7. 日本の神々と仏たちの正体 - 8. 日本での仏教宗派と信仰形態 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

7. 日本の神々と仏たちの正体
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INDEX
1. 日本の宗教文化のありよう
2. 日本の伝統の宗教―神道―
3. 日本の伝統的な民衆の神々
4. 『古事記』の神々
5. 「神仏習合」とは何か
6. 仏教の発祥と仏陀の思想
7. 仏教の展開
8. 日本での仏教宗派と信仰形態
9. 仏像とは何なのか

8.

日本での仏教宗派と信仰形態


はじめに
 日本の仏教は伝えられて以降さまざまの展開を遂げているのですが、それらの一つの現象として
「さまざまの宗派」と「さまざまの信仰形態」が生まれている、ということも特徴の一つとなります。むろん、複数の宗派を持つということは大きな宗教では普通にあることですが、そこには「離反・争い・敵意」という性格がついて回っています。しかし、日本仏教に限ってはそうした確執が殆どないのです。みんな横並びで、「他人は他人、自分は自分」という性格をもっています。ここではそのさまざまの宗派と、観音信仰とか地蔵信仰といったさまざまの信仰形態の代表的なものを紹介しておきます。

日本仏教13宗
 通常、日本での宗派は「13宗」と数えられ、さらにそれが多くの分派になってくるという形になってきます。ここではその「13宗」を紹介します。順序は一応歴史的順序と同類項とを組み合わせておきます。

1. 律宗。 奈良仏教、いわゆる「南都六宗」の一つ。「戒律」の哲学的研究。
2. 華厳宗。 上に同じ。「華厳経」の縁起説の哲学的研究。
3. 法相宗。 上に同じ。唯識(すべてのものの実相はただ心の働きに過ぎないとする哲学)の研究。
4. 天台宗。 最澄の宗派。法華宗を中心に戒律、禅、念仏、密教などを含んだ総合的仏教で多くの宗派の母胎。
5. 真言宗。 空海の宗派。密教のみ。
6. 融通念仏。 天台宗から出た「良忍」の宗派。念仏宗の始祖。一人の念仏が万人に「融通」するとする。
7. 浄土宗。 法然の宗派。「念仏のみ」にての成仏を主張。
8. 浄土真宗。 親鸞の宗派。阿弥陀への「信仰のみ」にての成仏を主張。
9. 時宗。 一遍の宗派。すべてを捨て去った「念仏」と「踊り念仏」。
10. 臨済宗。 栄西の宗派。禅宗。公案による禅。
11. 曹洞宗。 道元の宗派。ただ座禅のみ。
12. 黄檗宗。 隠元の宗派。禅宗。念仏禅。
13. 日蓮宗。 日蓮の宗派。法華経のみによる「法華経の国家」建設を主張。

上記13宗の中の主要宗派
天台宗
 これは
「最澄」の始めた宗派としてとりわけ有名で、「鎌倉六宗の母胎」でもあって、言ってみれば「日本仏教の母」とも言える存在です。仏教史的に最も重要な宗派であり、今日でもその重要性は変わりません。
 その日本天台宗の母胎は
「中国の天台宗」にあり、それは智(ちぎ)によってはじめられたもので、「法華経」を中心にし、理論と実践を完備させた体系を持っていました。
 法華経というのはさまざまの比喩の物語を用いたりして
「仏の功徳」を語ったもので、たとえば、「家が火事になっているのにその中にいる子供たちは遊びに夢中で、事態の深刻さなどにとんと気付こうともしない。そこで、外に羊の車、鹿の車、牛の車があるよ、と声をかけてやると大喜びで出てきた。そして子供たちがでてきたところで立派な白牛の車を与えた………」などという話があるのですが、この「火事の家」というのは私たちの現実であり、それが火事であるにも気が付いていない子供とは私たち自身を表し、三台の車というのはこれまでに説かれてきた悟りへの道をいい、白牛の車というのはそれを凌駕する究極の教えである、といった具合です。
 こんな具合に哲学的理論に偏っていないことや、すべての衆生の成仏の可能性の中に
「女性の成仏の可能性」をも示唆していると読める点、また釈迦は死んだと思われているけどそうではなく、本当はしょっちゅうこの世にあって衆生を救済しているのだけれど、阿呆のようになっている衆生は気がつかないのでショックを与えて気が付くようにするため「死んだふり」をしてみせたのだ、とかの話で「仏への帰依」の効果を語っているものでした。
 ただ最澄はこれだけに依拠するのではなく、
「禅」や「戒律」「密教」までも学んで、これを統合させようとしました。こうした「総合性」が天台宗の最大の特徴でしょう。そうした立場から彼はまだ認められていなかった「大乗による戒律」の認知に生涯を傾け、日本における大乗仏教の礎石を築いて行きました。こうして、ここからさまざまの宗派が育っていったのでした。
 ただ
「密教」に関しては、最澄は自分の勉強不足を自覚しており、それを隠すなどということはせずに、年下の空海などに頭を下げて教えを乞うたりしています。誠実な態度でしたが、一方空海の方はそれを拒絶したばかりか、これ幸いと最澄の高弟を自分のところに引き抜いてしまったりして最澄に打撃を与えたりしています。そうした経緯があったせいか、最澄の弟子達は「密教」の勉強に必死になって、やがてむしろ密教の方に偏ってしまったりもしています。そうした天台宗の密教を「台密」と呼んで、空海の「真言宗」の「東密」と区別しています。天台宗の総本山は「比叡山の延暦寺」です。

