7. 日本の神々と仏たちの正体 - 5. 「神仏習合」とは何か | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授

7. 日本の神々と仏たちの正体
HOME
INDEX
1. 日本の宗教文化のありよう
2. 日本の伝統の宗教―神道―
3. 日本の伝統的な民衆の神々
4. 『古事記』の神々
5. 「神仏習合」とは何か
6. 仏教の発祥と仏陀の思想
7. 仏教の展開
8. 日本での仏教宗派と信仰形態
9. 仏像とは何なのか

5.

「神仏習合」とは何か


はじめに
 日本にも伝来の神々というものがおりました。それは
「自然神」であった場合と「朝廷の神」とであった場合がありましたが、いずれにしても「日本の神」でした。ところが、朝鮮から「日本の朝廷に献上される」という形で日本に「仏教」が伝来してくると、この伝来の神々と仏教とは融合してしまうのでした。それを一般に「神仏習合」と呼んでいます。
 この「仏教」と「神道」の習合の原因や仕方はさまざまですが、それを見ることは
「日本人の神観念」を見る上で欠かせませんので、ここではそうした原因の中でも特に特徴的と思われる場面を見ていきたいと思います。

仏教に期待された働き
 とりあえず真っ先に言えることは、在来の神道に対して仏教が「外来・異質」のものとして輸入されてきたのではなく、
「朝廷・貴族の守護神」という「神道の神」のように理解されて移入されてきた、ということが大事です。
 すなわち
「神」の一人(要するに「外来の神」、「蕃神」といいますが、そういう神として)受容されたということで、対立から和解・併存、やがて妥協・融合といったついうっかり考えがちな経緯を経たものではないということが指摘されるでしょう。要するに、はじめから仏教は「神道の一部」みたいな形で移入されたのであり、はじめから「仏」は「神の一人」とみられていたということです。これは日本仏教を理解する上で非常に大事なことです。
 その神道的なものとは一言で言って、
現世利益的な「繁栄・救済・保護」の願いをつかさどるものということです。神道が「繁栄・守護」を目的としていたことはすでに述べておきました。仏教もこうした働きのものとして受容され発展していったのです。

 「仏教」というのは、発祥である本来のお釈迦様の段階では
「悟りを開く」のが目的ですが、後世になって「仏に救っていただく」という思想も持つようになっていきます。その「救済の力」が、「現世利益」に求められる場面が、実は日本に入ってくる以前の仏教にもありました。その現世利益というのは「守護力」に求められました。「病気や災厄からの守り」であり、これは一般庶民の願望と結びついて一般化していきます。そしてもう一つが、同じ願望なのですが「朝廷・貴族」が求めた「護国・鎮守」という形になります。こうして貴族たちは仏教を保護し、仏教の側も「勢力拡大」のため朝廷・貴族と結びついていきました。「護国・鎮守の呪術の仏教」というわけですが、こうした「災厄からの守り」を求める仏教というのは、仏教の展開史において「庶民の仏教」を標榜して「民間信仰」と結びついていった「大乗仏教」運動で大きく推進されていったと言えます。

融合の経緯
 一般に「宗教は対立する」と考えられがちですが、それは「キリスト教やイスラーム」などがそうであるからで、古い昔の「民族の宗教」では対立ということはほとんどありません。ギリシャとエジプトの神々も対立していませんし、ローマの神々などギリシャの神々と融合してしまいました。それは
「働きが同じ」だったからです。
 日本が「新来の仏教」と「在来の神」とを融合させたのも同じ理屈からです。それは、「在来の神」が新来の仏を
「自分たちとおなじ働きのもの」として扱ったからです。
 そして仏教の方も「自分は全く神道とは異質のもので働きも神道とは異なり、釈迦本来の教えである現世否定で出家を条件として修行で悟りを得ることが目的だ」などとは決して主張せず、むしろ
「護国、守護」の呪術的なものだとして「神道と同じ土俵のもの」であることをを主張したので簡単に受容され得たのでした。こういった在り方が「神仏習合」というものの在り方だったのです。
 ですから、仏教が日本に移入された時「本来の仏教」が全く誤解されてしまったというわけのものではないのです。確かに、本来の仏教は「悟りを開く」ことが目的で「現世否定的」で、「出家=家・社会を捨てる」ことを要求し、「個人の魂の救済」を企図するものでした。これは後の日本の仏教も取り戻してはおりますが、しかし、これをはじめから主張してしまうと、仏教は神道とは真っ向から対立してしまうのです。
 ところが、仏教は長い歴史の中に変質し、大衆化し、その限りで「現世利益」的となり、またそうであることによってすでにはやい時期から「朝廷・貴族」とも結びついていたのでした。
 しかも仏教が日本に着くまでには「中国・朝鮮」を経ているのでした。この間に仏教が相当に変質しているであろうことは当然です。仏教はすでに中国で
「皇帝」のものとして「護国」的に働く側面を見せておりました。もちろん、一般大衆教化の働きも存在はしていたのですが、日本における仏教の受容が「朝廷」であったということは移入された仏教の性質をよく語っているのです。つまり、はじめから仏教は「朝廷のもの」であったということで、そうした「国家守護」という働きとしての仏教であったなら、これは当然「神道」の働きと同じですから、抵抗感なく受容されたのです。

