10.キリスト教の光と影 - 1. 初期キリスト教の異端 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

10.キリスト教の光と影
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INDEX
1. 初期キリスト教の異端
2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」
3. 偶像崇拝の禁止
4. 「イコン・聖画」の問題
5. キリスト教のシンボルと教会堂
6.「天使と悪魔」「天国と地獄」その他の用語
7. マリア崇拝とは
8. 中世カトリック世界の異端騒動
9. 修道院とは
10. キリスト教の軍隊、「十字軍」とは
11. 異端審問と魔女狩り

1.

初期キリスト教の異端


はじめに
 
この「キリスト教の光と影」というページは、キリスト教にまつわる「影」の部分を見るものです。「影」というのは当然「光」があって生じるもので、この場合「光」とは「正統キリスト教」となります。「影」というのはその正統キリスト教によって「異端・敵対視」され撲滅の対象となったさまざまの思想や集団を意味します。
 さらに、正統キリスト教が正統と主張しているものでも、本来的にはイエスの教えや『聖書』そのものになじまないはずだと考えられるもの、たとえば「愛や忍耐」を説いたイエスなのに何故キリスト教には「軍隊=十字軍」があるのか、あるいは「偶像禁止」の筈なのに「聖画」は何故ゆるされるのか、あるいは『聖書』では全く保証されない「マリア信仰」は何故生じたのか、などといった諸問題を扱います。
 なお、キリスト教関係のすべてのページに妥当しますが、ここでは「信仰」の立場ではなく
「思想史」的に扱っているため、「信仰者であるキリスト教徒」にとっては「つまづき」となる話しが多いので注意してください。

キリスト教の「正統」をきめるもの。「権威」
 キリスト教というのは
「共同体=教会」によって発展してきました。しかし、発祥の時代の「絶対的権威の共同体」であったイエルサレムの「イエスの使徒達による共同体=教会」が、紀元後70年代にローマ帝国によって崩壊させられた後には「権威的な教会」というものがなくなりました。その後は、「各地の共同体の勢力争い」という形で展開していきます。従って、さまざまの立場の教会が存在し、それは今日でも変わりないと言えます。
 もちろん、今日の最大勢力会派である西欧の
「ローマ・カトリック」は、自分たちはイエスの第一の使徒とされるペテロに由来する「権威的な教会」であると主張します。しかし、これは中世になって結果的にローマ・カトリックが大勢力となったことから一般化されただけの話しで、歴史的に初期時代からローマ教会が「権威」であったということなど全くありません。むしろ初期キリスト教は、ローマ帝国の首都であった「コンスタンティノポリスの教会」が中心であったと言えます。
 そんな具合ですから、教義の上で権威となる
『聖書』にしても、正式にできあがるのは紀元後も400年に近く、使徒達の世代から350年もたってからのことです。そしてその間は当然「一つなる権威の聖書」というものもありませんでした。つまりこの間は、さまざまの共同体が各地にあり、文書がさまざまに書かれ、各共同体はそれぞれなりにその共同体の認める文書に依拠していたということであり、ようするに「キリスト教として一つ」といえるような状況は無かったと言えるのです。
 そして
「さまざまの会派の勢力争い」という格好になり、最終的に勝った派が「正統」ということになったわけでした。
 その勢力争いは教義上のこともありましたが、むしろ
「政治的な勢力争い」といった様相が強かったと言えます。そして負けた会派は勝った会派によって「異端」とされたのでした。この勢力争いは歴史を通して続くことになり、負けた派は「異端」とされ、負けなかった派は自派を確立して「認知」させていきました。その最たるものが伝統的教会から離反した「カトリック」であり、さらにそのカトリックに離反した「プロテスタント」となります。つまり、もしコンスタンティノポリスなどの伝統教会が圧倒的に強かったならば、「カトリック」は完全に異端とされていた筈ですし、またプロテスタントの場合には実際にカトリックによって迫害され、プロテスタントの先駆となる「ウィクリフ」や「フス」たちは異端とされて断罪されたのでした。後を引き継いだルターたちはその抗争に勝ち抜いて「認知」させてしまった、というのが歴史的事実となります。
 そこで、当時のキリスト教のさまざまの立場を大きくわけて紹介しておきます。

