8.イエスにまつわる伝承 - 2. イエスとユダヤ教「パリサイ派」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

8.イエスにまつわる伝承〜イエスは如何にして「救世主キリスト」となったのか〜
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INDEX
1. イエス論とは。背景としてのユダヤ教
2. イエスとユダヤ教「パリサイ派」
3. イエスと洗礼者ヨハネ
4. イエスの教え「愛こそすべて」
5. イエスの行動、その使命と奇跡物語
6. イエスの十字架と復活
7. 12弟子と「ユダ」および「マグダラのマリア」

2.

イエスとユダヤ教「パリサイ派」


はじめに
 
この第二章は、イエスを生み出したユダヤ教の、その「会派」の問題を見ます。つまり、ユダヤ教といってもイエスの時代には一つだったわけではなく、会派があって、その思想に大きな違いがあるからです。結論的に言えば、イエスは「パリサイ派」の思想の下に出現していることになります。キリスト教に特徴的な、「天使だとか復活だとか最後の審判」だとかはこのパリサイ派に独特のものだったのです。
 ただ、イエスは現行の『聖書』において「パリサイ派」を徹底的に批判しているため、イエスとパリサイ派については
「敵対関係」と思ってしまう人が多いのですが、実はイエスの批判というのはその教義に向けられているのではなく、パリサイ派の持っていた「偽善性という態度」にあったのです。つまり、イエスはパリサイ派の思想そのものを批判・否定していることは全くなかったということを理解しておいてください。
 さて、イエスを論ずる場合、その扱いに大きく分けてキリスト教信仰の立場、歴史学的立場、思想的立場があり、キリスト教信仰の立場からすると後の二つの立場は「信仰のつまずき」になる要素もあるということは前章で示しておきました。その意味でこの章はつまずきとまではならないかもしれませんが、キリスト教信仰の立場からはあまりおもしろくないかもしれません。というのも、イエスは当時存在していた「ユダヤ教宗派の一人の教師、ただし結局異端とされた教師」ということになってしまうからです。しかし、思想史的立場からは非常に重要な問題となります。

イエスの時代までのユダヤ
 先ず
「ユダヤ教の成立」までを簡単にみておきます。私達の使っている「西暦」というのはイエスの誕生を紀元としていますが、そのイエスの生誕のちょうど1000年くらい前、つまり紀元前1000年頃、12部族からなるイスラエル民族は「サウル」によって統一されて国家形態を示すようになっていきます。そして、続く「ダビデ王」の時代から統一国家として歴史に登場してきます。
 しかし、そのイスラエルはまとまらず、続く
「ソロモン」が自分の部族「ユダ族」だけを優遇する政策をとったため他の11部族は怒って離反し、国は分裂してしまいます(紀元前922年)。分裂した「北のイスラエル」はほどなくアッシリアによって滅亡してしまい(紀元前722年)、さらに南の「ユダ王国」もバビロニアに離反したことから攻められて、住民はバビロンに捕らえられてしまいます。これを一般に「バビロン捕囚」などと呼んでいます(前586年)。しかし、そのバビロンはほどなくペルシャの軍門に下り、捕らえられていた「ユダ部族(ここからユダヤ人という呼称が生ずる)」は解放され、こうしてユダヤ人はイエルサレムに帰還しました。ただしもちろん、イスラエルという国が再建されたわけではなく、政治的支配は当然ペルシャとなります。
 解放されたユダヤ人は、自分たちの不運は「ヤハウェ信仰」の不完全さにあったということで、ソロモンが建設しバビロニアに破壊されていた
「神殿」を再建し(前516年。これをソロモンの第一神殿に続く「第二神殿」とする)、さらに従来のヘブライ神話に基づく祭儀宗教的なあり方を整備し、一つの体系を形成して私達が「ユダヤ教」と呼ぶ宗教体制が整備されました。

