使」というものが重視されていて、信者には「天使の導き」という観念を持っていることが多いです。その天使ですが、『新約聖書』では名前をもってあげられているのは「マリアへの受胎告示」で知られる
「ガブリエル」と黙示録で悪と戦う戦闘天使として描かれる「ミカエル」しかおりません。ガブリエルはまた、イスラームの創始者「ムハンマド」に啓示を与えた天使としても知られています。ですからこの二人の天使はビザンティン美術においても必ずといっていいほど頻繁に描かれてきます。
 この天使という概念は、似た存在はすでに古くオリエント世界で想定され、ペルシャのゾロアスター教に顕著に見られる存在でした。ユダヤ教にもすでに存在することは「創世記」においてアブラハムを試す神の場面で、アブラハムが神の言葉のままに我が子イサクを生け贄として捧げようとした折りに現れる
「天の使い」に良く知られています。
 その「御使い」をギリシャ語で
「アンゲロス」と訳したわけですが、これは文字通り「お使い・伝令」という意味の普通のギリシャ語で、従って遙か古代のホメロスから頻繁に使われている言葉でした。これがキリスト教世界では「天の御使い」という限定された意味にされたわけで「エンジェル」というのはこの「アンゲロス」の英語発音となります。
 ところで、新約聖書には「ガブリエルとミカエル」しか登場しませんのでこの二人がもっとも重要な天使かとおもいきや、天使論の中では二人は「下級の天使」とされているのでした。
 それは六世紀の神学者ディオニュシオス・アレオパギテスの著した『天上位階論』に基づきます。彼はここで、ユダヤ教聖典の導入としての「旧約聖書」の中に出てくる天使を二人よりも上の天使としてしまったのです。キリスト教というのは、結局
「ユダヤ教主義者」の派閥が勝ちを収めた結果、ユダヤ教の方が(つまり旧約聖書)イエスや弟子達の言葉(新約聖書)を上回っている現象がしばしば見られ、ここもそのうちの一つと言えます。
 その天使論によると、上から順番に「上級天使」「中級天使」「下級天使」として、その三つをさらに三分割して合計九つの階級としました。つまり、上級天使は上から
「セラフィム(熾天使)」「ケルビム(智天使)」「座天使」として、中級天使は上から「主(権)天使」「(勢)力天使」「(権)能天使」とし、下級天使として上から「権(威)天使」「大天使」「天使」としたのです。ガブリエルとミカエルは「下級の中の大天使」とされて、下から二番目の天使とされてしまいました。
 その理由は、おそらくこの二人は、翼こそ持つものの
「人間的姿」をしているらしく思えるのに対して、「旧約聖書」にでてくるセラフィムやケルビムの姿は、翼で「身体性」を隠していることで「非人間的(聖なるもの)」と理解されたからでしょう。
 そのセラフィムはイザヤ書六章に描かれて、そこでは「六つの翼を持ち、閃光のように飛ぶ」というイメージで描かれています。ケルビムは創世記ではアダムとイブのエデンの園の追放後
「そこを守る者」として、また、エゼキエル書では「人間・獅子・牡牛・鷲」の四個の顔と四枚の翼を持ち、黄金の目を持った四個の車輪を持った姿で描かれています。イメージとしては二人とも「稲妻・閃光のイメージ」で、これは古代ギリシャのゼウスも同様ですが、古代世界での「雷信仰」が背景にあるとも言われます。
 キリスト教での図象表現としては、共に翼を体の前面を交叉させ頭部と足首だけしか見せず、セラフィムは六枚の翼をもち火の色である赤で、ケルビムは四枚の翼を持ち天空の色である青でその違いを表しています。