初期時代のキリスト教会派の立場の大枠
1. パウロ主義
キリスト教を西洋に伝道し、キリスト教を最初に理論づけたパウロの主張は、「イエスこそが救世主キリストである」、「その教えの骨幹は“愛の神”の主張にある」、「信仰のみで義とされる」という三点に集約されます。これは後のキリスト教神学の柱ともなるのですが、一方でパウロの立場は「イエスはユダヤ教を打破し乗り越えている」となりますので「反ユダヤ教」的な主張となります。ですからパウロ主義を標榜したマルキオンはユダヤ教を排除したのですが、勢力的に強くなって「正統」となっていったのが「ユダヤ教主義」勢力であっために、このパウロ主義は薄められていきました。現在のプロテスタントは、薄められたこのパウロ主義の思想を回復していますが、他方で原典主義をとっているためユダヤ教主義も強く認め、「パウロ主義」でありながら「ユダヤ教的」という微妙な立場になっています。

2. グノーシス主義
日本語的な意味は「認識主義」となりますが、本来はキリスト教とは無関係な「ギリシャ思想」の一つの展開で、真理への到達として「知的直感的な認識」を主張するものでした。これがキリスト教に入り込んだ時、神の知的直感的認識による神との合一をいうものとなり、その神は唯一絶対的なものと理解され、従って不完全・劣悪なる世界の創造をするわけのないものとして、ユダヤ教のいうこの地上の「創造の神」は劣悪の神として排撃されることになり、またイエスの位置づけは「真実の神」をおしえる者として真実の神の従者的な神として理解されたのでした。

3. マニ教
「善と悪の二神の闘争」
でこの世界を説明し、「魂の不滅」「死後の審判」「神のもとへの再生」を特徴とした「ペルシャのゾロアスター教」の流れにあります。ところが、イエスの思想自体がこのゾロアスターの影響を受けた「後期ユダヤ教」を背景にしているため、キリスト教は「ゾロアスター教」と非常に近い関係にあることになりました。したがって、そのゾロアスターの思想を引き継いだ思想はキリスト教に容易に流れ込んでしまうわけで、その結果として形成されたものが「マニ教」であると言えます。この「マニ教」はキリスト教と多くの点で類似しているものの、ゾロアスターを引き継いだ善悪二元論に基づく世界解釈となってくるわけで、その点で唯一神をいうユダヤ教的理解と厳しく対立しました。そして、ユダヤ教主義をとる最大勢力となったキリスト教共同体に排撃されていった、となるわけです。

4. ユダヤ教主義
結果的に「キリスト教正統派」となった共同体の立場であり、今日にまで続いてくるキリスト教の基本的立場となります。ここでは、イエスが救世主キリストであることは「ユダヤ教聖書に予告」されているとします。従ってイエスの神とユダヤ教の神は全く無矛盾的であり、ただユダヤ教徒の誤解の解釈があったに過ぎず、ユダヤ教の神とはイエスの神にほかならないとします。そのため神の讃歌はユダヤ教の「詩編」にあるとしてそれによってイエスの神を讃えておかしくない、となるわけで、今日殆どのキリスト教の会派がこの立場となっています。

以上の立場の歴史的推移を見ておきます。
キリスト教初期の状況
紀元後30年頃

 ユダヤ教の中にその
「改革者として現れたイエス」をユダヤ教は危険視します。そして、イエルサレムでイエスを十字架にかけて殺します。そのイエスが復活したということでイエスの使徒たちの再結集があり、イエスこそ「メシア・救い主(キリスト)」であったとして共同体を結成し伝道を開始します。これに対するユダヤ教徒の反感とステファノの殉教がありました。