真言宗
 最澄の天台宗と並ぶ日本仏教の礎石の一つで
「空海」によって築かれました。この派は最澄が「総合的仏教」をこころざしたのに反し、ここは「密教一筋」です。彼は最澄と同じく中国に渡り、恵果について密教を学びました。そして持ち帰った経典を朝廷に献上し、「嵯峨天皇の強い支援」をえるのに成功してここに真言宗は大きな勢力となる基盤をえられます。
 この空海の真言宗が朝廷に気にいられたのは、もちろんこれまでの奈良仏教が強大になり過ぎて朝廷の手におえなくなり、新しい仏教にそれと対抗させようとした理由も確実ですが(それは最澄にも期待されていました)、特に真言宗の場合にはその呪術的性格が朝廷の
「護国・鎮守の願い」と合致したからだと考えられます。
 ただしもちろん仏教教理的には本来の仏教の目的としての
「大日如来」と合一することが求められたものですが、その性格に民間信仰が加わっていたために「悪霊退散」的な呪術的性格があって、これが朝廷に気に入られたのです。
 ところで、これが「密教」と呼ばれるのは、釈迦以来の教えは「人間にわかる言葉に顕れて」はいるが言ってみれば影のようなもので
「真実は秘されている」とするからです。その「秘されている」教えを得て仏になるというわけなので「密教」と言われてくるわけです(これまでの教えは「顕れ」ている、というところから「顕教」と呼びました)、
 しかしその真実は大日如来によって常に語られてはいるとします。ただ人間の身では
「煩悩」のためにこれを聞くことができないので、修行してこれを聞けるようになるのが目的だ、とされてくるわけでした。
 そしてこの場面で、あたかも太陽が池に映っているように、大日如来(太陽)は我が身(池)にあり、池の水が太陽を映すように、我が身(我)は太陽(大日如来)を映している、とします。これを
「梵我一如」といいますが、この状態を「加持」と言っています。これには「身体、口、意」の三つ(これを三密といいます)のすべてがそうなっていなければならないので「三密加持」と言います。つまり、その身体においては「印契」を結び、口には「ダラニ」を、そして意において「瞑想」するわけですが、その瞑想が「曼陀羅の世界」であったり、あるいは「阿字観」と呼ばれる世界の始めを瞑想することでした。こうして人間でありながら成仏できるとする「即身成仏」の考えが示されてきます。かなり神秘的な教えで、これがまた人気の一つでもありました。
 一方、この派の中には一般民衆の中にはいって「呪い」などをする傍ら、庶民の相談相手になったり、土木工事をしたり医療をしたりする
「聖(ひじり)」も多くでて「高野聖」と呼ばれて親しまれました。この「聖」たちの仕事が全部「空海」の仕事にされてしまい、そのため空海は日本全国に名前を残すことになったのですが、事実は名もない地位もない「民衆の中にいた僧」たちの仕事だったのです。空海はじめ真言宗の長老たちは天皇の傍らにあり「護国・鎮守」の勤めを果たしており、それは今日でも変わりません。
 こうした
「政治・経済権力との結合(教団組織)」「教理への従順(修行者)」そして「一般民衆の立場へ(「聖」など民衆の中の僧)」という「三極分裂」はキリスト教やイスラームにも厳然として観察される「社会宗教」に普遍的にみられる現象であり真言宗だけの問題ではなく、また他の仏教宗派にも確実にある現象ですが、とりわけこの真言宗はそれが極端に現れているとも言えます。
 真言宗の本山は
「高野山の金剛峰寺と東寺」になります。なおこの真言宗は別の宗派を生み出すことはしませんでしたが、数えきれないほどの分派を持っています。