悪魔
 
「サタン」というのがキリスト教での悪魔の固有名と思われていますが、この「サタン」というのももともとはユダヤ教の世界でのものでした。そこでのサタンの働きは、ヨブ記にあるように「誹謗する者」となっています。つまり、サタンというのは、敬虔な神の服従者とされるヨブにかかわって、ヨブは真実神に服従する者であるとは限らないという言い方で誹謗し、ヨブを「神の試み」に会わせる神の従者ですので、ある意味で天使の一人と言えるわけです。
 こうして、この「サタン」は後に旧約のイザヤ書14.12以下に見られる
「天より墜ちた明けの明星・ルシフェル」と同一視されるようになります。たとえば「ルカ福音書の10.18」の「サタンが電光のように天から落ちるのを見た」といった記述などが容易に二つを結びつけます。さらに黙示録では(12.7〜9)「もはや天には彼らの居るところがなくなった。この「巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンと呼ばれる全世界を惑わす原初の蛇」は地に投げ落とされ、その下僕たちももろともに投げ落とされた」と描かれてきます。 
 この黙示録ではすでに「サタン」は私たちのイメージする「災厄や悪行の素たる悪魔の頭」の内容をもっていて、おそらく創世記でのアダムとイブを誘って神に離反させた
「蛇」と同一視され、その巨大さから「龍」とイメージされていると言えます。
 「蛇・龍」とは別に、さらに「悪魔」というと一般にも
「荒野でのイエスを試す者」として描かれていることは良く知られています。つまり良く知られた「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えて悪魔を退けた、という話しです。これは、洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたイエスが荒野での修行に入るのですが、そのときそれは「悪魔に試みられるためである」と言われます。
 ちなみにここでの「悪魔」はギリシャ語では
「ディアボロス」と言われています。意味は「中傷する者」で、内容的にはヨブ記にあったサタンの内容を意味するとしていいです。この言葉は当然後代になって「悪魔・デビル」とされていきます。
 さて、その「試み」ですが、40日の断食下後ですから空腹になっていたわけで、そこで悪魔は第一の試みとしてイエスに「この石をパンになるように命じてみたら」と誘うわけでした。その時の答えが「人はパンのみにて生きるにあらず、神の言葉で生きるものだ」というものであったわけです。第二の試みは、「宮の頂上から飛び降りてご覧なさい、神は助ける筈だから」というものでそのときの答えは「神を試してはならない」でした。第三の試みは「この地上のあらゆる国々とその栄華を見せて、もし私を拝するならこの全てをお前に授けよう」でした。これに対してイエスは
「サタンよ、退け」と、ここで「サタン」という言葉を言ってディアボロスの内容がサタンであったことを明らかにしてきます。「パン」というのはこの「地上的な生活の満足・贅沢」を表し、「飛び降り」は「神を試みる、つまり神に従うのは報償を当てにする」という「人間の信仰の薄さ」を表し、三つ目は当然「地上的権力」を表すわけですが、これら三つは私たち人間が陥りやすいもので、その誘惑に負けて私たちは「悪行」へと陥るといいたいわけです。こうして、「悪魔とは誘惑者」だというのがここの内容になります。つまり、私達が「悪魔」ということでイメージする外部から「殺人・災いをもたらす悪鬼の存在」とは違っていたのでした。「人間の心に住まっているもの」だったのです。
 他方で、私たちのイメージする悪魔の描きも存在し、悪霊の頭として
「ベルゼブル(サタンと同じと言われる)」という名前が言及されて(マルコ3.22、マタイ25.41)、その支配下に悪霊どもが居て、その悪霊が人々の心の中に入って「裏切り・虚偽・強盗・殺人」などの悪行へと誘うとされています(ルカ、ヨハネの各所)。ただし、ここでも「外的な存在」ではなく「人間の心のうちに住まっている存在」であることはいうまでもありません。
 こうしてキリスト教においては、「悪魔」というのは
「誘惑に負けて悪行へと陥る心の問題」として意識されて、とりわけ修道僧にとっての大きな問題とされました。

 この脈絡で
「悪魔払い」というものが問題になり、人間の心にとりつく「悪魔=誘惑」を払いのけるためのさまざまの儀式が考案されていったわけです。これは神学的要請を超えて、さまざまの災厄や悪行、ストレスからの精神の不安・錯乱などが一般の人々にも問題となって、そうしたものからの解放を願っての「悪魔払い」などが一般に行われるようになりました。
 今日でも田舎などにこの
「悪魔払いの儀式」が残っているのですが、それは日頃の生活で鬱積した「ストレスの解消(単なる仕事や生活の上でのストレスだけではなく、悪を犯さざるを得ない人間の罪の意識からのストレスも含められます)」といった意味のものが強いとされます。これが映画にあるような「実体的悪魔退治」と捕らえられるとオカルトになってしまうし、「本物の病気の払い」に使われると困った事態にもなるわけで、この悪魔払いは慎重に考えねばならないと言えるでしょう。
 ちなみにイエスがしばしば行っていた
「悪霊の追放」はなかなか難しい問題を含んでいて、「精神疾患」と思われる悪霊の事例は「ストレス」のレベルで考えられますが、「身体的・物理的病気」と思われるものには慎重な解釈が必要なようです。