50年前後から60年前後
 この頃からバルナバやパウロによるギリシャ・ローマ人へのいわゆる
「異教徒伝道」が行われるようになります。「パウロ」による「ギリシャ本土への二度にわたる伝道旅行」「共同体の形成」が行われます。ここでの成功がキリスト教興隆の基盤になりました。その後、ユダヤ人に捕らえられたパウロのローマへの護送があり、パウロはローマで殉教と推定されます。
 キリスト教文書の最初となり、現在の『聖書』の書簡部分の中心となる
「パウロ書簡」はこのギリシャ伝道の間に各地の共同体に宛てて執筆されたものです。現在13の書簡が収録されていますが、真筆と断定されているのは7つで、残りはパウロの弟子によるものと推定されています。真筆と断定されている7つは「キリスト教文書の始め」であり、「キリスト教の基本的文書として最重要文書」となります。残りのパウロ以外の執筆者による書簡群は90年代末の後代のものと推定されています。
 同時期に当時の文化の中心地であった
「エジプトのアレクサンドリアへの伝道」が行われています。伝承では「マルコ」によって伝道とされます。そのため「エジプトのコプト・キリスト教」は、どこのキリスト教とも異なり今日に至るも「聖マルコの聖体儀礼」を基礎としています。

紀元後70年前後
 この頃、現行の
『聖書』の主体となる福音書と名付けられている文書の最初である「マルコ福音書」が書かれたと推定されています。「イエス伝承」という文書形式の最初のものとしてこれも最重要文書となります。また、この頃「ユダヤ戦争」でイエルサレムは陥落し「イエスの使徒達の共同体」は崩壊しました。

90年前後
このころ現在の『聖書』の第一と第三福音書として収録されている
「マタイ福音書」「ルカ福音書」が書かれたと推定されています。「使徒言行録」はルカ福音書の続編となります。

90年代末
 第四福音書である
「ヨハネ福音書」が書かれたと推定されています。『聖書』の最期に置かれた「ヨハネの黙示録」もこのころかと推定されます。ただしこの二つのヨハネ文書は文体からして同一人物ではないとされています。
 「ヨハネの黙示録」は
「小アジア」の西海岸から内陸に少しはいった「七つの都市の共同体」に宛てられており、それらはパウロの形成した共同体の流れにあると考えられ、当時ここがキリスト教の中心的な共同体の地域であったと考えられます。

100年代前半
 このころから小アジア・中東・エジプトを中心に
「グノーシス思想」が流行し、これがキリスト教に影響を与え始めたと推定されます。その影響の下にさまざまの「外典」とされている文書が書かれていったと推定されていますが、「外典」がグノーシス主義であるとの認識は、後代のキリスト教の解釈による「先入観的な判断」が多いとも言えます。

150年頃
 
「ユダの福音書」「真理の福音」「ヨハネのアプクリフォン」などが続々と執筆されています。これらも個別の共同体に偏した文書とされ、今日では思想が「グノーシス思想的」であるなどとも言われます。キリスト教正統思想からはそういう判断となるのでしょうが、しかし客観的には必ずしもそうとは言えず、むしろ「政治的勢力争いの結果」とも言えます。この中で「ユダの福音書」が再三にわたって批判・攻撃されているのが目に付きます。内容的に、使徒たちの中でイエスの真実を見抜いていたのは「ユダ」だけであったとしてその真理を語るという筆致になっているので、正統を任ずる共同体としてはとても認められない、というわけでしょう。
 他方、小アジアの黒海沿岸のポントス地方の都市シノペにあった
「マルキオン」はパウロ主義を受け継いで、ユダヤ教の神(戒律の遵守を求める「ねたみの神」)とイエスの「愛の神」を峻別してユダヤ教の神を廃し、「パウロ書簡」と「ルカ福音書」というもっとも初めの文書を根拠にして、そこからユダヤ教的なものを排除して「正典」とする共同体を形成しています(144年)。これが史上初めてのキリスト教正典の編纂となります。
 マルキオンの立場は、客観的に見る限り「ユダヤ教を乗り越えた」とするイエスの立場、ユダヤ教の「ねたみの神・戒律主義の神」を廃して「愛の神」を言うイエスの立場としては最もまっとうな解釈と見られるのですが、最大勢力となって「正統」を主張した「ユダヤ教主義を受け継ぐ教会」の反発を買って迫害され、後に
「異端」とされてしまいます。
 一方、正統を主張するキリスト教会派がどんどん
「組織化・制度化」を進めていくことに反発して、この頃に同じく小アジアのフリギア地方を中心に「宗教的熱情」「終末意識」に根拠を求める「モンタノス派」などが台頭しています。これもイエスのもっていた「終末意識と悔い改めによる救済の教え」から見れば「まっとうな運動」と言えるのですが、組織化・制度化を激しくしていた主流の教会から排撃されて滅亡してしまいます。この時期のキリスト教の状況が良く見える運動でした。