仏教の伝来
 このいきさつはかなり知られており、仏教の
「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年ということですが(19巻、欽明天皇の巻)、他の資料では538年となり、一般的には538年説となっています。送り手は「百済の聖明王」であり、つまり「朝廷」から「朝廷」へというものでした。もちろん「渡来氏族」が仏教を早くからもたらしていた可能性はありますが、これについては何ら確かなことはいえません。ともかく、この欽明天皇へのものが最初としておきましょう。この時、欽明天皇は『日本書紀』の記述によると、使者に対しては大喜びして「自分はいまだかつてこんな深遠な教えをきいたことがない」などと言っているくせに、臣下たちに対しては「西国(百済)からもらった「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か、どうだろうか」などと言っているのです。
 これに対して、蘇我稲目は
「むこうではみんなが敬っているのですから、どうして日本だけが一人これに背くことができましょう」と答えていますが、物部尾輿が「我が国では、王たるもの常にあまたおります神々に一年中祭りをなすのを仕事としているのであって、いまさら蕃神(外国の神)などを礼拝したら恐らく国の神々が怒ることでしょう」と言ってきています。この返事は、日本の神が「地域性」をもっていて「氏子」以外の者に祭られるのを喜ばない、という性格をもっていることからある意味で正当な答えでしょう。そこで二つの答えに困った天皇は、「稲目が願っているのだから、試みに礼拝させることにしよう」ということにさせました。

 このやりとりはけっこう面白いもので、まず天皇がとまどっている様子がみてとれます。この「仏」に対して評価を下せないということで、その原因は物部尾輿の言葉に明確に現れているように、この
「仏」が「神」だと思っているからでしょう。つまり、「神」は「神」なので礼拝すべきなのだろうけれど「外国の神」だからその正体がよくわからずどうしょうか、といった感情なのでしよう。
 これはみんな同じ感情であるようで、そこで蘇我稲目は、やっぱり「神」なんだから礼拝すべきでしょう、と答えたわけですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべきだろう、と言ってきたわけです。
 こんな具合に 「仏」は本質的に在来の神のレベルで捉えられていることが明らかです。そして天皇は稲目に「試しに」礼拝させるというわけですが、何を「試して」いるのでしょうか。それは後の記述が明らかにしてきますが、要するに
「幸いの招来、災害・害悪の防御」ということで、在来の神に期待されていたものです。つまり「守護神」としての能力の大きさを試させたのでした。

 結果は困ったものでした。つまり、稲目が「仏」を祭ったところ、疫病が流行ってしまいました。そら見たことか、と尾輿たちは天皇に申し上げて「仏」を海に捨てさせます。ところが今度は天変地異が起きてしまいます。そしたら今度は「海に仏を捨てた祟りだ」といった具合でした。右往左往です。こうして勝負がつきません。こういうことで、どうも
「新来の仏」派と「在来の神」派との間で不穏な情勢が生じたようでした。これには多分に「政治的勢力争い」が根底にあったでしょう。
 しかしいずれにせよ困った事態で、そこで586年に即位した用明天皇(欽明天皇の第四子)は
「自分は仏法を信じ神道を尊ぶ」というような言い方で和解の道を探ったようですが(『日本書紀』21巻)、結局だめで、蘇我馬子が物部氏を襲い、これを滅ぼしてしまいました。
 こうして「力づく」で仏教の勝ちにされ、これ以降朝廷は
「仏教色」に彩られることになるのですが、もちろんこの仏教は「護国・鎮守、幸いの招来」を旨とする「在来の神の仕事」をする仏教でして、現世利益を目的とし、決して「出家して悟りを開き、魂の平安を得る」といったものではありませんでした。
 これは
「聖徳太子」の場合も同様で、彼は「渡来した新しい神(つまり仏)」によって旧弊の朝廷政治の在り方を変えようとしたのであって、仏教教理に感動して「魂の救済」を志したわけではありません。