浄土宗
 天台宗に学んでいた
「法然」によっておこされたものですが、この時代、平安から鎌倉にかけて、世の中が多いに乱れ、いわゆる「末法思想」が蔓延していました。法然はこれを憂い、万民のための仏教を企図して行きます。こうして「ただ阿弥陀仏の名前を唱えるだけで成仏できる」とする「専修念仏」の道を示していきました。
 これを、これまでの修行によるものを
「難行道」と呼ぶのに対して、「易行道」と呼んでいます。あるいは、前者は「自力門」とも「聖道門」とも呼ばれ、後者は「他力門」「浄土門」とも呼ばれます。
 法然がこうした道へと赴いたいきさつについては、当時の天台宗が権力争いに終始していたのに絶望して山をおり、43歳の時、中国の善導の著作に「一心に専ら阿弥陀の名前を唱えて心に念じ、生活の全てをここにかけるのが正しい在り方である、なぜならそれが阿弥陀仏の願いにかなうことだから」とあったのに惹かれたからだと言われています。
 つまり、阿弥陀仏はまだ修行中の身で
「法蔵菩薩」であった時に48の誓願を立て、その中の18願に「自分に帰依すると誓った者は例外なく仏の国にすくい取れる」とあり、そして宝蔵菩薩は長い修行の末に晴れて「阿弥陀仏」となったので、この誓願はすべて成就しているとされるのです。つまり18願通り「南無阿弥陀仏と唱えた者は例外なく阿弥陀の国である極楽浄土にすくい取られる」ことが約束されているとされるのです。
 したがって彼は阿弥陀仏だけに帰依しそのお経のみを拠り所としましたが、それが「無量寿経」と「観無量寿経」「阿弥陀経」のいわゆる
「浄土三部経」と呼ばれているものです。
 なお、浄土というのは
「仏の国」の総称となりますが、「阿弥陀仏の仏国」は「極楽浄土」と呼ばれます。仏の国は無数にあり、浄土はそのうちの一つです。有名なところでは「薬師如来」の「浄瑠璃浄土」などがあります。浄土宗の総本山は京都の知恩院です。

浄土真宗
 
「親鸞」によって始められたものですが、彼も天台宗に学んでおり、29歳の時山を降りて法然の弟子となりました。彼は「法然に騙されて地獄に落ちたとしても構わない」と言っている位ですから、その教えの根幹は浄土宗と変わりません。
 要するにそれをさらに一歩推し進めたものと言ってよく、彼は往生のきっかけは「念仏を唱えた時」にあるのではなく、
「阿弥陀を信じたその時にある」としました。つまり彼にとっては「行」よりも「絶対帰依」という「信」の方に重きがあるのです。
 また彼は「僧席」にあるもののみが成仏できるとした従来の教えを拒否して、いわば在野に降りて、
「半分僧侶、半分俗人」として一般庶民の仏教を志しましたので、僧席にあるものには禁止されていた「肉食」「妻帯」まであえておこなって行きます。これ以降、僧侶の妻帯が見られるようになってしまったのですが、親鸞のように己の全存在をかけた哲学的思索の末にたどり着いた結論として在野にあることを信条とした者ならともかく、通常の僧侶が妻帯するのは、本来では決して許されることではないのですが、どういうわけか今日では普通になってしまいました。
 また親鸞というと必ず紹介されるのが
「悪人正機」というものですが、これは「欲望・煩悩のうちにあって苦しんでいる者(悪人)こそが、それを悟らず自らを正しいとしている者(善人)より阿弥陀の救済にあずかり得る」という「人間洞察」の哲学なのであって、「悪いことばかりしている犯罪的な人間の方が救済される」と言っているわけではありません。むしろ、日々の生活の中で煩悩によって罪を犯さざるを得ない人間の在り方を認知していなければならないということなのです。むろんこれは、いわゆる善行などを積んで「自分こそは善人であり、まずもって救済の対象となるだろう」という「おごり」を諫めたものとも言えます。
 さらに彼の思想には「浄土に行きっ放し」になるのではなく、往生した者は
「再び戻って」衆生の救済にあたらねばならない、という「還の道」が説かれ、相当に独特な哲学があることも特筆されるでしょう。有名な『嘆異抄』は弟子の唯円の筆になるものですが、親鸞の思想を鋭く要約して示してくれている名著の一つです。
 しかし、この浄土真宗も親鸞の心とは大きく離反し、互いに分派活動を繰り返し、権力争いに明け暮れるようになってしまいました。
京都の「東本願寺(大谷派)」と「西本願寺(本願寺派)」が有名ですが、他に八派あり合計十派となりますが(俗に真宗十派と呼びます)、さらに細分化されています。