「ユダヤ教」の成立と「律法主義」
 こうして彼等はイエルサレムに再び神殿を建立し、ここに「ヨシア王」によって始められていたイスラエル民族の宗教的結合体が明確に意識化されていったのでした。なお、人類の社会史は多くが「祭政一致」の社会であり、「王」が同時に「最高神官」という形態が普通で、ユダヤでも同様であったということです。従って、宗教改革者は「社会革命家」と同じになってしまうことが多く、それゆえにイエスの十字架刑での罪状が「ユダヤ人の王を僭称するもの」となっていたのでした。イエスの宗教改革運動は同時に「社会革命」であり、またそれは「王」を僭称すると理解されて当然であったのです。
 それはともあれ、この「ヨシア王」の宗教改革運動をもって一般に「ユダヤ教」の成立としています。実際、この時は「神殿の再建」というだけではなく、この時代から始めて「モーゼの律法」が定式をもってユダヤ民族に語られ、その現実的適応解釈ということが行われるようになったからです。
 この
「律法意識」は「ヨシア王の呼びかけ」の筋にあり、イスラエル民族が「神の戒め」に従わなかったために「イスラエル王国の滅亡」「バビロン補囚」といった民族の悲惨が生じたのであって、「神への服従」を徹底すべきという意識であったわけです。ここに「神の戒律」つまり「律法の順守」というユダヤ教の特質が確立することになったのでした。
 それは、当時「エズラ」という預言者が現れて「モーゼの律法」を携え来たり、公衆にそれを読み聞かせると同時に「解説」するという形で人々の中に浸透させていったことが大きな力となっていました。「解説」というのは「意味を解釈する」ということであり、それは「現実への適応」という働きを持っていました。実際「エズラ」は「文字」を現実に生きたものとして適応させた「最初の律法学者」とも言え、彼以降こうした働きは一般化し時代に応じた適用のために注釈が加えられていくようになります。さらに文章化されている「律法」だけではカバーしきれない事柄のためにも戒律がさだめられなければならなくなり、それらにも「権威に基づいた戒律」が定められていきます。これらを「口伝律法」と呼んでいますが、こうした働きをする人たちのことを
「律法学者」と呼びユダヤ教的には「ラビ(教師)」と呼びます。
 ですから「イエス」もユダヤ教的に言えば
「一人のラビ(教師)」、ただしその「解釈を逸脱させた異端のラビ」ということになってくるのです。つまりラビによる解釈も自ずから一定の枠があるのであり、それは「神殿祭儀」後には「シナゴーグ(集会所)」あるいは「サンヘドリン(議会)」の権威に基づいていなければならないわけで、イエスのように神官たちに敵対して「神殿を転覆させる」のが目的ではやはり認められませんでした。
 つまり、ユダヤ教にあっては祭儀宗教・律法学者集団による宗教組織内部での提言という形で解釈・注解は行われ増大していくのでした。こうして出来上がっていく「戒律群」は、ダビデの「イスラエル国家」の崩壊以降「国家体制」を持たないユダヤ人にとって「法律」「道徳」の役割を果たすことになり、民族を束ねる強固な「タガ」となりました。これは今日に至るも変わりません。
 一方こうして律法も膨大になっていきますが、それまでは「口伝」でしたので人々はその膨大さについていけず、やがて紀元前後にこれらが整理され、まとめられていきます。これを『ミシュナー』と呼んでいます。この『ミシュナー』もさらに注釈が加えられそれがまとめられて『ゲマラ』と呼ばれるものができあがっていきました。この二つはやがて一本にまとめられ
『タルムード』とよばれるものになりました。
 この集成の過程に二段階があり、最初は紀元後四世紀にパレスチナで、さらに紀元後六世紀になってバビロニアでまとめられました。当然後者の方が分量も多く重要視されています。そして結局のところ「ユダヤ人」を導いているのはこの『タルムード』ということになり、これが「聖典」と呼ぶべき位置にあるのですが、何せ「モーゼ以来」のものですから膨大なものになっていて現在書物の形にして大冊数十巻になってしまうといいます。
 もちろん、「モーゼ五書」ないし「律法の書」(『旧約聖書』の最初の五書がそれに相当します)というのが本来の「聖典」の核なのでしょうけれど、現実にはこの『タルムード』こそがユダヤ人の生活・価値観すべてを律しているものとなっており、したがってユダヤ人の社会ではいつでもどこでもこの「タルムードの学校」がたくさん作られ教育されていたのでした。そしてこれが長い間国家を持てないでいたユダヤ人を「ユダヤ人」としてまとめていた原動力だったと言えるのです。