 以上が仏教伝来時の状況でした。そして、この伝来時の状況の中で「神の道」というのが大きく意識されたのでしょう。用明天皇の場面で
「神道」という言葉が史上はじめて使用され、「神道」というものの存在が明確に意識されてきたのです。
 一方、こうなるには仏教の方がすでに
「守護神」といった性格を持っていたことが原因であったわけですが、どうして仏教にそうした性格が持たされていたのかも考えておかなくてはならないでしょう。
 つまり、仏教は確かにお釈迦様の場面では
「悟りを開く」ものでした。ところが、これが歴史的に発展していったとき、先ずは朝廷・貴族のものとして「守護神」と捕らえられ、さらに民衆段階に降りた時も「民衆の願い」に応えるものとなっていきます。いずれにしても「守ってくれる」という性格が要求されたのです。「極楽浄土」の願望も要するにそのレベルでの「救済願望」だったのです。

民衆のものとしての仏教
 仏教が「民衆のもの」とされていく経緯ですが、それは
「大乗仏教運動」と呼ばれます。この運動は、従来の仏教は「出家」という特別な人たち向けのもので「民衆の仏教」ではないと考えたのでした。彼らにしてみれば、「有り難い教え」は当然「民衆の願い」と合致するものでなければならず、そうした性格は必然的に「民衆の願い」である「現世利益」への傾向を示してくることになります。
 つまり「大乗仏教」では、お釈迦様の段階の「悟りを得る」という目的より、
「救済・守護」が主体となってくるわけでした。極楽往生というのもそうした性格のものでした。
 そしてもう一つが民衆の宗教であった
「民間信仰」との融合です。「民衆の宗教」を標榜するものが、民間の祈りを馬鹿にするわけにはいきません。むしろこれを取り込んでいかなければならないことになります。仏教ではこうした民間の神々が取り込まれて「梵天」とか「帝釈天」とか「吉祥天」とかの天部の仏となっていったのです。
 こんな具合に仏教自体がすでに
「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたのでした。ですから、仏教が日本に伝来して神道と習合しても何ら不思議でもなんでもなく、むしろ普通のことであったのです。そして、日本に入って、確かに名前は「仏教」とはなっているのですが、その性格は多分に神道化されてしまっている現象が多く目につくのです。

 現在でも目につくことの一例を挙げてみると
「祖先崇拝」です。仏壇の中には位牌があって、人々は折りにふれてその先祖に法事と称する供養の儀式をしていますが、仏教の説くところでは「死者」は「仏界にめでたく成仏している」筈ですから、そしてそのために高い「戒名代」を払ったのですから、いまさら供養などする必要はない筈です。
 仮に葬式を出してやらず、先祖の霊が
「輪廻の輪」の中をさまよっているとしても「法事」をしたところで今更どうにもなりません。いや、盂蘭盆会は「地獄」におちている母を救いとるための法事ではないかと言われれば、それは確かにその通りなのですが、これは中国で儒教の影響のもとに作られた話というのが真実のところらしく、まあそれはどうでもいいにしても、それにしても「地獄」に落ちているという想定のもとに「先祖の供養」をするというのはずいぶん先祖に対して失礼のような気がするわけです。また同じことですが、お盆で「先祖がお帰りになる」というのも変な話で、仏教では今の話のように「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはないし、仏界に行き損なっている場合にしたって六道の輪廻の中にいるのですから「帰って」こられるわけがありません。
 これはつまり、
神道の「祖先崇拝」つまり「祖霊」についての観念そのものなのです。ここでは、先祖の霊は死んで何処かにいってしまうのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるものが、子孫が供養することでだんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」と浄化していくのだ、と説きます。ですからここでは「供養の儀式」は必要でした。
 この供養は定期的に行われ、最後の供養が仏教で三十三回忌などと言われているのですが、これは
「死霊が浄化される期間」のことなのであり、「何回忌」などというのは、神道ではこんな呼び名はしませんが、完全に神道の概念だったのです。
 また、神道では当然先祖の霊は
「帰って」これます。なぜなら先祖の霊はどこか遠くに行ってしまうのではなく死んで「山」に行き、そこで浄化を計って祖霊になるからです。
 この観念がそっくり仏教の名のもとで考えられているのですから不思議といえば不思議ですが、こんなのが神仏習合の実体なのです。ちなみに葬式の時「塩」をふりかけるのも神道の
「死の穢れ」という観念からで仏教本来のものではありません。「忌中」とかそういった「物忌み」もすべて神道の習慣です。
 ちなみに神道では「死を嫌い」ますので、なぜならそれは「繁栄・健康」の「消失」であり「力」の失いだからですが、そのため
「神道儀式としての葬式」は本来やらないものでした。仏教はその間隙をつくことができて、伝来以来「先祖供養の儀式」をやってやることで人々の心に食い込んでいったのです。今日、現代仏教のことを「葬式仏教」などとよんで馬鹿にしている人もいますが、日本ではもともとがそうであったのです。そのくせ、この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んでしまっているのです。いかに神道を主体に仏教が受容されていったのかがよくわかります。