臨済宗
 中国の臨済義玄を開祖とする
「禅宗」で、「栄西」によって日本に伝えられました。禅というのは「教理」によって悟りを得るのではなく「座禅という行」そのものから悟りを得ようとするもので、したがって特定の経典なども持たないのが本来です。
 禅だけが要求されるのですが、その禅の在り方の理解に宗派としての違いがあり、臨済宗の場合には、開祖以来の
「公案(こうあん)」という全く非論理的な問題が与えられ、それに「答え」を出すことが要求されました。もちろん論理的に答えなど出るわけもなく、言ってみれば「無茶苦茶なたわごと」の態を示していますのでこれと格闘しなければならず、その中で宇宙の実相を捉えて行こうとしたのです。通常「公案禅」と呼ばれるやり方です。
 また禅宗はどの宗派も同様ですが、
「日常生活そのものが禅」であるとして、日々の労働をいわゆる「座禅」と区別はせず大事な行の一つと見なしています。
 一方、臨済宗は過去に朝廷・貴族と堅く結び付いており、いわゆる
「五山」が定められ、ここから五山文学などが生まれたりしたのですが、他方、どこの宗派にも見られた「政治権力の拒絶」の流れもあって、現在の臨済宗はこの「拒絶派」の流れにあります。建長寺や大徳寺、妙心寺などがその中心で、これらを、その祖の名前をとって「応燈関の一流」などと呼んでいます。

曹洞宗
 これも禅宗の一つで
「道元」によって創始されました。こちらは臨済宗とは違って「座禅」一本です。これはつまり、修行と悟りは「同一」であるので、したがってただひたすら座禅だけしておればよいという考え方です。これを「只管打座(しかんたざ、ひたすら座禅する)」と言う言葉で表し、曹洞宗の中心概念になっています。座禅に専念している中に、煩悩のからだに浄化の心が、凡夫の身に仏が顕れ出てくるというわけで、ですから「座禅の姿が仏である」ということにもなります。
 一方、臨済宗と同様、日常生活を禅そのものと見なし、生活の一つ一つは生きるための「手段」ではなくそこに生そのものがあり、自分の計らいで生きているのではなく
「生かされてある人間」のありようを理解しておかなければならないとなります。この道元の思想は『正法眼蔵』という書にかかれ、日本思想史の上でも重要な書物となっています。この曹洞宗の総本山は福井県の「永平寺」です。