 ただしここに一つの問題点が指摘されます。それは「律法・戒律」が厳格になるのはいいとして、非常に
「形式的・教条主義的」になる傾向があることでした。例えば「安息日の規定」を例に挙げると、金曜日の日没(日没が一日の終わりであり始まりだからです)から土曜日の日没に至る安息日には「働く」ことはもちろんですが「髪をそってはならない」「爪を切ってはならない」「二針以上縫ってはならない」「二文字以上書いてはならない」と「ないないづくし」で「火事も消してはならない」となり、要するに「祈りだけ」しかできない仕組みになっているのでした。ですから「救助活動」も「病人の看護」もできないわけで、こうしたユダヤ教の「教条主義」に怒って反抗していったのが「イエス」だったのです。
 しかし「ユダヤ教」の立場に立てば、「律法」は厳格に守られて始めて「律法」となりうるのであって「例外」を認めていったらキリがなくなり「律法」の意味がなくなるということになるわけでした。

イエスが生きた時代のユダヤ人社会
ユダヤ人たちのあり方ですが、ペルシャ支配時代は「国」こそ再建はされませんでしたがペルシャ王の庇護のもと、民族としての文化も宗教も認められて堂々と「ユダヤ人」として生きていくことができたようです。しかし、そのペルシャはギリシャ征服をたくらんで侵略までしたために、ギリシャ北方「マケドニア地方」の「アレクサンドロス大王」の東征を招くこととなり、滅ぼされてしまいました(前331年)。そして中東地方も、ペルシャ征服直後に若くして死んだ大王の後継者たちによって急速に
「ギリシャ化」されてくることになりまし。
 ギリシャ文化というのは非常に高度な文化でしたから中東地方はアッという間にギリシャ化してしまいます。こうした時代をギリシャの本名「ヘラス」からとって
「ヘレニズム(ギリシャ主義、ギリシャ風文化)」と呼んでいるわけです。
 そしてついにセレウコス朝によって「ユダヤ教」の禁止令がだされてきたことで「民族の危機」ということで立ち上がったのが
「マカベア兄弟」でした。ユダヤ教を奉ずるユダヤ人は彼等の指導のもとで反抗し(紀元前168〜141年)、ついに勝利を得て「マカベア兄弟」の属する「ハスモン家」による「ユダヤの自治」を勝ち取りました。しかし、喜んだのもつかの間でやがてこの地方は西から台頭してきた「ローマ」の支配下に入ってしまいます(紀元前63年)。
 イエスが現れるのはそうした時代でした。つまり、この当時パレスチナ地方はギリシャ化して300年経ち、時の支配者はローマ帝国であったというわけです。