 以上のように一般の人々の仏教に対する態度というのは、要するに「自分や家族の守護」と「先祖崇拝」という本来「在来の日本の神」に期待されていた働き以外の何者でもなかったのです。ただ「仏」という名前の「神様」の方が
「強そうで御利益がありそう」ということでしかなかったとすら言えるのです。これはまた「仏教受容のはじめ」の朝廷の態度でもあったことはすでに指摘しておきました。
 こうした自覚は実は仏教のほうにもあって、それが仏教の側からの
「神仏習合理論」となって現れてくるのです。これは通常、仏教が神道を取り込むための理論とされ、仏教主体の理論であるとされています。表向きはその通りなのですが、ちょっと考えてみれば分かるように、もし本当に仏教が勝利しているのであれば「神道」なんか「無視」してしまえばよい筈なのです。事実、仏教が勝利した東南アジアでは在来の民間信仰との「習合論」なんか全然作られませんでしたし、キリスト教やイスラームの場合にしたって、在来宗教との習合論なんか試みられもしていません。これは日本仏教のみの現象なのであって、実にここにこそ「日本仏教の特殊性」がみてとれると考えられるわけです。
 神仏習合理論として体系だったものは鎌倉時代の、
真言宗による「両部神道」天台宗による「山王神道」などが知られていますが、すでに平安時代には「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって日本に現れてきたもの、とする説)」が唱えられています。
 仏教側の理論ですから、当座はもちろん
「仏」が主体でした。これが極端な形になって現れるのが奈良時代に入っての「神身離脱説」と呼ばれるもので、これは字の通り、「神の身からの離脱」ということで、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、神は、苦しみの神の身から仏の力によって「そこから脱却」しよう、というものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。何とも情けない状況に立たされてしまった「日本の神様たち」でした。
 しかし、朝廷側としては
「神様の力」も侮り難い、と思ったのでしょうか、奈良時代の後半、称徳天皇は、神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして「神様」を「復権」させてきます。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時それを助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これを「勧請」といいます)。大変な難事業である「大仏」の建設にやはり強力な助っ人が必要とされ「八幡様」が選ばれた、というわけです。こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立していくようになり「鎮守神」という性格を示してくるようになります。
 これは面白い現象で、これをたとえばギリシャの神とキリスト教にたとえると、ゼウスやアポロンなどが「イエス・キリスト」の教会の傍らに神殿を持って「イエス様をお守りしている」というような格好になってしまうわけで、こんなことは絶対に起こり得ないことでした。これはたとえれば「サッカーのゴール」を、野球のミットを持った「キャッチャー」が守っているようなものでしょう。
 しかしこんなことが「神と仏との間」には成立してしまうというわけですから、仏がどんなにか「神」と同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で
「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られたのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか「神像」は一般化しませんでした。このあたり「神」というものの捉えが揺れ動いていて、つまりどうも「仏」と同じようには扱えない、特殊な性格を特別にもっている存在と捕らえているようです。それは「神道のページ」でみておいたように、日本の神々は「自然そのもの」を表しているため、「人間的な姿・形として捕らえられない」という性格をもっていたからだと考えられます。
 それはともかく、こうした理解が先ほども指摘しておいたように、平安時代になって
「本地垂迹」説を生み出していったのです。これは簡単に言えば、「仏」が本体なのだが、これが日本の地に現れた時には「神様」の姿をとってくるというもので、姿は違えども「本体そのものとしては変わらない」というわけです。ただし、例えば「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」である、などという主張になるのですから、ニュアンスとして「大日如来」の方が「本物」で「神」の姿は「仮の姿」という主張があって、まだ「仏様」の方が「上だぞ」という含みは残しています。この「仮の姿」というのが「権現」様というわけで(権化も同じ意味です)、仏教の側からみた「神様」の在りようなのでした。
 ちなみに
「明神様」というのは、逆に「神道」の立場から「優れた神」を言う場面のもので、「名人」ならぬ「名神様」です。中世以前は「名神」と表現され中世以降「明神」と表現されているものです。これはつまり「権現」という言い方にカチンときた「神道側」の抵抗でしょう。ですから「吉田神道」ではこの「大明神号」の優位性を主張し、この号の使用を大々的に行っています。面白いのは、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」と呼ばれることになったのに対して、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれていることです。これは家康のブレーンであった天海が天台宗の僧侶だったからでしょう。
 それはさておき、この「本地垂迹」説は天台宗などが「老子」の思想を借用して
「和光同塵」といった思想で流行らして一般化していったようです。「和光同塵」というのは、本来は「優れて賢き人がその知恵なる光を和らげ隠して塵なる俗世と交わる」というような意味ですが、ここでは「仏がその身を和らげ、つまり姿を変えてこの俗世に現れ、衆生を救う」というものです。
 ところが一方で,宮中においての「神事」においては「仏教儀礼」を廃止すべきという主張が現れています。もっともこれには悪名高い坊主「弓削の道鏡」などが宮中を引っかき回したことなども原因としてあるかもしれません。少なくとも宮中では
「神仏隔離」の方針がとられていきます。こんな具合に「神仏」の関係は相当に「入り乱れた」状況になっていきました。