180年頃
 現在のフランス地方になるリヨンにあったキリスト教共同体の指導者
「エイレナイオス」「ユダの福音書」を激しく攻撃しています。「ユダの福音書」の影響力の強さが伺える事件ですが、当時のキリスト教思想界の状況が良く分かります。

200年はじめ頃
 
「大いなるセツの第二の教え」が書かれたと推定されます。これも今日「グノーシス的」であるとされています。要するに、今日「正統」とされているキリスト教の立場と異なるものはすべて「グノーシス的」とされてしまうといういささかヒステリックな「キリスト教主流派」の立場が見えます。つまり、正統派は「ユダヤ教主義」なので、「反ユダヤ教」的なものはすべて「グノーシス的」としてしまうのでした。
 さらにこの時代にペルシャの
ゾロアスター教の流れにある「マニ」が新たな宗教活動を始めています。これは「マニ教」と呼ばれ、その思想は「善悪二元論」に基づきながら内容的に反ユダヤ教的なグノーシス思想に近く、これがキリスト教に入り込んで大きな影響を与えました。その結果「マニ教」は「正統派」となる「ユダヤ教主義的なキリスト共同体」から激しい弾圧を受けることになったのでした。

313年
 ローマ皇帝を争っていたリキニウスとコンスタンティヌスによる
「ミラノの勅令」によりキリスト教が公認されます。こうしてキリスト教共同体は「一つ」にまとまる機運が高まり、「教会の組織化・制度化に加えて神学的体系化」も促進されていくことになりす。初期時代の歴史を通してこの主体になったのが、「ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスの教会」でした。

367年
 
エジプト・アレクサンドリアのアタナシウスが、結果的に現在の新約聖書文書群となることになった「27篇の文書」を初めて提示しています。

375年
 サラミスのエピファニオスが、再び
「ユダの福音書」を非難・攻撃しています。未だその勢力は衰えてはいないことが理解されます。

392年
 皇帝テオドシウスによりキリスト教は
「ローマ帝国の国教」となります。この段階で一つなる「キリスト教団」が形成されたと言い得ます。その勝ち残った共同体は「ユダヤ教主義的キリスト教」であり、それとは異なった立場に立つ共同体はグノーシス主義・マニ教的などとされて「異端」とされ、これ以降公に断罪・排撃されることになりました。

397年
 第三回カルタゴ会議において現在の新約聖書27篇が正式に認められました。こうして初期教会以降350年以上経って、やっと「基準」が立てられたというわけでした。

まとめ
 権威となる
『聖書』の形成を見ると、パウロが最初の書簡文書を書いてから350年もの間右往左往していたあげく、ローマ帝国の国教になったところでやっと権威となる『聖書』がまとめられた、といった案配になっています。ですからこの間、さまざまの共同体がさまざまに自分たちの聖典をもっていても全然おかしくないわけでした。
 似た状況は仏教にあるので比較してみると、仏教でも始祖仏陀の書いたものなど存在しませんでした。文書としては初期の弟子達によって「自分の理解した仏陀の教え」が書かれて、さらに仏陀から500年以降になっていわゆる「大乗仏典」が山のように書かれました。これは後世の人々が自分たちの理解する仏陀のおしえを書いただけに過ぎません。ですからそれらは違いがありすぎて矛盾だらけでした。しかし彼らは対立・闘争などには持ち込まず、「一つの仏教の聖典」としてまとめることなどもせず、会派ごとに好きなものを聖典とするという形で落ち着きました。
 キリスト教の場合も、たくさんの立場がありたくさんの文書が書かれたということでは同じだったのですが、こちらは
「対立・闘争」を繰り返して「淘汰」されていったと言えます。ですから仏教的に考えれば、当時のキリスト教文書で「淘汰」されたものでも、「聖典」とされていて全然おかしくないものはたくさんあるだろう、ということになります。しかしキリスト教はそうした仏教的立場を取らず「一つにする」という方向をとったということなのです。