当時のユダヤ教の代表パリサイ派
 古来ユダヤ人はその宗教儀礼を当然イエルサレムの「神殿の丘」にある「神殿」を中心にした
「神殿祭儀」の形で守っていたわけですが、一方で「バビロン補囚」の時代は神殿など失っているわけですから「神殿祭儀」はできませんでした。
 そこで彼等は「集会所=礼拝所」などを便宜的に作ってその信仰を守っていたようです。その形態がバビロンから帰還した後も引き継がれたようで各地に
「集会所=礼拝所」が設けられてそこで礼拝と律法研究が行われていきました。こうした「集会所=礼拝所」を「シナゴーグ」といいました。イエスの時代もこうした活動が盛んとなっており、そうしたシナゴーグを拠点に活動していたのがいわゆる「パリサイ派」だったのです。
 むろん、ユダヤ教はパリサイ派だけがあったわけではなく、旧来の「祭司階級」も存続しており従来のユダヤ教の伝統を守っていました。この派を
「サドカイ派」といいます。
 そうした状況の中で、パリサイ派は紀元前二世紀頃から台頭します。この派は祭司階級ではない一般信徒ならびに律法学者たちが形成した共同体で、イエスの登場当時もっとも勢力の強い派でした。
 それにもかかわらず彼らは祭司階級に課せられる規定を日常的にも厳格に守ろうといった宗教的熱狂性を持っていて律法を文字通り厳格に守ろうとしていました。ですから伝道者パウロも自分がかつて属していたこの派について「もっとも厳しい派」であると言っています(「使徒言行録」26の5)。
 このパリサイ派が重要なのは、結局この派が後にユダヤ教を代表することになって後世のユダヤ教の方向を定めたからですが、一方イエスが批判していた
「イエスの敵対者」とされたこともこの派を有名にしていると言えます。
 イエスがこのパリサイ派を敵視していたためこの派は何か評判が悪い印象がありますが、実際はユダヤ民衆の支持を受けていた派であることが歴史学者ヨセフスなどによっても確認できます(『ユダヤ戦記』U162〜166、『古代誌』18.11〜17など)。従って、イエスが彼等を批判したのはその思想的教義そのものよりも、その「厳格な律法主義」が「形式的・教条的」になりさらに「文字面の遵守」になってその精神を忘れた
「偽善」となっていると見られたからだと言えます。イエスの批判がこの「偽善」にのみ向いているのは新約聖書のあちこちで確認できます。その「偽善」は実際にあったことでしょうからそれはイエスの言うとおりとして、ここでは彼等の教義の一端をみておきましょう。

 
1、律法
 まず「律法」については「モーゼの成文律法」だけではなく、成文になっていない事柄について学者が律法の精神に基づいて解釈して定めた
「口伝律法」も認めたことが大きいです。祭司集団中心のサドカイ派が「成文律法」だけを認めたのに対してパリサイ派が律法学者による戒律までも認め、そしてこの派が主流になったことが後の『タルムード(生活習慣から人のあり方、定めまで規定した口伝律法の集大成されたもの)』の成立を可能にしたのでした。ですからある意味で『タルムード』中心の今日のユダヤ教の生みの親でもあったのです。

 
2、「霊魂の不滅」「肉体の復活」「死後の裁き」
 後のキリスト教に著しい特徴となるこうした思想は実はパリサイ派に由来しています。 つまりパリサイ派では
「霊魂は死後も存続し、死後の報いと刑罰があり、有徳な人間は新しき生への道を与えられ、悪しき霊魂には永遠の刑罰がある」と考えていたことが歴史学者ヨセフスによって報告されています。ヨセフス自身パリサイ派に属していたのでこれは確実な証言でしょう。そしてイエスの伝道師パウロもユダヤ教徒に捕らえられた時、「自分はパリサイ派の者だが、復活の思想の故に裁かれている」と釈明したことから大騒ぎとなり、パウロは「復活、天使、霊」といった存在を信じる立場のパリサイ派の律法学者に擁護されたりしています(使徒言行録23.6以下)。
 しかし実はこうした思想は伝統的な
「ヘブライ神話」には全く存在しないのです。ですから伝統を重視するサドカイ派はこうした事柄を一切認めていませんでした。それなのに何故パリサイ派がこうした思想を持つに至ったか、その原因がどこにあるかが問題となります。
 思想的な流れをユダヤ教の中で探せば
「ダニエル書」になりますが、この書はユダヤ教の歴史としてははるか後代のギリシャ思想の影響下にあるヘレニズム期(前300年以降)のものとなりますので、後代の思想の影響を強く受けている可能性が強く、ですからこれは根拠として使えません。
 一方歴史家ヨセフスは「パリサイ派はギリシャのストア派に似ている」という評価をしています(『自伝』12)。しかし、ストア学派はユダヤ人にとっては仇敵とも言えるヘレニズム王朝、つまりギリシャ人の思想ですから思想的にそう影響を受けたとは考えにくいとも思えます。おそらくは「生活態度が似ている」といったところであると考えられ、それはその通りなのでした。
 そうだとすると、それよりもっと直接的で端的にして強烈に影響を与えたと考えられるのは「ユダヤの解放者であり支配者」であった
「ペルシャの思想」であると考えられます。ユダヤ人はヘレニズム期以前の紀元前600年代から300年までは「ペルシャ」の支配下にあり、それに先だってそのペルシャのおかげでユダヤ人は解放されてユダヤ教を形成することができたのですから「解放者(恩人)であり支配者」であったペルシャ思想を取り入れていたとして何ら不思議ではなく、むしろ影響を受けていない方がおかしいくらいです。
 そしてそのペルシャの国教となっていたのが
「ゾロアスター教」と呼ばれる宗教であり、このゾロアスター教というのは今掲げたような「霊魂の死後の不滅」を前提とした「死後の裁判と復活」という思想で形成されているような宗教だったのでした。ここではまた「天使」が大きな働きをしており、「霊」も確実に存在しています。ですから結論的に言えば、後期ユダヤ教(パリサイ派)及びキリスト教の核となる思想はゾロアスター教からの影響であったということは殆ど確実といえると思います。
 それはとにかくこの時代に「ユダヤ教」が新たな思想のもとに形成されてきているということがここに明確に確認できるのでした。そしてさらにイエスがパリサイ派のこの思想に大きな影響を受けているということはほぼ確実に信じられることです。