 こうした経緯を踏まえて、鎌倉時代になり仏教側から「天台宗」の「山王神道」が、真言宗からは「両部神道」が唱えられていくわけです。負けじと「神道」の側からも「伊勢神道」などが提唱されていきます。ですから発端はすでに平安時代にさかのぼることができます。
 山王神道というのは要するに
「比叡山」を中心として「本地垂迹」説を展開したもので、両部神道は「伊勢神宮」の在り方を「真言密教」の曼陀羅の世界で説明することで、日本の代表的神社である伊勢神宮も「仏」の世界のものであるにほかならない、ということを主張したものでした。
 これに対する神道側の理論である
「伊勢神道」は、神仏隔離の根本に立ちながらも、世界観的には両部神道をひっくり返したようなもので、「伊勢神宮」が宇宙の中心であることを主張したものでした。しかしこれらは「学説」としてそれぞれ継承はされ、それが貴族・神官などの文化に影響を与えることはありましたが、一般庶民の間では知られもしなかったでしょう。
 一般庶民にとっては
「神も仏も同じ事」といった感じのようで、それらを「隔離」すべきだとか、どっちが「本体」だとかはどうでもよかったのでしょう。「難しいこと」は「偉い人たち」の頭の中のことで、自分たちには関係ない、といったところです。その、同じと見られたものはこれまで見てきましたように、両者とも「現世利益的」功利をもたらす「力」であったことです。
 またもう一つ、「仏になる」という仏教本来の思想と見られるものも、
「祖霊」信仰の筋道にあると言えるわけで、これはある意味で「仏になる」過程と比肩できるものを持っているといえます。
 つまり、日本仏教では
「草木すべて仏性を持つ」という思想があり(これを本覚思想といいます)、すべての人間はそのものとして「仏」の性を持っているとしてきます。そしてこれは、「仏様に同化する」という形で考えられていますので(密教では大日如来に、浄土宗では阿弥陀如来の浄土に)、これは「祖霊」信仰と重なっていると考えられるのです。「人間が神になれる」という思想は「神道」には確実にあり、それが、例えば「菅原道真」の「天神様」とか、秀吉の「豊国大明神」、家康の「日光大権現」をはじめ、明治時代にも乃木大将の「乃木神社」、東郷元帥の「東郷神社」などになり、また一般庶民の中からも「不遇」のうちに死んだものが「祟り」を恐れられて「神」として祭られているのをさまざまの地方で観察することができます。こうした「神化」の思想と「成仏」の思想がうまく符号したわけです。以上のように、仏教は日本の風土の中にうまくとけ込んで、独特の「日本仏教」として発展していったのではないかと考えられるわけです。

▲ページのトップへ