天国・煉獄・地獄
 「天国」というと日本語の語感からいっても「高い天」にある国、というイメージがあるわけですが、実際それはキリスト教においても一般的なイメージであると言えます。ただし、ここでどんな
「いい目に会う」かは何も語られてはいません。至福のこととして指摘されているのは「神にみまえる」という一点だけで、これだけが至福とされているからです。つまり「地上的な幸福」など「天の国」にあるわけもないのであって、地上の幸福は天にあることと比べれば「全然幸福とはならない」となるからです。ですからイエスは「夫婦」といった観念もここにはないということまで言ってきます(マタイ22.30)。ただし、もちろん「地上的な災厄や悪行・苦難・悲しみ」なども一切存在しません。
 
 「地獄」についてもどんな所なのかついての説明はほとんどなく、
「神に従おうとしない者が投げ込まれるところ」とされ(マタイ5.22)、「悪魔とその手下のために用意されている永遠の火があって、その劫火に焼かれる(マタイ25.41)」というイメージで、マルコ9.48でも「蛆が尽きることも、火が消えることもない」となっています。
 他方、紀元前3000年に遡るメソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」では
「陰惨で塵芥の世界」という描写があり、ゾロアスター教でも「切りさいなまれ、劫火に焼かれる」という詳細な描きがあります。こうして、私たちがイメージしているように、ここは悪人が落とされて永遠に苦しむ場所と理解されていったと言えます。美術的にもこの最期の審判や地獄への陥落の絵は多く描かれています。

 「煉獄」というのは、天国に直接行けるほど神に従順な生活を送ったわけではないけれど、さりとて地獄に堕ちるほどの悪行をしたわけではないものが落ちるところとされ、
「浄めの場」といったような場所です。理屈ではわかりますけれど(というか、こんな場所があるのだとするならほとんどの人類はここに落ちるか、あるいは地獄におちるかどちらかになるであろう)、もちろん『聖書』にはこんなところについてはみじんも書いていませんからプロテスタントはこれをみとめません。   
 正教の場合は、「地獄」については理屈・概念としては認めてそこからの救出はいいますけれど、もともと正教では「聖と俗」といったものすら理屈・概念で認めているだけで、
「イエスの地上への現れによって人類は救われた」と見なしていますから、信者に対しては「地獄や煉獄に落ちる」という言い方はほとんどされません。したがって、この「煉獄」などという存在を積極的に言い立てるのは「カトリックだけ」ということになります。ですからカトリックではこうした人々のための「浄めの儀式」も持っています。

「リンボ」
 こんなカトリックの立場だと、
「イエス・キリストを知らないものは天国にいけるわけはない」ということになって、幼児のうちに死んでしまった者や、紀元前の人間、キリスト教の伝播しなかった地域の人々は、どんな立派な人であっても天国には行けない、となります。ソクラテスも駄目なのです。こうした人々は天国には行けず、その縁くらいの所にとどまっているとされます。この「縁」のことをラテン語で「リンブス」というところから、この場所は「リンボ」と呼ばれています。

キリスト教で使われて一般化している以外な言葉や成句
 本来キリスト教で使われていた言葉・成句なのに一人歩きして一般化してしまい、それがキリスト教のものであったと気付かれていない言葉や成句がかなりありますのでそれを紹介しておきます。

成句
「砂上の楼閣」
 これは、イエスが「私の言葉を聞くけれど実行しない者は、砂の上に家を立てた愚かな人に似ている」と言ったマタイ福音書7.26の言葉に由来し、崩れやすいもの、根拠のないもの、実現できはしないような計画・理論、などの譬えとなっています。

「笛吹けど踊らず」
 マタイ11.17での、イエスの「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった」という言葉ですが、せっかくその場、その状況に合った音頭、提案をしたのに誰も乗ってくれなかったという意味で使われています。

「豚に真珠」
 マタイ7.6での「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げ与えてもならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方にかみついてくるだろう」という言葉ですが、ここの本来の意味は、一般に理解されているような「価値のあるものを、その価値が分からない者に与える」という意味を超えてもっと厳しく、「そうしたならば、彼らはその価値あるものを足蹴にするばかりか、むしろ怒って襲ってくるだろう」という「受難」のおそれを指摘したものです。

「目からうろこ」
 これは使徒行伝9.1以下にある、キリスト者を迫害するため追ってきた当時ユダヤ教の指導者となっていたパウロが、天より光に射られて落馬して盲目となり、イエスの言葉に従って町に入ってイエスの弟子アナニアによって目に手をかざされたところ「目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになった」という故事に由来した言葉で、一般には、これまで不明であったものが突然分かった様な時、これまで思いこんでいた事が全然違っていて本当の真実が分かった、というような時に使われている言葉です。