 
3、運命ないし神の摂理と人間の自由意志
 パリサイ派では
「運命、むしろ神の摂理は全面的に認めていたけれど、人間の能力の範囲の中での自由意志も認めていた」と先に言及したヨセフスによって報告されています。この思想は後のキリスト教でも大問題とされた事柄ですが、何故かというと神の摂理と人間の自由意志とは論理的には矛盾してくるからです。「神の摂理」というのは神の創造されたこの地上世界は、存在も運動もすべてどんな小さなことにも神の意志が行き渡っていてこぼれるものはないということになるわけで、「自由意志」とは要するに「神の摂理」の範囲を超えることになるからです。もちろんこんなことになっては困るので、キリスト教はこの思想を整合させることに神学的努力を傾けなければならなかったのでした。
 パリサイ派の場面ではそうした論理的整合性ということはまだ意識されていなかったようで、摂理は摂理なのだが、人間はたぐり人形のようなものではない、といったレベルでの理解であったようです。

 
4、友愛
 以上はキリスト教の新約聖書でも確認できる思想的特質ですが、歴史家ヨセフスはこれらの特質に加えて、生活態度として
「彼等は互いに愛し合い共同社会においての和合を計った」と述べています。サドカイ派にはこうした性格がないと付記しているのでこれもパリサイ派に特徴的だったのでしょう。つまりは「友愛的な共同体」ということになるわけで、これも後のキリスト教に引き継がれる性格であったと言えます。
 その他にヨセフスはパリサイ派について
「生活様式は簡素でぜいたくを退けていた」と述べ、そして彼等は教義が示す「善」を求め、教えに従い、教えにふさわしい多くの戒めを守った、とあります。そして長老には敬意と恭順の態度を持ち、軽々しく反抗するなどということはしなかったとありますので、秩序正しい集団であったようでした。
 こんなわけでヨセフスは、パリサイ派というのは町に住む人々の信望を集め、多くの人がその教えにたがったがそれはパリサイ派の高徳に対する敬意の表れである、と述べているのでした。以上の証言をかなりさっ引いても、パリサイ派が多くの人々の信望を実際に集めていて相当の勢力を持った集団であったことは確実だと考えられます。