日蓮宗
 名前のとおり
「日蓮」が開祖ですが、彼も天台宗に学び、のち独立したもので、彼は「法華経」一本槍という方向をとりました。彼に限らず、天台宗から独立していったものは、その教えのどれかを「一本」としたものとも言えるのですが、ただ彼の場合、この「一本化」ははなはだしく、その宗教的熱情は常人を越え、そこから他のものは一切認めないばかりか激しい攻撃を加えるという非常に「攻撃性・排他性」をもっています。
 この激しい攻撃性はこの宗の特徴の一つともなります。仏教教理的には、浄土宗系が「阿弥陀の名号を唱えるのみ」というのに似て、
「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること一本と言えます。この根拠は天台宗のところで紹介した「法華経」の精神そのものにあるわけですが、日蓮の独特なところはその救済を人間の心のレベルのこととしてのみ捕らえるのではなく、「国家」のレベルにしてしまったことです。
 つまり端的に言えば「国家そのもの」が「法華経」によって建設されている「仏の国」でなければならないというわけで、ここからこの日本に法華経以外の信者がいることなど許せないという態度になっていったのでした。日本人は全員法華経信者でなければならず、
「法華経の法華経による法華経信者のための政治にして法華経の国家」とならなければならないとされたのです。ですから他宗への徹底的攻撃となっていったのです。こうした彼の立場を表しているのが『立正安国論』でした。ここはこうした政治イデオロギーという性格を持ってしまったため内部分裂も激しく、内紛が絶えませんでした。またこういう性格が現在「創価学会」という日蓮宗から出た分派が「公明党」という政治政党を作ったこととも関係しているわけです。

仏教での代表的な信仰形態
阿弥陀信仰

 日本に阿弥陀信仰が伝わったのはおよそ七世紀の始め頃と考えられていますので、仏教伝来(公伝では538年)から100年くらい経ってからのようです。初期の頃は、阿弥陀の性格が極楽往生にあったため、終末において人類を救うとされた弥勒の信仰と混在して
「追善(使者の弔い)」的な性格が強かったようでした。
 それが奈良時代後期になって「(死者ばかりではなく)生者である自分の」極楽への往生の願いが表面化し平安期には
「西方浄土」「極楽往生」が日本人の心に深く根ざしたようです。
 この阿弥陀信仰の特色は
「阿弥陀の本願」(阿弥陀仏がまだ修行中の宝蔵菩薩であった時の誓願で、自分に帰依する者は例外なく極楽浄土にすくい取ることができないうちは仏とはならないという誓願で、現在この菩薩は阿弥陀仏となっているのでこの誓願は絶対に成就するとされる)に対する絶対的な信仰と「極楽に生まれ変わろう」とする「極楽往生」の信仰にあります。この「極楽往生」はあらゆる階層の人間にとって望まれることでしたからこの信仰は非常に強いものとなりました。したがってこの阿弥陀を本尊とする寺院は日本のすべての寺院の半数に達するとも言われています。

観音信仰
 観音像は飛鳥時代に遡って存在するとされますが、八世紀の奈良時代になってその像が急増してきます。観音像の原型は
「聖観音」と呼ばれますが、この観音の特徴はさまざまの形に身を変えて現出してくることで、有名なところでは「千手観音」「十一面観音」「馬頭観音」などがあります。
 初期の観音信仰は
「反乱に対する鎮圧や災いを逃れて平安を得る」といった現実的な願いに応じたもので、こうした衆生の願いに応える様々の力の具現化が観音のさまざまの姿の現れとなるのでありそれは「33の姿」として描かれてきます。
 たとえば「千手観音」は衆生をすくい取る
「無数の手」を表しており、「十一面観音」はその「11の面」ですべてを見回して、疫病の癒しや守りをし、馬頭観音は馬が草を食い尽くすがごとくに「人の煩悩」を食い尽くすというものでした。
 しかし10世紀頃からの社会の乱れに応じて、来世信仰の性格を持つようになり、
「六観音」信仰といったものが生じてきます。これは「六道輪廻」の世界に対応したもので、この六道の輪廻の世界からの救済を念じたものでした。
 この観音信仰の特色はこの観音像を本尊とする寺院への
「参拝」が盛んとなったことで、すでに10世紀には石山、清水、鞍馬、長谷、壺坂などの観音寺院への参拝が盛んになり、後には霊場を結んだ「巡礼」へと発展していきます。
 いわゆる
「33所巡礼」で、初期の頃は聖たちによる「修験道」的色彩の強いものであったものが15世紀頃から一般の人々にも流行するようになりました。始めは「西国33カ所巡礼」でしたが鎌倉期の13世紀に「板東33カ所巡礼」が、15世紀には「秩父33カ所巡礼」ができてきます。さらに16世紀に「秩父巡礼」が34になったところで全部合わせた「100カ所巡礼」ができあがっていきます。この巡礼は江戸期に入って爆発的に増え、全国各地に「33カ所巡礼」が作られていきその総数100カ所にもなるとされます。これには一般庶民の「観光旅行」的色彩も見られ、あるいは成人になる通過儀礼的なものともされたり、さまざまの意味合いをもたされつつ庶民に一般的なものとなったのでした。