「求めよ、さらば与えられん」
 マタイ7.7の言葉で、「求めなさい、さすれば与えられる。探しなさい、さすれば見つかる」という言葉で、一般には、「あきらめず努力せよ、そうすれば成功する」といった意味で使われています。

言葉
「アカペラ」

 これは「礼拝堂風に」という意味のイタリア語で「ア・カペッラ」という発音です。カトリック教会の典礼で歌われた歌の様式を意味したものでしたが、後にこの「礼拝堂」を「システィーナ拝堂」を意味すると誤解してしまい、ここは無伴奏でやっていたため、結局「無伴奏で歌われる歌一般」を指すようになってしまったものです。

エヴァンゲリオン
 子どもたちにはこの名前はアニメーションの「ロボット戦士」として知られていますが、もともとは「エウ・アンゲリオン」つまり「良き知らせ」という意味のギリシャ語で、要するに「福音」のことです。ですからキリスト教にとってはごく普通の言葉でした。

エルニーニョ
 これはスペイン語で「幼子イエス」という言葉です。クリスマスの時期にペルー沖の海水が上昇して世界的な規模で異常気象を起こすことから、この海水異常上昇をクリスマスつまり「幼子イエス」と呼んだわけでした。

カプチーノ
 コーヒーの一種だと思いこんでいますが、これは修道服にピラミッド型のずきんがついているカプチン会修道士から取られた名前で、このずきんをカプチーノといい、その色が茶褐色であることから同じ色のコーヒーをそう呼ぶようになったのでした。

カリスマ
 カリスマ美容師とか、カリスマ○○とかが流行っていますが、これはギリシャ語で「神の賜」を意味しており、聖霊を受けて意味不明の言葉(異言という)や行動をする者を指していて、ここから他者にぬきんでた能力を持つと信じ込まれた「技能者」を指す言葉となりました。しかし、どうも「信じ込まれた」というところにポイントがあるようで「人気のある・なし」が問われ、従って人にぬきんでた能力があっても学者や研究者や技術者などには使われません。

スケープ・ゴート
ユダヤ教世界でのことでしたが、人々の罪を「山羊(ゴート)」に負わせて荒れ野に放逐したことから、今日では「本来の罪人がそれを逃れるために、無実の罪を着せてしまう」ことという意味となりました。用法としては本来のままで間違ってはいませんが、この「山羊」の部分に特定の「人間」を入れているのが今日のやり方で汚いです。

狭き門
 東大に入るのは「狭き門」だ、というような意味に用いられていますが、本来は「天国へ入る門」を意味していて、そこに入るのは険しいけれどそこからしか入れないということを意味している言葉です。つまり、のうのうと惰眠をむさぼっていては天国には入れないのであって、「悔い改めて、神に従う者となれ(これは確かに普通の人には難しいけれど)」ということでした。

タレント
 上のカリスマに似た意味の言葉ですが、これは古代ギリシャでの貨幣単位で「タラント」が語源となります。この「タラント」を預けられた召使いたちが、ある者は増やし、ある者はただしまい込んだだけで増やさなかったということをイエスが譬え話しに用いたところから、「能力」を意味する言葉として使われるようになり、今日の日本ではさらに能力とは無関係に「芸能人一般」を意味するようになってしまいました。

モーニング・サービス
 これは日本では、喫茶店で午前中早い時期に提供されるコーヒーとパンとゆで卵を基本とする「軽い朝食のサービス」となっていますが、本来キリスト教で使われるサービスという言葉は「礼拝」を指していて、モーニング・サービスとは「朝の礼拝」という意味になります。

マドンナ
 「僕のマドンナ」というと「僕のあこがれの女性」ということになりますが、これはイタリア語で「私の貴婦人」という意味でフランス語では「ノートル(わたしたちの)・ダム(貴婦人)」と同じ意味となり、要するに「聖母マリア」を意味するものでした。

アーメン
 最期にアーメンですが、これは聖句が唱えられたり、賛美歌が歌われた最期にくっついてくる言葉です。意味は「確かにその通り、真実です」という意味のヘブライ語で、祈りや賛美に対して「その通り、真実です」と確認する応答の言葉です。元来ユダヤ教のもので、これがそのままキリスト教に受け入れられてヘブライ語のままに唱えられているものです。


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