サドカイ派
 パリサイ派と競合関係にあった派ですが、パリサイ派が宗教色を強くした派であったのに対してこちらはむしろ
「政治勢力」といった様相が強かったと評されています。というのも彼等は上流階級に属していて「祭司階級」を独占し、権力に意を向けていたからだとされます。彼等は「議会(サンヘドリン)」を独占して、時の権力者と良い関係を持つことに腐心していたようでした。彼等は神殿を独占してここに関わる一切の特権を保持してしまい、そのため民衆には全く人気がないとヨセフスは述べています。
 思想的には当然保守派で、
「神殿祭儀」を中心にし、「ヘブライ神話」の中の成文律法だけをみとめパリサイ派のようにそこに書かれていない思想を認めるということは一切しませんでした。一方、神を遙かな高みに置いてしまい、他方で人間の自由意志を強く認めたために「神の摂理」という思想がほとんどなかったとされます。
 こうしたサドカイ派に対してもイエスはパリサイ派と並べて批判していますが、あまり思想的でなく民衆にも人気のない「少数の特権階級の人間」のものだったためかイエスの視野にはあまり入ってこなかったようでその言及はさほど多いとはいえません。

エッセネ派
 このエッセネ派についてもヨセフスは「三つの派」として勘定に入れていますのでヨセフスの時代には(紀元後37〜100年頃)相応の勢力を持っていた派であったと考えられます。ところが不思議なことにイエス及び使徒達はこの
「エッセネ派」については一言の言及もしていないのです。ということはイエスの時代にはまだこんな派はなかったのかと考えられます。使徒達の世代はヨセフスとも重なってきますが、イエスが言及していなかった以上彼等も敢えて言及はしなかったのでしょうか。そんなことからこのエッセネ派は紀元後一世紀、つまりヨセフスの世代に形成されたと考えられてきました。
 ところが20世紀になって「死海」のほとりの「クムラン洞窟」で大量の文書が発見され(一般に
「死海文書」と呼ばれる)、そこにあった「教団」の存在が確認されました。この教団は紀元前にさかのぼりますのでイエスの時代には存在していたとされます。そしてその思想内容から一般にこの「クムラン教団」と「エッセネ派」とは同一と見られるようになりました。
 この派の特色としては
「禁欲主義」が挙げられます。彼等の主体は農民・手工業者であったようですが、とにかく徹底して身を清め、それは精神的にも肉体的にもであり、従って「沐浴」を常にし、菜食主義で動物の犠牲も禁じ、私有財産も持たず、結婚も拒否して独身を守り、戒律を厳守する派でした。この派のあり方が後代のキリスト教の「修道院」と似ているということでキリスト教への影響を指摘する学者もいるようですが、しかしエッセネ派は急速に消滅してしまった派であり、また修道というのはかなり後代になってから生じたものですので直接的な影響を指摘するのは無理でしょう。
 またイエスとの関係ですが、この「死海文書」が発見されて以来この「クムラン・エッセネ派」とイエスとの関係が流行のように論じられましたが、結論はでていないもののこれもどうも無理のような感じがします。たしかにイエスのユダヤ教思想・律法の理解は常人を超えたものがありますので、どこかで勉学・訓育されていたはずと考えるは自然です。そしてイエスのパリサイ派やサドカイ派への態度が批判的なのでその派に属していたとは考えられないとされ、そこで残った「クムラン教団」が候補となり、しかもこの派の「潔癖性」がイエスに通ずるところがあるということでその思想の近似性などが論じられたのです。しかし、何よりイエスが一言も言及していないというのはその可能性を否定すると思います。というのも何故「パリサイ派やサドカイ派」にはしばしば言及して批判しているのに、自分が属していた(とされる)「クムラン教団」については沈黙を守っているのか説明がつかないからです。
 以上のように見てくると、イエスは思想的には「パリサイ派」を受け継ぎ(たとえば「霊」「復活」「運命」「神の摂理」「死後の審判」「友愛的共同体」などの考え方)、他方で、パリサイ派の持つ教条的な律法理解を退け、さらに、次に見る「洗礼者ヨハネ」にある「悔い改めと洗礼」を引き継いで、それらを深化して自らの思想を形成していったと理解できるわけでした。
 この段階でのイエスはもちろん「ユダヤ教の一人の教師」でしかありませんが、その「解釈の斬新さ」が後にイエスを特殊化させるのであり、その特殊性の背景として以上の事柄が重要となるのでした。

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