旧約聖書
 これは
「ユダヤ教の聖書」です。キリスト教というのは、本来ユダヤ教を乗り越え打ち破り、その「ねたみの神、戒律主義の神」を破棄せしめ、新たなる「愛の神」を教えるものであった筈ですからユダヤ教の聖典などにこだわる必要は全くなかった筈です。
 そして実際、初めてのキリスト教神学者とも言える伝道師パウロは、ユダヤ人でありながらその伝道においてユダヤ教の聖典を根拠に語るということはしていませんでした。彼の主張は「イエスこそが救世主」だということ、その教えの骨幹は「愛」にあるということに尽きています。むしろ「愛の神」を主張したければ一層ユダヤ教の神を否定しなければならない筈です。そしてそうした立場は
マルキオングノーシス主義キリスト者もそうであり、その勢力も大きなものがありました。
 しかし彼らは負けて、
「ユダヤ教にこだわる派」が勝ちを収め、それが結局「正統」となります。そのキリスト教正統派の人々は何故ユダヤ教の聖典にこだわり、あまつさえそれを自分たちの聖典の一部にしてしまったのか、ここにも理由がなければなりません。
 その最大の理由は、
「マタイ福音書」に濃厚に現れていることですが、「キリストとしてのイエスはユダヤ教がすでに予告している」、と「読みたかったから」だと思われます。つまり、ユダヤ教で言っている「メシア」とは「すなわちイエス」であるということを言いたいためであったと言えます。もちろんユダヤ教徒はそんなことは絶対認めません。ものが「ユダヤ教の聖典」なのですから当たり前の話しです。ユダヤ教の聖典に「イエス・キリストが予言されている」とあっては、ユダヤ教はバカみたいな話しになってしまいます。
 しかし一方、当時のキリスト者の立場に立ってみると、イエスがキリストであるということを
「何を根拠に」語るのかが問題になったと考えられます。何をもってイエスが「救世主キリスト」なのかを示すかというと、イエスが出たユダヤ教の聖典以外には何もなかったのです。もちろんキリスト教の主体となったギリシャ・ローマの人々はユダヤ教など知りはしませんが、「伝道する側」にしてみれば、自分が教えることが「何に依拠」しているかを確認できるかできないかは大きな違いがあったでしょう。こうして「マタイ福音書」は成立してきたし、他の文書の権威もユダヤ教文書に根拠を求めることで確固としたものにすることができるだろう、と考えられたと思われます。こうしてユダヤ教はキリスト教にそのまま受け継がれてしまったといえるのです。
 確かに、この段階ではユダヤ教聖典は
「キリスト教のために」であって、ユダヤ教の聖典の読み方はイエスの教えを根拠付けるかぎりにおいて、という制限のようなものが暗黙にあったと信じられます。しかし結局、時代が下がってくるとこれがどうも怪しくなってきてキリスト教内にユダヤ教的な色彩が強くなってしまいました。とりわけそれは「プロテスタントの一派」に強く見られます。
 こうして見ると、当時の争いは、イエスが
「純粋に救世主キリスト」であるとしてそこだけに信仰を求めようとした人々と、「文献的な根拠をもって」理解したいという理論派との間の争いであったと言えるわけで、これを比較すると、勢力の拡大においては「理論派」の方が組織形成力において強かったと言えるわけです。ですからまたキリスト教は初期の時代から「神学」というものを発展させていったと言えるわけです。

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