弥勒信仰
 早くも六世紀に日本に伝来していますが、弥勒は
「釈迦の滅後56億7000万年の後、人間界に現れてこれまでの仏による救いから漏れていた人々を救う菩薩」と信じられ、いってみれば「未来仏」として「究極の救済者」と見なせます。
 この日本に於ける信仰は真言宗において高野山が未来の弥勒浄土であるとしたところから広まったようで、真言宗が民間信仰と結びつく性格をもっていたところからこの弥勒信仰も民間に流布したと見られています。宗教学的に言えば
「メシア(救済者)願望」の一形態であり、ユートピア思想ともなって「未来の幸いの国」願望であったと言えます。この時56億とかの数字はほとんど意味がなく、ただ現在の「悲惨な世界の末に」といったような理解になっていると言えます。

地蔵信仰
 地蔵の像は奈良時代から平安時代に入っても阿弥陀、観音、弥勒などの像に比べると圧倒的に少なく、これは初期仏教が現世利益を中心にしていたため、輪廻世界の来世への恐怖などといったものが意識されていなかったためと考えられています。それが10世紀も末になって源信の
『往生要集』が出たあたりになって、「地獄にあって衆生の救済に働く地蔵」の徳が知られるようになり浄土教の台頭とも重なって救済の仏としてのあり方が注目されるようになりました。
 そして11世紀に入って地蔵にまつわる説話集が書かれるようになり
『今昔物語』などに採録されるようになって一般化していったようです。とくに浄土教に救いを求めるような「みずからの至らなさ」を意識した一般庶民においては「下手すれば地獄行き」の意識も強く、そうした人々において「地獄にあって人々の苦しみを肩代わりしてくれる」ものとしての地蔵信仰が発達していきました。そうした意味でこの地蔵信仰は下層階級から発達したと言えます。
 一方、鎌倉時代に入ると浄土教は勢力を拡大し、そこで「阿弥陀だけへの信仰」が強調されて「地蔵」への傾きにブレーキがかけられていきましたが、阿弥陀にない
「苦の肩代わり」の地蔵の役割は消されることがなく、浄土に住まず六道輪廻の衆生の世界にあって慈悲の心で人々の罪を代わり受ける地蔵は「身代わり地蔵」の信仰となって生き続けたのでした。
 こうして室町くらいになると地蔵はこの俗世にあって信者の危難や病気、苦しい作業の肩代わりをしてくれるものとしてたとえば「泥つき地蔵」など田植えの苦労を減じてくれたり、さらに武士階級にまで広がって戦場での身代わり、たとえば「矢取り地蔵」などというものまで信仰対象となり足利尊氏がこの地蔵の信仰に熱心となり武士階級に広まっていきました。
 さらに14世紀頃から民衆の間での信仰は拡大して
「六地蔵(輪廻の世界である六道すべてにおいて衆生を守るという信仰)」が発展して道の辻々に建てられたりしていき、「道祖神と習合」していきます。また死んだ子どもを賽の河原で鬼から守る守護霊としても信仰され、江戸期には「延命地蔵」「子安地蔵」など多くの地蔵崇拝が確立していき、はては「とげ抜き地蔵」やら「瘡地蔵」などの厄介をも守護する庶民に親しみある信仰となっていきました。

 以上でざっと日本での仏教の特徴をみてきたわけですが、仏教というものの持っている性格がさまざまに展開していることが理解されたかと思います。ある意味で日本は仏教の展開の極点までいっているような気がします。
 ただ、今日仏教の力が一般庶民にどれだけの影響力をもっているかとなるとかなり首をかしげなければならない状況にあるようです。今後日本がどういう道をたどることになるのか、あるいはたどるべきなのか、こうした仏教の在り方、また「神道」の在り方などをみることによっても一つの考えかたが生まれてくるような気がします。

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